当事者本を批判するレビューはちょっと、という方は読まないことをお勧めします。
※本レビューを書いたことに対し、花風社の浅見社長からさまざまな嫌がらせを受け、弁護士に依頼せざるを得ない事態にまで発展しました。詳しくはこちらを参照ください。
また、ここで問題にしている議論は、「名誉健常者というロールモデルを押し付けるな、それ以外の生き方を恥ずかしいと言うな」という考え方と密接に関わっているということに後日気づきました。
こちらのTogetterまとめもあわせてご覧ください。
ぼく、アスペルガーかもしれない。
著:中田大地
花風社
花風社の新刊です。
花風社については、主力の「自閉っ子」シリーズの最近の方向性に疑問を感じており、また、最近出た本を巡って社長である浅見氏とちょっと変なやりとりがあったりして、基本的に批判的な目で見ることが多くなっているのですが、この本については、事前の紹介文などを見ている限り、肯定的にとりあげてもいいかな、と思っていました。
で、実際に書店で手にとって、ぱらぱらとめくったら、冒頭、1ページまるごと、大きなゴシック文字で、こんな会話が躍っていました。
「自閉症って恥ずかしいの?」
「自閉症は恥ずかしくないよ」
「大地、自閉症は恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」
※1/14追記:上記発言の発言者は、上から順に、著者、花風社浅見氏、著者の母親、です。下記の議論を理解するのに極めて重要な情報なので追加しました。(参考リンク)
・・・この時点で、私はこの本を購入することと、この本を「おすすめ」としてブログで紹介することをやめました。
さらに告白すれば、私はこの本を立ち読みして、このメッセージを読んだことで、大きなショックを受け、非常に暗い気持ちになりました。
そして、この冒頭メッセージのもつ大きく深刻な問題を、「当事者本を批判する」という高いリスクを犯してでも、指摘せざるを得なくなったのです。
このやりとりをわざわざ切り出して冒頭で強調していることで、この本は、自閉症を支援することを名目としつつ、実は裏メッセージとして「弱肉強食の資本主義社会のなかで、『経済的に』自立すること(逆にいえば『経済的に』支援されないこと)が決定的に重要であり、それを達成できないのは(障害があっても)恥ずかしいことだ」と主張する本になっています。
ちなみに。
我が家の娘は、重度の知的障害をともなった自閉症であり、ことばの発達も大幅に遅れ、小学校に入った現在でも生活に大幅な介助が必要で、将来、「経済的に」自立することは極めて困難だといえます。
それでも娘は、障害のために限られている能力を懸命に伸ばし、さまざまな困難を乗り越えようと頑張っています。私も親として、それを懸命に支援しています。
でも、私たちの「支援」によって、ささやかな「人生の選択の広がり」や「生活の楽しみ」、「周囲に愛されること」などが仮に実現できたとしても、「自立できるだけのカネが稼げない」限りは、どんなに頑張ろうとも「私の娘は『恥ずかしい』人生を送るだろう」ということになります。
この問題は、我が家の娘のように、障害が重度で経済的自立が極めて困難なケースに限らないでしょう。
知的な遅れが大きくなく、「すごく頑張って、かつ運がよければ」経済的自立ができる自閉症者がいたとして、あと一歩の努力が足りなかったり、たまたま運が悪くて経済的自立に失敗したら、それは「恥ずかしい」ことなのでしょうか。
政治家の息子だったり親の財産があるために、ほとんど苦労も努力もなく世襲政治家や系列企業の社長に収まって大金を稼いでいる人よりも、すごく頑張ったけどあと一歩のところで力及ばず、経済的支援を受けている人のほうが「恥ずかしい」のでしょうか。
これは当然、障害の有無を越えた問題なのですが、「社会との関わりに困難があり、かつ知的にもハンディキャップをもつ※人が多い」自閉症スペクトラムの人に対して放つメッセージとなったとき、より一層、残酷さを増すものでしょう。
※「アスペルガー症候群」ではなく「自閉症」ということばが使われていますから、このメッセージは知的障害の有無を問わず、すべての自閉症スペクトラムの人に「向かって」いると(文脈から独立している以上)読まざるを得ません。
本文のなかでは「知的障害がないから、経済的に自立しなければならないんだ」と対象を限定する発言もありますが、これだと逆に、知的障害の有無だけで支援の是非を判断する「発達障害支援法以前」の古い考えかたに戻ってしまっている気もします。
※※さらに付け加えるならば、このメッセージをつきつめると、「専業主婦という生き方も『恥ずかしい』」ことになってしまうのではないでしょうか。
このメッセージからは、自閉症に限らずあらゆる障害、あらゆる人々が本質的にもつ多様性、ボラタリティを否定ないし無視し、「経済的に自立しているかどうか」というたった1つのモノサシでランク付けして「分かりやすく」勝ち負けを決めるような、かなり危険で独断的な価値観を感じます。
そもそも、障害っていうのはそんな「分かりやすい」ものじゃないはずです。少なくとも、自らの問題を切り捨てることのできない当事者にとっては。
社会や自分にとって都合がいいところだけを選り好みできる(そしてそれ以外を切り捨てられる)のは、当事者ではない「第三者」だけですから、こういう、清濁あわせ呑まない、ビジネスライクに割り切った「社会都合・自己都合の支援論」というのはまさに「他人事」の支援論だと言わざるをえません。
もっといえば、そもそも「支援」とか「福祉」というのは、「社会が個人に奉ずる」という概念です。
それに対して、「自分でご飯が食べられないことは『恥ずかしい』」というのは、社会に対する「経済的収支」が個人のプライドまで規定する(つまり「個人が社会に」奉じる)という、全体主義的・国家社会主義的思想に近いです(あることを「目指そう」というのと「できなければ恥ずかしい」というのは、思想的には大きな違いです)。
お金は自分で稼ぐ、という前提もあることを考えると、これは要はかなり原理主義的な「新自由主義」であり、究極的には「福祉不要論・自己責任論」に近い、と言わざるを得ないでしょう。
百歩譲って、冒頭のメッセージの本来の意味がそうであるように、特定の子どもに対する「目標設定」として「経済的自立」をおくことは、場合によっては「あり」かもしれません(それにしても「恥ずかしい」という表現には疑問を感じますが)。
でも、それをわざわざ「文脈から切り離して」オープニングメッセージとしてでかでかと表示してしまえば、それを読む読者は「一般的な自閉症論」として受け取らざるを得ませんし、実際、編集意図としてはそうなのでしょう。実際、驚くべきことに、このやりとりは本文では一度も登場してこないのです。
つまり、ここで指摘している問題点は、会話内容そのものというよりは、それを文脈から独立した「キーメッセージ」として強烈に提示し、特定の思想的・政治的立場を明確にした「編集上の意図」にこそあります。
ですから、この本は、自分の子どもが将来経済的自立が可能だと信じており、かつ、経済的自立こそが子どもの人生にとって決定的に重要だと信じていらっしゃる、そういう方だけにおすすめできる本である、と言わざるを得ません。
そうでない方にとっては、この本は冒頭からいきなり、よくて違和感、悪く言えば不快感を感じさせられる本になってしまっています。
特に、手を尽くして頑張ったけれども就職できなかった、続かなかったという経験をもつ当事者の方や親御さん、関係者のかたにはおすすめできません。
最後に、内容についても簡単に触れます。
この本は、支援級に通う小学生の書いた「僕の取扱説明書」をメインにすえ、親御さんや専門家のメッセージで補強された「当事者本」です。
「説明書」のボリュームが少ないので、かなり他のパートで水増しされていますが、それでも文字が少なく薄い本で、1470円というのはちょっと割高な印象です。
「当事者本」ではあるのですが、親御さんの導入パートに「『自閉っ子』シリーズなどを図書館で読んだ後に、『説明書』を書き始めた」とあるとおり、「説明書」のパートは相当程度、「自閉っ子」シリーズの記述に影響を受けている(よく似たトピックがよく似た表現で書いてあり、構成も似ている)ように感じられました。
また、「説明書」の後半は、自らの経験というよりは「親や先生から言われて守っているルール」が中心になっており、一般的な当事者本的描写を期待すると、ちょっと違う印象を受けるでしょう。
まあ、このあたりは、著者の年齢(小学生)を考えれば、無理のないところだとも思いますが・・・。
また、大人が書いているパートについては全体的に、「支援」といいつつ、実のところ、「融通の利くことはともかく、いまの社会で融通の利かないことは子どもの側で我慢して適応しなさい、それも修行だ」というメッセージ性がかなり強いのが印象的です。
相当に知的な水準が高く、親御さんや先生の言うことをよく聞くことができるお子さんでなければ、本書に書かれているようなスタイルで「指導」され、「社会に合わせて」いくのは難しいかもしれない、とも感じました。(「自分でご飯を食べる」という表現も、繰り返し登場します。)
もう1つ、これは軽い留意点程度のものですが、一応「当事者本」という位置づけになっているので書いておきますと、この本の著者は、正式な自閉症スペクトラムの診断は受けていないようです。
著者のプロフィールにもあるとおり、発育は正常だと診断されており、医師以外の支援者や親御さん(さらには本人)によって「発達障害、アスペルガー症候群かもしれない」と判断されて特別支援級に通っている、という方のようです。(だからタイトルがこうなっているのかもしれませんし、出版社による内容説明も、よくよく読むと「自閉症の・・・」とか「アスペルガー症候群の・・・」とは書いていないことに気づきます。)
※繰り返しになりますが、冒頭の「会話」そのものを全否定しているのではありません。特定の親子のあいだの、文脈依存の「目標設定」であるはずのこの会話を、わざわざ文脈から独立させ、「一般論」として冒頭に提示して「思想化」している点を指摘させていただいています。(さらに言えば、当事者本ではあっても、商業出版である限り、表現には慎重になるべきであり、その点において検証・批判を受けることから免れないことも、ご理解いただきたいと思います。)
ている問題を処理出来ていない人が割りと存在しています。僕がセラピストから直接聞いた話ではあるシスターが障害者の施設にボランティアに行った日だけ偏頭痛から解放され
るそうです。このような人は今後も出てくるでしょうから、後は市場の「紙」の手にまかせるべきでしょう!消耗しないために(こういう人々の目的は、誰かに相手をしてもらう事です)。
あえて厳しいことを書かせてもらえば,障害を受け入れるということは,特定の価値観に当てはめて,打ちのめされたりしないことだと思います.私の息子も自立を目指しますが,私の息子であるだけでも十分です.
