Slide 5 : 「こころ」をとらえなおす(続き)
「こころ」についてしっかり考えていくためには、端的には「念力問題」に現れるような、「こころ」に対する矛盾を何とか解決してやらなければなりません。
その矛盾を解消するための1つの道は、そもそも「こころ」という概念を使わないことです。
目に見えない内面のはたらきを「こころ」と呼ぶならば、あえてそんな観察できないような、科学的に扱えないような「こころ」という概念は使わないことに決めて、観察可能な、外部からの刺激とそれに対する反応との関係を研究することに集中しよう、と考えればいいようにも思われます。
この立場をとるのが、「行動主義の心理学」になります。そういう立場の人に言わせると、心理学とは行動の科学である、ということになります。
ちなみに、行動主義の心理学から生まれた療育法が、皆さんもご存知の「ABA」、応用行動分析です。
ですから、ABAの世界では「こころに働きかける療育」みたいな表現は、絶対に使わないはずです。もし使っている先生がいたら、その方はモグリか、一般の方に対してあえて分かりやすい表現を使っているか、どちらかです。
そして、「こころ」の矛盾を解消する第2の道として、「こころ」という概念は使うけれども、もっと明確で矛盾の少なくなるように定義しなおして、概念をはっきりさせてから使う、という方法があります。
この道をとった心理学の1つが、私もかつて大学で勉強した「認知心理学」になります。
認知心理学では、「こころ」とは脳の情報処理プロセスのことだと考えます。つまり、脳というのはコンピュータのハードウェアのようなもので、そこで動いているプログラム、ソフトウェアのことを「こころ」と呼んでいるのだ、と考えるわけです。
このように、認知心理学では、「こころ」のことを「コンピュータのアナロジー的な意味での脳の情報処理のしくみ、認知プロセス」という形で、より明確に再定義しています。
ただし、この定義には1つ問題があります。
なぜなら、脳をコンピュータのようなものだと考え、「こころ」をプログラムだと考えると、そこには「自由意志」というものが存在できなくなってしまう、ということです。
つまり、認知心理学で考える「こころ」というのは、定義が明確になった代わりに、私たちにとって、あって当たり前のように思える「自由意志」を扱うことができないという問題を抱えてしまっているわけです。
これ、大変な問題だと思いますか?
自由意志のない「こころ」なんて、おかしい、と思うでしょうか?
でも実は、心の哲学や認知心理学や脳科学を研究している人は、けっこう「自由意志というのは幻じゃないだろうか」と考えていたりします。実は私もそうです。
実際、自由意志という概念をなくせば、「念力問題」は解決してしまいます。
認知心理学の枠組みでは、腕が動くのは純粋に脳の外部からの刺激による反応の連鎖と考えることができるので、まさに「腕と脳はつながっているから動く、コップと脳はつながっていないから動かない」となって、機械論的に、「念力問題」が解決されるわけです。
さて、この「認知心理学」の立場に近いのがTEACCHです。
TEACCHでは、「自閉症の人は認知のしくみが普通の人と異なる」という考えかたを出発点にしていますが、これはまさに自閉症というものを認知心理学的にとらえた理解だということがいえると思います。
・・・ここまでが、自閉症の認知システムについてお話しする前の、準備体操ということになります。
堅苦しい話が続きましたけど、いちばんお話ししたかったことは、私たちが当たり前にイメージする「こころ」というものが、実は矛盾だらけであいまいなものだということに気づいてください、ということでした。
まず、そんな素朴な「こころ」のイメージから解放されて自由になりましょう。
そのうえで、柔軟な頭で、常識にとらわれずに発想することが、自閉症を理解して働きかけるためにはものすごく大切です。
自閉症というのは、私たちの常識がなかなか通用しない、特に働きかけの難しい障害だと言われています。
だからこそ、働きかけがうまくいかないとき、私たちは、私たちをしばっている常識、先入観という檻に気づいて、そこから解放された自由な発想、自由な視点からお子さんを観察し、理解し、働きかけていかなければならないわけです。
実はこれは親の側だけの問題ではなくて、残念なことに専門家でさえとらわれてしまっているケースが多々あります。先ほど「心に働きかける療育」とか「心を育てる療育」みたいな例をあげましたけど、こういった耳ざわりのいいフレーズは、よほど注意して使わないと、実質、「念力で療育しましょう」といっているに等しくなってしまうのです。
