自閉っ子的心身安定生活!
著:藤家 寛子、浅見 淳子
花風社
まえがき
自閉っ子は進むよ
うつとの長い戦いを乗り越える
「自立」の難しさを乗り越えられた理由
セルフ・エスティームを保つためには
家族に思いやりがもてるようになった理由
心身を安定させるため、自分に言い聞かせていること
ほしい支援、いらない支援
あとがき
花風社が5年ほど前に出した「自閉っ子、こういう風にできてます!」は、新しい発見に満ちた興味深い本でした。
自閉っ子、こういう風にできてます!(レビュー記事)
弁が立ち、自らの内的世界を詳細に描写できる2人のアスペルガー症候群の人に、花風社の浅見氏が「定型者」として少し離れたところからツッコミを入れる、という形式がうまくはまっていて、「当事者もの」の自閉症本として、今までにない魅力を放っていました。
ところで、「当事者もの」は、一般論として読まれるべきものではありません。
ある自閉症者Aさんが体験したり感じたりしていることは、Aさんにとって真理であることは間違いないにせよ、それを「自閉症者は一般的にこうである」と書いてしまうと、それは過度の一般化であって、得てしてうさんくさくて信用できないものになってしまいます。
一般論を語るのであれば、個人のエピソードに頼るのではなく、統制された疫学的調査なり実験なりに基づくべきですし、仮にエピソードベースでいくなら、少なくとも何百人単位の自閉症者のエピソードから共通項を抜き出そうという努力をするべきです。
また、「当事者もの」独特の読み取りの難しさもあります。
アスペルガーの人はアスペルガーの世界しか経験していないわけですから、仮に当事者であっても、「アスペルガーの世界はこんなところが『違う』」と語る内容には、既に想像と解釈が含まれています。ですから、そのベールの向こう側にあるもっとリアルな「世界」を、読者の側が頭をしぼって見つけ出していくところにこそ「当事者もの」のおもしろさがあり、逆説的ですが、「一般化されない、生々しい個別の経験」がそこにあればあるほど有意義だということになります。
ですから、ニキさんや藤家さんという限られた個人の経験が素直に表現される、この「自閉っ子」シリーズというのは、一般化して何かの「自閉症論」とか「ソリューション」を提供しようという方向性からは一番遠いところに本来の居場所があるはずなのですが・・・。
最近のこのシリーズは、どちらかというと彼女たちの経験を解釈し一般化して、一般論やのリューションを提供する方向にどんどん進んでいってしまっていて、もともとあった魅力をすっかり失っているように見えます。(そしてそうなってくると、このシリーズに元々ある「彼女たちは典型的なアスペルガー症候群とは言い切れないのではないか」という、本来なら無視できるはずの批判が、重みを持ってきてしまうわけです)
今回の本も、一言でいえば藤家さん個人の経験を語る「当事者エピソード本」なのに、そこに、過度の一般化による「社会適応のソリューション」という意図がかぶさってきて、散漫な印象です。
一応、この本は藤家さん個人の記録だ(なので一般化する意図はない)といったような予防線は張ってあるようですが、それでも、対談相手である花風社の浅見氏の立ち位置が、かつての「自分の立場からツッコッミを入れる定型者」から、「自閉症者の体験を解釈して一般化し、解決案を出そうとする人」に変節してしまっていることは覆うべくもありません。
加えて後半では、「『専門家』でないカウンセラーはよく分かってないから余計なことはするな、重要なことは『自閉症の専門家』に任せる」といったメッセージ性が非常に色濃く出ていて、端的にいえば「政治性」を感じます(支援者を「無能な大多数」と「特別なカリスマ」に分断するような方向性は私は嫌いです。)。
そもそも、ここで出てくる「自閉症の専門家」と「カウンセラー」の定義の違いが私にはあまりよく分かりません。少し前に出た本の先生が「自閉症の専門家」として扱われているところから推測すると、単なるトートロジーが書いてあるのかな、と思ってしまいます。(つまり、ニキさんや藤家さんにとって役立ったと感じた=「自閉症の専門家」、役に立たなかった=「専門家でないカウンセラー」ということを言ってるに過ぎないのではないか、ということです。)
ともあれ、たった1人の、しかもこれまでにも既存の書籍で何度も言及されてきた同じ人のほぼ同じエピソードをソースに、「過度の一般化によるソリューション」を提供しようとするこの本は、商業出版として(つまり、お金を新たに払ってまで読む本として)評価することは難しく、やはり残念ながら、花風社がこのシリーズを間違った方向に展開していると感じざるをえないものでしょう。(というか、単なるネタ切れ?)
