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2010年03月29日 [ Mon ]

自閉症「療育」と精神医療、あるいは療育におけるメタ議論について

先日の件、某社の下ろした「推理イベント」の釣り針に軽く釣られただけのはずが、Twitter上で大きな論議を巻き起こす展開になりました。そんな中で私自身の考えたことを、Twitterのように「流転する」メディアではなく、こちらのブログで整理しておこうと思います。

今回の件でどのようなやりとりがあったかについては、以下のまとめを参照ください。
これは、Twitterのタイムラインを擬似的に再現したもので、対話が分かりやすくなるよう、時系列は入れ替えてあります。また、私が編集したものである、という意味において発言の取捨選択には漏れや恣意性があることを予めお断りしておきます。また、先日の記事もあわせて参照いただければさらに理解が深まると思います。

http://togetter.com/li/10992
大大大博士こと神田橋條治氏とEBM、発達障害

ただし、このまとめは事実上25日(26日深夜)までの議論しか追いかけられていません。
実際には26日以降も主に精神科医の皆さんを中心に熱い議論が闘わされており、そこでの主たる議題は「精神医療とEBM(の適合性、限界、の外側、等)」といったものであったと理解しています。

さて、今回の件について改めて感じたのは、そもそも私の「自閉症への働きかけ」についての立ち位置が、発達障害にかかわっていらっしゃる精神科医の皆さんとは少し(かなり?)違うんだな、ということです。

プロフィール等でも触れているとおり、私の娘は重度精神遅滞を伴った自閉症です。
ですから、私にとっての「自閉症児への働きかけ」とは、一義的には、ことばの習得、食事・排泄・着替えといった生活の自立、社会性についても公共施設(レストランなど)を使える、困ったときに助けを求められるといった、本当に基礎の基礎の生活力に近いところを指しています。
一方で、我が家の精神科医の先生とのかかわりといえば、定期検診を受けつつ、対症療法として薬を処方してもらっているだけ(検診の内容も、ほぼ薬をそのまま続けるか増減するか切り替えるかを決めるためのもの)といったところで、私自身はそれに対して不満をもっていません。

そんなわけで、当ブログは基本的には「狭義の自閉症」、つまりいわゆるアスペルガー症候群ではない、言語面に困難があり、知的な遅れもある「重めの」自閉症への働きかけを主たるトピックとしています。それは、私自身がその領域でしか当事者ではなく、それ以外の領域について語れるほどの知識も経験も持ち合わせていないからです。
もちろん、アスペルガー症候群を含む広義のASDにかかわる方のアクセスも大歓迎ですし、そういった方にとっても有意義な情報となっていることを願っていますが、私の能力の限界として、そういう守備範囲の設定がある、ということです。

そして、いわゆる自閉症の「療育」=治療・教育を考えたとき、当ブログの守備範囲というのは明確に「教育」的側面にあって、そちらの立ち位置から「治療」のほうについても少しだけ語っている、というものであることに気づいたわけです。

ただ、狭義の「教育」の世界はほとんど「オレ流教育法」をナラティブに語るばかりで、「自閉症児になにかを教える」とき、効果のエビデンスが検討できるようなものはあまり見かけません。それがあるのは、ABAやTEACCHやPECSなど、エビデンス主義の洗礼を受けている精神医学、臨床心理学といった「治療」寄りの世界から派生してきたものばかりだったりします。

ですから私も少し混乱していたところがあって、ABAやTEACCHを語ること=療育の「治療」のほうまで含めて語ること、のように考えていたわけですが、よくよく考えてみると、これらは出所は精神医学や臨床心理学であったとしても、実際の使い道としては「教育」(もう少し幅広くいえば「子育て」)として理解した方がずっとすっきりするものです。

