Slide 8 : 自閉症=「一般化」の障害であるという仮説
さて、先ほどのスライドの後半のお話のなかで、カンのいい方はもう気づかれたと思います。
私たちの脳の中に「一般化」という認知のしくみがあるおかげで、私たちは「ことば」を使うことができ、安定した世界を感じることができ、他人のこころを理解して社会性のあるふるまいをができるわけです。
だとすれば、その「一般化」というプロセスが、何らかの理由でうまく働かなかったとしたら、どうなるでしょうか?
まず、たくさん「いぬ」についての経験を重ねても、それらはうまくまとまっていくことがなく、個別でばらばらのままになってしまいますから、いつまでたっても、それらが1つに集まって「いぬ」ということば、概念につながっていく、ということがありません。
ですから、ことばや抽象的な概念の獲得が困難になります。
そして、昨日の家と今日の家、昨日の学校と今日の学校は別の空間として認識されてしまうことになって、世界を安定したものとしてとらえることができません。
世界が安定しないということは、いま自分がどういう世界のなかのどこにいるのかを知る手がかり、基準となる世界の枠組み、座標軸が手に入らないということでもありますから、いま自分がどういう状況にあって、何をすればいいのかも分からなくなってしまう、ということになるわけです。
何とかそういった枠組みをある瞬間つくりだせたとしても、ちょっとでも状況が変わったらまた元の木阿弥です。
そんななかで、少しでも安定した世界を作り出そうと思えば、もう「全体が同じ」という世界観はあきらめてしまって、すごく細かい「部分」に存在する「同じもの」を見つけて、そこに「安定」を見出していくほかありません。そのために、特定の家具の配置にこだわったり、なくなったものを必死に探したり、変化を極端に嫌って同じ行動パターンにこだわることになるでしょう。
当然、行動パターンや興味の対象も、ごく狭いものに限定されてしまうはずです。
さらに、他人とかかわっても、そのかかわりを一般化して何かを学習する、ということにつながっていかないため、「ヒトならでは」の行動原理を発見することができません。
ヒトの行動原理が分からないということは、ヒトとモノの区別がつかないということにつながります。
もちろん、他人の「こころ」を理解するための知識を学ぶことも非常に困難になります。
そしていうまでもなく、いわゆる「場の空気」のような、高度な社会性を身に付けるのは大変なことになります。
もうお分かりだと思いますが、いま紹介したものは、いわゆる自閉症の三つ組の障害、対人関係の障害、ことばやコミュニケ-ションの障害、こだわりや興味の限定と極めて似ているというか、同じだと言ってしまっていいと思います。
つまり、自閉症のさまざまな障害というのは、「一般化」という脳のシステムの障害という、たった1つの仮説をおくことで、すべてきれいに説明できてしまうということになります。それだけでなく、それらの行動上の障害が起こっている背景として、自閉症の人がどんな認知の世界に生きていて、どんなことに困っているのかも、かなりの程度想像できるわけです。
もちろん、説明ができそうだからといってそれが正しいということになるわけではありませんが、うまく説明できるということは、うまく「理解」して「応用」できる可能性が高い、ということは言えるでしょう。
他にもいくつか、一般化というスキルが障害された場合におこりうる事態を考えてみましょう。
どれも、自閉症の症状として思い当たるものであることが分かります。
まず端的に言えそうなこととしては、学習の汎化がうまくいかなくなるだろう、ということがあります。
汎化学習というのは、ある特定の場面で学んだスキルを、ちょっと違う別の場面でも応用できるようにする学習のことですが、そもそもなぜ私たち自身がそういった「応用」を利かせられるのかと言えば、それは私たちがこの「一般化」というスキルを持っているからなのではないでしょうか。
ですから逆にいえば、「一般化」ができない脳にとっては、状況が少しでも違えば、それはまったく別の新しい状況ということになるわけですから、過去に経験したことを応用して新しい場面に適用することはとても難しくなります。
それが、学習の汎化がなかなかすすまないという風に外からは見えることになるわけです。
それから、ことばのなかでも、直接経験することができず、「一般化」されることによってのみ正しい理解に到達できるようなことばについては、理解することが非常に難しくなるでしょう。
たとえば、さっきから取り上げている「いぬ」ということば、概念であれば、目にも見えますし、まあ100匹の犬を経験すれば、とりあえずその100匹を見たときには「いぬ」と言えるようになるかもしれません。
でも、「きちんと」とか「ちょっと」ということばになると目に見えません。
