最近では、我が家の療育、我が家の娘への働きかけについても、いろいろとご意見をおっしゃりたいようです。
今日のブログのエントリで、こんなことが書かれていました。
奇跡のような出会い-定型発達者もつらい…かな? 花風社・浅見淳子のブログ
同じような重度の障害を持つそらパパさんのホームページを読んで目の前が暗くなりました。ホームページでいろんな方の相談を受け、たくさんの本を読み、本を出し、講演している一生懸命なお父さんのお子さんでも奥様のブログを読むと決して良い療育の成果が出ているようには思えませんでした。
これは、浅見社長が受け取ったメールの転載だそうですが、仮に転載だとしても、わざわざ許可をとって、そのうえで転載しているわけですから、「掲載したいから掲載した」意見だということになりますよね。
それも、「発達障害を支援する」出版社の社長が書くブログに、私を名指しして掲載しておられるわけです。
私や私の家族が、娘の療育で苦労しているのはたしかに事実です。
まったく環境からの刺激に対して反応がなく、食べ物をくちびるにくっつけると初めて口を開けるという反応がある、というところから(娘は心身重複がなかったので「重度」判定でしたが、知的水準だけを見れば当初は「最重度」との境界水準でした)、地道に鏡を見せたりマッチングのトレーニングなどの家庭療育を始め、門眞一郎先生のHPなどで絵カードを使った「PECS」の存在を知り、当時は日本語訳がなかったのでペーパーバックを取り寄せて読んで実践し、「絵本の名前言わせ」遊びを通じて徐々に音声言語を教えました。
それでも、「治る」ことを期待する親御さんから見れば、いまの娘の状態は「良い療育の成果が出て」いないように映るかもしれません。
でも、私や家族はそうは思っていません。
繰り返しますが、娘の最初の状態は、「環境からの刺激に対する反応」という観点からいえば、活動レベルはほぼゼロだったのです。
そんな娘も、今ではおやつが食べたいと親に言語と絵カードで要求し、タイムタイマーの絵カードを見ながらレストランで食事を待ち、特別支援学校に通ってすべての活動に参加できるまでになりました。昨日は、こんな嬉しい「事件」もありました。
さっき娘が、自分でトイレに行って、自分で服を脱ぎ、自分で用を足して自分で水を流してた(まだうまく拭けないけど)。ここまでできるのはけっこう珍しい。
sora_papa posted at 2010/5/6 20:12:09
私たち家族にとっては、娘は困難のなかでたくましく発達している、眩しい存在です。
ただし、こういう話題は、ブログには滅多に書きません。
なぜなら、これらは単なる「エピソード」であって、それをそのまま単に紹介したとしても、他の人にとって有効な「ソリューション」にならないことが多い、と考えているからです。
当ブログの記事は、療育の一般論的なものが中心で、娘との日々の療育がどのようなものであるかは少々見えにくいかもしれません。でもそれは意図的にやっていることであって、私にとって「日々の療育」と「療育理論やクリティカル・シンキング、EBM」とは密接につながっています。
もっと平たく言えば、前者(日々の療育)は妻のブログが担当していて、後者の部分だけを私のブログが担当している、ということです。
妻のブログでは、妻と娘が写っている写真がたくさん掲載されていますが、その写真を誰が撮っているのか?を考えていただければ、私の日々の生活のなかで娘や家族と過ごす時間のウエイトはとても大きい(ブログに書いていないだけ)ことをご理解いただけるんじゃないかと思います。
さて、雑談が長くなりすぎました。
ともあれ、花風社の浅見社長は、「発達障害を支援する」出版社の社長というお立場から、我が家を名指しして、療育がうまくいってないんじゃないかという話題を掲載されました。その部分だけをカットすることもできたと思いますが、あえて掲載されているわけです。
これは、我が家の療育に対する一定の「意見表明」ですよね。
そういえば、浅見社長は常々、このようなことをおっしゃっています。
だって「みんな違ってみんないい」んでしょ?
