論理病をなおす!―処方箋としての詭弁
著:香西 秀信
ちくま新書
序章 馬鹿だから詭弁に騙されるのではない
第1章 詭弁なしではいられない
第2章 曖昧さには罠がいっぱい―多義あるいは曖昧の詭弁
第3章 弱い敵を作り出す―藁人形攻撃
第4章 論より人が気に喰わない―人に訴える議論
第5章 一を教えて十を誤らせる―性急な一般化
あとがきにかえて―語学の達人に学べるか?
本書は、レトリック(修辞学、文章の表現技法)を専門とする国語学者である香西氏による、「詭弁」についての本です。
詭弁というのは、論理的にはおかしなことを、あたかも正当な論理であるかのように表現し主張することで、議論を自らに有利に展開しようとする「アンフェアな議論の手法」のことを指します。例えば以下の例も詭弁の一種です。
先生「学生にとって、勉学は何より大切だ」
生徒「学生は勉強さえやっていればいいというのはおかしい」
ここで、生徒の発言は、先生の主張を本来のものとは異なるものに「すりかえて」います。
後は、生徒はこの「学生は勉強さえやっていればいい」という、本来の先生の主張とは異なる「弱い敵」をひたすら叩き続けて、相手に反論の機会を与えなければ、「形式的に」議論に勝てるかもしれません。
しかも、こういう展開になってしまうと、先生は本来の主張で再反論する前に「私の主張はそうではなくてこうだ」という訂正を行なわなければならなくなり、それが言い訳がましく聞こえてさらに不利になるというおまけまでついてきます。
これは、詭弁の1つの典型である「わら人形論法」です(本書では第3章まるごとを使って詳細に解説されています)が、この一例だけを見ても分かるとおり、詭弁というのは単に「でたらめを主張する」ような簡単なものではなく、「議論」というものの持つ構造に、高度に組み込まれた形で行なわる巧妙なものであり、それが詭弁であることに気づかず、相手のペースにはまって不利な議論に持ち込まれてしまうようなケースも多々あるような、そういうものです。
自称「議論に強い人」はかなりの確率で詭弁家であり、実際、「有能な」政治家の多くは詭弁に長けています。そして、私たちも知らず知らずのうちに、議論に詭弁を取り入れてしまいがちです。
本書の魅力は、「私たちの考えかた(認知のクセ)」と詭弁の存在は一体不可分なものであり、詭弁について考えることは、私たちの「思考のクセ」について考えることとほとんどイコールだ、という立場から、単なる表現技法、議論のテクニックという視点を越えて、詭弁について深く掘り下げ考察されている点にあります。
このように、詭弁のほんの小さな一つの例からも、人間の精神についていろいろなことが見えてくる。詭弁に騙される人は、単に馬鹿だから騙されるのではなく、人間の思考が、そのようなものを受け入れてしまう癖をもっているから騙されるのである。詭弁を研究することで、人間のもつ根源的な思考の癖が明らかになるのではないか。私が本書で、読者に知って欲しいのはそうした人間の思考の癖である。(初版20ページ、太字原文ママ)
本書のもう一つの魅力は、あまたある詭弁を、わずか4つの類型にスマートに分類していることです。
私もブログその他を長くやってきて、それなりに議論の経験もありますが、振り返ってみて、過去の不毛な議論で経験した「詭弁」はこの4つの「詭弁類型」でほぼすっきり整理して理解できるな、と感じました。
ちなみに、本書に掲載されていない「不当な論の進めかた」としては、詭弁というよりは「強弁」といったほうがいいような、「自分がやっていることをそのまま『相手がやっている』と言い張る」「自分しか知らない『独自情報』があると主張し、それを根拠に自己の正当性を主張する」といったものを見かけたことがありますが、これらはレトリックというよりは単なる虚偽であって、そういうレベルの低すぎるものは取り上げない、というのが本書(著者)の「美学」のようです。
第3章の「わら人形論法」については先ほど取り上げましたが、相手の主張を勝手に「弱点の多い主張」に作り変えて、後はそちらだけを叩き続ける手法です。