さまざまな場面で使われる目に見えない「きちんと」を繰り返し経験し、しかも、その経験そのままではなく、「一般化」することではじめて、「きちんと」ということばのニュアンスを取り出して理解できるわけです。
お分かりいただけるでしょうか。
「いぬ」の場合は、一般化ができなくてもとりあえず「実体」はあるんですが、「きちんと」の場合は、一般化されない限り、実体は現れてこないのです。「いぬの絵」は描けますが、「きちんとの絵」は描けないのです。
ですから、一般化ができなければ、「きちんと」ということばを理解することはとても難しくなるわけですし、ましてや、初めて経験する場面で「きちんとやれ」と言われたら、もうわけがわからないでしょう。その「きちんと」にはまったく「実体」はなく、「一般化」によってのみ生み出される「この世にないもの」を指しているからです。
また、「足が棒になる」という比ゆ表現は、「足が実際に棒になる」ということばどおりの意味の部分はあえて捨ててしまって、「足が棒になったかのような疲れた感じ」という意味だけを残したことばです。
これも直接経験することが不可能ですし、ことばどおりに解釈することはかえって理解を妨げてしまいます。やはり、ここにも「実体」はありません。
「時間」も目に見ないので同じですね。
おそらく、時間というのは「足が棒になる」みたいなのよりも、さらに理解が難しいものなんじゃないかと思います。
なぜなら、先ほども申し上げたとおり、一般化ができない認知システムでは、この「世界」というのが安定して見えてこないからです。時間の認知というのは、空間の認知が安定してきてはじめて生まれてくるものではないでしょうか?
また哲学の話になってしまいますけど、時間が「実在」するかどうかというのも、実はとても難しい問題です。
先ほどの「こころ」と同じで、「時間」というのも、この世界をわかりやすく納得して生きていくための方便として、一般化が得意な私たちが勝手にでっちあげただけのものかもしれません。
ですから逆に、一般化という能力が阻害された自閉症の人は、「一般化」によって初めて生み出されるような概念、端的にいえば「こころ」とか「時間」、そういった枠組みありきではなく、そういう枠組みを前提とせずに最適化された、そういう認知、世界観の中で生きている可能性も考えられるわけです。
(次回に続きます。なお、今回の記事の内容は、下記の拙著にて詳しく取り上げています。)
たとえば、よく似ている植物(ex.カキツバタとアヤメ)の実物をどんどん見せて行きどの時点で峻別できるようになるか、とか。
テスト結果と、社会性(主にエピソードを基に判定)の相関関係を調べてみたいですね。
コメントありがとうございます。
まさに、その「一般化」の能力を測っているのが、「心の理論」課題だと私は考えています。
逆だったり、後転をする際の手の向きがおかしかったり、「脱がせて」欲しいのに「脱いで」と言ったりと、言葉の反転が難しいとは感じますが、わりかし簡単な概念用語に関しての間違いは特にありません。
脳の中で、指令が失敗して手の向きがおかしい、また手が思うように動かなくて自分で苛々してしまうお子さんもいます。
あと、シングルフォーカス的な、視界をいろんな方向へ向ける俊敏さのようなもの欠けている気がします。
コメントありがとうございます。
ご質問の趣旨を取り違えているかもしれませんが、提示いただいた行動を一般化障害仮説でどう説明するのか?というご質問だとしてお答えします。
1.模倣の際の手の向きがおかしい
たとえば「逆さバイバイ」で考えると、正しいバイバイの動作は、「相手の視点に回りこむ」という高度な一般化が前提になりますね。バイバイという行動は、正面から見ても・横から見ても・後ろからみても「1つの動作」としてとらえるのが私たちの認知の仕組みですが、これをやるためには、バイバイしている他人の存在というものを一般化して1つの認知対象としてまとめあげなければなりません。逆さバイバイをしてしまう自閉症のお子さんは、まだそれができていないということになるのではないでしょうか。
2.ことばの反転
これも1.に同じですね。「自分」と「相手」との関係からことばを使い分ける(二項関係、三項関係)ことは、「相手」という対象が(一般化により)1つの認知対象としてまとめあがっていないとできないわけですから。
3.簡単な概念が理解できる
一般化が「できない」と言っているのではなく「困難がある」ということですので、簡単な概念が理解できて複雑なのはダメ、という状態とこの仮説は矛盾しません。
4.「脳の中で、指令が失敗して手の向きがおかしい、また手が思うように動かなくて自分で苛々してしまう」
これはよく分かりません。脳のなかで何がおこっているのかは、当の本人でも正しく描写することはできないはずなので。