一方、今回のTwitterのやり取りを拝見していて、「治療」側の方である精神科医の皆さんの多くは、DQやIQを伸ばすといった「教育」的領域ではなく、成人のASDの方の二次障害を解決する、親御さんの精神疾患や壊れてしまった親子関係に対応する、あるいは問題行動等に薬物治療をする、といった、より「治療」に近い側面から、「ASD・発達障害への治療とEBM」という問題を議論されているように感じました。(というよりも、その部分を無視して語ることはできない、というニュアンスでしょうか)

ここからは想像になりますが、そういう狭義の「治療」という視点からは、ABAやPECSを含むEBM的アプローチは、その方法論上の前提である「多くの人に同じ働きかけをする(そして統計的に有効性を検証する)」点において最初から本質的な限界があり、極めて個別性が強くイレギュラーなケースばかりに対応しなければならない「現場」をそれだけで回すことは難しい、ということになるんじゃないだろうかと感じました。

そうなると、そういう混沌とした「現場」を回すための、最大公約数的に単純化されたEBM的方法論「だけ」ではない、「あらゆる状況に対応するためのメタレベル※の指針」、それは言い換えると心構えとか、それこそ「コツ」になるんだと思いますが、そういったものがどうしても必要になり、実際にそれを具現化していると考えられている人物が「カリスマ」として支持されている、という構図なのかなあと思ったわけです。(完全に想像です。違っていたら教えてください。)
※「メタ」というのは、日本語に訳すと「而上」とか「超」になってしまってさらにわけが分からなくなりますが(笑)、要は「ある対象について議論しているとき、その議論そのものを1つ高次の視点から見る視点」のことを指します。ここでは、個別の治療について議論しているとき、「治療行為とはそもそも何であり、どうやって治療方法を選び、どう実行すべきか」という議論をすると「メタレベルの議論」になります。

だとすれば、もしかすると「EBM的方法論を支持する」ことと「メタレベルとしてのさまざまな呪術的?議論をも受け入れる」ことは両立するのかもしれません。それは通常なら認知的不協和を生じさせるストレスフルな状態ですが、その状態にあって平気でいられるくらいでないと、精神科の現場は務まらないのかもしれません。

さて、再びひるがえって私の立場についてです。
私は、「ちょっと工夫のある子育てとしての療育」をずっと提案し続けています。それは、「子どもの(そして家族の)状態をよくする」という観点からは、もしかすると「治療」的側面もあるかもしれませんが、一義的には療育のなかの「教育」の側面を、家庭のなかでうまく広げていきましょうという提案です。

そして、その「教育」のなかには、クリティカル・シンキング、EBM的リテラシー(科学的思考)といった「親御さんの側が身につけるべき素養」も含まれていると考えています。
自閉症児の親という立場になればすぐに気づくとおり、この世の中には「自閉症が治る」とか「自閉症の原因は××」などと根拠のないアピールをして、自閉症児をもつ家族のお金や時間を狙ってくる人たちがたくさんいます。
「自閉症児の親」としてやったほうがいいのは、単に子どもをトレーニングすることだけじゃなくて、「騙そうとしてくる人に騙されない」ように、自らも知識武装することです。なぜなら、それによってお金や時間を無駄に使うリスクを減らし、子どもを健康上の危険にさらす可能性も下げることができるからです。

ここで、「親御さんにとってのEBM的リテラシー」は、「ベースの議論」としての個々の療育に対して「メタの議論」になっていることに注目してください。
そして、先ほどの考察で、精神科医の皆さんの議論では、EBMが「ベースの議論」で、それに対する「メタ議論」として現場でのコツの話題が出てきていました
つまり、この2つの議論では、「メタレベルの階層」が1つズレていることになります。

以上をふまえると、こう整理できるのではないでしょうか。
まず、「一番下の階層」として、ABAやTEACCH、絵カード療育、感覚統合などの「個別具体的な療育法」があります。ここには、薬物療法その他の医療的働きかけや「キレーション」や「GFCFダイエット」、「ホメオパシー」などの代替療法も含まれ、さらに、とりあえずこの階層のなかでは、これらの療育法は優劣なくフラットに位置づけられます。

