http://tomokoworkdiary.sagafan.jp/e155502.html
TEACCH部の憂鬱~パート1
こちらの情報によると、いまノースカロライナ州のTEACCH部が存亡の危機にあるそうです。
CIDDは、8~9月にかけて、突然、TEACCHの長年の運営スタッフの半分を解雇しました。その中には、多くの日本人がお世話になった有名なスタッフもいます(個人名は伏せます)。そして、TEACCH部に入ってきている予算も別のところに流すようになったのだそうです。また、現時点では、CIDDは、夏の5デイトレーニングも一部のセンターでは実施しないことと、なんと、35年近くも続いてきた自閉症最前線情報の集約するメイカンファレンスも中止としています。その全部の決定について、TEACCH部部長であるメジボブ教授に相談無く行われたとのことです。現在、CIDDは、TEACCH部部長職も失くそうとしています。
素晴らしい支援プログラムがつぶされそうになっているということに対して心痛むということもありますが、逆の視点からは、どんなに評価されていても、こういった福祉・支援システムというのは政治からの力に本当に弱いなあ、ということも痛感します。
TEACCHは「特定の地域に根ざした包括的な支援プログラム」であるがゆえに、その「地域」(の勢力)から政治的に圧力をかけられると脆いということなのかもしれません。(ABAや絵カード療育などに比べると、特にそう感じます。)
ともあれ、これからTEACCHがどうなっていくのか、見守っていきたいと思います。
(上記の本のレビュー 1, 2, 3)
いつもありがとうございます。
私も、服巻さんのブログを見て、大変驚きました。
政治的な動向ににより影響を受けるのは、結局は我々支援を受ける側なのです。日本もアメリカも同じ事ですね。
自閉症支援の実践における強力な牽引力を失うわけにはいかないです。
見守っていきながら、声を上げる時には、みんなで上げていきたいですね。
そうですか、私はこのブログで知りました。びっくり、ではあるのですが、以前、こちらのブログでも紹介されていた、オーストラリア政府の自閉症早期療育エヴィデンスレヴューでいくと、TEACCHは「一部の地域に特定されたエヴィデンスしかなく…」と、確か評価は低めだったですよね。
最新の日本行動分析学会誌でも、「エヴィデンスに基づいた発達障害支援」というのがテーマアップされていましたから、何らかの圧力が、そういった世界的なエヴィデンスをベースに、強権を発令しているとも考えられますね。
ただ、もっとも身近にある支援で、もっとも成果を実感しているTEACCHですので、何か存続に協力できることがあれば、関わっていきたいですね。
コメントありがとうございます。
確かにTEACCHはエビデンスベースドな人たちからはかなり冷淡に扱われているという事実はあると思います。
そういった意味でTEACCHには弱点があって、今回の件はその弱点を突かれているということでもあるのだと思います。
とはいえ、TEACCH部というのは自閉症に対する支援の象徴的存在であることも間違いないので、存続に向けた動きが盛り上がってくることは期待したいですね。
逆にTEACCH派の人にとっては、十分に結果が出ているのだから、立証などいらないと何度も言われたことがあります。言いたくはないのですが、NC大学のTEACCHのwebサイトには、内部の人間による研究だけがのっていて、これで大丈夫なのだろうかとも思っていました。
そらパパさんが常に言っている様に、エピソード主義にTEACCHも陥っていたことが、今回の騒動の原因と思われます。
日本が中心になって国際的共同研究を早急に実施することが必要と思われますが、ASJの内部ではどのように議論されているのでしょうか?
コメントありがとうございます。
とても難しいところですね。
TEACCHは研究と実用でいうと、極めて実用の側に(リソース的にも方法論的にも)振られているものだと思いますし、さらにはTEACCHには「ハコモノを建てる」ことまで含まれていることを考えると、自然科学的なことだけでなく、社会科学的なところまでカバーしないと「立証」できないことになります。
「実用」を重視すれば研究にリソースをかけないことが効率を高めることになりますが、逆に、財政危機などで批判にさらされたとき、効果を実証するための根拠を持てなくなることにもつながります。
ちょっと別の問題になりますが、私は、TEACCHには「定義」がないんじゃないんかと思っています。
つまり、ある働きかけについて「これはTEACCHである」「これはTEACCHでない」と還元的に記述できるかといえば、多分できないのではないでしょうか。
だとすれば、その時点で「統制的研究」はできないということになってしまいます。(TEACCH外の人がTEACCHについて研究しにくいのも、まさにそのあたりに原因があるのではないでしょうか)
TEACCHが国際的にみても貴重な、成功した自閉症に対する包括的プログラムであることは論を待ちませんが、実はいまの危機に際して、TEACCHの側でやらなければならないことの第一歩は、とても基本的な「TEACCHとは何であるかを還元的に定義する」ことなのかもしれないなあ、と思います。
それができているからこそ、ABAにしても絵カードにしても、全然違うどこの大学でも実施したり研究したりできるわけですから。
定で成功したプログラムでしかなく、せいぜいノースカロライナに似た世界中の限定的地域でしか成功しないプログラムのように見えます。EBを求める事を否定的なのも自分
たち自身、薄々そのことを(「危うい」基盤の上にしか成立しないことを)感じているからではないでしょうか?