私たちは、美しいことば、一見わかりやすそうなことばにだまされてはいけないのです。
(次回に続きます。)
これまでのシリーズ記事、勝手に私へのエールと解釈してワクワクしながら読ませていただいております。
先日、私の勤務する施設の保護者会で利用者の日中活動支援、つまりは作業に関するプレゼンを行いました。
「やる気」「意欲を持って」「安心」「関係作り」などなど「こころ」から派生されたキーワードは使いたくなかったので、そらパパさんの著作の中からの引用で、「線形分離課題」「非線形分離課題」を私なりにアレンジしてお話したところ、一部の保護者から難しい言葉を使ってごまかすんじゃないとお叱りを受けました。
「こころに働きかけて内面理解を重視する」よりはわかりやすいと思ったんですけどねぇ。
コメントありがとうございます。
さすがに、いきなり「線形分離課題」的な話だと、難解だというリアクションも無理はないかもしれません(^^;)。
「わかりやすさ」を実現するっていうのは、なかなか簡単にはいかないことだなあ、と私もいつも思います。
それと、「線形分離」という理解の方法も実は「仮説」であり、「自閉症の人の困難のしくみはこうなっているはずだ」といった語り方をすると、内面を想像して語ることと大差ないという側面もあったりします。
ですから、「安心」とか「やる気」といったキーワードを使うことで、分かりやすい(気にさせる)ことは問題ないんじゃないか、と思っています。
避けるべきなのは、それを目的化することですね。
「構造化することで安心できる環境を作りましょう」「ABAの強化のしくみを活用することで、子どもにやる気を起こさせましょう」などは、やるべきことは具体的になっているのでOK、そういったものがないまま「子どもが安心できる環境づくりが大切です」とか「やる気を起こすように指導しましょう」はNG、と私は思っています。(最初の2つのOK文章は、実際にはトートロジーに限りなく近いですが、要は「構造化しましょう」「ABAの強化の仕組みを活用しましょう」という意味になるので問題ない、ということです。)
私の息子は、アスペルガーと診断されてます。
私は息子を、普通の子と同じ常識にあてはめようとしてますが、やはりそれは間違った考えでしょうかね?
どうしても健常児に近付けたいと気持ちが先立ってしまってます。
やはり常識を打ち破るような、考えを持たないと駄目ですか?
すみませんアホな質問してごめんなさい
コメントありがとうございます。
まず、私は「先生」ではありません。ただのアマチュアの、自閉症児の父親です。
で、そのうえで、ご質問の件ですが、コメントを読んでいると、既に答えをお持ちなんじゃないかと思います。
子どもの「現状」ではなく「あるべき姿」みたいなものをどうしても見てしまって、それを追いかけたくなる気持ちも理解できます。
その一方で、そういった行為が「大人の常識・あるべき論の押し付けではないのか」という疑問をもつことも、自然なことだと思います。
そういった問題意識を持ちながら、悩みながら子育てをすることは、多くの自閉症児の親御さんにとって自然なことだと思いますし、そういった試行錯誤のなかで、やがて家族ごとの「答え」が見えてくるんじゃないかと思います。
心という概念がいかに曖昧なのかが、よく分かりました。
今回は「自由意志」について一つ疑問があります。
もし脳をコンピュータのようなもの
だととらえるとすると、そのコンピューターを動かす人が必要になりますよね。
私はそれが自由意志なのではないかと思うのですが。
いかがでしょうか?
コンピューターを動かす人がいなければコンピューターは自発的には動きませんよね。
そらパパさんは「自由意志というのは幻じゃないだろうか」と考えているそうですが、
それでは
「脳は、入ってくる刺激に反応しているだけ」と考えるのでしょうか?
もし、自由意志というものが幻だとすると以下のような状況はどうしておきるのでしょうか。
私は初めて人と接するときなどに、凄く気を使って、行動(発言など)をする前に「ああしたらいいか、いやこうしたほうがいいか」と頭の中で行動を選択します。
そんなとき私は頭の中で意識的に行動しているという感覚があります。
外部からの刺激に、ただ反応しているだけとは思えないのです。
こういった行動をそらパパはどう思われますか?