コメントありがとうございます。
「恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」というメッセージ、私自身も読んでショックを受けましたが、客観的にみても、デリカシーに欠けた発言だと言わざるを得ないんじゃないかと思っています。
ちなみに、エントリの内容からはずれますが、支援することが、支援者自身にとっても得るものがある状態になっていることがあったとしても、それ自体は否定しません。(支援者だって人間ですから、インセンティブがあること自体は悪いことではないのではないでしょうか。)
コメントありがとうございます。
幸い、私自身として、娘が負け組だと感じたことはありません。
私がショックを受けたのは、「娘が負け組だ」という主旨のメッセージを、「こちら側」にいるはずの人が発言していること、そしてその発言が「いい発言だ」と判断され、それを強調して掲載されている本が出版されていることに対してです。
私自身は、療育のゴールとして、「娘も、妻も、私も、娘に関わってくださる方も、みな幸せだと感じられること」をおいています。
ささやかなゴールですが、実際にはとても挑戦しがいのある、難しいゴールだと思っています。
これはひどいですね。じゃあ、重度のCPの方で、物理的にご飯を自分でたべられない人はどうなのか?と聞きたくなりますね。
昨年の11月に香川大学の坂井聡先生のセミナーを聴講しました。坂井先生が、学生さんらしき方たち数人に「あなたは自立していますか?」と質問をされていました。「いえ、親に仕送りをしてもらっているので…。」とか「親に食べさせてもらっているので…。」といった回答がほとんどで、「自立はしていない。」といった回答ばかり。そこで先生は「そんな価値観は変えませんか?だったら、障害のある人たちはみんな自立できなくなってしまう。『親に仕送りしてもらって自立している』でいいじゃないですか。ヘルパーさんに助けてもらって自立している、さまざまな制度に助けてもらって自立している、でいいと思いませんか。」とおっしゃっていました。まさに昨今のQOLを重視した自立感だと、感慨深く思いました。
まだまだ支援者にも、「税金を払えることが自立だ」といっている有名人もたくさんいますし、まして普段障害者と関わっていらっしゃらない地域の方々はそうでしょうから、私たち保護者が、少しでも、周りの方々に働きかけていくことが大事なのでしょうね。
にしても、最近は「困った」本が多くでていますねぇ…。
こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
Twitterでも議論したのですが、経済的自立という概念そのものが社会によって規定されており、かつ、「障害」という概念も実は社会によって規定されている(というより「規定された枠組みに入らない」という状態を指す)ことを考えると、「障害者」に「経済的自立」を求める(それができなければ「恥ずかしい」とみなす)ことは、社会ないし「フツー勢力」によるひどい横暴だと言えるように思います。
そういうことを伝えていくのが、当事者を支える私たちの大きな役割であるはずなのに、ふと横を見ると「経済的自立ができない自閉症の人は恥ずかしい」と言っている人がいるというのは、本当にショッキングなことです。
私の発言だけですので、ちょっとつながりが分かりにくいと思いますが、ここ数日の私の関連するTwitterでの発言を転載しておきます。
http://twitter.com/sora_papa ←私の発言
http://twitter.com/#search?q=%40sora_papa ←私への発言(あまりうまく検索できません)
かなりきつめのレビューを書きました。当事者でもあり、支援者でもある私の、支援ということに対する思想的立場を、ある程度表明したレビューでもあります。http://bit.ly/7XAOu9
@iz_min ありがとうございます。私がもっとも危惧するのは、こういう思想的立場の方が、「支援者」という社会的立場で力を持つことです。支援しているはずの人が、「受ける支援は少なければ少ないほどエライんだ」と言ってしまったらオシマイなんじゃないかという。
つまり、私が今回問題視しているのは、「恥ずかしい」という表現、これに尽きるんですね。いったい誰が誰に対して恥ずかしいのか、誰が「恥ずかしい」と決めているのか、そして「私たちは恥ずかしいこと(支援)をやっているのか」ということです。
@iz_min そのとおりですね。精神的な自立と経済的な自立を比較したとき、私は前者のほうがはるかに重要だと思いますが、後者のほうが重要だと感じたり、前者が「見えない」人もいるのかもしれないな、と感じています。
それは、「経済的には自立しているけど精神的には隷属している」人が幸福かどうかを考えればすぐにわかります。
@iz_min 日本人は、「社会」というものをとてつもなく大きな確固たる存在だと感じる傾向が強いのかもしれません。だからこそ相変わらず「世界で一番成功した社会主義国家」だと言えるのかも。
実際には、社会なんて個人が集まったところにばくぜんと立ち現れるだけの蜃気楼のようなものだと思うんですけどね。そして「経済的自立こそが大事」なんていう価値観も、そこに一緒に現れているだけの、将来簡単に変わってしまう程度のものに過ぎないと思います。
持続可能性の視点から経済合理性を語るのは自然なことだと思いますが、それが個人の生き方の善し悪しの基準にまでなる、というのは違うんじゃないか、というのが私の立場です。
そんな私は経済思想的には(新自由主義ではない)リバタリアン。
@cyan2_papa ブログへのコメントもいただき、ありがとうございます。先ほど、コメントへのレスを書きました。私自身は、娘が負け組だと思っているわけではないですよ。(^^)
@cyan2_papa 借金を背負った人は、バランスシートが肥大化するだけで、社会への経済的貢献がなくなるわけではないですね(むしろ景気拡大に寄与している)。今回問題になっているのは、個人のB/SではなくP/L(損益計算書)のほうですね。
@cyan2_papa いえいえ、今回のような、反発も予想される記事では、応援していただける書き込みをいただくのは本当に励みになります。
「社会という仕組み」から弾かれるから「障害」者と呼ばれるのに、その人たちに「社会の仕組み」を強要するのはおかしいですよね。社会が障害を規定しているのであって、それを除けば「障害者」なんてものはこの世に存在しない。
加えていえば、「経済的自立」も、社会が規定しているものであって、「社会の仕組み」を前提としている。それを障害者に要請することの「矛盾」に、多くの人に気づいてほしいなあ、と思う。
この矛盾を放置すると、「障害は恥ずかしい」に、簡単になっちゃいますよ。
そういう意味では、「自閉症(という社会の枠組みから外れた状態)は恥ずかしくないが、経済的自立できない(という社会の枠組みから外れた状態)ことは恥ずかしい」という文章は、それ自体に矛盾を内包しているようにも読める。
@M_mama 目標をもって頑張るのは全然いいんですよ。問題は、「できなければ『社会様』に対して恥ずかしい」という、個人と社会との関係に対する思想的立場にあります。
@naga_maki そうですね。私もささやかながら本を出していますが、例えば、「お父さんも療育を頑張ろう」と書くだけで、「お父さん」のいない家庭をはじめとして、この表現がふさわしくない可能性のあるあらゆるケースへのケアが必要でした。そのくらい慎重になるべきだと思います。
失礼ですが、そらパパさんも動揺することがあるんだ、と思いました。
人の評価は確かに気になりますが、それに囚われたら障害児との日々の生活すら疑問を持たざるを得なくなります。いびつな価値観を持つ人も残念ながら世の中には存在し、その人の評価を変えることなどできないのですから、そんなことで心を波立たせるのは損だと思います。