少なくともどっちかの意見の人が、同じ意見にならないからと言って、片方を非難することは無益だと私は見ていて思う。
今回の、我が家の個人的な療育の良し悪しについての「意見表明」は、この発言と矛盾してはいないでしょうか。
それとも、上記の発言は浅見社長にとって「コミットメントのない意見」なのでしょうか。
そういえば、少し前に浅見社長はこんな発言をされていました。
繰り返し発言されて既成事実化されようとしてるようですが、私が「効きました!」という親御さんを「定期的に」「フクロにしている」という事実はありません。
「フクロにしている」という表現も下品であまり使いたくありませんが、具体的にどの一連のコメントが「効きましたという親御さんをフクロにしている」のか、指摘していただきたいと思います。
当ブログはコメント欄をオープンにしていますので、コメントをいただいたらお返ししなければなりません。いただいたコメントの内容によっては、お返しするコメントに批判的なフレーズが含まれることはあります。また、エントリによっては激しい議論の応酬となる場合もあります。でも、いずれについても、「効きましたという親御さん」を「フクロにする」ためにやっているものではありません。
そもそも、コメント欄の議論を「フクロにする」といった闘争の構図でしかご理解いただけないということ自体が、ブログのコメント欄の存在の意義についての認識に大きなずれがあることを感じます。
ところで、これまでの一連の私への誹謗中傷に加えて、最近はこのエントリや今日のエントリをはじめとする「さまざまな声」も加えて攻撃を加速していらっしゃいますが、こちらのほうがよほど「フクロにする」という表現が適切だと思いますが、どうでしょうか。
それとも、「親御さんをフクロにするのはよくない」という発言もまた、「コミットメントのない意見」なのでしょうか。
さて、今回のエントリに対して恐らく浅見社長サイドからは、「私が同じことを大地ママさんにやったんだ」といった反論が出されるでしょう。でもそれも正しくありません。
私があのブックレビューで批判したのは、誤解を招くような編集のされ方に対してであって、療育の部分に対しては淡々としたレビューのみ書いています。
これも、浅見社長は繰り返し発言することで既成事実化しようとされているようですが、ちゃんとソースにあたれば、どちらが正しいかは自明でしょう。
「編集への批判」ということについて言えば、私のブログのコメント運営について、具体的引用もせずに中傷的な発言を繰り返されることと、ブックレビュー1つ書いただけで「編集権の侵害だ、訴える」とおっしゃることも矛盾してませんか? それとも、私のブログ運営へのご批判もすべて「コミットメントのない意見」なんでしょうか。
うーん、何だかこうやってみると、浅見社長の私への誹謗中傷は、どれも客観的事実がなく、矛盾だらけのものばかりだと言わざるを得ません。
私に対しては、訴訟をちらつかせてまで「警告」されたのに、ご自身は客観的事実のない誹謗中傷を繰り返されるというのは、この「警告」自体も、「コミットメントのない発言」だったのかな、と思います。(ちなみに私は「警告」に対して、きちんと浅見社長の発言ソースを引用し根拠を示しています。)
なお、これまでの花風社の浅見社長の私への「攻撃」については、こちらにまとめてあります。
※追記
本件記事以降も、浅見社長のブログでは私への執拗な攻撃が続いていますので、エントリだけリンクしておきます。
発達障害者支援のために (5/8)
読者から託されたメール (5/9)
愛甲修子さんによるあとがき (5/12)
大地君からみのもんたさんへのお手紙 (5/13)
吹き込むわけないでしょ (5/14)
大地君からそらパパへの手紙 (5/15)
白くま母さんより読者の方への手紙(5/21)
まっとうな本(5/22)
安心しましたって(5/25)
5/15の「手紙」についてのお答えは、以下のツイートになります。
私自身、とても心を痛めているので多くを語らないでおこうと思いますが、1.私が彼のことを悪く書いた事実はないこと、2.議論はオープンにやっていて、それは「文句」ではないこと、3.「手紙」はクローズドであるべきだと思うこと、4.最後の行の*に嫌な気分になったこと、だけ述べておきます。
sora_papa posted at 2010/5/15 10:15:20
それも他人の見解を紹介するという物影から石を投げるような真似で、、この方にとって、編集とか出版も、同じ種類の行動なのでしょうかねー?
自分の世界に閉じ込められているASDでは、たとえ他人様の意見でも、自分の口から出たからには、自分の意見です。自分の言葉には責任を持ちます。
それが、ASDの自己中心性と責任感のあり方だと思っています。この責任感の強さが、依存性の高い人を惹きつけることになるのです。依存性の高い人に往々に見られる、このような物陰から石の責任感のあり方は想像もできませんし、実際に遭遇すると「箸にも棒にも、、」「のれんに腕押し」で手を焼きます。定型の非ASDの方でも、同じなのですね。
「私に実際に会った人で、私にケンカを売る人はいない」と豪語されてましたが、確かに「触らぬ○に、、」でいないでしょうな。しかし、子を守るのは父として当然です。大変でしょうが気張ってください。
いろいろな情報を客観的に取り扱い
その上で有益な情報を伝えようとしてくださってるからですね
そんなスタンスだからブックレビューも信用できるし
私も同感することが多いです
私はそらパパさんの家族への愛情の強さにも感心します.