コメントありがとうございます。
スカラベさんが書かれていることと私が書いていることは対立していないと思います。
おそらくスカラベさんは、ハコモノ的なものを含む、コストのかかる支援体制を念頭に「地域限定」とおっしゃっているのだと思いますが、例えば空間の構造化をして視覚化を心がけるということだけなら、「我が家でも成功」しています。
これは、TEACCHとは何か、が定義されていないことからおこる議論の発散だと思います。
EBについては、TEACCHがそれを志向していない、忌避しているとは思いませんが、重視してこなかったのかなとは思います。
もちろん外部からの圧力に脆弱性を持つという事に
加えて内部的に冒されて変質してしまうという危険性
を危惧します。EBを軽視すればブームとして終焉して
しまうことでしょう。
少々議論がすれ違っているかもしれませんが、私はTEACCHを否定するつもりはないです。
えてして極端な還元論に陥りがちなABA系に対して、認知的アプローチを志向するTEACCHは、方法論としても、理念としても意義のある対立軸だと思います。(「TEACCH系」に属している支援者・専門家にもいろいろな方がいますし、首をかしげるような主張や取り組みもないわけではないと思いますが、それは他の療育法でも同じことです)
そのうえで、今回のような(予算削減という政治的)事態に対して予想していたよりもずっと脆弱に見えるNC州のTEACCHについて、ただ「ひどい話だ、残すべきだ」みたいな反射的な意見のみではない、より建設的な議論をしたいと考えています。
EBということについて言えば、例えばABAなら実験的な場面で容易にエビデンスが取れますが、それはそもそも療育の設計がそのようなものに限定されているだけだという側面もあります。
TEACCHであっても、実際の働きかけは行動主義的ですし、たとえば構造化された環境とそうでない環境とでパニックの回数を数える、みたいな還元的な実験であれば結果は容易に出せるでしょうし、検証もされているでしょう(詳しくは知りません)。でも、TEACCHの側から言わせれば、「それではTEACCHを評価していることにはならない」ということになるでしょうし、今回のような予算削減に対する反論にもならないでしょう(そんなことは、ハコモノを作らなくても、人がたくさんいなくても局所的にはいくらでも可能だからです)。
さらに言えば、ABAには「社会を変えていく」志向はほとんどない(あるとすれば、ABAの指導者を増やすカネを取ってくる程度)ですし、発達を考えるうえで不可欠な「長い時間」を取り扱うポテンシャルも低いです。
ロヴァース式に代表されるような「純粋培養のABA」だけからは、構造化も、視覚化も、絵カードも生まれてこなかったように思われることを考えれば、TEACCHのような「臨床的にいろいろ試していく」ことでしか発見されないことがあるのは、療育が臨床的な営みである以上、自然なことでしょう。そして、そういった「パーツ」は、TEACCHであってもEB的に検証可能です。
問題は、TEACCHとはそういった「パーツ」の集合体には還元されない「全体」である、というTEACCH側の立場が、結局のところ「還元できないがゆえに定義できない」という矛盾を解決できていなかった(ように見える)ことにあるのではないか、というのが、私の立場です。(逆に言えば、その部分以上に、TEACCHを否定するつもりはないということです。)
私もこの一文はひっかかります。なぜこのタイミングで「成功した」と言い切られるのか。
これまで定義やエピソード主義のことを厳しく言ってこられただけにダブルスタンダードではないかという気さえします。
今回のことでTEACCHが以前にまして厳しく検証されるべきなのは明らかです。
「TEACCHは失敗して遺産を多く遺した」ということもありえると思います。
コメントありがとうございます。
「成功した」は、当然ながら、「自閉症に対する包括的プログラム」にかかっています。
行政を動かし、大きな支援体制を構築することに「成功した」、という意味ではTEACCHが成功したプログラムであることは間違いないと思います。
TEACCHのような、特定の療育技法ではない「支援プログラム」「支援体制」については、大きなヒト・モノ・カネを動かせたかどうか、というのも成功かどうかの重要な1つの指標であり、ここではそれを言っているつもりですし、だからこそ過去形的に書いたつもりです。
心理学初学者です。
以前よりこちらのブログを何度も読ませて頂いておりました。
特に「心の哲学」関連の記事は何度も読ませて頂いていまして、バイブルと言ってもいいほどです。