※その他のブックレビューはこちら。
※追記:いま、以下の3冊を購入したまま積んでる状態です。できれば近日中にレビューしたいと思います(大判本なので、どちらも通勤中に読めないのが辛いですが・・・)。
引っ込みがつかなくなって、あやしいなと思いながら背に腹はかえられないと飛びついてしまい毒を食わば皿までという感じなのでは
ないでしょうか?はっきり言って自閉症スペクトラムの問題を一小出版社がどうにかできるようなレベルではないでしょう。そしてま
ともな専門家は一発当てよう等と考えている小出版社を相手にしないでしょう。
思えば、一時の自閉症関連本ブームは過ぎ去り、(理系出版社も自閉症の書籍を出すというてんやわんやがありましたが)最近、自閉症に関する本がすくなりました。
そのような中、注目していた花風社の書籍が、その方向性を見失っているというコメントは、おそらく花風社自身にも影響するのではないかとも思います。
ところで、話は変わりますが、そらパパさんは、30代で外資系企業にお勤めとか。外資系企業は、かなり労働密度が濃いと聞いていますが、いつ本を読んで、レビューをまとめているのでしょうか?
体力の衰えを感じるウルトラマンより
いい時期も、悪い時期もありました。
でも今は、本当に安定しています。
そして、その安定はホンモノに見えます。
すべての人に当てはまらないソリューションかもしれませんが、中には参考にしていただけるものもあると思って作りました。
それとご指摘の通り、花風社は今後「ソリューション」をテーマにしていくと思います。
それは著者だけではなく、多くのASDの方々、その保護者の方々と交流する中でその必要性を感じているからです。
どの程度の専門家にご協力いただけるか(ご協力していただきたいかどうか)は、これからの問題だと思っております。
おかげさまで、つねに企画の持ち込みはいただいております。ありがたいことです。
出版社の方針など私が口を出す事ではないと思います。
だから一読者として、自閉症の息子を心から理解したいと思っている立場として、お願いです。
「自閉っ子、こういう風にできてます!」のような本をもっと出して下さい。
ソリューションは大切だと思います。
でも彼らのサポートをするためには、彼らの言葉をそのまま読める本がもっと必要だと思うんです。そして、それこそが、サポートの一歩につながると思うんです。
>出版社の方針など私が口を出す事ではないと思います。
ご理解ありがとうございます。でも口を出していただいて大丈夫です。聞く聞かないはこっちで決めますし。スルーできる脳ですから。
>彼らの言葉をそのまま読める本
そういう本もたくさん企画しています。実際に進行中のものもあって日々情報をお伝えしています。ただよそさまのブログでお伝えすべきものではないので、ここでは差し控えます。
私はASDの人と直接仕事がしたいんですね。でも直接アプローチしてくれる人はあまりいなくて、多くの場合誰か推薦者がいます。その推薦者がうざいと仕事がつまんないです。だから直接話ができる人との仕事がどうしても多くなりますね。
お邪魔いたしました。もう来ませんので安心なさってください>ブログオーナー殿。
スカラベさん、
このシリーズは売れているようですし、登場するのはニキさんか藤家さんであってほしいという読者からのニーズもあるでしょうから、結果として同じ人が何度も登場して似たような内容を語ってしまう(それでも、新しい企画よりは売れてしまう)という状態になっているのかもしれません。
当事者ものを書きたいという人はたくさんいるはずですから、単なるネタ切れというよりは売るためのやむを得ないマンネリと言った方が適切なのかもしれないな、と憶測しています。
ちなみに、これは何度も書いていますけど、私は福祉でお金を稼ごうとすること自体を批判するつもりはありません。
お金を稼げるということは、この資本主義社会で自立して継続できるということを意味しますから、基本的には素晴らしいことです。そして、お金を稼げる業界のほうが、稼ぎにくい業界よりも優秀な人が集まって発展できる、ということもあります。
ただし、福祉の世界は純「文系」の世界ではなく、それが真に福祉に資する=有意義で効果がある=かどうかが検証されなければならないという「理系」的要素を含む世界であり、それを放棄して効果がうやむや(あるいは虚偽)なのにお金だけ取ろうとする人たちは、批判されてしかるべきでしょう。
M_ママさん、
このシリーズは、結果として「シリーズ」になっていますが、実際には1冊目で完結していて、今のところ「二匹目のどじょう」はいないな、と感じています。
「当事者の言葉がそのまま読める」というのは、当事者が語っている本のなかでも濃淡がありますよね。
本書も含め、過去を物語として語るものについては、ストーリーを構築する段階で解釈や合理化が入ってしまいますから、たとえ本人が語っていても、「そのまま」からはやや遠くなると思います。そういう意味では、古典である「我、自閉症に生まれて」や「自閉症だった私へ」もみんなそうです。そういうのではなく、より「そのまま」が語られていたところが、「1冊目」の新しかったところであり、魅力だったと思っています。