また、手が思うように動かないということがあったとして、それが自閉症の中核症状とは言えないように思います。自閉症はそもそも「脳の広汎なダメージ」によって起こっていると考えられるため、その「ダメージ」が、自閉症としてとらえるのが相当な範囲を超えて、いろいろな症状を起こしていると言えます(そもそも自閉症は「症候群」として定義されているため、「○○という症状は自閉症の症状だ」とは言えても、「自閉症と診断された人の○○という症状は、自閉症の症状だ」とはいえないのです。例えば、「てんかん」は自閉症の症状ではありません)。
5.シングルフォーカス
これは、情報処理のキャパシティ(容量)上の制限による、ある種の最適化が起こった状態だと私は考えています。
定型の人は、「一般化」によって外界をすごくざっくりと大雑把にとらえられるので広い範囲に注意が届きますが、そういう「ざっくり大雑把」ができない自閉症の人は、必然的にシングルフォーカス的な認知戦略をとらないと、外界を把握できなくなってしまうということではないでしょうか。
私の考えでは、やはり「一般化障害仮説」にある「脳と環境のループがうまく回らない」という状態ではないかと思います。「一般化」というのは、物事の(自分にとっての)本質を脳内に構築することだと思いますが、運動をする時に自分の体をどう使えば良いかという場面でもこれを無意識にやっていると思うのです。後転の例を考えてみると、(まず模倣の力が重要でしょうが)練習中に腕や手がいろんな形になった時に床から受ける力や体幹の状態をフィードバックとして受け取り、ループを作って「重要なポイント」を無意識に獲得する(=一般化)のではないか、自閉ではそこが障害されているのではないか、と思うのですがどうでしょう。細かい手作業を失敗していらいらするのも、そういう説明が可能なように思います。
コメントありがとうございます。
うーん、なかなか難しいところなんですが、もちろん、「一般化」で説明しようと思えばそういう説明ができることは間違いないんですが、「自閉症の症状」の一環としてその枠組みで語ってしまっていいんだろうか、というところには、個人的にはやはり少し抵抗が残ります。
話題は違いますが、少しニュアンスの似ている議論をしたことがありますので、そちらもご覧ください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111848039.html
あの時の議論を読み返しました。そらパパさんのお考えは、情動の困難についても運動の困難についても自閉症の症状として見るなら一般化障害仮説で説明が可能だが、どちらかというと「自閉症に伴う場合もある別の症状」として切り離す方が妥当と思われるということですね。
実際問題としてそれほど重要な議論ではないのかもしれませんが、私の考えでは、(機能レベルの)理論としてそれほど無理なく説明可能な部分を切り離す根拠もあまりないように思います(てんかんは、マクロな機能レベルの説明でつなげるのは難しいと思うので、もっと下位のレベルで関連しますよという説明に将来的にはなるのだと思いますが)。もしよろしかったら、どうして「少し抵抗が残る」かという部分を教えていただけるとありがたいです。
いずれにしろ結論は難しいですね。ちゃんと議論するには少なくとも、個々の運動の内容やその要素としての運動を細かく吟味して、単にこだわっているからできない部分とかそういうのを個別に見ないといけないですね。ただ、意識に上るものが認知(過程)の全てではないというのは重要だと思います。
よく言われる「筋緊張が低い」というのも別物なのかどうか、うーん、難しいですね。
実は失礼ながら気付かずに書いてしまっていましたが、「情動」のときの議論もかずみさんとのものでしたね。(単に議論の類似性から先のエントリを思い出したのですが)
情動のときと今回とでは、議論としてはだいぶ違うのですが、私のなかで刺激されている「思考のツボ」がすごく近いな、と感じています。(ちょっと「科学的でない」表現ですが(笑))
私としては、そもそも自閉症というのは「三つ組」で定義された症候群であり、メカニズムで定義されたものではないので、その「三つ組」から離れたところで「自閉症」の議論をするのは、(特に仮説レベルでは)当たらないんじゃないかと考えています。
実際のところは、自閉症というのはおそらく「広範に脳の機能が損傷した状態」の一部を切り取って見ている「障害」なので、「三つ組」以外でも併合するものはいろいろあるでしょう。でもそれらは、少なくとも今の定義では「自閉症の」症状ではないわけです。
そして、私の中での「一般化障害仮説」は、「三つ組」を全部説明できる(そして、基本的にはあえて「それ以上ではない」)メカニズムの仮説として設定されたものです。それを安易に広げすぎてしまうと、少なくとも今の定義からは、それは「自閉症の」モデルではなくなってしまう気がするのです。
言いかえると、今回の4.の議論は、「一般化障害仮説」の「外挿」の議論です。そして、その「外挿」の度合いが、私自身が感じているこの仮説の守備範囲から、少し外に出てしまっているかもしれないと感じているわけです。