次に「メタレベルの階層」として、これらの療育法にどう優先順位をつけ、選択するか(「療育ポートフォリオ」を構成するか)という議論があり、ここで「EBM的アプローチ」とか、クリティカル・シンキングといった話題が登場します。そこでのシンプルな結論としては、「できるだけエビデンスがはっきりしたものを合理的に選ぶと、失敗が少なくなりますよ」といったものになるだろうと思います。

そして、さらに上位の「メタ・メタレベルの階層」として、こういった優先順位についての考えかたを踏まえつつも、さらに「EBM的アプローチだけではカバーできないような一期一会、イレギュラリティ、個別性のかたまりのような『現場』でどう対応していくか」といった「専門家のわざ」の話題が登場してきます。ここは完全に「専門家の領域」であり、素人が手を出しても火傷をするようなものであるように思われます。

言ってみれば、メタ・メタレベルの階層というのは、スポーツでいえば「そこそこのプロ」と「トップアスリート」を分けるものは何か、といった議論であり、最低限「そこそこのプロ」でなければそこで語られていることを「体得する」のは難しいわけです。

今回の議論で、私は上記の「メタレベルの議論」までしかしませんでしたし、できませんでした。
その一方で、精神科医の皆さんの議論の一部は、明らかに「メタ・メタレベルの議論」に踏み込むものになっていたように思います。
だから、そこが噛み合わなかったのでしょうし、逆に、そこに対立があると考えるのは、「擬似問題」だと理解すべきなのでしょう。

そして、私がずっと心配し続けていたのは、せいぜい「メタレベルの議論」までしかする必要がないし、おそらくやろうとしてもできない「一般の親御さん」に、もしかすると「メタ・メタレベルの議論」がいきなり降ってきて、しかもそれを見た「一般の親御さん」が、メタレベルの議論への理解が不十分なまま、メタ・メタレベルの議論を「メタレベルの議論として読み解いてしまう」というリスクについてだったのかもしれない、と気づきました。

現在、多くの「一般向け療育書」に載っているのは、先の整理でいえば「一番下の階層(個別の療育アイデア)」だけです。
ところが、それだけだと「効果が期待できる療育法」と「そうではない療育法」をうまく区別することができません。
だから当ブログでは、それらの優劣を合理的に判断することの重要性を強調しています。つまり、当ブログの話題は、主に「メタレベルの議論」が中心になっているわけです。これを本のカテゴリーで強引に分けるなら、「一番下の階層」は「一般書」であり、当ブログが主に扱っている「メタレベルの議論」は「一般啓蒙書」だと言えるでしょう。

その流れでいえば、「メタ・メタレベルの議論」を語ることは、同様にカテゴリづけするなら「専門書」、ということになります。
一般書と専門書の違いは、「分かりやすければ一般書、難解なら専門書」といったことではなく、「前提知識(より詳細にいえば、前提となる議論の枠組みへの知識)が必要か不要か」というところにあります

最後に、今回話題になった本について少しだけ触れますが、上記のような整理のなかで、今度の本が端的に「専門書」になるのか、「一般書ないし一般啓蒙書」になるのか、「専門書でありつつ、同時に一般書や一般啓蒙書の役割まであわせもつ本」になるのか、そこにとても興味があります。
本書が登場して、実際に手に取る機会があれば、その部分に集中的にフォーカスをあてて、レビューができればと思っています。


※補足:上記は、高度なメタ・メタレベルの議論としてであれば、EBM的方法論と「呪術的?直観・観念的?」方法論をポートフォリオとして共存的に語ることができる(かもしれない)ということを述べているのであって、誰もがその議論に参加できることは意味しません(少なくとも私にはムリ)し、親御さんにとってのクリティカル・シンキング、EBM的リテラシーの重要性はいささかも変わらないということは申し添えておきます。当ブログの方針ももちろん変わりません。

