2010年01月18日

障害と「経済的」自立、「精神的」自立について

このエントリで考えたいことは、自閉症をはじめとする「障害」と、そういった障害をもった子どもを育てる親御さんの多くが目標にする「経済的」ないし「精神的」な「自立」、そして、その両者の間に存在する「社会」という枠組みとの関係についてです。

なお、今回の記事は、経済的な価値観についての個人的な意見表明になりますので、「正しい」「間違っている」という議論には乗りにくい性格の内容になることをあらかじめご了承ください。

さて、この問題についてまず指摘したいのが、「障害」というのは、そもそも自然発生的なものではなく、「社会」という枠組みを前提とし、その「社会という枠組み」から弾かれてしまうという「状態」によって定義される、ということです。
例えば、多くの社会では、「歩くのが遅い」だけでは「障害」とはみなされないでしょうが、「歩くことができない」あるいは「極端に遅い」人は「障害」とみなされるでしょう(つまり、どこかに線引きがあるわけです)。社会が許容できる範囲の「遅さ」は障害とはみなされず、その「遅さ」が一定の限度を超えたときに、社会に適応することが難しくなり、その状態に「障害」というレッテルが貼られます。
当然、「社会」のありようが変われば、「障害」とみなされる対象の範囲も変化します。20世紀になって自閉症スペクトラムが「発見」され、21世紀になってその「発生率」が高くなっているように見えるのは、先進国において第三次産業の構成比が高くなり、対人コミュニケーション力や調整能力の要求水準がどんどん底上げされてきたことと、恐らく関係があるでしょう。

そして、「社会」が許容できない、つまり「社会という枠組み」から弾かれるということが具体的に何を意味するか、と考えれば、それがまさに「その社会のなかで、自活=経済的自立ができない」状態に対してなのではないか、と気づきます。
「『社会』人」ということばが、社会のなかでうまくコミュニケーションできる人、とかそういう意味ではなくて、「自分でお金を稼ぐことができる大人」といった意味で使われるところにも、それが現れているように思います。

これを逆に言い換えると、ある人が、社会という仕組みにうまく乗れなくなったとき、最初に起こることが「自活ができなく(できにくく)なる」ということだ、ということです。(これは、例えば「うつ」やその他大きな病気やケガに見舞われたりした状態を考えると、よく分かります)
そのなかでも、何らかの不可逆的な事象によって、「社会という仕組みにうまく乗れない状態」が将来にわたり長く続いていくであろう状態のことを、「障害」と呼んでいるわけですから、「障害がある」という状態は、すなわち、「その社会のなかで、経済的自立(自活すること)に困難がある」ということとほぼイコールである、ということになるわけです。

こう考えてくると、「障害」と「経済的自立」という2つの概念ないし状態は、現代の資本主義という「社会」の枠組みを介して、ある種の対立概念として存在していることに気づきます。
確かに、社会の枠組みから外れていない、一般の「社会人」の視点からは、「大人になったら経済的に自立すべきだし、それを成長の過程での大きな目標にすべきだ」というのは自然な価値観でしょう。なぜなら、「社会」は、その枠組みにうまく乗っかって立ち回る人に対しては、「社会」がない状態よりもはるかに効率的かつ安全に、大きなベネフィット(便益)を提供してくれるからです。

でも、そういう効率のいい「社会」という枠組みを作るために、「社会」がやむを得ず切り捨てている部分があります。
その切り捨てられた領域に存在するのが、「障害」をもった人たちだ、ということになります。(これは差別的に書いているわけではありません。「障害」の定義そのものがそうだ、という意味であり、それについては既にここまでの記述にあるとおりです。)

ですから、「社会」は、その枠組みによる「高い効率・生産性」から余剰的に産出された追加的なリソース(要は「社会を利用して稼いだお金など」)を、その代償としていったん切り捨てた「障害」をもつ人たちに再分配し、その生活を支援していくことが倫理的に求められるでしょう。
その「再分配」による支援の水準がどの程度であるべきか(あるいは、どのように再分配すべきか)という点については、議論百出になるでしょうから深入りしませんが、とりあえず日本国憲法に従うならば、「健康で文化的な最低限の生活」を保障できる程度の支援は最低限求められる、ということにはなるでしょう。