「恥ずかしい」と思われても受け流す、それに尽きると思います。声高に反論しても、聞く耳も度量も持ってはいないでしょうから。今生きて楽しい時間を共有していることが尊い、それでいいじゃないですか。
コメントありがとうございます。
はじめさんは少々誤解されているかもしれません。
「自閉症の人が経済的自立できないと恥ずかしい」と断定しているのが自閉症スペクトラム(らしい)子どもの親御さんで、それを巻頭にわざわざ大きく掲載してアピールしている本を出版しているのが「自閉症の人を支援して『ソリューションを提供する』」(と先日の記事へのコメントで社長自らおっしゃっていました)と称する出版社だということに、ショックを受けているのです。
(念のために付記しておくと、冒頭の会話は、著者とその母親、花風社の浅見氏の3人のもので、「ご飯が・・」のフレーズは母親の発言です。)
自閉症児の親御さんと、それをとりまく支援者の方々(もちろん「自称」も含みますが)、その両方が「聞く耳も度量も持ってはいない」と、はじめさんはおっしゃるのでしょうか。
それはあまりに悲しくないですか。
この本を無視できないのは、社会と障害と支援との関係について相当に乱暴な意見を言っているのが、私たち当事者から見て「ただの他人」ではないからです。
う話です。
この「恥ずかしい」という言葉が適切かどうかは別として、この本で言わんとされている気持ちが少しわかるのでコメントします。
重度知的障害のある方であれば、将来的にも社会福祉の輪で守られると思います。しかし軽度~知的障害を伴わない自閉症・アスペであれば、その輪の中から(現行では)取りこぼされてしまう。そういう現実を見た時に、「知的障害があった方が安心だな」と不謹慎ですが考えてしまうときがあります。
軽度の自閉・アスペは何とか自活できる術をよくよく考えておかなくてはならない…といったことなのかと個人的には感じました。
あと、専業主婦が恥ずかしい…には私は結びつきませんでした。専業主婦という生き方は個人の自由であり、選択です。(会社員の妻だけに与えられる特権は廃止されるべきだと思いますが)
自分でごはんが食べられる=就職してお金を稼ぐだけではないと思います。
障害者年金や手当金を支給されるのも広義で「自分でごはんが食べられる」になるのではないでしょうか。
この記事を読んで、そんなに厳しい批判をするようなことなの…と思ってしまいました。
やはり「恥ずかしい」という言葉がちょっと…という気はしますが。
コメントありがとうございます。
いろいろな意味で、何ともコメントを返しにくいコメントをいただきましたが、1つ1つお答えしていきたいと思います。
まず、知的障害があったほうが安心、というのは、もちろん極論としておっしゃっていることは理解しますが、それでもさすがにひどい意見だとお答えするほかありません。
通常の意味でのコミュニケーションがほぼゼロで会話もなく、外でも家でもしばしばパニックを起こして頭をうちつけ、排便も入浴も自律できない私の娘に対して、コツコツとパニックに対応し、毎日ウンチまみれになりながらトイレの世話をし、風呂で体を洗ってやっている私の妻の前でも、「知的障害のある子は安心だね、うちなんか福祉が貧弱で」と、声をかけられるでしょうか。
まあ、とはいえ、隣の芝は青く見えて、自分の子どものことはとりわけ心配だ、というお気持ちも分からなくはありません。
問題は、まさにブリアさんのコメントで浮き彫りになっているように、社会的力の弱いマイノリティは、さらにその中で「勝ち組、負け組」のように分断されがちで、それによって社会を変えていく力をいっそう削がれてしまう、ということが往々にしてある、ということです。
そして、そういう「本来力を合わせるべき人たちを分断する」方向の力をもっている意見、主張というものが存在します。
今回の「経済的自立ができなければはずかしい」という主張は、まさにそういう種類のものであり、だからこそブリアさんのような意見が出てくるという側面もありますし、だからこそ私が問題にしているということでもあります。
これははじめさんへのコメントにも関係してきますが、よく言われる「周囲の理解を得る」なんてことよりも、そもそも「身内の団結」すらまともにできていないんじゃないか、ということに関して、とても悲しい気持ちになります。
最後に、専業主婦が恥ずかしいかどうかについては、ブリアさんや私の意見としてどうか、ということではなく、この本で述べられている主張を論理的に展開していくとそうなってしまう、という議論をさせていただいています。
また、年金や支援金を支給されることが「自分でご飯を食べる」ことになるとは、この本などで主張されていることを素直に読む限り、まずそうは読めないと思います。
レスが前後しましたが、コメントありがとうございます。
まあ、ベネディクトを知らないほとんどの日本人(私も名前以外はほとんど知りません)も「恥ずかしい」ということばや概念を普通に使いますから、そういう意味では(日本人独特はどうかは別として)「恥ずかしい」という感覚は多くの人に共有されているんじゃないかとは思います。
後ろから弾を撃ってきたとまでは言いませんが、オタメゴカシなことを言う人の中には、もっともらしいスローガンを単に自己実現の手段としか考えていない人もいるよな、と思っているだけです。また、自分の置かれている環境が全てで、他のさまざまな人の境遇や環境に思いを致せない人も自閉系の方だけでなく健常の人にも少なからずいて、これはしゃあないことだと思っています(「恥ずかしい」発言が、著者のお母さんのものだということは知りませんでしたけど)。
そういう方々に期待しても・・・と考えるのは、そうそう不自然なことではないと思います。もちろん、悲しいとは思います。けど、人に期待して裏切られることを繰り返すよりは、自分が変わるしかないのではないか、と考えます。
なお、健常児の親たちが一枚岩ではないように、自閉児の親も団結は難しいと思います。子供の障害という一点だけで、過去の経験も現在の立場も異なる親が繋がれるかを考えると、懐疑的にならざるを得ません。
花風社さんに関してそんなに噛み付かなくてもいいのでは? というのがわたしの正直な感想です。
自閉症のよき理解者として~なんて事をモットーに掲げられている出版社ですが、所詮それさえも商売のネタの一つなんですよ。
そもそもニキさんの一連のシリーズに関してもエキサイティングな一面ばかり強調して、アスペルガー娘を持つわたしには共感出来ませんでした。アスペっ子もいろんなタイプがいるんですよ。
あのような内容がアスペなんだ!!と思われたらたまったもんじゃないというのが、感想でしたから(うちはかなりの軽度というのもあるのですが)
そうです、どの程度の自閉度か、知的度かをみんなが話し始めたら収集つかなくなるのが障害者の世界ではないでしょうか?
みんな一律にとは言えませんが『大変』なんです。
そらパパさんが娘さんの大変さ、そらママさんの苦労をここで語っても、それはこのブログを読んでる読者は分かっているだろうし、その上のでの、プリアさんの発言はわたしも同感です。
細かい言葉の齟齬はこんな場所ですのでちょっと突っ込まないでほしいのですが、うちのような行政に何にも支援を受けられない軽度の障害者は本当に当事者でないと分からない苦労があるのも知っておいてください。
収集がどうせつかなくなるなら書かせてもらいますが、うちの娘は「空気の読めるアスペ(高機能広汎性)」です。
自分のおかれている立場、周りの自分に対する雰囲気などを巧みに読み取るのですが、うまくそれを生かして適切な行動がとれないと言うのが大きな障害になっています。
行政の支援は学校以外では受けられないので、民間の病院で見てもらっていますが、6歳にして二次障害をばりばりに起こしていて、あまりの自己評価の低さに「死んでしまいたい」とつぶやくそんな娘が、幸せに思えますが?
「それならもっと何も分からなかった方がよかったのにね」
どこの相談所に言っても一言が帰ってくる有さまです。親もそう思います。
こんな娘を持ったわたしはそらパパ一家と比べて幸せなんでしょうか?
と、聞かれたら困りませんか?
