その準備として、これまでに書きためておいた「知覚恒常性障害仮説」に関する記事を(少し内容が古くなってしまいましたが)公開していくことにします。
自閉症と他の発達障害との違いとは、何でしょうか?
突き詰めていくとそれは、「世界」の認識の仕方が異常かどうかという一点に絞られるのではないかと思います。
ここで、「異常」という言葉をあえて使いました。
異常とは、普通でないことを指します。つまり、社会共同体が期待する最大公約数的な世界観を共有できない結果、社会不適応的な行動が出現するというのが自閉症の本質なのではないか、ということです。
「世界観」というと観念的なものに思えてしまいますが、そうではなくて、自分の知覚する世界、モノ、ヒト、自分などの「見え」もしくは「認識のしかた」、これらを支配する一般的な「仕組み・ルール」に対する素朴なとらえかたのことを指しています。
観念的どころか、世界がどう見えるかという、最も根源的な認知の枠組みについて考えているのです。
一方、他の発達障害の場合、ある特定の、あるいは全体的な領域についての認知能力に遅れが見られるものの、ここで言っているような意味での「世界観」については、社会が許容できるものを共有できていると考えられます。
これを四分割表に表すと、このようになります。
定型世界観の共有 | |||
失敗 (許容範囲外) | 成功 | ||
認知機能 | 遅れ あり | (低機能) 自閉症 | その他の 発達障害 |
正常 範囲内 | アスペルガー 症候群 | 正常 |
ここで「定型世界観」と呼んでいるのは、先ほどから書いているとおり、社会共同体が共有している世界のとらえかたを指します。具体的にいえば、
・「世界」の中にモノとヒトが存在していて、
・モノのルール(素朴物理学)とヒトのルール(心の理論)は異なっていて、
・「自分」というのは「世界」の中に存在しているヒトである
という世界観です。
この定型世界観の獲得に失敗し、「違う世界観」に到達してしまうと、定型世界観に生きる私たちから見て、ヒトよりもモノに興味を示すとか(実際には、我々がヒトに示す興味が過剰なだけかもしれません)、社会性がないとか(実際には、社会性と呼ばれているものは他人を効率的にコントロールするための複雑なルールに過ぎません)、ことばをコミュニケーションに使わないとか(実際には、我々がモノには話しかけないでヒトには話しかけるというのも、ある種の認知の「枠組み」があって初めてできることです)、そういう自閉症の「症状」として映るわけです。
恐らく我々の脳は、正常な感覚入力、正常な知覚処理プロセスさえ持っていれば、上記のような最低限の「定型世界観」を獲得できるような生得的ないし潜在的能力を持っているのだと思われます。だからこそ、この「定型世界観」が社会で共有されているのだと思います。
ところが、感覚入力もしくは知覚の処理プロセスに問題があると、その「定型世界観」の獲得に失敗し、「素朴物理学」や「心の理論」に基づかない、独自の「非定型世界観」にたどり着いてしまうのではないかと思います。
その非定型世界観に基づいて世界を認識し、行動する姿が、我々からは「自閉症」という障害に見えるのではないか、と考えられるわけです。
言うまでもなく、脳の器質的障害によりダメージを受ける領域はさまざまです。
それが、ある場合は感覚入力の異常として、またある場合は知覚処理の異常として、さらに別の場合は認知能力の全般的な遅れとして現れてくるでしょうし、もちろんダメージが深刻な場合は、複数の処理に異常が現れるでしょう。
それらの組み合わせの結果、定型世界観の獲得に失敗した姿が我々の定型世界観からみて異様に見えるために1つの病態としてラベルづけされたものが「自閉症(スペクトラム)」なのではないかと思います。
つまり、自閉症というのは原因ではなく結果から切り分けられた障害なのであって、逆説的に言えば、自閉症の定義が「症状の羅列」に留まっているのはむしろ必然なのです。
ですので、その原因が1つでないことは間違いなさそうですが、その主たる原因が「知覚の恒常性の障害」なのではないか、というのが私の考えている仮説なのです。
そして、この「自閉症」という分類で切り取られない発達障害(上記四分割表の右上領域)について、同じような結果論的分類方法によってさらに細分化され名前がつけられたものが、その他の発達障害と言えるのではないかと考えています。