まとめると、こういうことになると思います。

自閉症に限らず、「障害をもっている」ということは、ある社会のなかで、純粋な意味での経済的自立が非常に大変だろう、と、その「社会」がみなしていることを(ほぼ)指しています。
もちろん、私たちは現在資本主義の社会のなかで生きており、少しでも経済力のある「社会人」を目指すことは、一般論としては間違っていないでしょう。
でも、障害をもっている人に対して経済的自立を強く要請しすぎることは、そもそもその社会がなぜその人を「障害」者だとみなしているかということを考慮すれば、「支援」という行為の本質を否定することにつながりかねない危険な議論です


そして、ここまで触れてきませんでしたが、「自立」という概念には、元来、「経済的」自立だけではなく、「精神的」な自立も含まれます

精神的な自立とは何か、障害者支援という文脈から端的にいえば、「自分のやりたいことを自分で決める」ということ、つまり「選択の自由」を手に入れることだと私は考えます。
例えば、周りが決めたスケジュールにしたがって行動し(それは「働く」ということも含まれるでしょう)、メニューもなくいつも勝手に決められた食事を食べ、決められた時間に起きて決められた時間に就寝する、それ以外の選択肢は最初から与えられない、そういう形で「一応の自活」ができていたとしても、そこには精神的な自立はあまりないと私は考えます。
そうではなく、食べたいものを自分で選んで食べ、やりたくないことにはスケジュールで決まっていても反抗し、「これはやりたくない」「こっちをやりたい」と主張するところからコミュニケーションが生まれて、最終的には納得のうえで(少々変更された)スケジュールをこなし、自分の意思で楽しんで働き、ゲームなどで遊んだり趣味に没頭したりしてつい夜更かしをしてしまう、そういう生き方のほうにこそ、より明確な「精神的自立」があるのではないでしょうか。

本来のありかたでいえば、「経済的自立」は、この「精神的自立」に従属すべきものです。
つまり、人生における「より多くの選択・やりたいこと」を実現するためにお金を稼ごうとし、その結果として経済的な自立に至る、そういうものであるべきだろう、と思っています。
逆にいえば、「経済的自立」のために、「精神的自立」を犠牲にするのは、悲しいことです。
端的にいえば、かつての「奴隷」は、経済的には「自立」していたと言えなくもないですが、明らかに精神的には不自由です(そういう状態を強制させられています)。
そして、現代においても、例えば俗にいう「ブラック企業」などに勤務し、辞めることもできず精神的に追い詰められて働き続けている人はどうでしょうか。

このように、「経済的自立」と「精神的自立」は、必ずしも両立しません。
一方を重視すると、もう一方が実現できなくなるケースも少なくないわけです。

ここで、先ほどの「障害をもっているということは、社会のなかで経済的自立が難しくなるということである」という考えかたとのつながりが出てきます。
つまり、「障害をもちながら、経済的自立しようとすることは、多くの場合困難なことであり、『精神的自立』が犠牲になるケースも、健常者の場合よりもずっと多いだろう」ということです。
障害をもった人がやっと就職した企業が、いわゆる「ブラック企業」だった場合、あるいは、健常者にとってはそうでなくても、ある障害をもった人にとっては「ブラック企業」並みに働き続けることがつらい職場だった場合、その人は、「精神的自立」を犠牲にしてでも、「経済的自立」を実現すべきなのでしょうか?

障害をもった人にとって、働くということは、少なくとも健常者と比べれば(それがどんな職場であったとしても)つらく厳しいものとなるケースはずっと多くなるでしょう(だからこそ「障害」と呼ばれるのだ、という最初の定義を思い出してください)。そして、「転職の自由」もより制限されます。
でも、だからといって、障害をもちながら苦労して就労を目指す人、さらには実際に就労した人にとって、「精神的自立」が「経済的自立」を優先するためには軽視されても仕方がないものだということにはならないはずです。

だとすれば、「精神的」自立という視点を忘れて(あるいは後ろに回してしまって)、「経済的」自立だけを声高に叫ぶことは、障害をもっている人を支援する場合は特に危険なことです