※さらに補足:この議論とちょっと関係あるかもしれない、私の最近のつぶやきをいくつか。
@ohgie 簡単に言ってしまえば、何かが「効きます」と主張した瞬間に、それは再現性と操作性があると言っているのと同じことなので、その主張をEBM的でないものに対して行なえば、必然的にトンデモ色を帯びることは間違いないわけです。
posted at 2010/3/26 22:45:36

ここで仮に、私の中では、「科学的、EBM的」というのを端的に「操作性と再現性がある」という風に意味づけして考えています。
posted at 2010/3/26 22:53:58

@guriko_ いちおう、私のブログのモットーは、「負担にならない家庭療育」です。例えばABAをすすめているのは、それでがんばって訓練しろというよりは、子どもの問題を低コストで解決できて「ラク」になれる可能性が高いからですね。
posted at 2010/3/27 16:02:02

@guriko_ 最低限のリソースで最大の効果をあげ、トンデモ的な療法に引っかかってリソースを費消しないために、親御さんがEBM的思考をもつことをおすすめしています。
posted at 2010/3/27 16:03:14

@fatcatfatrat @toko_105 ちょっと気づいたのは、精神医療の先生方は「こじれた二次障害」のあたりが主戦場のようなので、私が念頭においているような「子育ての延長線の療育」とか「身近なインチキにだまされない」等とは違う議論をされてるのかな、ということです。
posted at 2010/3/28 12:09:00

そういえば、「代替医療のトリック」でも、カイロプラクティックは「腰痛に対して通常医療と同程度の効果がある」が、「それは通常医療も効果が弱く、プラセボと大して変わらないからである」という一節があった。精神医療が代替医療的なものと親和性が高いことのヒントはこのあたりにもあるかも。
posted at 2010/3/28 23:18:00


posted by そらパパ at 20:51 はてなブックマーク | コメント(11) | トラックバック(0) | 花風社関連
この記事へのコメント
>「自閉症児の親」としてやったほうがいいのは、単に子どもをトレーニングすることだけじゃなくて、「騙そうとしてくる人に騙されない」ように、自らも知識武装することです。なぜなら、それによってお金や時間を無駄に使うリスクを減らし、子どもを健康上の危険にさらす可能性も下げることができるからです。

改めて、私にとって、このことがとっても重要なんだなぁとわかりました。

実は途中、そらパパさんが心配になってきましたが、(色んな意味で)今まで通りのスタンスとのことで、本当に安心しました。

そらパパさんのブログは、「家族みんなが当たり前に無理せず楽しく暮らすこと」を伝えたいんだなと解釈してました。

これからもみんなに伝えてくださいね!
Posted by TOKO at 2010年03月29日 21:35
お久しぶりです

一介のBehavioristからすれば、やる事は「来た人の今の状態が少しマシになるように働きかける」に尽きます。
結局、当事者ならぬ身としては、存在としてメタ的でしかあり得ないのだと思います。
Posted by gestaltgeseltz at 2010年03月29日 22:53
TOKOさん、gestaltgeseltzさん、

コメントありがとうございます。
今回の件は、最初は単なる名前当てゲームだったのですが、ひと段落ついてみると、改めて自分の「立ち位置」を確認しなおすいい機会になったと思っています。
Posted by そらパパ at 2010年03月31日 00:02
花風社の神田橋本の事業仕分け

多分三つの層に分かれると思います。
(1)統合失調症への言及。信用度80%
(2)大人の発達障害=重ね着症候群への言及。信用度50%
(3)発達障害一般≒特に子どもの発達障害への言及。信用度10%
以上覚書として簡単にまとめて見ました。
Posted by スカラベ at 2010年03月31日 00:20
スカラベさん、

コメントありがとうございます。
コメントいただいた内容は、前エントリでの「内側・外側」の議論から続くものですね。

ただ、そういう一般論的な議論としてはいいと思いますが、まだ出ていない本を具体的に特定して「内容」について批判するというスタイルは、ちょっと勇み足になりかねないかな、という気はします。