今後も勉強の為に、しょっちゅう拝読させて頂きたいと思っています。
ところで、今回のコメントのやり取りで気になるところがありました。
まだまだ初学者である為、的外れなことを書くかもしれませんが…
>さらに言えば、ABAには「社会を変えていく」志向はほとんどない
現在、某大学にて心理学を専攻しているのですが、そこのABAど真ん中にいらっしゃる先生は「行動分析は、社会を変えることを目的としているのだ」と主張しています(と、解釈しています…多分、この解釈は外していないと思います)。
そらパパ様のおっしゃる「社会」と、僕が想定している「社会」が違うのかもしれませんが…
もしも私達を取り巻くいわゆる「社会」なのであれば、ABAは「社会」(学校 会社 地域 国 等個人が属している環境…文脈?)を変容していく学問であるという風に認識しています。
コメントありがとうございます。
行動分析の研究者が、社会を変えると主張する趣旨は理解できます。
行動分析はヒトの行動に対して独自の視点をもつものであり、その「独自の視点」を、まあ宗教的にいえば「布教」することで、社会の価値観を変えていきたい、といった方向性は間違いなくもっていると思います。
(さらに言えば、行動分析は還元主義的なので、社会=ヒトの集合体、ヒト=行動の集合体、ABA=行動を変えられる、よってABAは社会を変えられる、といった「還元主義的な社会観」もあると思いますね。)
ただ、ここで書いている「社会を変える」というのは、もっと卑近な「自閉症の療育」という領域についてです。
TEACCHが、自閉症の人のための施設を作り、労働環境を作り、「生活の場」を社会のなかに新たに作っていこうといった働きかけを含むのに対し、「自閉症へのABA」は、通常、セラピストが子どものところにやってきて、子どもとマンツーマンで能力改善を行ない、「そこにある普通の社会」に適応させていこうとするものだと言えるのではないでしょうか。
そういう比較において、ABAは自閉症の療育に際して「(個人の側ではなく)社会の側を変える」というベクトルは弱いと考えています。
早速のお返事、ありがとうございます。
内心ドキドキしています。
>TEACCHが、自閉症の人のための施設を作り、労働環境を作り、「生活の場」を社会のなかに新たに作っていこうといった働きかけを含むのに対し、「自閉症へのABA」は、通常、セラピストが子どものところにやってきて、子どもとマンツーマンで能力改善を行ない、「そこにある普通の社会」に適応させていこうとするものだと言えるのではないでしょうか。
>
>そういう比較において、ABAは自閉症の療育に際して「(個人の側ではなく)社会の側を変える」というベクトルは弱いと考えています。
そらパパ様の認識と、僕の認識で大きなズレがあるのがまさにこの部分なのですが…
なんというか、うまく表現できる言葉をまだ持ち得ていないのが歯がゆいのですが、「個人が置かれている社会的文脈を変える」というところに、行動分析の力点は移動しているように思うんです(というか、そう習ってる…と思う)。
教授の言葉を借りれば…
「援助-援護-教授」という連環が、行動分析なのだ…という主張。
「以前の行動分析(ABAと同義だと思います)は、教授(訓練と同義だと思います)がメインだった。でも、今はそうではなくて、『その人が、今あるがままで、色々なことが出来るような手助け=援助』がまずあって、そして『それを社会に要請していく作業=援護』によって、『その人が、今』社会に進出出来るような社会を作る。その社会が出来たら、その上で『更なる行動レパートリーの獲得=教授』がある」だと思います…
そして、この連環は更に続いていくと。
「マイノリティーをマジョリティーに近づけていく=訓練する」と考えるのではなくて、「マイノリティーはマイノリティーのまま、社会に出られるように社会を変える」が、「ノーマライゼーション」なんですよ…という。
で、個人的に「これ(習っていること)とTEACCHってどう違うんだろう?」という疑問がずっとあって、今回「社会を変えるという志向が無い」という言葉を見て、「むむむ…?」となりまして、コメント致しました。
借り物の言葉ばかりなので、まるで自信がありません。
先生はこの人なんですが…(既にご存知であればすみません)
http://d.hatena.ne.jp/marumo55/
リンク先を拝見しました。大学のHPのほうにも行ってみましたが、参考になる資料がありますね。
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/
