1つのきっかけは、「心の理論」についての考察です。
「心の理論」とは、これまで何度も話題に出ていますが、ヒトが発達の過程で獲得する、他人の行動の背景にその人の「心」を推測するスキルのことです。
私は、この「心の理論」について、一般的な説明とは少し違う角度で整理しています。
それは、上記リンク先でも書いているとおり、「物理的法則に当てはまらない動き・行動に対して、『心』や『意識』を想定して理解しようとする認知の志向性」という考え方です。
つまり、ヒトはあるものを見たとき、それが「物理的法則」に従った動きをしているかをまず判断します。
そして、もし対象物の動きが物理的法則に従っていない場合は、対象物が「心をもった生き物」であると判断し、「心の理論」を適用して対象が何を考えているかを推測するプロセスに入ると考えるわけです。
上の図で、○と◇が「心」を持った生き物のようにみえるのは、「物理的法則」では説明できない動きをしているからだ、というのが私の考え方です。
仮に、この○と◇がただ左から右に同じ速度で動くだけだったら、私たちはそこに「生き物」や「心」の存在を感じないでしょう。
認知心理学的にいえば、「心の理論」とは、目の前の対象物が「物理的法則」で解釈できない場合に起動される情報処理モジュールである、という仮説が立てられるわけです。
この仮説に立つと、「心の理論」の発達について、1段階さかのぼって考えることができるようになります。
つまり、私たちは「心の理論」に先立って、「モノは一般にどういう物理的法則にしたがうのか」という認知の枠組み、言いかえれば「素朴物理学」を獲得すると考えられます。
素朴物理学には、以下のようなものが含まれるでしょう。
・物質は急に形を変えないという「保存の法則」
・モノを持ち上げて手を離せば下に落ちるという「重力の法則」
・等速で移動しているものはそのまま等速で動きつづけるという「慣性の法則」
・この2つを組み合わせて、斜め上に放り投げたものは放物線を描いて飛んでいくという「放物線の法則」
・モノの速度や向きが変化する場合もその「変化」はなめらかで急に角度を変えたり速度を変えたりすることはないという「加速度の法則」
もちろん、この「素朴物理学」は、誰かに明示的に教わって覚えるものではなく、子どもが環境を観察する中で自然に学習されていくものとして考えています。
子どもは、このような「素朴物理学」を習得することで、少なくとも「モノの世界」ではあらゆるものがルールに従って構成されていることを理解し、心の安定を得ます。いわば、素朴物理学は世界を理解するための足場になるわけです。
ところが、この素朴物理学では説明できない対象が存在します。
その最たるものは、母親をはじめとする「ヒト」です。ヒトは、食事を与えてくれたり、突然向きを変えて走り出したりと、非常に複雑な行動をとります。
素朴物理学を発達させた子どもは、その枠内に収まらない母親の行動を見て、この世界には、素朴物理学で説明できるものと、説明できないものの2種類があるということを次第に理解していきます。
ところが、母親をはじめとする周囲の大人は、子どもにとって、自分の要求をかなえてくれる極めて重要な存在なので、分からないから放っておくというわけにはいきません。
そのため、彼らはさまざまな方策を通じて、周囲の大人をコントロールする方法を模索する必要に迫られるのです。
その結果、子どもは、ヒトとは、素朴物理学では説明できない存在であると同時に、こちらから働きかけるとさまざまな反応が返ってくる存在だということが分かってきます。
これらの「理解」を組み合わせると、「ヒト」というのは、単純に素朴物理学が適用できる「モノ」とは異なり、こちらからの働きかけを受けとめて反応するという「内的な機能」を持った存在なのだ、という世界観にいきつくはずです。
この世界観こそが、すなわち心の理論を構築する出発点(レディネス)になるのではないか、と考えているわけです。
(次回に続きます。)