何だか本題と離れてきているのでこの辺で閉めますが、とにかくいつもの冷静なそらパパさんに戻ってくださいね。
ブログは本当にいつも参考にさせてもらっています。
コメントありがとうございます。
繰り返しになりますが、このレビューへのコメントがこういったやりとりになることそれ自体から分かるように、この本の「メッセージ」は、自閉症児者支援に対して「ソリューション」を示しているようなものではまったくなく、むしろ内部対立や反目の火種を作る(控えめにいっても「黙認する」)ものである、ということは言えるんじゃないかと思いますね。
コメントありがとうございます。
ただ、コメントでご指摘いただいていることのうち、後半で批判いただいている部分は、ポイントを外しているんじゃないかと思います。
私は、「自分のところがことさら大変だ」みたいな話題は一度も書いていません。
まったく逆で、そういうことを言い合って内部で対立するほど悲しいことはない、ということを言っています。
(ブリアさんへのコメントで妻の話題を出したのは、ブリアさんの発言に対して問題提起するためだ、というのは改めて読んでいただければわかると思います。)
繰り返しの繰り返しになりますが、こむぎさんが思わず、お子さんと家族の「つらさ」を訴え、さらにそれを私の家族という、「他の自閉症児をもつ家族」と比較してしまっている(それによって、議論が内部分裂・内輪もめの方向に向かって発散してしまっている)、このエントリがそういう議論ばかりを生み出してしまっているところにこそ、この本のメッセージがもつ「問題性」があるのだ、と思っているわけです。
また、花風社が、この本以外のいろいろな本や、営利のセミナーで語っていることが、結局のところ一般性のない「エピソード」でしかないのに、それを「ソリューション」に強引に仕立てようとすることには問題があるということは、過去のブックレビューなどでも指摘させていただいているところです。
ちなみに、このレビューが感情的だというご批判については、あえてそういうトーンを強めに出して書いたという側面もあるのですが、そうではない、もう少し骨太で冷静な議論を、Twitterのほうではさせていただいています(少し前のコメントで引用しています)。
今回、私が問題にしているのはより普遍的なテーマのつもりなのですが、それを「当事者本」という特殊なトピックのなかで語ってしまったために、ちょっと議論の方向性が定まらなくなっているのかな、とも感じています。
このテーマについては、こちらの本のレビューという形式からは離れて、独立したテーマとして、改めて書いてみようと思っています。
ご無沙汰しております。
本年も、よろしくお願いいたします。
障害を持つ個人が「訓練」を受けて、何とか健常者に近づいていこうとするのではなく、「その人が、今あるがままで、社会進出できるような支援、システムのあり方」というものを目指していくことこそが、障害者支援を行う者に、きっと求められるものなのだろうと思います。
乱暴な言い方をすれば「支援を受けることが当たり前という世の中」を、目指していくべきなんだろうと。
にも関わらず「支援を受けなくては生きていけないのは、恥ずかしい」ということを、当事者である母親と、障害者支援を行っているとされる企業が言っていることに、問題があるのですよね。
改めて色々と考えさせていただきました。
ありがとうございます。
私は、発達障がい児者、保護者への手助けにかかわらせていただいているもので、初めてコメントを書かせていただきます。
公然と「ソリューション」を提供している側という側からこのような形で出版されると、すこし疑問に持ちます。もちろんこの本により元気をもらう人もいるかとは思いますが、その一方でそらパパさんがおっしゃるように内輪もめを引き起こすものであることは否めません。スルーできる脳のようなので、批判的なことにはスルーするのかもしれませんが。
この本の著者の保護者の方は、自分の子どもの「恥ずかしい」を受け回答しているのだと思います。それは様々な文脈の中で行われ、自分の子どもに対する発言であり、そのことについては責任を持っておいででしょう。
つまり公然といってはいない。価値観を世間に示してはいないはずなのです。
それにも関らず、文脈を無視し活字化し、自閉症という枠組みから(診断は受けていないようでそのことには注意を払っているようですが)一側面の偏った価値観を世間に示すことはいかがなものかと思います。しかもそれが「ソリューション」を提供しているという側からのものなのが私はさみしく思いました。
コメントありがとうございます。
こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
「支援を受けることが当たり前」ということについては、「支援を受ける必要がある人は、支援を受けることが当たり前」ということであれば、まったくそのとおりだと思います。
そう考えると、「特定の(つまり、経済的な)支援については、受けることは恥ずかしいと考えるべきだ」というのは、まさに「その支援を受ける必要がある人」に対して、とても残酷な発言だと言えると思います。
花風社は確かに発達障害「支援」を標榜する出版社ではあるのですが、社長のブログなどを見ていると、むしろ支援の合理化・効率化が必要だと主張している場面のほうが多いように見受けられます。
それはまさに、記事でも触れたとおり「新自由主義」的な視点からの発言なのだと思いますが、そうやって合理化して「切り捨てられる」、まさにその「切り捨てられる側」にこそ「支援」の対象があるはずなのに、そちらの側は目に入らず、「切り捨てることによって、合理化・効率化された姿」だけを見て、それを「ソリューション」だと評価する、そんなところに本質的な誤解があるように最近は感じています。
(そして、そういう価値観を共有できる一部の人たちとだけ関わり、そうでない人は「ウザい」と、これまた切り捨てているわけです。もちろん、当事者ではない第三者として、ただのビジネスとしてならそれでいいのでしょうが、それを「支援」とか「ソリューション提供」と呼ぶことはできないのではないでしょうか。)
ひなたさん、
コメントありがとうございます。
最後の部分ですが、結局「ソリューション」と称して提示されているのが、実は「現状追認論」や、さらに踏み込んで「福祉は資本主義の枠組みで合理化されるべきだという福祉リストラ案」なり「障害者の側が努力して我慢して適応すべきだという自己責任論」だ、ということを示しているのだと思います。
そこで語られる当事者のエピソードも、実のところ、その「ソリューション」?を正当化するために使われていて、ごく限られた「たまたまうまくいった人たち」の個別論を集めて、あたかもそれが一般論であるかのように語ることで「自分たちが提唱する『ソリューション』?で、自閉症の人がよくなり、福祉もリストラできてお金もかからなくなる」ということを主張しているように感じます。
国も地方も財政危機の中、障害者福祉においても「お金がない」という問題が顕在化してきており、こういう新自由主義的な「福祉自己責任論」が存在感を増す下地ができているということも言えますね。
でも、そうやって合理化・効率化・自己責任論化すればするほど残されてしまう「どうしようもなく切り捨てられる部分」にこそ、福祉や支援の対象があるのだ、ということを、私たちは忘れてはならないと思います。
コメントにもあったように、”目指す”…という書き方だったら良かったのかもしれませんね。
ただ、私の周りの祖父母世代の人は、「~しなければ恥」「人様に顔向けできない」「世間様にご迷惑をかけないように」とよく言っていました。
”1人でゴハンが食べれるようになるんだぞ(だからしっかり勉強しなさい)”は、普通にありふれた言葉だったので、このお母さんも、そういった環境で育ったのかしら?と感じました。
もちろん良い発言とは思っていませんが、本に書かれている内容を推測したら、悪意というより「そのくらいの意気込みで頑張っています」という気持ちが汲み取れるのでスルーできるのです。
(仮に悪意があっても、40年近く生きてきて打たれ強くなっているせいか「この位のこと言われたって、どうってことない」という感じです)
だから、そらパパさんが「うちの娘はどうなんだ」「専業主婦はどうなんだ」と熱くなられているのを拝見し、「その方向に結びついてしまうんだ」と違和感を覚えたというのが正直なところです。
ちなみに松田道雄さんが書かれた「育児の百科」の「自閉症」の欄の結びには”知恵づきのおくれていない子は見込みがある”と載っています。じゃあ知恵づきの遅れがある子は?! 都度指摘していたらキリがないです。
この話題から少し外れますが、他の方がコメントされている
【障害を持つ個人が「訓練」を受けて、何とか健常者に近づいていこうとするのではなく、「その人が、今あるがままで、社会進出できるような支援、システムのあり方」というものを目指していくことこそが・・・】
私の職場には、たくさんの障害者の方がいらっしゃいますが、「あるがまま」で育ってこられた方と社会に少しでも適応できるように訓練を積まれた方には、ご本人が持たれている意識や社会性にかなりの差があります。一緒に仕事をしやすいのは、もちろん後者の方であり、こちらも私達で助けになるなら・・と、支援の方法を自ら考えることも多いです。
「あるがまま支援」になった場合、ただでさえ敬遠されている「精神障害者」の方はますます就労しにくくなるでしょう。
私はどちらも歩み寄れる世の中になればいいと思います。
ただ、ブリアさんの最後のコメントが気になり、横からの質問をお許しください。
「あるがままに育ってきた障害児」と「多少訓練してきた障害児」の違いをどうやって判断されているのですか?