まあ、実物が出てくるのもそう遠くないみたいですから、「特定の本の内容」について語るのは、それからでも遅くないと思います。
Posted by そらパパ at 2010年03月31日 00:53
論旨には一々賛成なんですが、やはりEBM理解という点で一言申し上げざるを得ません(不毛かもしれませんが・・・)。

そもそも、EBMの本義は「外的根拠(エビデンス)」に、内的なもの、すなわち「価値観」や「医師の経験・技能」等を統合することにあります。
(これは、"価値観 経験 EBM"で検索すればいくらでも出てきます)

そらパパさんのおっしゃる「専門家のわざ」や「コツ」というのは、この「医師の経験・技能」に他ならず、EBMに内包される概念です。

ですから、そらパパさんの以下のコメント

>「EBM的方法論を支持する」ことと「メタレベルとしてのさまざまな呪術的?議論をも受け入れる」ことは両立するのかもしれません。

に対しては、「そもそも両立させることがEBMの本義である」と指摘せざるを得ず、

>「精神医療とEBM(の適合性、限界、の外側、等)」といったものであったと理解しています。

に対しては、「否」と応えざるを得ません。

また、(おそらく)RCTの限界を指摘した以下のコメント、

>EBM的アプローチは、その方法論上の前提である「多くの人に同じ働きかけをする(そして統計的に有効性を検証する)」点において最初から本質的な限界(がある)

についても、だからこそ(限界踏まえた)批判的吟味が手続きに組み込まれているのであり、まさに織り込み済み、あくまでRCTの限界であって、EBM自体の限界とは無関係です(EBM≠RCT)。

実態としてRCTの限界=EBMの限界であり、特にそれが自閉症領域で如実に現れているのはその通りですが、それを克服する可能性はあくまで残されており、たとえば、
「RCTの枠内で研究デザインを工夫する」
あるいは、
「RCTを超えて質的研究やN-of-1 Studyを導入する」
(これにより旧来のエビデンスヒエラルキーは意味を失うでしょう)
などの方法が考えられます。

ところで、「代替療法のトリック」ブックレビューにおける以下のそらパパさんのコメント。

>1−(10)「エピソードだけで判断する」のってEBMなのかなあ。「判断できない」という判断なら分かるけど。そもそもEBMってエピソード主義を克服するためにあるのでは?

このような、
「"エピソード主義"を克服するためのEBM」
あるいは
「"経験に基づいた医療"を克服するためのEBM」

というEBM理解は、往々にしてEBMの本質を見失いがちであるように思います。

その点このサイトの記述は優れており、よくEBMの本質に迫っていると思います。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jea/letter/no25/0228/index01.html
Posted by たろきち at 2010年04月02日 00:47
たろきちさん、

またコメントのごく一部だけを切り取って発言をされていますが、その1−(10)の「感想」は、その後の1−(12)で、たろきちさん自身の発言が矛盾しているという「感想」につながっていくものです。ですから今回の発言もご自身の発言のなかで矛盾しています。
Posted by そらパパ at 2010年04月02日 22:20
プラシーボ効果を得るために、重要なのは治療のあり方だ。偽薬を投与する必要はない。という旨の研究が発表されたそうです。
そうなると、作業療法とか精神分析とか薬物を用いない療法というのは、プラシーボ効果と親和性、医者の評判とか医者の経験・技能とか診療の雰囲気とか患者の態度とかの「治療のあり方」が治療効果を左右するのでしょうかね。

【2月23日 AFP】一般的に病気は薬で治すものだ。だが、医師の患者への気遣いや知恵だけで治る場合もあることを指摘したオーストラリアの科学者らによるプラシーボ(偽薬)の研究結果が19日、英医学誌ランセット(Lancet)に掲載された。

 シドニー大学(University of Sydney)のダミアン・フィニス(Damien Finniss)氏が主導する国際研究チームは、新薬の有効性を試すために治験で用いられてきたプラシーボの効果を科学検証した論文を、古くは18世紀までさかのぼって調べた。

 その結果、プラシーボには薬を投与するといった初歩的な医療行為などと同様の治癒効果があることが分かった。患者の精神に働きかけることで、体が持つ自然治癒力を高めるとみられる。

