「3た論法」とは、以下のような「理屈」で、ある療育法の有効性を主張する、誤った論理構成パターンのことを指します。
「ナントカ療育を試した・良くなった・ナントカ療法は効く!」
「3た論法」の問題点として、これまでの記事で、
(1)そもそも「3た論法」は、因果関係を示しているものではないこと、
(2)「脱落効果」によるサンプリングの偏りが、効果のない療育法を効果があるように見誤らせることがあること、
(3)有効性があるという「結果」は公表され、そうでない結果は公表されないことで効果が過大に評価される「発表バイアス」があること、
(4)悪い状態を「基準点」にすると、その後は自然に「より良くなる」可能性が高くなるという「平均への回帰」があること、
などを紹介してきました。
ずいぶん増えてきましたね。
これほどかように、療育などが「効いた!」と断定的に主張することは難しく、安易に言ってはいけない(逆にいえば、安易にそのような主張をする「療法」に対しては眉につばをつけて接しなければならない)ということなのだ、と言えます。
で、実はまだ「終わり」ではありません。
自閉症療育における「3た療法」のなかで、「効いた!」という判断を誤らせる「要素」は、まだまだあります。
その中でも、自閉症(ないし多くの発達障害)における大きな要因としてあるのが、
(5)発達の一方向性と離散性
です。
自閉症スペクトラムをはじめとする発達障害において、療育の対象となるのは、食事や排泄の自律、言語やコミュニケーションなどをはじめとする「発達課題」です。
言い換えると、発達障害への働きかけとは、「発達のプロセスを対象とする働きかけ」だと言うことができるでしょう。
療育が「発達」を対象にしていること。この当たり前のことが、やはり「療育の効果」について誤った判断を導くことがあります。
まず、発達そのものは、大局的に見れば常に一方向的であり、進行性でもあります。
当然のことですが、自閉症スペクトラムのお子さんも、遅れや偏りはありつつも、「発達」し続けます。
そして、一度「発達」した自閉症スペクトラムのお子さんが、全面的にどんどん退行して赤ちゃんのような状態に戻ってしまうということは通常は考えられませんし、もしそんなことがあったらそれはおそらく、自閉症スペクトラムではない別の病気ないし障害でしょう。(発症後、発達が停滞・退行することを特徴とする「レット障害」という発達障害もあります。)
もちろん、おむつはずしに一旦成功したのにまたお漏らしするようになったとか、部分的にできていたことができなくなったりすることはよくあることですが、それでも「全体としてみれば」子どもは着実に発達・成長を続けていきます。
そして、その「発達」のかなりの部分は、連続的ではなく離散的です。つまり「徐々に変わる」のではなく「突然できるようになる」ことが多いのです。
少なくとも、子どもの発達を観察するという訓練を受けていない私たちにとっては、そのように見えることがしばしばです。
たとえば、「ことばを発する」という事例を考えてみましょう。
自閉症児の場合、最初に発することばは、「ママ」とか「パパ」ではなく、欲しい食べ物の名前や、関心・こだわりの対象であるものの名前だったりすることが多いようですが、ともあれ、初めて意味のある単語を発話する瞬間というのは、劇的であり感動的でもあります。(たしか我が家の場合は、これなあに絵本に載っていた食べ物の名前だった気がします)
発話についていえば、「発話がない」から「発話がある」へ、ゼロから1に、「デジタルに」変化します。「発話まであと0.5くらい」とか「0.9くらいまできているからもう少しで発話があるだろう」みたいなことは、もしかすると熟練した専門家なら分かるかもしれませんが、一般的にはありえません。
平たく言えば、「発話」というのは、「突然できるようになる」のです。
こういった離散的=「突然できるようになる」発達課題は、他にもたくさんありますね。
「できる・できない」という軸で言えば、ほとんどの発達課題が、「できない」から「できる」にデジタルに変化するといっても過言ではないのではないでしょうか。
さて、そうなると、療育における発達スキルの獲得には、独特の傾向があることが分かります。
まず、大局的にいうと、特定の子どもの発達スキルについては、「時間の経過とともに、できることが増えていく傾向がはっきりとあること」。
そして、「できることが増えるプロセスは離散的、つまりある日突然『できなかったことができるようになる』というパターンが多いこと」。
つまり、療育の効果に関わらず、「自然な発達」のプロセスのなかでも、「できなかったことができるようになる」という「嬉しい瞬間」は一定の確率で常に生じるわけです。これは、年齢の低いお子さんであればあるほどそうでしょう。
そうすると、この「自然な発達」の上に、「効果が実はないインチキ療法をやっている」という事実を重ねるとどう見えるでしょうか。
ここでも、私たちの「因果関係のないところに因果関係を見出そうとする強い認知傾向」のせいで、「ナントカ療法のおかげでこんなことができるようになった!」と判断してしまう可能性が高くなるわけです。
しかも、「こんなことができるようになった!」という「喜びの瞬間」は、繰り返し、定期的に訪れるので、この「誤解」はますます確信に変わっていくかもしれません。
あるいは、ナントカ療法を始めた翌日に、偶然この「喜びの瞬間」が来て(しまったり)すると、いきなり「確信」を持ってしまうこともあるでしょう。
人生はやり直しが利かず、私たちの「療育の選択」も瞬間瞬間では1回しかできず後戻りはできません。
ですから、「その療育をしなかったらどうなっていたか」を知ることは不可能です。
だからこそ、私たちは、「その療育法を多くの人に適用した結果は(適用しない場合と比較した)どうだったのか」という、外部の専門的な研究を参考にする必要がありますし、それが、EBMないしEBA(Evidence-based approach)ということになるわけです。
(次回に続きます。)
私は親をやっていてありがちなバイアスは「願望」かなと思います。療育はたいてい時間かお金がかかりますから、その分の結果が欲しいものです。家族の反対を押し切って始めた人なら、自分の選択した方法が正しかったとも思いたいでしょう。結果が出ないと困る、そういう気持ちが客観的に物事が見えなくなる事に関わっていると思います。
自分もそうなので、気をつけたいと思う所です。
コメントありがとうございます。
親はどうしても、子どもにさまざまな願望を投影しますし、何か働きかけをしたときには「これは効果があるはずだ」という先入観(期待)をもって子どもに接してしまいます。
その結果として、このシリーズ記事でもずっと取り上げているような、さまざまな判断の「ゆがみ」に取り込まれて、なかなか適正な判断ができなくなったりすることもありますね。
私自身も自閉症児の親ですから、そういう危険をいつも意識しながら、療育に取り組んでいこうと肝に銘じています。