これ、簡単なことではないと思うのですが。
極論が好きなように感じます。大事なことは鄧小平が言ったように白猫だろうが黒猫だろうがネズミを捕れば良いという態度が重要に
思います。後、私としては浅見氏編集の本についてはスルーが一番だと思っています。何しろスルーできる脳の持ち主の編集本ですから。
初老のAS当事者の感想ですが、
花風社のHPの新刊紹介を見ると、著者の方が自分の特質に気付いたのは、私と同年齢くらいですね。私の場合は50年も前のことですから、専門家はいませんし、特別支援学級もありません。ASは、自分の姿、他者からみた自分の姿を知ることが、まず、できません。違うのは分かるけど、特徴、特質を客観的にはみれない。
自分がそうだから、他者もそうだ、他者は基本的に自分と同じとして他者を理解することライク・ミー Like Me 原則と言うのだそうですが、この原則はASも定型の多数派も同じ、ただMeが違うのですよ。その違いの程度、内容が分からない。例えば、ASは基本的に自分が納得のいかないことはしないし、やり方もそう。自分が納得のいかないこと、やり方では実行不能という方が的確も知れません。
定型の多数派の方などは、納得できなくても、「相手が望むならやってあげる」ということが実行可能ですよね、これ、ASからは「相手は納得して、相手が自分でやりたかったから、実行した」と解釈・受け取ります。定型の方は、相手のASに「貸し」を作ったと思いますが、ASは「借りを作った」とは解釈しない、できない。だから、様々な軋轢を生む。
私、これに気付くのに50年かかった。特別支援学級などで、そうした気付きを得る機会が多くあるだろうから、それが支援級に通う著者の小学生の「僕の取扱説明書」になっている。こうした気付きは多く、早ければ早いほど良いと思います。だから、幼い私ASの仲間に特別支援学級などでそうした機会があるのはとても嬉しい、喜ばしい。
私の場合は、「自分は壊れているから、隠れていなけりゃ」と思いましたね。それのせいなのでしょうか、私は少一から小五の頃の学校の記憶がほとんどない、というか思い出せない。覚えているのは、通知表に毎回、「(居るのか居ないのかわからないくらい)おとなしいのですが協調性がありません」と書かれていたことくらいです。ですから、親や大人から「自閉症は恥ずかしくないよ」「大地、自閉症は恥ずかしくないよ。」と聞かされるのは、とても良いことだと思いますが、
その代わりに示される価値観が「恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」というのは、私がそう言われたら、堪らない、押しつぶされる思いをしたと思う。
私が6歳で気づいた時から初老になった今も、「壊れて産まれてきて御免なさい」と泣いて謝っている男の子が心の奥底にいる。だから「隠れていなけりゃ」と思ったのだし、教室に居るのか居ないのかわからないくらいおとなしくしていた。とても、不安だった。そこに「大人になったら自分でご飯が食べらるようになりなさい。(食べれない人、経済的自立が出来ない人をお母さんは恥ずかしく思う)」と言われたら、どうなっていたろうか?
大好きなASの愛着対象である母親から、恥ずかしい子と見捨てられないように「自分でご飯が食べらるよう」に必要と母親が指し示すことに必死で取り組んだろうね。出来不出来があるから、不出来なことがあると恥ずかしい子と見捨てられやしないかと、ただでさえ不安なのに、いっそう不安になったろうね。このままでは「大人になっても自分でご飯が食べられない恥ずかしい人」になってしまうのではないかとね。そして、大人になって自分でご飯が食べられなかったら、ずっと、恥ずかしい人と自分を卑下することになる。
私の場合は、私が気付いたキッカケ、弟の事故死をへて、両親は「子供は生きていれば十分」というところがあったから、色々煩く言われたけど、根底には「子供は生きていれば十分」というのがあったから、自分は壊れていても生きていれば良いのだ、親から見捨てられないのだと思えた。
それと、町内に今で言うと知的障害の成人男性がいた。町内のはずれの神社の境内に小屋を建てて暮らしていた。福祉なんてなかったから、日中、町内をふらふら歩いて町内から新聞紙や鉄クヅをもらって集めて換金したり、余り物、食べ残しをもらって生きていた。町内の人は、とりたてて親切にするのでもないが、悪さをするのでもないので追い払いもしなかった。隣の町内には、同じような女の人がいた。
祭りになると、傷痍軍人が白い包帯をして軍帽を被り募金箱を置いてたっていた。朝になると、軒先を借りた家の前で、一升瓶か抱えて大いびきで寝ている傍を通って学校に行った。今思えば「生きていれば十分」なのだから、こうした生き方でも十分と実地に学んだのだと思う。
「恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」という価値観からすれば、こういう大人たちは恥ずかしい大人だ。今の時代なら、リストラ、倒産で「自分でご飯が食べられない」人、ホームレスで駅や公園にいる人、学校は卒業しても就職できないで親ががりの人、こういう人たちは、みんな、経済的に自立していない恥ずかしい大人だ。そして恥部は隠すもの、無くすものだ。
ASは想像力の障害があるから、こういう人たちの境遇や心境を感じるのに困難がある。そこに「恥ずかしい」という負のレッテルをはってしまうから、余計に見えにくくなる。社会性の障害から不適切な行動をとりやすい。「恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」という価値観をもったASが、恥部は隠すもの、無くすものだとして、”ホームレス狩り”のような不適切な行動をとったら、問題とすべきは行為の不適切さだけなのだろうか?こうした人たちを「恥ずかしい人」とする価値観は?
纏まりのない文になってしまい失礼しました。
ブリアさん、
今回のコメントで、私とブリアさんとで、この本なりこのメッセージなりをどう位置づけているかという視点が少し違うのかな、と思いました。
私は、この発言を、「当事者の親御さんが発言した」ということで問題しているのでは「ありません」。
エントリ中でも書きましたが、この発言を、本文のなかで一度も登場しないのに、わざわざ巻頭に持ってきて「キーメッセージ」として提示していることを指摘しているのです。
本文に一度も登場していないのにここに出てくるということは、恐らく著者と母親、浅見氏との間で、別の機会に交わされた「会話」なのでしょう。
だとすると、それを文章に書き下ろしてここに掲載したのは、著者でも母親でもなく、浅見氏だということは明白です。
つまり、この文章は、母親の発言を借りて、実際には浅見氏が主張したいことが書かれている、と当然考えるべきところなわけです。
それは、繰り返しになりますが、「本文に登場しないのに」「わざわざ巻頭に1ページぶち抜きででかでかと表示して」いることでも、その編集意図として明確に現れています。
そして、発達障害への理解の浅かった昔の話でもなく、発達障害とはなじみの薄い出版社でもなく、まさに「現代に」「発達障害を支援すると称して」活動している出版者の最新刊で、そういう政治的・思想的立場が、その出版社の代表者のスタンスとして表明されているところが、問題だと指摘しているわけです。
別にスルーしてもいいんですけど(実際に、この本も立ち読みですし、最近は私は花風社にお金を払っていません)、こういうブログをやっている者として、問題提起、注意喚起はすべきだと思ったので、書かせていただいています。
スカラベさん、
そうですね。端的には、スルーするのが一番でしょう。
このエントリや、コメントのやりとりを読んで、スルーすべき方がちゃんとスルーしてくれれば、それでこのエントリを書いた意味はあるんじゃないかな、と思っています。
ヒゲ達磨さん、
力の入ったコメントありがとうございます。
感覚統合学会の件については、まあ、いま花風社は「感覚統合をもっと普及させよう!」ということでいろいろ動いていらっしゃるようですから、そういう「自分たちを応援してくれる出版社」の本はご祝儀的にも買ってみようと思う方が多いということなんじゃないでしょうか。
それに、小学生の書いた当事者本ということ自体には話題性もあるでしょう。(冒頭のメッセージで台無しになっている気がしますが・・・)
後半の、ご自身の体験談を読ませていただいて、改めて、周りの人間が伝える「メッセージ」というものの大切さ、影響力の大きさを考えさせられました。
今回、たくさんいただいているコメントは、どちらかというと「親としてどうか」という視点からのものが多いように感じていますが、より重要なのは「当事者にとってどうか」ということなのですね。
私も狭義の当事者ではありませんから、どういうメッセージが当事者を勇気付け、あるいは傷つけるかを実感として分かっているわけではありません。
でも、この「自分でご飯が食べられないことは恥ずかしい」というのは、恐らく後者に近いのではないか、と強く感じていました。
だからこそ、問題提起させていただいているわけです。
以前にも花風社の本についてコメントさせていただきましたが、この本についてもそらパパさんがおっしゃるように「当事者にとってどうか」だと私も思います。
なにより著者ご自身がまだまだ小さな子どもで、体も心も成長していくであろう時期に、ご本人が書いたということにして活字にしてしまうのはどうなんだろう・・・と思います。
コメントありがとうございます。
まさにご指摘のとおりだと思います。
また、後半でご指摘いただいたポイントも重要かもしれないな、と思っています。
今回の本の内容をみると、「先生や親の言うことを真面目に一生懸命守って、辛いことも『修行』だと言われているので我慢して頑張っています」といったものになっています。
それ自体は全然問題ないですし、頑張っているお子さんは素晴らしいと思うのですが、その一方で、こういった内容を、反抗期を迎える前のお子さんが本として出して、「絶対に消えない記録」として残ってしまうことには、お子さんの今後を考えると、一抹の不安を感じないわけではないですね。
花風社の浅見社長のブログが更新され、今日の記事に、どうやらこのエントリに対する反論らしきものが掲載されています。
(前回に引き続き、今回も名指しせずの反論ですので、もしかしたら違うのかもしれません。いずれにせよ、あちらのブログはブログと言いつつコメント禁止、トラックバック禁止で何も反応を返せませんので、こちらに書かせていただきます。)
http://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/4d25eff1be92df3a931d8c2a69aace1b
↑今回の反論?記事
http://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/749c159837d2b1a0a2d53428986becd3
↑前回の反論?記事
ただ、明らかに問題がはぐらかされているので、読んでいらっしゃるかどうかは分かりませんが、一応当ブログが問題にしている点を、質問形式で改めて明記しておきますと、
「自閉症は恥ずかしくないが、経済的自立ができないのは恥ずかしい」という主張は、発達障害を支援する出版社の主張として、正しいと考えていらっしゃいますか?