 プラシーボ効果は、さまざまな症状の患者において習慣的に投与することで得られ、強い治癒効果があることが分かったという。

 研究チームが検証した論文のなかには、鎮痛剤を投与されていた患者が、投与薬がプラシーボに切り替わってからも鎮痛効果を得ていたことが脳スキャンから確認された例が多数あったという。

 また、薬をコンピューター制御式ポンプで投与するよりも、医師が注射した方が効果的であることが分かった。

 フィニス氏は、AFPの取材に対し、「プラシーボ効果を得るために、偽薬を投与する必要はない」とし、重要なのは治療のあり方だと説明した。一方、ほとんど医師を信頼しようとしない患者の場合についてフィニス氏は「仮説としてだが、プラシーボ効果はあまり得られないだろう」と語った

http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2700497/5386132
Posted by ヒゲ達磨 at 2010年04月02日 22:33
EBMの根底にある哲学を知るにつけ「これは汎用性と実践性が凄いな」という感想を持ちます。
言い換えれば、「EBMに適用除外はない」、「EBMは誰にでも実践できる」ということに確信を持ちました。

EBMはその人の置かれた立場によって現れてくる「形」がだいぶ異なるようです。
お医者さんと患者では当然異なりますし、外科と内科でも、少し異なるのでしょう。

チマタで語られるEBMの「形」は、統計用語を満載し、エビデンスを恣意的に限定するものばかりで、自閉症領域非専門家という立場から見て十分マッチするものは少ないように思いました。

自閉症親にとっての「EBMの形」は、一度EBMの哲学まで立ち戻ることで、自ら作り上げて行くしかないのかもしれません。

ところで、もう一つ良い説明を見つけました。こっちは一般向けですごく分かりやすいです。
http://www.qlife.jp/square/oshiete/story765.html
Posted by たろきち at 2010年04月03日 12:25
ADHDに関して本人に直接のプラセボ(プラシーボ)効果がなくとも、周囲にプラセボ効果があり、それが本人に良い影響を与える可能性を指摘した研究があるそうです。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)に関するプラセボ(プラシーボ)の効果について
"University at Buffalo"の小児科心理学者たちの研究レビューから、薬物あるいは偽薬は、子供ではなく、その子供を評価する教師や両親や他の大人たちにプラセボ(プラシーボ)効果をもたらすことが示唆された。
プラセボ(プラシーボ)効果は、患者が偽の薬物や治療を受けた後、兆候や行動が改善することである。言い換えるなら、信念が薬物としての効果を持つ。この例では、患者がADHD薬物を投与されたと保護者が信じれば、子供たちが好ましい状態になったと評価し、よりポジティブに子供たちを扱うようになることが示唆された。
「薬物を投与した、あるいは子供が薬物を投与されたという考えは、その薬物の作用について両親と教師にポジティブな期待を誘発するかもしれない。そして、それは、次に、両親と先生がADHDの子供に対する評価や振る舞いに影響を与えるかもしれない」と研究レビューの著者である"University at Buffalo"の研究者Dr. Daniel A. Waschbuschは述べた。

http://transact.seesaa.net/article/123068914.html

慶雁義塾大学の安藤寿康教授が主催する、首都圏ふたごプロジェクト(ToTCoP・2005年から1600組を超す乳児双生児の縦断コホート研究)では、6歳の時点で「多動・不注意傾向が遺伝的に低い子の場合、子どもの問題行動の遺伝的性向が親のネガティブな養育行動を引き出しているのに対して、多動・不注意傾向が遺伝的に高い子の場合、親のネガティヴな養育行動が共有環境としての引き金となって子どもの問題行動をもたしていることが示された。」

だから、子供が偉い大先生の治療を受けたとかその先生から効果のある物を投与されたとかの「治療のあり方」が、その子供に接する両親や教師や他の大人たちにポジティブな期待を抱かせて養育行動がポジティブに変化して、子供の問題行動がへるなどの良い影響を与える可能性は十二分にあると思う。ASDは、私もそうだけど注意欠陥・多動性の傾向があることが多いから、効果がある可能性がある。