「家族」が好きだから「エビデンス」を重視
するんですよね
私もですが「家族が好き」なようでいて
うっかり「家族のために頑張っている自分」を好きにならないような自戒が必要だと思います.
浅見さんは残念ながら,それがわかっていない気がします.浅見さんは「自分」を必要以上に愛してしまったのではないでしょうか.
僕は最近の浅見さんの発言に関してはどうしても感情的な反応になってしまいます。
浅見さんもそれを望まれているのでしょうね。
そらパパさんの冷静な書評から始まったはずなのに…。
浅見さんも大変なんでしょうね。かえって気の毒に思います。
ブログなどの「毎日の中から切り取ったエピソード」だけで
他人に判断されて評価されても困ります。
たまに会う親戚や小うるさい姑等に
「そんな育児はだめだ」と無責任に言われているようなものです。
「じゃああなたが全部を管理して替わりにやっていただけますか?」
と言いたくなります。
毎日子供と顔を突き合わせ
色々な訓練や叱咤激励を織り交ぜながら
ただ子供の幸せを願って悪戦苦闘する日々は
簡単に「うまくいっているかどうか」などという
現時点だけでの判断が下せるようなものではないと思います。
そういう意味では、どんなにいい出版物や様々な療法も
自分の子供にとって
「100%確実に障碍を克服してくれる魔法」
ではありえないと思います。
今回の騒動は何ともいえない虚しさと怒りを感じてしまいます。
「何のため」なのかが揺らぐことは危険なことですね。人を巻き込んで傷付けて、自己保身のために、例え間違いに気付いても引き下がれない。
そんな大人にならないよう、謙虚に勉強し続けます。
ただ、それもプロなら甘受すべきことだと思いますけどね。成長には「何くそ!」を肥やしにすると良いとも言われますし。
それができずに攻撃するにしても、本人に対するものならば(狭量だとは感じますけど)まだしょうがないと思えますが、家族を取り上げた時点でルール違反でしょう。まずやり方が×です。
そして、子供それぞれのそもそもの発達の度合いもそれぞれであるだけでなく、その後の発達もまたそれぞれです。従って、発達度合いについてのコメントは個体についてよく知っているのでなければ慎重であるべきなのに、勝手に設定した一つの個人的基準で効果が出てるとか出ていないと言うことはあまりに軽率で、内容も×です。
付言すれば、言われた側の心象のみならずその文を読む不特定多数の受け止めに思いを致せないのはビジネスパーソンとしていかがなものかと思いますし、最終的な目標(落としどころ)を想定しているとは思えない言動は、先の大戦時の大本営のようで日本人の思考様式は変わらないなあと受け止めています。
私にも、自閉症の息子がいます。
どの療育がいいかは、親がその子供の様子や成長を見て・考え・決めるものだと思います。巷には、様々な療育法が玉石混淆としています。
私は、昔の障害児を持った親御さんたちよりもこれだけ情報がたくさんある今は恵まれているなと感じていますし、また自分の息子に対して取り入れる療育方法には、情報がたくさんある中で充分注意しなければいけないなとも考えています。
花風社さんは、書籍を出版されておりまた、そらパパさんは書籍やブログで情報を提供して下さっています。
互いの考えが違っていても、それはそれでいいのではないでしょうか?