先ほどの先生と生徒の議論も、以下のように置き換えると、療育の世界でたまに見かけるやりとりになります。
A「子どものありのままを受容することが大切だ」
B「障害を放ったらかしにして、現状のまま放置するのがいいというんですね」
自分だけが発言できて、批判相手は反論できないメディアを通じてこのような詭弁を弄し、かつ、そのメディアで相手の実際の主張を引用しないようにすれば、「形式的には」絶対に議論に負けないことになるでしょう。
第2章の「多義あるいは曖昧の詭弁」にも注目です。
これは、多義性のある用語の意味(対象や広がり)を、悪意をもって操作することによって、相手の主張をねじ曲げたり、自分の主張を守ったりする詭弁です。
療育の世界における「多義性があり、定義を広げたり狭めたりすることができる用語(そして、その気になればその手法によって詭弁を弄することが可能な用語)」の最たるものは「治る(治す)」でしょう。
このことばは、「根本的に将来にわたって症状が消失すること」を指すことも、「目の前の問題症状が軽快すること」を指すこともできますし、時間軸を組み入れて「発達してできることが増えること」や「訓練により、放置しておくよりもできることが増えること」を指すことができると考える人もいるかもしれません。そして、それらすべてを包含するような「広いことば」として扱ったり、逆にどれか1つの限定的な意味として「狭いことば」として扱うこともできるでしょう。
そのような多義性を「悪用」すれば、「自閉症は脳の障害であって、現時点では根治しない」という意味で「自閉症は治らない」という主張をした人の発言をとりあげて「この人は自閉症は発達しないと言っている。このひどい発言、皆さんどう思われますか?」といった詭弁で反論できるようになる、というわけです。
一方、このような「多義性」は、逆に、誰かから反論を受けて再反論するときに、自説を「言いたかったのはこういう意味なんだ」などと定義をずらして反論を無意味化する詭弁にも使えます。
このような「多義性」をもつ療育用語としては、他にも「発達」や「支援」、さらには「障害」といったことばが思い当たります。
つまり、上記のような用語を使って議論するときには、私たちは慎重にならなければならない、ということですね。
そうしないと、無意識のうちにこれらの用語を「自分の都合のいいように」使用するたびごとに微妙に意味を変えて使ってしまい、結果として、自説そのものが全体として単なる詭弁になってしまう危険があるからです。
第4章の「人に訴える議論」というのは、問題を、主張そのものから「その主張をしている人の人間性」にすり換えてしまう詭弁のことです。
これも、つい先日、こんな使われ方をしているのを見かけました。「とある代替療法で劇的に良くなった」という主張に対し、「そんなやり方で劇的に良くなるなんておかしい」という反論があった、という話題についてです。
この議論、本来は「その代替療法で劇的に改善するというのは本当か否か?」というのが論点になるはずですが、なぜか「反論者はよってたかって相手を罵倒した。ひどい話だ」というオチがつけられていました。つまり、反論の内容は無視され、反論者の人間性の問題にすりかえられているわけです。
そして、この問題のすりかえから、なぜか「反論者の主張は間違っている」という強引な結論が導かれ、最後に「元の論点」に戻して、「だから『とある代替療法』で本当に劇的に改善したんですよ、皆さん」とまとめれば、「人に訴える詭弁」の完成です。(実際には何も反論できていないにも関わらず、自己の主張の正当性が認められたかのようにふるまえるわけで、それこそが詭弁の詭弁たるゆえんだということです。)
そして、第5章の「性急な一般化」は、これまた療育の世界ではよくある「エピソード主義の誤り」を、議論における詭弁として悪用する方法です。