拙い疑問で申し訳ありませんが、
お答え頂けたら大変ありがたく思います。
脳をコンピュータのようなものと考えると、それを動かす人は必要ありません。
なぜなら、コンピュータは自ら「考え」ず、自動で動いているからです。
それは、コンピュータに自由意志はないと私たちが一般に認識していることと対応します。
一方、もしそこに「コンピュータを制御するオペレータのようなもの」を想定すると、それは「ホムンクルス問題」を引き起こし、無限後退にいたります。
http://scarecrow.s151.xrea.com/blog/archives/2005/09/post_18.shtml
つまり、脳のなかに、さらに脳の活動をモニターして指令をだすような存在を想定すると、その「存在」はどういう仕組みで動いているのかを説明する必要が生じ、さらにそこで「その存在を動かしているような『存在』を想定することになって、無限に後退していく、ということです。
>「脳は、入ってくる刺激に反応しているだけ」と考えるのでしょうか?
ちょっと違います。
脳は、入ってくる刺激と、これまでの経験によって蓄積された「予測」とを照らし合わせながら、先を読みつつ反応している、と考えます。
そして、私たちが自由意志だと感じているものは、そういうめまぐるしい「刺激と予測と先読み反応と実際とのずれ」の行きかう脳の反応パターンによって創発される、高次の認知だと考えています。
(つまり、真の意味での自由意志は存在せず、自由意志があるかのようにだまされた「世界観」を私たちはもっている、と考えるわけです)
Mママさんが「ああしたら、こうしたら」と「考えて」ある行動をされたとして、「そう考えずに、そう行動しなかった行動の自由」が、本当にあったかどうか、ということです。
私は、なかったのではないか、と考えるわけです。
私たちは、自由意志で行動しているかのように、高度に発達した脳に「だまされて」いるのではないか、と考えるわけです。
この辺りは、心の哲学とか脳科学の世界でも、もっとも面白いところです。
人間の脳みそは、「刺激と予測と先読み反応と実際とのずれ」から自ら、ソフト・プログラムを更新、改良していく働きが、他の生物より強いのではないでしょうか?
他の生物、動物は、遺伝子とか、幼少時に親などから伝えられた部分が大半を占めるのに、人間は次々と「ずれ」を元に書き換えたり、内容を膨らましたりする能力が高い。
私は、先天的に動作性知能が低くて言語性が高いタイプのアスペルガーですけど、表情などから他者の感情などを感じる動作性知能が関係する機能が弱いのを、言葉・発言内容などから想像して読み取る言語性知能を活用する形で補って凌いでいます。
出来合いの既製服じゃなくて、手直ししていく能力が高いから、あたかも自由に行動できるように思えるのではないでしょうかね?
リンクにも行かせていただきました。
脳コンピューターを「自由意志」という小人が操作していると説明すると、その小人を操作する人が必要になって永久に終わらないという話ですよね。
そして、
意識して我々が自由意志で操作しているつもりの行動も、実は複雑にプログラムされた脳により自動的に行われているかもしれない、ということですよね。
ところで私は運命もそうかなと考えます。
自分で決めて頑張っているつもりでも本当は「決められた道を歩んでいる」のかもしれない。って感じます。
そして「あのときこうしていれば」の「あのとき」は、「なかった」のかも?と思います。
すみません。
自閉症の認知話からずいぶんそれました。
これからも、シリーズ楽しみにしてます。
コメントありがとうございます。
ご指摘はかなり本質を突いているんじゃないかと思います。
一説には、ヒトの非常に発達した大脳は、基本的には「刺激から予測し、結果から予測を修正する」ということを繰り返すという働きを担っているのではないかと考えられています。
その能力が非常に強いことが、ヒトをヒトらしくしており、「自己意識」のようなものも、そこから創発しているに違いないと考えています。
Mママさん、
コメントありがとうございます。
自由意志を否定すると、当然にして「運命論」になってしまいますよね。
そして、それを単純に受け入れてしまうと、例えば犯罪者を裁くことはできなくなってしまいます(なぜならそれは自由意志ではなく運命によるもので、避けることはできなかったわけだから)。
この辺りになると、哲学から倫理学からいろいろ出てきて、わけがわからなくなってきますね。
私も哲学については(もちろん脳科学についても、倫理学についても)素人ですから、できるのはせいぜい問題提起どまりで、ここからは一人ひとりが勉強したりしながら考えていくしかないと思います(^^;)。