障害をもっている(とされる)人への「自立」支援は、「社会と障害と『その社会における自活』」がもつ「密接かつ複雑な関係」を決して忘れることなく、また、「精神的自立と経済的自立」がもつ「密接かつ複雑な関係」も決して忘れることなく、そのバランスを最適化することで、そこに関わる人間全員の幸福を最大化するという難しい作業です。

どれか1つだけに目を奪われる(たとえば、「経済的自立」だけを考えてしまう)と、残りの重要な要素が蔑ろにされてしまって、結果として支援しているつもりが逆に相手を精神的に追いつめたり、「受けるべき支援から遠ざけてしまう」ような結果にもつながりかねません

そして、その「バランスが最適化された状態」において、仮に「経済的自立」が達成できなかったとしても、誰も恥じることはありません。
誰もが幸せになる権利があり、その権利のなかには、「経済的自立が達成されない状態において、『自立のバランス』を最適化し、それによって最大幸福を追求する」権利も当然に含まれるのです。

posted by そらパパ at 20:12| Comment(21) | TrackBack(2) | 療育一般 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素朴な疑問を一つ。

非「障害」で経済的自立をされている方々、皆さん、精神的自立をしていらっしゃるのですか?

>「経済的自立」は、この「精神的自立」に従属すべきもの

正にそのとおり。

ですが、
日本の大企業および公的組織における
(1)新卒採用
(2)年功序列
(3)終身雇用
の3点を特徴とするいわゆる日本型雇用の素で働いて経済的自立を果たしている非「障害」の方々は、精神的自立をはたしているのですか?

1980年代から、現在働いている会社に不満を持つ人の割合が、転職が自由な欧米の労働者に比べ、日本が倍以上なのが、知られています。居酒屋でのサラリーマンの会話を思い起こせば、分かりますよね。

皮肉な見方ですが、ご自分らが精神的に自立してないが故に、経済的自立に精神的自立を従属させているが故に、障害者の精神的自立を軽んじてしまうのではないですか?
Posted by ヒゲ達磨 at 2010年01月19日 17:55
ヒゲ達磨さん、

コメントありがとうございます。

これはまさにご指摘のとおりで、ここで語っているのは相対的な話にすぎません。
非「障害」の人なら精神的自立できているということではなく、障害を持っていることで「より」精神的自立が害されやすくなることを支援者は認識すべきだ、というところまでを語っているだけです。

日本人は、メンタリティとして、恵まれている人と恵まれていない人がいる場合、「恵まれていない人のほうに合わせてみんな苦労しろ」と考える人が多いようで、いま日本で広がっている保守的思想としての「新自由主義」などでは特にその傾向が強いように感じています。(「派遣切りは自己責任」論とか「生活保護の条件をもっと厳しくしろ」論とか、まさにそうですよね)

ですから、ヒゲ達磨さんがコメントの後半でご指摘されているような側面も、もしかしたらなきにしもあらずなのかもしれません。

(ちなみに、私の乱暴な整理では、経済的自由(自立といってもいいでしょう)は重視するが精神的自由は重視せず、むしろ国家や社会秩序より下位におくのが「新自由主義」で、経済的自由と精神的自由の両方を重視するのが「リバタリアニズム」です。)
Posted by そらパパ at 2010年01月19日 21:34
予めお断り。非常に衝動的に書き込んでいる気がする。変に思ったら消していただいて問題ありません。

そらパパさん、脂さん、本当にいつもありがとうございます。(勘違いされると困るので意味を補足すると、自分が言いたいから言う感謝です。宛名書いたけど、その宛名に届く事を明確に望んで書いた感謝ではありません)

今回の話のすみっこに掠るだけの、直感的な意見ですが、どうにも引っかかったので。

ヒゲ達磨さんのコメントに便乗するような言い方になってしまうのですが、

一部の正常人が、『精神的自立』ができているのに、それに気付いておらず、まるで『経済的自立』が主で『精神的自立』がおまけであるような態度をとり、それ故に『精神的自立』を蔑ろにする。
そういった存在が居るが故に、『本当に』『精神的自立』が出来ていない存在までもがそういった個体であると勘違いされてしまう。
つまり、『不幸自慢』をしている個体が実際に存在するが故に、本当に『不幸』な個体が「てめぇ自分の不幸自慢してるだけだろ」と言われてしまい、相手にされないことが起こっている。
様な状況が、障碍者の云々以前に存在している可能性に、何かしらの問題があるような気がするのです。