これは、>保護者(主に母親)の状態を安定させ、結果的に当事者の利益になるのであれば嘘でもなんでも利用します。Posted by R5 at 2010年03月04日 09:34<とか
>患者さんの治療に際して重要なことは、如何に科学的に治療するかではなくて、如何に苦痛をなくし病気を治癒せしめるかにあります。そのためには、プラセボ効果の様な心理的なアプローチも必要になってくるわけです。 by 小内亨・「おない内科クリニック」伊勢崎市<
といった姿勢をとる、そういう立場の方では、当然ながら科学的な治療法、EBMの療法と「治療のあり方」が治療効果を左右するプラセボ効果に依拠した療法、その双方が、当事者の利益、苦痛をなくし病気を治癒できるかといった尺度で検討され取り扱われると思う。

療育にあたる親などの立場では、特定の治療者の「治療のあり方」に由来するプラシーボ効果に依拠した療法はどうであろうか?
一つは、子供に投与される薬物、施される行為が子供に害を与える可能性がある。医療ネグレクトになる可能性が付きまとう。

一つは、その効果は「治療のあり方」に由来する、つまり特定の治療者による行為である事が重要だから、その特定の治療者に依存することになる。偉い大先生の治療を受けたとかその先生から効果のある物を投与されたとかの「治療のあり方」に由来する療法は、大先生に出会えなければ受けれないという不公平性を持つ。

一つは、プラシーボ効果はそれを信じなければ顕れない、信頼しようとしない、疑問を抱く親などには顕れない。子供に投与される薬物、施される行為が子供に害を与えていても、それを直視すればその療法に疑惑・疑問を持つことになるから、親などに顕れるプラシーボ効果(子供たちが好ましい状態になった、ポジティブな期待を誘発)が無くなる。危害など受けていなくても子供の状態は変動・波があるから、直視すれば子供が好ましい状態、それになりつつあるという思いが揺るぐことになると思う。だから、その思いを喪失したくない親らは、子供を直視しなくなると思う。
  
しかし子供は一人一人違う。>イレギュラリティ、個別性のかたまり<であり、子育ては>一期一会<であるから、こうした療法がもたらす”今の子供を直視しない”親らの態度は、不適切だと思う。親などに顕れるプラシーボ効果(子供たちが好ましい状態になった、ポジティブな期待を誘発)により起る子供にポジティブに接する態度は、子への薬物投与などに拠らずとも親自身が到達できる状態、態度であるから、こうした療法は不要にできる。

子供、>イレギュラリティ、個別性のかたまり<の存在を相手に>一期一会<的にする行為、関わるという点は子育て(療育)も医療も同じ。ただ医療者は部分的に、短時間、多人数かかわり、親は、全面的に、長時間、長期間、数人規模だから子育て未体験で体験知もない時がある。だから、医療者や多数の療育体験者の体験知から、そうした親等に伝達できる経験知を作り出す過程
その経験知を親らの目的に合せて評価、選択する過程
そうした経験知を親等が習得し、子育てで実践する、そして体験知を蓄積する過程
この3つの過程の分析・設計と構築を考える必要があるのではないか?
Posted by ヒゲ達磨 at 2010年04月03日 22:34
ヒゲ達磨さん、

コメントありがとうございます。

私も、今回の議論のなかで、プラセボ効果をどう取り扱うかといった個別の問題にとどまらず、「医師や専門家にとってのEBM」と「親御さんにとってのEBM」は、いったん分けて考えたほうが考え方が整理しやすそうだ、と感じています。

そしてその背景にあるのは、ご指摘のとおり、親御さんと医師・専門家との、「働きかけの対象」の母集団の大きさと接する頻度と密度がまったく違うということだと思います。
Posted by そらパパ at 2010年04月04日 00:41


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