ものすごくシンプルな例としては、Aという療育法で成功した一部のケースを取り上げることで、Aという方法に批判的な人を否定するというパターンですね。
これは、代替療法批判に対する反論としては非常にありふれた手法で、単なるレトリックにとどまらず、読み解くためにはクリティカルシンキングとか確率的思考まで求められるかなり高度な詭弁です。
とはいえ、実際に詭弁を弄している人は、必ずしもこのような「高度な議論のテクニック」として詭弁をマスターしているわけではなく、単なる誤読やリテラシーの欠如から「稚拙で噛み合わない議論」を展開しているだけに過ぎないことが多く、それが一部のケースでは詭弁の王道パターンにはまることで「形式的に」議論の勝率が高まり、「自称」議論に強い人が生まれる場合もあります。
そのあたりも、本書はさらりと指摘してくれています。
…議論において、相手の意見を誤解してしまうのは、大抵これ(引用者註:相手の立場に反対する人間が、最初から「相手の主張には誤りがある」と思い込んでその主張を読み、相手の誤りを無理やり見つけようとしてしまうこと)が原因である。したがって、それが意図的ではないという理由で、何か無垢な過ちのように許容してやる必要はまったくなく、その「悪意」の程度は、意図的な歪曲といささかも変わるところがない。むしろ、意図的でないことはそれだけ読解力が薄弱ということになり、かえって救いようがないと言える。
だから、本書で、騙す意図がないと思われるにもかかわらず、私が虚偽ではなく詭弁という用語を使うのは、ある意味で「武士の情け」である。それは頭の悪さゆえの悪意を、ただの悪意に割引してやることだからだ。(初版96~97ページ)
この最後の引用からも分かるとおり、本書の語り口は軽妙で文章は読みやすく、「学者の書いた退屈な本」とは対極の、非常に面白い本に仕上がっています。
面白く読めて参考になり、クリティカルシンキングを考えるうえでもとても参考になります。ネット上での議論をたくさん見てきている人なら、思い当たるケースがあまりに多くて、逆に笑ってしまうかもしれません。
療育について、ネットで情報を得ている人にとっては、「変な人の変な議論」をちゃんと見極めて、それに引っかからないことも、非常に大切な「療育リテラシー」の1つであることは間違いないでしょう。
そんな、「変な人の変な議論」を読んだり目にしたりして、それがなぜ変なのかな?と疑問を感じたことが一度でもある人なら、読んで得るものがあるはずです。おすすめです。
※その他のブックレビューはこちら。
今回の記事はちょっと前に(現在進行形?)繰り広げられた「変な人の変な議論」の解説を読むような気分で読ませてもらいました。
このブックレビューを読んだ後で早速「論理病を治す!」を紀伊国屋で購入しました。
ちなみに発達障害関係のコーナーに鈴木メソッドの本やら整体関係の本が山積みされているのを見てちょっとブルーになりましたが。
「3た論法から療育リテラシーを考える」の記事も考えさせられながら読んでいます。
続きが楽しみです。
コメントありがとうございます。
ネットではいつもいろいろなところで論争が起こっていて、そのかなりの割合が詭弁によるものだったりしますね。
ひどいのになると、もう最初の反論なり発言の時点で、相手の発言内容を無視して人間性を貶める方向にもっていく詭弁や、相手の発言とは異なる藁人形や相手が発言していない完全な虚偽をでっちあげてそれを攻撃し始める詭弁も存在しますね。
そういう人の場合、最初からまともに議論するつもりはなく、ただ相手を貶めて自分が「勝った」ことにしたいという欲望だけなので、万一巻き込まれると不毛なことになりますね。
でも、もっと不毛(不幸)なことは、そういう「詭弁」に引っかかってしまって、本来はなんら説得力のない主張を支持してしまったりする(そして、それによって限りあるリソースを無駄遣いする)ことにあるのかもしれません。
なので、そういう不幸な事態を避けるためにも、「詭弁」について学び、また「3た論法」の誤りについて知ることは大切なことなんだろうと思います。