になります。
「働ける人は働こう、それを目指そう」という論調と、この本にはっきり書いてある「働けなければ恥ずかしい」では、ずいぶんトーンが違うわけですし、相手によってはものすごく残酷なメッセージになってしまいます。そのトーンの違いに配慮せず、この本のキーメッセージとしてそれを出版されたことを「正しいと考えていらっしゃるかどうか」に、関心があるわけです。
その他、いくつか感じたポイントを。
・知的障害の有無で改めて線引きしようとされているようですが、それ自体の問題点はさておき、なぜ花風社の本は、「経済的自立が狙えるような、知的障害のない、一部のアスペルガー症候群の人」だけが対象になっているものが多いのに、必ず「自閉症」とか「自閉っ子」という紛らわしいことばが使われるのでしょうか?
もしかすると、マーケティング的により広い読者を狙っているのかもしれませんが、誤解をまねく用語の使い方だと感じます。
逆に、「知的障害のある自閉症スペクトラムの人も、本気で読者対象にしているんだ」というなら、今回の本のような主張は、明らかに「軽率」で慎重さに欠けるように思います(実際、その主張にも「自閉症」という用語が使われています)。
・「真っ当かどうか」という指標は、単に自分の思想に合っているかどうかだけを示すものであって、「真っ当だから正しい」というのは単なるトートロジーです。
逆にいえば、「自閉症は恥ずかしくないが、経済的自立できなければ恥ずかしい」という主張は真っ当だ、とおっしゃっていることにもなりますね。
いやね、あたし巷の目がきらきらしてるような自閉症本なんてそもそも生理的にキモイからそこの本一冊しか持ってないんだけどね、ここの文章を読んでるとさ、例のドードーとらさんと君との議論の構造があてはまるようにしか思えないんだ。
今君がドードーとらさんになっている。
だからこの「ちょっと変なやりとり」に関してはわたしあなたを擁護するよ。
ってさ、あなたの浅見について言いたいことって、
「彼女は自閉症を、エンターテイメント的なツールとしてしか扱ってないんじゃないか?」
ってなことだと思うんだ。要は、
「彼女は自閉症を己の利(たとえば自分の主張の補強)のために利用しているんじゃないか」
ってこと。
ここのコメント欄でも言ってるじゃん。
=====
つまり、この文章は、母親の発言を借りて、実際には浅見氏が主張したいことが書かれている、と当然考えるべきところなわけです。
=====
この「この人は自閉症を己の利のために利用しているんじゃないか」ってのさー、わたしが知ってるアスペの人たちみんな持ってるんだよね。支援業界に対する不信感とか、自分を支えてくれている身内とかに対して。
自分を助けてくれる人に対する不信感って、常識的には持っちゃいけないものっしょ? それこそ「人としてどうか」って。
でもね、持っちゃうもんじゃん。今のあなたがそうであるように。
浅見だってアスペなんてどうでもいい世界(つまり一般世間)においては、「自閉症のためにがんばってる人なんだな」って認識されるだろうよ。
君だってがんばってるよ。わたしは君の方が浅見よりがんばってると思うし、真摯な努力だと思うから、浅見と比べたら、君を支持する。
だけどさー、「私の支え方と、浅見の支え方とはこう違う、私の支え方の方が正しい」って議論になっちゃうとさー、君だって「この人は自閉症を己の利(自分の主張の補強)のために利用しているんじゃないか」って思われかねないよ、って思ったんだ。当事者たちから言えば同じ穴の狢になりかねない。
実際当事者でもなく第三者でしかないわたしは、浅見も君も同じ穴の狢に見える。
もっとさ、自分は何をやりたいのか、浅見のやり方について、自閉症とかをダシにしないで、自分はどういう風に警戒しているのか、自分の心の中をきちんと探ってからした方がいいと思うよ。
ま、余計なアドヴァイスかもしれんけどね。
わたし?
わたしはまー、浅見って人については伝聞でしかしらないけど、まーわたしの嫌いなタイプの人だろうなー、くらいにしか思ってない。
一方君は、直接会話したことあるから、わたしの嫌いなタイプの人だとわかっている。
だけど、この議論の構図なら、君という人格じゃなく、君が感じている「警戒感」そのものを擁護する。
わたしって警戒感強い人だからね。警戒感ある人の方が説得力あるように思えちゃうの。
そういうことー。
がむばってね。ひねくれた応援コメントだと思って。
コメントありがとうございます。
また、トラックバックもありがとうございます。
以前の件があって以降、ブログもときどき覗かせてもらっていました。
なので、当時よりはわずかながら、「何が問題だと言われていたのか」については自覚的になっていると思っています。
で、今回の件ですが、私の考えていることはほぼご指摘のとおりだと思います。
違うとすれば、私は、「支援」者が「己を利する」こと自体はやむを得ないと思っています。
ある「支援者」がやっていることが、「支援」される者にとってプラスになっている(最低でも、マイナスになっていない)限りは。
そこに支援の「実」があり、それと同時に支援者自身が「己を利して」いるという状態は、むしろ自然な状態でしょう。(実際のところ、己をまったく利しない行動をしている「定型の」人は、いないんじゃないかと思いますから。もちろん私自身も含めて)
今回問題だと考えているのは、最近の花風社の出版物などを見ていると、「支援する、理解を広げると言っておきながら、実は支援を妨害したり、誤解を広げたりしている側面があるんじゃないか」と感じられる点です。
アスペルガー症候群の当事者の皆さんのなかで、花風社や浅見氏がかなり嫌われている、という噂はこれまでもたびたび聞いたことがありましたが、最近、それがなぜかということがはっきり分かってきました。
ちなみに、「誰が正しいか」という議論については、今回のコメントを読んでいただくと、実はその議論からはできるだけ逃げていることにお気づきいただけるかと思います。(私は今回は、この本の主張が間違っている、という点だけを論点にしようとし続けています。)
まあ、それでも確かに、当事者の方の意見を自分の主張の補強に使うのは、(それが「自分が正しい」という主張というよりは、「この本の主張が間違っている」という主張であったとしても)「ずるい」ことであるのは事実ですね。その点は自戒したいと思います。
私自身は狭義の「当事者」ではないので、絶対に踏み込めない領域があることは自覚しています。そういう意味では、当然「当事者の側」ではなく、「浅見氏と同じ側」の土俵にしか立てない人間であることも間違いのないところです。
今回の「違和感の表明」は、恐らく、私が当事者の側に近づいたからできるようになったことではありません。単に、浅見氏がついうっかり(あるいは最近は「確信犯的に」)、「これまでよりもさらに当事者から遠い立場」に立ってしまったために、同じ場所に立っているだけの私にも気がつけただけなのだと思っています。
>原理主義的な「新自由主義」であり、究極的には「福祉不要論・自己責任論」に近い、
ここにちょと、ヒッカカリを覚えます。
世界で最も原理主義的な「新自由主義」な弱肉強食の国といったら、アメリカ・米国。ではアメリカで、福祉不要論が横行し発達障害に限らず障害者が切り捨てられているでしょうか?