もしかしたらただの偏見かもしれません。でも、間違ってないかもしれない。
ただ、それを思ったら、酷く『怖い』と思い、何かしら訴えずにはいられなかったのです。
Posted by 放浪人 at 2010年01月19日 23:05
放浪人さん、

コメントありがとうございます。

うーん、私はちょっとよく分かりません。
確かに、そもそも人というのは「自分の痛み」はわかっても、「他人の痛み」は想像することしかできませんから、「他人の痛み」に対する無理解というのは、障害の有無とは関係ないレベルで存在するだろうとは思います。
Posted by そらパパ at 2010年01月20日 00:26
最初の障害の定義で、既につまづきました。
即ち、「社会という枠組み」から弾かれてしまうという「状態」が障害であるならば、弾かれていない限りは障害ではない、ということになると考えます。
では、パラリンピックの選手は、障害者ではないのでしょうか?
その後の論理展開はそうかもしれないとは思うものの、前提に疑問があるので腑に落ちませんでした。
Posted by はじめ at 2010年01月20日 21:46
はじめさん、

コメントありがとうございます。

「障害」の定義を、私が書いたようにおくならば、仮にパラリンピックで活躍し、経済的にも精神的にも自立できている人がいれば、その人を「障害」者ではないと考えることは可能です。

とはいえ、じゃあその人がたとえば自由に交通手段を利用できるか、どんな建物にも自由に出入りできるか、といえば、おそらくそこには不都合があるわけで、やはり「社会が想定する『こうしておけばみんな利用できるでしょ』という枠組み」から外れた部分はまだ残されているでしょう。
仮に、そういったものが完全に解消された「理想的なバリアフリー」の環境を想定すれば、はじめさんが例示されたような方は、「障害」者と呼ぶ必要はなくなると思います。
(めがねをかけないと視力がほとんどないが、めがねをかければ普通に見える人を今の社会で「障害」者と呼ぶか、といった例も考えられますね。)

確かに、障害の定義には、実際にはいろいろあります。
ただ、政府も、心身の機能に注目するモデルから、「社会」のなかでの制限に注目するモデルに切り替えようとしているようですよ。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100111k0000m010108000c.html
Posted by そらパパ at 2010年01月20日 22:15
初めてコメントさせていただきます。
大学では心理学を学び、児童自立支援施設で、入所児童の支援(カウンセラーではないです)を行った後児童相談所で判定員をやっています。

障害について語ることすごく難しいと感じます。例えば、より広範に福祉全般というもので考えると老人福祉、児童福祉、知的障がい児者福祉、身体知的障がい児者福祉といろいろとあります。こうした福祉に従事する人たちが互いの領域に対して意外にシニカルな目を向けることを多々目にしま
す(これもエピソードですけど)。
「老人福祉の方が大事だ」、「いや、児童の方が大事だ」と内ゲバしていることもままあります。また、同じ方に接していている場合であっても保護者の方、施設の職員、特別支援学級(学校)の教諭はそれぞれに微妙に目指すものが異なり、それが障がい感の違い、つまり「何によって社会参画が困難であるか」の捉え方の違いにも一因があると思います。
もちろん立場が違えば捉え方が完全に一致することはないとは思いますが、特に「障がい」などのように当事者性の強い課題には、互いの主張がぶつかりすぎてしまいやすいです。
ですから、

>障害をもっている(とされる)人への「自
>立」支援は、「社会と障害と『その社会に
>おける自活』」がもつ「密接かつ複雑な関
>係」を決して忘れることなく、また、「精
>神的自立と経済的自立」がもつ「密接かつ
>複雑な関係」も決して忘れることなく、そ
>のバランスを最適化することで、そこに関
>わる人間全員の幸福を最大化するという難
>しい作業です。