ところで、まだパラパラとめくった程度なのですが、記事の末尾で紹介している「あたし研究」は、「自閉っ子」の1冊めをちょっと彷彿させるような、読みやすくて面白くて理解が深まりそうな、なかなかよさそうな本です。
当ブログにも何度かコメントいただいている門眞一郎先生が序文を寄せられていて、それによると、この本を出版社に持ち込んだのは門先生のようですよ。
ウルトラマンの父さん、
>理系出版社も自閉症の書籍を出す
もしかすると、私の1冊目の本が出せたのも、そういうプチブームのおかげだったのかもしれませんね(^^;)。
まあ、新曜社さんは理系というよりは心理学・認知哲学系ですが。
ちなみに、私の読書の時間は通勤電車のなかです。記事は、夜とか休日に書きためるようにしています。
私が勤めている会社は、部署にもよりますが、深夜まで延々と仕事をしているようなところではないので、今のところ時間のやりくりは何とかなっています。
浅見さん、
直々のコメント恐縮です。
本書についての感想は、既に記事で書かせていただいたとおりです。
ご自身もこのシリーズのどこかでおっしゃっていたかと存じますが、商業出版=読者からお金を取って読んでもらう本だということから、厳しく評価させていただいています。(ですから、たとえばこの内容がどこかのブログで無料で公開されているのであれば、評価は違ってくると思います。)
今後ソリューションの提供に力をお入れになるということで、どういった展開をなさるのか今後も注目させていただきます。
ただ、素人の私がいうのも恐縮ですが、自閉症というのは働きかけと成果との因果関係を読み取るのが非常に難しい障害であり、個々の体験談などから「こういう働きかけが効果がある」と結論づけることができることは稀だと考えています。
障害そのものを理解しよう・治そう・改善しよう、みたいな働きかけは特にそうですし、社会適応を改善するような社会的な支援についても、どういったやり方が「自閉症スペクトラムの人にとって一般的に有効か」という観点からは、疫学的に検証されなければ誤った答えを導いてしまう恐れが少なくないと考えます。
福祉のような文系的なテーマに対して「仮説や働きかけの有効性を検証・測定する」という理系のアプローチをかける文化はなかなか育ちにくいと痛感していますが、自閉症スペクトラムの人を理解し、ソリューションを提供しようとするときには避けては通れない道だと、個人的には考えております。
もしかすると関連するかもしれない情報として、当ブログでは過去に以下のような記事を書かせていただいておりますのでご参考までにリンクを掲載いたします。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111283226.html
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/120383747.html
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/121302929.html
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/114513592.html
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25582009.html
「こういう風にできてます」はおもしろく読みました。ニキさんの別の本も読みましたが、正直言ってピンとこなかったです。そらパパさんのよくおっしゃる、エピソード主義にしか過ぎないという気がしていました。
現在は、当事者のブログも玉石混合さまざまありますし、特別支援教育の展開、発達障がい者支援センターの開設普及等、教育から自立に向けてのノウハウも蓄積されつつあり、5年前とはかなり状況が異なります。それだけ、読者の側の要求が高度になっているはずではないでしょうか。
もうひとつは、なんらかのソリューションを目指すのは間違っていませんが、ひとり一人の置かれた状況も、困難さも異なるため、どうしてもオーダーメイドのソリューションが必要なことを、まず前提として頭においてほしいということですね。たとえば就労支援についても、個々人の履歴や病状だけでなく、自治体によりかなりの格差がありますから、誰かの例を聞いても直接参考にならないことが多いのが現状という気がします。
そういった意味では、どうせ金を出して買うなら、個人のエピソードはもういい、という気がしています。豊富な臨床例を含む新書などの方がよほどおもしろく、フラストレーションが少ないですから。
蛇足ですが、「うざい」とか「仕事がつまんない」って(-_-;
言葉を扱う出版社の方として、そして言葉にもこだわりを持ちがちな自閉症者とともに仕事をしたいとおっしゃるならなおのこと、驚くほど無神経な言葉遣いに思い、残念です。
http://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/749c159837d2b1a0a2d53428986becd3
当事者は工夫を語ってはいけないか?