米国ハーバード大学のM・アベ教授によれば、
「米国の場合、(日本に似て)国家の福祉機能は小さいが、民間非営利センターが大きな力を持って、福祉機能、すなわち社会を維持する役割を担っている。貧困者や市場で失敗した人たちの救済をおこない、ホームレスのシェルター(緊急宿泊ベッド)を運営したり、食事や古着を提供しています。・・日本は米国と似て国家の福祉機能が小さく、“自助努力が大切だ”と考える人も多い。しかし、企業や社会にはじき出された人を守るシステムが弱く、家族に頼らなければならない。そこで裕福な家庭ならいが、そうではない場合にはどうするか。意外に聞こえるかもしれませんが、生活保護の条件は日本の方がはるかに厳しいのです」
つまり、NPO、NGO、教会、民間の非営利団体が手厚く福祉を担っている。これらの資金、人手は寄付、ボランテアなどで賄われる。つまり、、「社会が個人に奉ずる」・福祉を、国家=権力による強制的な富の再配分(税と交付・支給)ではなく、自発的な再配分でおこなっている。弱肉強食の市場主義で働きながら、同じ人が、得た富を自発的に民間の非営利団体などに寄付して「社会が個人に奉ずる」・福祉を実践している。
「稼げる人はどんどん稼ぐ(弱肉強食)。」で「稼げない者には何も与える必要はない!」という自助努力論から国も民間も福祉が貧弱な日本と「稼いだ富は、稼げなかった者や市場で失敗した人たちの救済に廻るように、国を通さずに自発的に寄付をする。」から国家の福祉機能は貧弱だが民間非営利が手厚い福祉を実現していこうとするアメリカ。文言だけ見れば同じような>原理主義的な「新自由主義」<でしょうが、機能している社会が全く違う。だから、障害者のような先天的に稼げない人、稼ぎの悪い人に対する意味合いが違うと思います。
この差は何だろう?その根源は?・・
先日、イスラム関係のWebをみていました。
『絶対者である神は一であり、この一なる神によって創造された存在物はすべて差異的であるが、同じ創造者から創られた被造物の存在の価値に上下はなく、すべて等位にあり、しかもそれらはすべて緊密な関係性の中におかれている』
『神は、みなの「等位性」を保証した上で、みなに「差異性(異なる資質や能力)」を付与なさった。
貧富の差は、みながそれぞれ多様な能力の「差異性」を持つがゆえに当然生じる。とはいえ、俗の目で見て、人それぞれに優れていようが劣っていようが、その差は神による個性の采配の現れゆえであり、元はみな、一であり「等位性」な存在なのである。
神が保証なされた「等位性」を鑑みて、一定以上の富を得た者は、社会的弱者や困窮者、挫折者に対して富を環流させることが当然の義務となる。誰かの富は、神から与えられた能力のおかげでもたらされたものにすぎず、持たざる者に寄付せず抱え込むことは世界の正しいありように反する行為になる』
『ただ儲けるだけで富を活用しない者、富を放出しない者も、神に背く悪人なのである。』
『寄付は、必ず神を経由して行われる「神からの絶対贈与」の形をとるので、困窮者に恩を着せたことにはならないし、ほどこしを受けることに対して卑屈に感じる必要もない。
そもそも、富裕になれためぐり合わせや才能は、その本人のものではなく、神の采配に他ならないのだ。』
金持ちは「神に対して」寄付・喜捨・慈善行為をする。 恵みを受ける側は、金持ちからではなく「神から」賜る。
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1391.html
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1390.html
この絶対神との関係は、キリスト教でも同じではないか?
我々は、神の国を顕すために(関係性)、神の采配で異なる資質や能力をもって(差異性)をもって、同じ創造者から創られた被造物(等位性)。
神への”被造物”である人間の責任とは、神から賜った異なる資質や能力を発揮し(稼ぎという点で言えば、稼げる人はどんどん稼ぐ・弱肉強食)得た物を、賜った資質や能力の違いからそれが不足する者に、等位性から与えて、救済に費やして神の愛を示し神の国を顕すことになるのではないか。福祉は神の愛を示す聖なる行為だから、俗たる権力・国家が担うのは相応しくない。神から創られた人間の神への責任という点では、新自由主義、自主独立の精神と福祉・「社会が個人に奉ずる」は両立するのではないでしょうか。
神から賜っためぐり合わせを逃すことなく、賜った資質・能力を自らから発揮する=障害のために限られている能力を懸命に伸ばし、さまざまな困難を乗り越えようとする=自助と、その結果は神の采配によるのだから受け入れる自己責任(障害そのものを受け入れる)、そして、賜った資質や能力の違いから富など得られた物に不足する者に、めぐり合わせを神から賜ったら、等位性をもって=恩着せがましくなく、神からの愛を示す聖なる行為として不足を補い、逆に「神が下さっている」と、ありがたく恵みをいただく、福祉を受ける形になる。
自助努力・自助論の「天は自ら助くる者を助く」は、 「Heaven helps those who help themselves.」が原文です。helpヘルプの主体はHeaven、福沢諭吉は天と訳したわけです。当時の日本では、天で通じたのでしょうけど、今日、天があるでしょうかね。障害のために限られている能力を懸命に伸ばし、さまざまな困難を乗り越えようと自助している者にとっては、周囲の人々が天ですけど。
天網恢恢、疎にして漏らさず、天は漏らさない=切り捨てない、知的障害の有無とか「訓練」を受けてるか否かで、線引きする(関係性の拒絶)考えの天とか、稼げない人、稼ぎの悪い人は「恥ずかしい」と等価性も否定する天が多い。
コメントありがとうございます。
日本とアメリカの違いについては、私も詳しくないので深入りできませんが、寄付分が非課税になったり(つまり、税金を納める代わりに特定の団体に寄付できる)といった社会システム面での優位性もあるでしょうし、以前書いたことがありますが、そもそもアメリカは「富める国」なので、経済的には他のどの国より余裕があるだろうということもあります。
いずれにせよ、日本のセーフティネットは極めて貧困だ(一度落ちると這い上がれない)というのは間違いない事実だと思います。
神云々は正直よく分かりませんが、とにかく彼らには大きな理想を掲げて突き進む力があるように思います。
我々もときどき突き進みますが、理想を追ってというより現実に追われて、ですよね。
個人主義・自由主義だけでは福祉の性格も「かわいそうだから」とか「権利だから仕方ない」というレベルに留まり、障害者は社会のお荷物でありつづけると思います。
「障害者とともに暮らす社会」という理想を掲げてはじめて障害者の存在そのものが目的になります。
と思いました。脂さんならこう言うのでしょう!愛の告白だと。(噴飯ものですが。w)
熱く語っているけど、そもそもコメントを書いているうちに論点ずれてきている。
人の本を読んで批判するなら、きちんと最後まで読んでからにした方がいい。表面だけ読んで、想像で語るのはどうだろう。。。
花風社の浅見さんのブログもよく読む。なぜ、この本を出したのかよくわかる。
世の中には、診断が出ても何も変わらない障害児がいる。娘さんのように、誰かの手が必要で手を貸してくれる人もいれば、そうでない子供もいるということをご存知ですか?
あの本を書いた子はそういう子なんですよ。だから、親として、子供が自分で生きていくことを願って育てていっているのではないでしょうか。それを伝えるのに、相手は8歳の子供です。子供が分かる言葉で教えるのは当然なことだと思います。
かかりつけとなっている医師は診断をあえて出していないようですよ。
そら豆父さんの娘さんのタイプだけが、障害者ではないです。それぞれの立場と現状から、前向きに療育されている方々だとおもいますけどね。知的障害がない分、理解されにくいのは現実。障害者手帳、療育手帳、その他のサービスやサポートも今後受けることが出来ないのなら、必要な教えじゃないでしょうか。
それとも、そら豆父さんは娘さんを一生、食べさせて療育していけるのですか?
あなたがこんなに視野の狭い、残念な方だとは思いませんでした。
この本の内容(文章)について、当事者であるお母さんは、それで良いとしているのでしょうか?