というコメントにはすごく共感します。結局は近道などなく社会にある最適なリソースを常に探っていくことが大切なのでしょうね。お金、スペース(地球の面積は有限)時間・・・。その調整が行政の役割だとは思うけれど難しいですよね・・・
Posted by かえる法師 at 2010年01月20日 23:16
議論を発散させるだけかもしれませんが、、

•「この会社をよくするために、いわれたよりよく働く」:日54.3%、米74.3%
•「私の価値観はこの会社の価値観とまったく同じだ」:日19.3%、米41.5%
•「いま知っていることを入職時に知っていたら、もう一度この会社を選ぶ」:日23.3%、米69.1%

出典 日本産業社会の「神話」―小池 和男 (著) 日本経済新聞出版社

このこように、「経済的自立」といっても社会によって様々。

日本でしか働いたことがない、大半の方はそうですが、親がイメージするこの日本社会での「経済的自立」とは、入ったことを後悔していても会社の価値観と自分の価値観がちがっていて嫌いでも、働き続ける。

日本型雇用の下では、いやな会社をやめて転職するのは、むずかしいし、不利益が大きいから、「この会社にあと30年いなければならない」から周囲・会社・組織へ同調して行こうとするし、同僚や会社からそれを求める圧力が非常に強い。

このストレスに耐えていくことが、この日本社会での「経済的自立」には求められる。多くの親がイメージする「経済的自立」とは、こうしたものではないでしょうか。

これが「精神的自立」という観点からどう評価できるかは分かりませんが、精神的健全性は著しく低いとおもいます。約3万人の日本の自殺者がそれを顕しているとおもいます。(他の先進国なら、人口規模から見て多くて1万人)日清戦争の戦死者数百人、日露戦争の戦死者、1年半で4万7千人。今の日本で日々の「経済的自立」の戦いでの戦死者、年間約3万人?

ASは、発達障害者は、「空気が読めません」、周囲・会社・組織へ同調は先天的に極めて下手です。

小さいときから集団になじめなかった。
お友だちと遊ばずに青い空やアリを見ていた。
お絵かきの時間でも、大好きな文字を書いていた。

そういう子供が、親や「支援者」から、この日本社会での「経済的自立」を求められ、達成できなければ「恥ずかしい」人間だと教えられる。

このプログを読まれるのは、親、養育者の方が多いと思います。親は子より先に逝きますから、自分たち親が居なくなっても子が生きていけるよう願うのは当然です。子が親を選べないように親も子を選べません。親子の縁を結んだ他者・子供からこの日本社会での「経済的自立」を求められ、達成できなければ「恥ずかしい」人間だと言われることが、どのように見えるか想像してみてください。>人というのは「自分の痛み」はわかっても、「他人の痛み」は想像することしかできません<から、想像してみてください。

先天的に極めて下手な周囲・会社・組織へ同調を非常に強く求められることを、定型発達の多数派の方々でさえストレスで鬱、自殺にいたる「激しい」同調圧力の下で働くことをを求められ、達成できなければ「恥ずかしい」人間だと教えられることが、どのように見えるかを想像して下さい。

ASは、基本的に自分が納得できることでしか動けません。それなのに「入ったことを後悔しても会社の価値観と自分の価値観がちがっていて嫌いでも」、つまり自分で納得できなくても働き続けるのが当然と求められること、出来なければ恥ずかしい=劣った人間と教えられることが、何をもたらすかを想像してみてください。

親は子より先に逝きますから、自分たち親が居なくなっても子が生きていけるよう願うのは当然です。しかし、今の日本社会での日本型雇用での「経済的自立」は、ハードルが高すぎます。
Posted by ヒゲ達磨 at 2010年01月20日 23:39
皆さん、コメントありがとうございます。

かえる法師さん、

はじめまして。
ご指摘の「内ゲバ」=私が言うところの「内輪もめ」というのは、福祉というのがそもそも限られたリソースの最適化という本質をもっているために、「当事者」はそれぞれ自らへの「部分最適」を求めてしまうからこそ発生してしまうことなんだろうと思います。

ですから、そういう意味では「内ゲバ」は避けられないことなのかもしれませんが、それでも、奪い合いではない部分、「パイを拡大していく」ために、できるだけ皆が同じ方向を向き、バランスをとっていく努力をしなければいけないのだと思っています。