こちらの、「大阪樟蔭女子大学「行動分析実習」のレジュメ」をみると、この先生の立場がよく分かります。
「第2回レジュメ」を最初から読んでいって、19ページに書かれているのが、端的にいえば私がイメージしているABAで、20ページ以降が、その先生の言われている「新しいABAの姿」ということになるのだと思います。(「援助-援護-教授」というのも、23ページに載っていますね。)
また、「第5回」「第6回」「第8回」にも、ABAによる障害支援として興味深いことが書いてあります。(ABAとして理解していたわけではありませんが、私が考えていることと近いと感じた部分もたくさんありました。)
当初いただいたコメントでは、ABAらしからぬ新しい概念がたくさん出てきてちょっと面食らいましたが、こうやって理解してみると、面白い立場だと思います。
これだと、確かにTEACCHに非常に似ている部分があって、やっていることだけ見るとあまり区別がつかないかもしれません。
TEACCHは「自閉症の人には、認知的な特異的困難がある(だから視覚化や構造化が有効なのだ)」という認知的前提をおくのに対して、ABA的アプローチではそれらの働きかけも、結果として成功した正の強化子なり確立操作として扱って認知的前提をおかないという「思想的な違い」は明確にあると思いますが、今回のコメント欄の議論の対象になっている「TEACCHという大きな枠組みを『定義する』にはどうすればいいか」という大問題に対して、この先生の枠組みは、ヒントを与えてくれているようにも思われます。
一方で、現状としては、自閉症の人への「ABA」の名を明確に掲げた療育は、有名な某親の会にしても、私営のセラピスト派遣会社にしても、各種「ABAでこんなに良くなりました」本にしても、専ら障害をもった子どもに働きかけて、社会に適応できる「普通」にまで可能な限り引き上げるということを目標としているのは厳然たる事実だと思います。(親の側も、ABAは「自分の子どもを訓練して『普通』に近づけてくれる療育法」だという受け止め方=期待を、明確にしていると思います。それがいいことはどうかは別として)
なので、やはり自閉症の人へのABAは、「現状としては」社会に向かう方向性が弱いとは言えると思います。
ここでの一連のコメントを拝見していて、「TEACCHって定義なかったっけ?」と思い、「TEACCH[とは何か」(ゲーリー・メジボブ、ビクトリア・シェア、エリック・ショプラー著、服巻智子/繁 訳、エンパワメント研究所刊)を読みなおしてみました。故ショプラー博士の、最後の著述が確認できるものだと判断したからです。
で、結論からいえば、「TEACCHとは」という形での定義規定はありませんでした。ただ、それはしょうがないことで、そらパパさんもご指摘のように、TEACCHは「制度」であり、特定の「療育法」をさすものではありません。それまでのベッテルハイム氏の説を覆すために、ショプラー氏が自閉症が情緒障害ではなく、「知覚情報の処理に問題があるのだ」とする1960年代の論文では、科学的にEBで論がすすんでいるようです。が、ショプラー氏が目指したものは、自閉症者に対するサービス全体であったようです。このサービス開発過程で作り出されたCARSやPEPといった診断・評価基準は、少なくとも私の住む北九州市では、(田中ビネーやWISCと同じように)特別支援幼稚園、特別支援学校で園児・児童・生徒の評価、現状把握に用いられており、その面だけみても、TEACCHは広い範囲で高く評価されていると私も思っています。
私のTEACCHセンターのイメージは、いわゆる「大学付属病院」のようなものでした(ここでいう「ハコモノ」ですね)。なので、そらパパさんのご意見のように、他の特定の「療育法」の評価エヴィデンスとは、ちょっと違う評価が必要であると感じます。
智子先生のブログをみると、「今は見守るとき」とのこと、しっかり見守っていきたいと思います。
コメントありがとうございます。
TEACCHは「体制」としての側面を強くもっているがゆえに、強みと弱みを持っていた、ということになるのだろうと思います。
そして「強み」にシンパシーを感じる人にとっては、「弱み」はある種優先順位の低いことに感じられて、逆に「弱み」を問題視する人にとっては、「強み」はあまり見えてこないのかもしれません。
まあ、福祉の「体制」というのは、不況のときに縮小される傾向にあることはやむを得ない必然だという側面もあるので、たしかに「見守っていく」しかないのだと思います。
http://tomokoworkdiary.sagafan.jp/e186920.html
メジボブ先生、辞職。