この「いいとこどり」という話、よく言われることですし、私も以前似たようなことを書いたことがあります。
が、こうやって市販書で大々的に書かれているは珍しかったので、少し驚いたのと同時に、本書の影響力を考えると、ちょっと心配な部分を感じました。
「いいとこどり」自体は悪いことではありませんが、いいとこどりできるのはテクニックの部分だけで、療育理念のいいとこどりというのは考えられません。
ですから、「いいとこどり」する前提として、療育理念を1つに決める、ということが必要になります。そうしなければ、結果として矛盾するテクニックを寄せ集めてしまう可能性もあります。
今回は、ABAとTEACCHを例にとって、「テクニックのいいとこどり」と「理念を1つに決める」ことがどう関係するかについて考えてみたいと思います。
まずは、ABAとTEACCHの、最も根幹となっている考え方を改めて整理しておくべきでしょう。
ABA
スキナーの徹底的行動主義心理学がルーツ。
すべての考え方の出発点として行動主義があり、認知や心などもすべて、行動を分析することから説明されなければならないとする。
自閉症療育においても、ABAの基本的スタンスは「行動障害を改善する」というもの。
TEACCH
従来からあった、精神力動的な臨床心理学がルーツ。
すべての考え方の出発点として、「人は、ばらばらの部品の集まりではない全人的な存在として扱われなければならない」という理念がある。
自閉症療育における基本的スタンスは「自閉症者のQOL(生活・人生の質)を引き上げる」というもの。
このように、ABAとTEACCHでは療育に対するスタンスは180度といっていいほど違います。
特に大きな違いは、自閉症児に対する人間観です。
ABAでは、自閉症児は「矯正すべき問題行動の集まり」と考えます。
これに対し、TEACCHでは「まだら模様のスキルを持った全人的な存在」と考えます。
この違いが、療育アプローチの違いとしてダイレクトに現れます。
ABAにおける究極の目標は、「見つかった問題行動をすべて矯正すること」になります。言い換えれば「健常者と同じ行動をするようにすること」がゴールとなります。
療育プログラムの進め方としては、遅れが深刻なものほど優先して指導するのが基本です。
これに対して、TEACCHにおける目標は、「自閉症者が幸せで自立した人生を送ること」です。健常者と同じになることがゴールではありません。
療育プログラムの進め方も、最も遅れている発達課題ではなく、「芽ばえ反応」と呼ばれる、ある程度発達が見られるものを優先します。そして、伸ばせる能力は伸ばし、そうでないものは不十分でも幸せに生きられるような環境を提供することを、ある意味での「究極の目標」と位置付けています。
端的に言えば、自閉症児を「できるだけ『普通』に近づけよう、それが結局は子どもの幸せだ」と考えれば、「立ち位置」はABAにぐっと近づき、逆に「この子の強み・弱みを尊重しつつ、この子にとっての幸せを探そう」と考えれば、それはTEACCHの立場に近くなると言えます。
これは、どちらが正しいとか間違っているということはありません。「理念なきテクニックの寄せ集め」にならないためには、まず自分の療育理念を決めて、それから療育テクニックの「いいとこどり」をしていく必要がある、ということです。
例えば、統合教育と特殊教育が1つの典型例です。統合教育はABAの志向に近く、特殊教育はTEACCHの立場に近い(やや乱暴ですが)と言えます。
家では構造化にこだわっているのに、就学はどんなに子どもの障害が重くても絶対に統合教育、という考えの人がいたとしたら、よほど合理的な説明がない限り、矛盾したテクニックの寄せ集めになっている可能性が高いと思います。
今回一番書きたかったことは、「何となくよさそうなもの」を集める安易な「いいとこどり」では、こういった微妙なケースで破綻するリスクがある、ということです。始めに理念ありき、なのです。
では、私は?といえば、立ち位置としてはTEACCHの側に近いと思います。
でも、療育テクニックとしての行動療法のパワフルさ(と限界)については確信していますので、有効な「道具」として、どんどん使っていくべきだと思っています。
我が家の場合、知的にはとても平均的(上二人の場合、平均値をはさんで、20から30くらいの開きがある凸凹具合という意味です。)な3人の子供たちです。自閉症スペクトラムと、多動や不注意などが、ひとりずつ微妙に違うでかたをしているようです。
幼いうちは、具体的な言葉や行動そのものをマネさせたり、気づかせたりしながら習慣付けを促していますが、すぐにできるもの、まったくできないもの、いろいろあります。
促すのが私の仕事であり、習得するのはこどもなので、習得できる時期は、子供の成長を待とうと、思っています。
ただ、年齢が二桁になる頃から、思春期にかけては、少し厳しく、社会的な考え方を身につけようとする気持ちを育てたい…と、考えています。
行動として、ルールを身につけ、あとからその意味を理解し、自分で納得してルールを守り、社会で生きてほしいと、思っています。
結果として、ABA的な考え方になるのでしょうか?
でも、学校で生きにくくても、社会にはどこかにありのままでいられる場所はあるはずだから、好きなことをして生活できる道を見つけてほしいとも思っています。
その道で生計を立てるには、最低限、必要な社会観は身につけておくべき…と思うのですが、これはどっちつかずでしょうか?
子どもは混乱してしまうでしょうか?
普通にしたいと思うわけではなくて、社会のルールからはみ出さないギリギリのラインを知っておくことが、楽な気持ちで過ごすコツ…と、私が感じているため、だと思います。
コメントありがとうございます。
おっしゃっているような「理念」で、いいと思います。
ここで問題にしているのは、あるときには「普通でなければいけない」と考え、あるときには「普通なんて目指す必要はない」と考える、といった「矛盾する理念を気づかず取り入れてしまうこと」ですね。
ですから、おっしゃっているように、自分の療育の理念をちゃんと言語化できて、その内容に矛盾がないのであれば、それは「安易な理念のいいとこどり(で失敗する)」ということにはならないんじゃないかな、と思います。
また、成長に伴って、あるいは場面によって差別化して、違う価値観で療育をする、ということも、状況によっては必要になってくると思いますので、子どもが混乱しないのであれば、それもありだと思います。
ちょっと安心できました。
まだまだ、診断されてからは間もないので、自分の考え方に自信を持ち切れていなかったのですが、診断を受ける前から、私の価値観そのものが、療育的な発想に近かったのではないか?
と、常々思っていました。
私が、辛くない対応…と考えると、そういう風になるようです。
ただ、中途半端だったり、自分が克服していないことに関しては、まったく指導できないという難点があり、いっしょにがんばろうと、思っています。
ありがとうございました。
コメントありがとうございました。
レスが遅くなりすみません。
療育は、子どもと一緒に親も試行錯誤で前に進んでいく営みだと思っています。
特定のやり方、考え方に固執せずに、常に働きかけの結果を見ながら、柔軟にやり方を少しずつ変えていくことが重要だと思います。
(ただし、考え方は矛盾がないように、というのがこのエントリの趣旨です。)