ヒゲ達磨さん、

ご指摘いただいたポイントは、まさに今回のエントリで書きたかったことを、改めて説得力のある形で整理いただいたものになっていると思います。
(ですから、「発散」をご心配くださる必要はまったくないと思います。)

いまの私たちの社会は、経済的自立がある場合でもそうでない場合でも、なかなか、精神的に自由であることが難しくなっているんじゃないかな、と思います。
自殺ということでいえば、首都圏の電車は最近よく止まりますが、「よく止まる」ようになった原因はすべて「自殺」によるものだそうです。

http://topsy.com/tb/www.yomiuri.co.jp/national/news/20091222-OYT1T00039.htm

電車に乗っていて「線路内に人が立ち入ったため」遅れているというアナウンスがあった場合、それは自殺だそうです。
このアナウンスを毎週のように聞く日常というのは、ちょっと立ち止まって考えるとぞっとするものがあります。
Posted by そらパパ at 2010年01月21日 23:31
知的障害の特別支援学校高等部に勤めています。そらパパさんのABAやTEACCHについての文章を読み学ばせていただいています。特にABAをTEACCHの視点から批判的に解説された文章はいろいろ触発されながら読みました。
今回の話題は私たちの職場でも時々議論になります。そらパパさんは「経済的自立」と「精神的自立」に分けて考えておられますが、私は立岩真也さんの考えhttp://www.arsvi.com/ts2000/2007046.htmに従って「経済的自立」「身辺自立」「自己決定による自立」に分けて考えています。「自己決定による自立」は「介助などを利用して、自らの人生を自らによって決定し、自らが望む生活を選択して生きること」ですから、そらパパさんの「精神的自立」と近いと思います。
一般的には(あくまでも一般的にですが)軽度の方が「経済的自立」をめざし、中度の方が「身辺自立」をめざし、重度の方が「自己決定をよる自立」をめざすとなるのでしょうが、どのような障害を持つ方でも、そらパパさんの言われるように「精神的自立」は大切であると思います。
もちろん自己決定も覚束ない最重度の方はどうなるのかという問題があります。私のクラスにも最重度の生徒がいますので身近な問題です。
そらパパさんがこの文章を書かれ話しあいの場をつくられたことは有意義なことだと思います。
(なお、立岩さんは、「自己決定による自立」と自立生活運動の方々の考えの微妙な差異にも触れておられます。興味をお持ちの方はぜひ立岩さんの文章にあたっていただけばと思います。)
Posted by toyobay at 2010年01月22日 17:14
todobayさん

>「経済的自立」「身辺自立」「自己決定による自立」

とても参考になります。
「経済的自立」は「生業を持つこと」に置き換えた方が適切かもしれません。

「自己決定による自立」以前に「生存維持」が目標の人もいるでしょうし、「生業を持つこと」の先には「家庭を持つこと」があるのでしょう。

健常者でも家庭まで持ってはじめて他人からとやかく言われることがなくなります。
そこまで行ってはじめて一人前。それまでは社会的に「欠乏状態」なんでしょうね。

そこまで広げれば障害のあるなしを超えた普遍的なものになります。

政治はGDPなんかよりこの「欠乏状態」の解消を目標にするべきなんじゃないか、と思いました。
Posted by たろきち at 2010年01月23日 12:55
toyobayさん、たろきちさん、

コメントありがとうございます。

「障害」と「社会」については、別のところでも関連のあるエントリが話題になっていました。

http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100123/p1

「狩猟社会では障害はなかった」とかいった辺りにはあまり賛同できないのですが、ここでも「社会」が「障害」を規定しているということ、そして日本の「社会」は往々にして、障害を理由に支援を受けることを「恥ずかしい」と考えがちであることが指摘されています。
Posted by そらパパ at 2010年01月24日 22:25
障害とは「個人側の要因」と「社会側の要因」をかけ算でどちらをゼロにしても消滅する。ゆえに論理的にはどちらへの働きかけも等価である、と考えてみると・・

「働きかけ」の現実的手段として前者は「医学・心理学的アプローチ」、後者は「思想・哲学的アプローチ」がそれぞれ中心になるような気がします。
両者は相互に排他的でないため恐らくハイブリッドが理想で、TEEACHがまさにそれではないでしょうか?