お母さんご自身が納得できない表現になっているのなら、それは、編集・出版上の問題だと思います。 私は読んでいないので、素朴な疑問なのですが。
コメントありがとうございます。
ところで、「そら豆父さん」って誰ですか?
というのは冗談として、率直に申し上げて、熱くなって論点がずれているのはjoyjoyさんのほうではないかと存じます。
コメント欄が長くなって論点が見えにくくなっていますが、私は、この本の著者のような立場の方が、経済的自立を目指すこと、親御さんがそれを目標にして療育することを否定しているのではありません。
もう一度、改めてこの本の冒頭メッセージを読み直してください。
”自閉症は恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ”
これでは、経済的自立をめざすことを応援するメッセージではなく、経済的自立ができなかった人を否定するメッセージになっているじゃないか、ということを問題提起しているのです。(子どもに分かりやすいことばで語るなら、別に後半は、たとえば「だから、胸を張って立派な大人になろう」でいいわけです。)
したがって、今回のjoyjoyさんのご批判は、私の主張の誤読に基づくものだとしかいえませんので、これ以上の反論も不要だと考えます。
もし再反論をされるのなら、「サポートが不十分だからこそ頑張ろう」というこの本のメッセージ(だとjoyjoyさんが考えるもの)が、なぜ実際の文章では「サポートを受けるのは恥ずかしい」にすり変わっているのか、その点を整理・説明いただいてから、お願いします。
ちなみに、全体を読んでいないというご批判ですが、実は今回の本はボリュームがすごく少ないので、書店での15分くらいの立ち読みで、購入した本を読むのと同じくらいの密度では最後まで読めてしまいました。(そうでなければ、例えば「冒頭のメッセージは本文のどこにも登場しない」とは書けないですよね? まあ、それでも一応「立ち読み」なので「立読みレビュー」にはしています。)
そして、冒頭のメッセージは、このとおりの内容で、文脈から独立して、1ページぶちぬきで、「読者に最初に読んで欲しいキーメッセージとして」、大きく強調して書かれているものです。そこには、想像は入っていませんし、表面的ということもないでしょう。だって「書いてあるとおり」ですから。
コメントありがとうございます。
そうですね、そこは私も問題だと思っています。
最初のエントリですでに指摘させていただいているとおり、このメッセージの大きな問題は、母親の発言としてということではなく、「発達障害を支援する」と称して、商業出版をしてお金を稼いでいる出版社がこのメッセージを際立って強調して出版したという、「編集上の意図」にあります。
そういう意味では、大地君のお母さんがこの「編集」に対してどう考えているのか、気になるところではありますね。
ちなみに、多くの方からアクセスをいただいたおかげで、この本のタイトルをGoogleで検索すると、このエントリがトップ表示となるようです。(1/27時点)
http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%80%81%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82
編集者自身の社会に対する怨念を感じてしまいます。浅見さんはまずそらパパの質問に答えるべきだと思います。まじめに支援を考えているのだとしたら!
コメントありがとうございます。
この本の「編集者」はまず間違いなく浅見氏自身なので、この本の「編集意図」イコール「『発達障害を支援する』出版社の社長」である浅見氏の主張、ということになります。
だからこそ、「『発達障害を支援する』出版社の社長」が、「障害がある人が経済的自立できないのは恥ずかしい」という主張を積極的にする、というのはどうなんでしょうか、という質問をさせていただいています。
賛否両論色々ですが、今はどうお考えですか?
リスクを辞さずに、主張したいお考えをまた聞きたいです。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
この記事そのものについての議論はすでに終わっている(特にこれ以上の進展はない)と考えていますが、現在は、よりさまざまな話題について、どちらかというとブログよりもTwitterで議論をしています。
いくつか、過去の議論のまとめも残っていますので、よろしければそちらもご覧ください。
http://togetter.com/mt/sora_papa
返信ありがとうございます。
名誉健常者のまとめは、少しずつ読ませていただきます。
まだじっくり読んでいない段階での感想で申し訳ございませんが、やはり私としては違和感があります。
困難を理解せずに、善意いっぱいの励ましや(知らない故)、困難に立ち向かう姿が素晴らしいっていう風潮に『ちょっと待ったと言いたい』は、理解できます。
でもかといって、前向きに頑張るという人に
名誉健常者というのは、どうかと。
人それぞれに、障害度・性格・考え方・時期はあります。
中田大地くんや乙武さんの発信は、それぞれのものであって、障害者全員のものでは、ありません。
なんでこんなにこだわるのか、理解できないのです。
名誉健常者ロールモデルの議論では非常に陥りやすい誤解が1つあって、今回いただいたコメントも、まさにその「誤解」に基づいたものになっていると思います。
この議論で批判の対象になっているのは「名誉健常者という『ロールモデル』」、さらにいえば「名誉健常者ロールモデルを選択することを『強要するような社会のプレッシャー』」です。
一方、「当事者が自らの選択としてそのような生き方を選択すること」は批判の対象になっていません。
(言い方を変えると、多様な生き方の選択肢の中から、自らポジティブにそのような生き方を選択した場合、そもそも「名誉健常者」という概念とは別の生き方である、とも言えるだろうと思います。)
ですから、いただいたコメントの最後で「どうかと」「理解できないのです」と書かれているような批判は、そもそもしていないことになります。
(加えていうなら、いただいたコメントの前半で書かれていることは、名誉健常者ロールモデルの議論ではなく、同じくTwitterで議論となった「キラキラ差別」についての話なのではないでしょうか?)
繰り返しになりますが、この名誉健常者ロールモデルへの批判を批判する方の大多数が、この部分を読みあやまっておられます。
例にあげられた乙武さんの例をとるなら、「前向きに頑張る乙武さん」を批判する議論ではなく、「誰もが乙武さんのように前向きに頑張るべきである」というロールモデル、そして「乙武さんのように前向きに頑張る生き方だけが望ましい姿であり、それ以外の(例えば頑張らないような)生き方はだめだ」という、健常者の社会からの圧力を(もしそういうものがあるとするなら)批判する議論だ、ということになります。
(ただし、乙武さんに関しては、ある特定のロールモデルへの価値判断を社会に向けて自ら発信している側面があって、その側面に対して複数の批判がある、という点については申し添えておきたいと思います。)
ともあれ、この2つはまったく違う議論なのですが、名誉健常者ロールモデルへの批判を批判する方の多くは混同されています。
ここを混同してしまうから、この議論が「頑張ることを全否定している」、あるいは「ほったらかしを推奨している」みたいな誤解につながり、さらにはそれを叩くわら人形論法的な批判になったりしているケースもあるように感じています。
なお、この議論は若干このエントリの趣旨と外れていますので、もし続けられるのであれば、下記のエントリなどに移動したほうがいいかと思います。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/179295308.html
『名誉健常者』と『キラキラ差別』に関しては、まだきちんと読んでないので確かに混同しているかもしれません。
名誉健常者というロールモデルを押し付ける、社会の圧力への批判とありますが、正直、こういった類のものは、どこにでも存在するように思います。
そしてそういう視点を持った人達に、『名誉健常者』というロールモデルの批判を言っても、いらぬ誤解をうむように思います。
でも今回、私も改めて色々考えてみました。
議論の延長は望みません。
また貼って頂いたまとめも、少しずつ読ませていただきます。
「どこにでも存在する」から、あるいは「いらぬ誤解をうむ」から、批判をすべきでない、というご意見は、そもそもこのやりとりの初めにおっしゃった「リスクを辞さずに、主張したいお考えをまた聞きたいです。」というご意見と矛盾するように思います。
(そうおっしゃるなら、そもそもなぜこの問題を蒸し返そうとされたのでしょうか? 放っておけば、私はわざわざここには何も改めて書かなかったわけですから。)
ある議論を批判するとき、その議論をすること自体が悪い、という風に批判するのは、割引(Discount)といって、やってはいけないことの一つだと認識しています。
過去の記事への今さらのコメントを
どうかお許し下さいm(__)m
私は成人アスペルガー症候群当事者ですが、
自分で稼いでご飯を食べることは出来ていません。
たまたま結婚できて、今でも夫に
養われて生きています。
恥ずかしいとは思いません。
軽度の発達障害と言われていても、
生き辛さは抱えていて、その程度も
同じ診断名でも人により様々です。
私は聴覚過敏がひどすぎて日常生活も
いっぱいいっぱいなんです。
「自閉症」と括るならば情報発信者として
もう少し考えて文面に載せてもらえればと
改めて考えさせられることでした。
取り上げて下さったこと感謝致します。