それを、実践するもしないも最終判断は、親なのですから。
が、しかし家族を誹謗中傷することだけは許せません。
療育の考え方の議論は、私自身も非常に勉強になりますが、今回の一件だけは、親として許せません。
そらパパ様には、私自身何度もブログを拝見し勉強させて頂きました。
ある意味恩すら感じております。
しかし、花風社さんの本も拝読したことがあり、勉強させて頂いたこともありますので、昨今の議論?は拝見させて頂いていました身としては、少し心苦しい時もありました。
しかし、家族を持ち出してきた時点で花風社さんは負けですね。
もはや、議論にもなりません。というかできないのでしょう。
本当に、家族を出してきた花風社さんへの怒りがおさまりません。
個人的な、感情をコメントしてしまい申し訳ありませんでしたが、同じ親として今回の一件だけはどうしても許せませんので書かせて頂きました。
浅見氏は言い訳してますが、ご自分で「支援」してると称してる自閉症児者の家族に対してどんなひどいことをしたのか、自覚できないようですね。
やはり「支援」者の中には、直接当事者や家族という形の当事者のいる状況を理解できない人もいるんだな、と、すごく残念です。
一般に、情報リテラシーの基本として、「批判的に情報や情報探索過程を評価できる。」要素があるとされますよね(Wikipediaより)。
そらパパさんのブログやブックレビューが多くの人に参考にされるのは、きちんとソースを提示してくださるから、読者が自分でソースに当たったり取捨選択を判断できるからだと思っています。
浅見氏はツイッター上で、「ただあのレビューを100%当てにしている人がいたとしたら、かわいそうだと思う。」と誰とは名指しせず揶揄ってるけど、もしそらパパさんのことなら、少なくともこのブログの読者でそらパパさんのレビューだけを”100%当てにしている”人はごく少ないと思います。
だってク誰の言説にしろ100%当てにして自分の判断を棚上げするという姿勢は、リティカルシンキングの方向性に真っ向から反するもの。
他方、浅見氏の発言は本当に矛盾だらけで一方的。
何でソースを出さずに印象と憶測だけでしつこくしつこくネガティブキャンペーンを張ってるんだろ、と不思議だったのですが、もし自分の主張を既成事実化するためだったのなら、完全に自縄自縛になってるように思います。
事実に反することを一方的に垂れ流される点については、今後ももし続くようなら、折を見て反論したほうがいいと思います。
発達障害者支援のために
http://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/1f853b0f0f6458bcc457c69217436e7d
感想
表題は「発達障害者の親御さん、支援者の支援のために」も方が適切ですね。不適切な方法による療育ネグレクト(児童虐待)という可能性をみる視点が欠けている。だから「発達障害者」のためとはいえないと思います。
こういう議論の進め方は、私のような言語性優位のASDにとっては混乱(パニック)を招きよせるようなものです。
言語性優位のASDを相手にされる方は、往々にASDから「何故?どうして?」と激しく問いただされると思います。言語性優位のASDは、言語によって安定した世界を構築し、自分自身を安定化(不安感の軽減)させています。分からないこと、理解できないこと、納得できないことは、その言語性世界を不安定にします。そうなると、潜在化させていた不安感(他者の感情が上手に感受できないことによる不安感)が噴出・爆発しそうになります。それで、納得できないことなどを「何故?どうして?」と激しく問いただすのです。
ですから、その応答が「それは私が言ったのではない。○×さんがいったので、真意はわからない」など一貫性がないと、さらに混乱します。議論が迷宮化し、分からないことが指数関数的に増えていくと、言語性世界が不安定化から混乱、崩壊に向かいます。そうなると言語性世界の重石で潜在化させていた不安感が噴出=パニックになります。成人男性では、壁を打ち付けて穴を開けるとかする例がママみられます。
ですから、言語性優位のASDにとって、今回のような発言に一貫性、責任が無いような進め方は不適切です。
尻切れトンボになってしまいましたが、これにて失礼。
特に障害のある子ども達に対して「できなきこと」を数え上げて馬鹿にするような言葉を目にしたり耳にしたりすると暗い気持ちになります。
同じ父親としてそらパパさんの真摯な子育ての姿勢には励まされることが沢山あります。
でも「より正しいものを探し続けたい」というスタンスは、「そうなれない・そうできない」部分を持つ人を傷つけてしまったりすることもあるので、必ずしも共感を得られなかったり、逆に敵意を持たれてしまうこともあるのだなと記事を読みながら思いました。
心労がたまりそうなやり取り(?)が続いていますが、娘さんのため、ご家族のため、ご自身のためにも健康にご留意下さい。
どちらにも感謝しているって人いると思うのです。