「思想・哲学的アプローチ」で「社会側の要因に働きかける」と言うと大仰に聞こえそうですが、親や支援者も本人から見れば社会の一部であり、発達段階によっては社会そのものです。
であれば自分自身やせいぜい狭い範囲の周囲に影響する程度のものであっても決して思想・哲学が無意味とはなりませんね。

大いに議論するべきでしょう。実際、今回のやり取りを拝見して私自身ずいぶん勉強になったし、影響を受けました。
Posted by たろきち at 2010年01月25日 02:58
皆さん、コメントありがとうございます。

たろきちさん、

おっしゃるような意味での「社会で共有されている価値観」というのは、当事者のQOLに非常に大きな影響を与えることは間違いないと思います。

そういった「価値観」のようなものに対して、個人が「影響」を与えるというのは簡単なことではないですが、できる範囲の努力はやっていきたいな、と思っています。

前回、そして今回のエントリは、私個人としての、そういう「努力」の一環だと思っていただければ幸いです。
Posted by そらパパ at 2010年01月25日 23:44
支援費制度が障害者自立支援法に変わる中で軽度な障害者の就労支援に焦点があてられました。従来の「授産施設」が「就労移行支援」「就労継続支援A」「就労継続支援B」と細分化され、重点化されました。このことによって、障害者の就労は一歩前進したと思います。重度な障害者についてもケアホームなどの施策はあります(実際区分5の卒業生の方がケアホームで週3日過ごしておられます)が、就労に焦点があてられる反面、「自立」という理念は後退したのではないかと思います。というのは「自立」という理念のある部分は重度の障害者によって鍛えられてきたのではないかと思うからです。
そらパパさんが懸念されていることはこのような流れの中のことかと思います。
ADA(障害をもつアメリカ人法)が1990年に成立した時も、花田春兆さんがそのことを批判されています。その文章の一部がhttp://www.arsvi.com/d/w0105ada.htmに引用されていますので読んでいただければと思います。
そらパパさんの理系的思考は自分にないものなので、どのように考えておられるかとても興味を惹かれます。「経済的自立と精神的自立」について続編を書いていただけると嬉しいです。
「自閉症の認知システム」の連載も楽しみにしております。
Posted by toyobay at 2010年01月27日 21:12
toyobayさん、

コメントありがとうございました。

このテーマについては、今後も折に触れて取り上げることになるんじゃないだろうかと予感しています。

また、「自閉症の認知システム」のエントリも、先ほどあげさせていただきました。
Posted by そらパパ at 2010年02月01日 21:53
追記です。

自閉症ではなく統合失調症に関するブログですが、興味深いエントリがありました。

http://potelove.com/archives/50356371.html
母親なんて無視すれば良い 統合失調症 ブログ

-----------------------------------------
母親なんて無視すれば良い
反抗すれば良い
もっと言えば捨ててしまえば良い

母親に反抗できない人間は人間のクズだ
生ける屍だ
母親に反抗する人間がクズなんじゃない
母親に反抗できない人間がクズなんだ
親孝行とは母親に従属する事ではない
親孝行とは母親の言う事を素直に聞く事ではない

あなたの人生は母親の人生ではない
あなたの人生はあなたの人生なのだ
あなたの人生を母親に利用されてはならない
あなたの人生に母親を利用するのだ
母親もあなたに対してそうしてきたのだから
あなたが母親に対して罪悪感を持つ必要は一切ない

もう一度言う
あなたが母親に反抗する事に対して罪悪感を持つ必要は一切ない
あなたの母親はあなたの幸せを考えているのではなく
あなたの母親は自分自身の幸せのみを考えているのだ
母親はあなたを好きなように利用してきたのだ
そうしてあなたを不幸にしてきたのだ
あなたは母親に対してもっと怒っても良いはずだ
いや怒るべきだ反抗するべきだ
そうしないとあなたは一生母親の操り人形として
不幸な人生を歩む事になるだろう
-----------------------------------------