お答えどうもありがとうございました。
私は無責任な「一般化障害仮説」の一ファン(?)なので、自閉症の(絶対不変とは言えないはずの)診断基準とは別にいろいろ考えた方が、自閉症をよりよく理解するためにも、仮説の妥当性を考える上でも有益なのではないかと思いましたが、この仮説の産みの親であるそらパパさんのお考えもわかる気がします。実際、手を広げても運動の問題なんかだと上にも書いたように議論するのが難しいので、かえってこの説の「スジの良さ」が認識されにくくなるかも知れませんね。
たとえ論理の構造がそのように閉じてしまっていても、今現在の定義よりも、メカニズムの仮説から導かれる定義の方がベターな場合はあり得ると思うのですが、この時、仮説自身からはどちらの定義がベターかを導けませんから、実際の症例が判断の根拠になりますね(これは簡単な議論ではないでしょうが‥(笑))。
因果関係があれば、それはトートロジーとは呼ばれないで済むんじゃないか、と思います。
まあ「因果」関係とは何か、というのはこれまた哲学の難問ではありますが。
それと、私自身は「一般化障害仮説」は、自閉症の現在の(症候群としての)定義に対するトートロジーだと実は思っています。
つまり、「自閉症の三つ組」というのは、要は「一般化の障害」の現われと過不足なくイコールなんじゃないか、そう思っているわけですね。
言い換えると、「一般化障害仮説」は実はメカニズムを語っておらず、機能レベルで自閉症の「症状」に対するトートロジーを構成している、というのが、私自身のとらえかた(の大きな部分)なのです。
お答えありがとうございました。
いろいろ考えさせてもらって、一応納得しました。
自閉症の定義は定義として、社会的意味があるので、これを云々する必要はないと考え直しました。(定義に含まれないが随伴する症状を、ちゃんと理解する必要は当然ありますが)
一般化処理の障害が運動の困難にも部分的に関わっている可能性があるとすると、「過不足なく」という点は保留かな、と個人的には思います。
トートロジーって、(論理的には無意味ですが)それを理解できていない者にとっては何らかの示唆を与えるものですね、ということも思いました。トートロジーであることを完全に示すという行為そのものにこそ、重要な意味があるのでしょうね。
コメントありがとうございます。
前回の「情動」のときにも触れましたが、私は「自閉症」という障害が本当にあるのかどうか、いまだに確信がもてないところがあります。
と書くと爆弾発言ですけど、要は脳がダメージを受けるあらゆる形態のうち、特定の症状の現われを特別視して切り取ってラベリングしているだけなのかもしれない、ということです。
おっしゃる通り、現在の社会の在り方に論理的な根拠がないのと同じように、現在の社会に合わせづらいというだけで規定される自閉症(および「障害」全般)にもやはり根拠はないのでしょうね。
問題は、その無根拠な社会の中にありながらも、自閉症が「特別視」される状況をいかに減らすかでしょうが、「社会性の障害」と言っているうちは原理的に難しいですよね。自閉症に対する社会全体からの「理解」は(好転しつつあるとは言え)全く不足していると言わざるを得ない現状がある中で、社会性とかコミュニケーション能力とかいったややこしいことばかり言わず、「一般化の障害」ですっきり説明することには社会の理解を促す点で重要な意義があるように私には思えます。
以下も全くの私見ですが、「自閉症=一般化障害」が(細かい議論はあるにせよ)正しいという立場に立てば、この言明は無意味なトートロジーではなく、重要な意味を持つ言い換え、説明であり(「一般化が障害されたから自閉症になる」という言い方はトートロジーですが)、この言明によって、発散しているように見える症状の根本が少し収束した形で理解され、その理解が社会全体に広がれば、(「社会性の障害などなど‥」というよりは)社会の側の受け止め方、対応のしかたも違ってくるように思います。(ただし実際上の定義は見た目の症状で構成するしかないかも知れませんね。このコメント欄の上の方の一般化能力テストの話は個人的に興味深いです。)
「根拠はない」というより「ユニークにむすびつけられるような、特定の脳の疾患がない」のではないか、と疑っているといったほうが近いですね。
(そして、すべての脳にかかわる疾患がそうだとは思っていません。逆に脳梗塞などは、メカニズムが明確で、「症状の現れ」がばらばらな疾患の1つです。)
後半のご指摘はまさにそのとおりだと私も思っていて、自閉症という症候群を、あえて機能レベルのトートロジーとしての「一般化障害」におきかえることで、この障害への理解を深めるというアプローチが、もしかしたら可能かもしれない、という思いは持っています。(だからこそ、あまり「外挿」したくない、という気持ちもあったりするわけです。)