必要な情報の取捨選択は自分が決めることですから。
なので、この状態、こっちも辛いです。
一番しんどいのは、そらパパ様でしょうが…。
でも、名指しで、あたかも家庭での療育の成果があがっていないような印象を与えてしまう文章を公開するのは、popo様と同様、これはやっちゃいけないと思いました。
話は遡りますが、あの、ブックレビューが論争?攻撃?のきっかけのひとつだとしたら、「就労」についての考え方が整理されていないこともあったかと。
私は、大地君のお母様は「支援つきの就労(生活)も自立である」としたうえで、子育てのポリシーを述べられたのであり、知的に重度の人を排除しているのではないと、解釈していました。
大地君のお母様も「特別な支援が必要な子」として腹をくくって育てているのが読み取れましたので。
私には、お二人の子育ての目指すところに大きな違いがあるのか、疑問なのです。
そらパパ様は、いろいろな療育方法をご自身で検証しつつ、いかに支援していくか真摯に考え実践し、他の方にも参考になればとHPで公開していらっしゃる。
大地君のお母様と、それぞれスタンスは違っても、どちらも私の中では「子どもの幸せを願って、子どもと向きあっている誠実な親」だとしか思えないのです。
比べて、評価する必要などないのに。
過去に戻ってやり直し、はできない、他人を頼っても結局、自分の子供に対してまわりが責任を取ってくれるわけではない、結局親が自分で考えて(情報収集して)決断し、そのことに関して、たとえうまくいかなかったとしても、周りに責任転嫁しない、という覚悟は、必要かと思います。
うちは、親子ともに 精神的・肉体的(・経済的にも)つぶれないで効果がありそうだと思うものは、何でもやってます。多少の失敗は、むしろ経験知というメリットになると思っています。
3歳の自閉症児の母親です。このブログはとても参考になりますね。息子が自閉症と診断されてからまだ3か月弱ですが、紹介されていた本を読み、ずいぶんできることが増えました。言葉もかなり出てきました。
浅見社長のブログ見てきましたが、女性だったんですねー!びっくりです。勝手に「傲慢なおじさん」だと思い込んでいましたから…
しかも好きなこと書いておきながら、コメントを書き込めないようにしていますね。
叩かれるのが怖いヘタレだからでしょうね。自分の考えに自信があるなら、堂々とコメントを受け付けますもの。
どうかこれからも役に立つ情報を発信なさってください。応援しています。
コメントありがとうございます。
個別にコメントをお返ししておらず申し訳ありませんが、もちろん全て読ませていただいて、力をいただいたり、反省したりしています。
今回の件について、私が相手をせざるを得なくなっているのは、実は「藁人形論法」というものじゃないかという鋭い指摘をTwitterで受けまして、確かにまったくそのとおりだ、と感じています。
端的に言ってしまえば、弱点のたくさんある「そらパパ」像を客観的事実のないところでまず作り上げてしまって、私自身ではなく、その「弱い(架空の)そらパパ像」を攻撃するという方法です。
下記の解説はものすごく親切で分かりやすいので、長文で引用します。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=86614&servcode=100§code=100
わら人形論法
「相手を攻撃しやすい架空の人物にすり替えろ。そしてそのわら人形に一撃を食らわせろ」
選挙戦や扇動的な大衆演説でよく使われる古典的な論争術「わら人形論法」だ。 相手の主張を弱点が多い主張にすり替えた後、一方的な攻撃を浴びせて敗退させることだ。そしてまるで相手の主張が崩れたかのように既定事実化する。例えば「子供を一人で外出させてはいけない」という主張に対し、「それなら子供を一日中、家の中に閉じこめておけということか」というようにだ。これに反論しようとするなら、わら人形論法が元来の主張と異なるという点を釈明しなければならないが、なぜか苦しまぎれの弁解のように聞こえる。このためこの高度な論争技術に引っかかると、なかなか抜け出すのが難しい。
ジョージ・W・ブッシュ米国大統領はわら人形論法を頻繁に駆使することで有名だ。 彼は2005年末、「イラクからの軍撤収を考慮しなければならない」という主張が提起されると、「今すぐ米軍を撤収すべきだと主張する人たちがいる」とし「そうすれば重大なミスを犯すことになるはずだ」と結論づけた。「軍撤収の考慮」が「無条件の即時撤収」にすり返られた後、「重大なミス」として烙印を押されたのである。ここで軍撤収の話を下手に取り上げると「テロとの戦争」に反対する非愛国者にされたり、米軍の安全を度外視する無責任な人物にされたりするものだ。 (中略)
わら人形論法の問題は、当初から相手の主張を歪曲することで公正な議論自体を防ぐところにある。 誤った論拠で大衆をごまかし、誤った結論に誘導するのだ。このため論理学では、こうした論法を非道徳な論理的誤謬の一つとしている。その場の論争では勝つかもしれないが、結果的には全体に損害を与えるためだ。