ここでのメッセージは、「親」という立場からは極論じみていて受け入れ難いものであるかもしれません。私自身にとっても、このテーマで修羅場になったら、すさまじい葛藤があることは間違いないでしょう。

でも、ここには間違いなく、「精神的自立」についての本質があります。
精神的自立とは、端的にいえば「親の言うことを、社会の命令をそのままは聞かないこと」であることは間違いないからです。
「親や社会の言うことを聞いて、経済的自立する」のではなく、「親離れをするために、経済的自立する」のですよね。
Posted by そらパパ at 2010年02月01日 21:55
「自閉症の認知システム」(6)(7)の掲載ありがとうございました。興味深く読みました。(8)が早く読みたいです。
ブログの文を読んで思い出したのは、脳性マヒ者が集まり1957年に結成された青い芝の会の行動綱領とも言える4原則です。(あとでひとつ増えて5原則となります。)
一 われらは自らがCP者であることを自覚する。
一 われらは強烈な自己主張を行なう。
一 われらは愛と正義を否定する。
一 われらは問題解決の路を選ばない。
(一 われらは健全者文明を否定する。)
特に3番目の原則とブログの文は、背景は違うように思われますが、よく似ていると思います。原則は「われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。」と説明されています。青い芝の会は脱家族、脱施設を主張しました。
どちらの文もそれぞれの特殊性(青い芝の会ではCP者ということ、ブログの文では作者とその母親との個人的な関係)から離れることなく、そらパパさんが言われるように、人間一般の真実に触れていると思います。
Posted by toyobay at 2010年02月02日 21:01
toyobayさん、

そうですね。私も上記のエントリを読んで「青い芝の会」のことを思い出しました。

個人的には、「政治」にかかわるとなると、そこには妥協とか世渡りとかがからんでくる(それによって得るものを最大化する)という側面があるようにも思いますし、思想を純化すればするほど取りこぼすものも出てくるので、青い芝の会の主張に全面的に賛同するものではありませんが、「理念」としてとらえるならば、重要な方向性を示していると思っています。
Posted by そらパパ at 2010年02月02日 23:36
そらパパさん、コメントありがとうございます。前回の私のコメントでは曖昧なところがありました。それをうまく腑分けしてくださったように思います。
もちろん青い芝の会の実践(そらパパさんは「政治」という言葉を使っておられます)には時代の制約があると思います。会の活動を撮った原一男の「さよならCP」を以前観たのですが、やはり時代を感じました。しかし、生きようとする実感から出てくる要求は圧倒的で、それがこの会の理念を支えているのだとも思いました。
そらパパさんは「「政治」にかかわるとなると、そこには妥協とか世渡りとかがからんでくる(それによって得るものを最大化する)という側面があるようにも思います」と書かれていましたが、その言葉を読んで、だからこそ政治に絡めとられないために「われらは問題解決の路を選ばない」という原則があると気づかされました。
今の時代は福祉でも「政治」の方に重心を置いているように見えますが、そんな時代だから「理念」も大切にしなければと思っています。
Posted by toyobay at 2010年02月06日 12:10
toyobayさん、

そうですね。
もともと社会というのは本質的に保守的なものですが、「障害をもっている人への支援」という枠組みにおいては、より一層保守的な考えが幅を利かせる傾向があるように思います。
そして、それは結果として、障害をもっている人を、きわめて窮屈な「社会の期待像」に押し込めてしまっていることになっているかもしれません。

そういったものを打破するための「小さな革命思想」として、青い芝の会的な理念というのは、今でも意義を持っているように思います。
Posted by そらパパ at 2010年02月07日 21:54
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もやもや固め
Excerpt: そらパパさんまだいじってたんだけど、ちょ、そらパパさん、そのコメント公開しちゃだめじゃーん! なんかはずいわー。なんだろ、試合で流血...
Weblog: アブラブログ
Tracked: 2010-01-20 01:06

爪折れた。
Excerpt: 懲りずにそらパパさんとこコメント入れといたんだけど、公開しない可能性も高い気がするので、一個だけコピペしとく。 ここから。 落ち着...
Weblog: アブラブログ
Tracked: 2010-01-21 12:51
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