具体的に名指しはされていませんが、どうやらこの記事が批判されているようですね。
「ブログ」ということなのでコメントなりトラックバックなりでつながりをつけようかと思ったら、コメントもトラックバックも受け付けない「ただのホームページ」だったので、やむを得ずこちらのコメントでリンクを張っておくことにします。
それにしても、この記事以外でも、相手が簡単に特定できる形で(でも具体名はあえて挙げずに)罵詈雑言が書いてある下記のような記事があったりして、あまり読んでいて気持ちがいい「ホームページ」ではありませんね・・・。
http://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/0bda0bf87ed530594f8527d37e05f36e
http://d.hatena.ne.jp/kuboyumi/20090920/1252969107
ちなみに、誤読されていない方には理解いただいていると思いますが、一応補足しておきます。
私はこの記事で「当事者はソリューションを語ってはいけない」とは一言も書いていません。そうではなく、「当事者が語る自らの問題解決法」を、過度に一般化してソリューションとして提供しようとするのは(当事者だろうが専門家だろうが利害関係者だろうが)危険だ、ということを言っています。
何が危険か、といえば、「効果がないものに、お金や時間などの貴重なリソースを浪費してしまう可能性が高まる」から危険だということです。
・・・しかし、「スルーできる脳」ですか・・・。
いつも拝読しております。
そらパパさんに同感です。
危険に気づかない関係者が、当事者のためだと勘違いし、より危険な方向に当事者を招いていることに早く気づいてほしいと思います。
コメントありがとうございます。
なぜ誤読されたのかと言えば、恐らく、私のことを最初から「こんな『うざい』ことを考えてるヤツだろう」と思い込んで、その思い込みから記事を読まれているからかな、と感じました。
ブログの他の記事でも、「こいつはこういうヤツだ」と最初から「色」を決めて、相手を解釈しているように見受けられる記述が多々見られます。
自閉症って、自分の視野の範囲だけで、これが正解だと「思い込んで」しまうとだいたい失敗してしまう難しい障害だと思いますから、そういう意味でも危ういなあ、と感じずにはいられません。
(こういったところまでは、なかなか出ている本だけでは分からないところですね。「ブログ」を書かれていることに、ある意味感謝しなければならないところです。)
役に立たないだろうな。
アスペルガー・AS成人の実感として、ASは一人一人我流で歩いていくしかないんだよなと思っていますから。人様のやり方を見てもね、、上手に真似られるなら、ASじゃないよというのが実感。
○○がこなせる様になったというのは、自分も我流で努力すれば、可能だと言う実例になるから、励みになるとは思うけど。そのための手段、やり方は、ヒント位にはなるだろうけど、、
よくAS旦那&AS子供をもつ配偶者の方が、AS子供の療育に懸命でありながら、AS旦那は「歩くATM」と愚痴るのを目にするのですけど、これってAS子供に、ASはがんばればお父さんのように会社員・社会人としてはやっていけるようになるけど、家庭人としてはダメ=結婚してはいけませんと、毎日、目の前で実例を持って教えているようなものなんだよな。
AS旦那も工夫し、定型の配偶者も工夫して、家庭を営んでいく姿を見れば、AS子供も「お父さんができたのだから自分もできる」と思えて、障害に押しつぶされそうになっても踏ん張れると思うのだけど。ASが社会で何とかやっていけるといのは、毎月、給料を持ってくるAS旦那が実例になっているしね。
AS旦那とAS子供、同じASでも障害の顕れ方は別だし、AS子供の将来の配偶者も定型と言う点では同じだけど別人だから、AS子供が将来の家庭での工夫・ソリューションは別になる。けれど、家庭を営める、その中で育ってきてことは、何にも替え難い踏ん張る力を与えてくれる源泉になると思う。
工夫・ソリューションを定型化、一般化すれば良くなると言う発想は、人真似が上手な定型さんらしい発想だなといのが一人のAS成人の感想です。
コメントありがとうございます。
ソリューション、という言葉には、それ自体、「一般化され、多くの人に有用なもの」という意味が含まれると思います。
自閉症スペクトラムの場合、それが非常に難しいものになるであろうことは、既にこれまで繰り返し言及してきたとおりです。
でも、それでも、「ソリューションを出そうとする努力」を否定したくはないと思っています。
「ソリューション」の難しさを理解しつつ、それでもそれを出そうと、正しい方法で頑張っている人は私は応援したいと思っています。
「危うい」と私が繰り返し書いているのは、そういう「難しさ」を見つめるところからではなく、狭い知り合いのなかで共感を得た、みたいなところから「ソリューション」があっさり見つかる、というような考え方を感じるところへの心配です。
そらパパさんのblog時々拝見させていただいてます。
今回の件とは違う話題かも知れませんが
自分も、似たような憤り感じた事があります。
うちの息子も重度知的と自閉症なんですが
とある障害関連に携わる方から
挨拶や感謝の言葉が出来ないお子さんはどこに行っても就労おろか、施設でも非常識に見られるから…
って言われたので、できるだけ息子には
挨拶のスキルを癖つけるように躾ていますけど
息子の知的では難しい、そんな息子に対しても
非常識になるのかなぁと悲しくなりました。
だいぶ今回の記事とは違ってしまいますが?(汗)
そんな事を思いだした次第です。
場違いな私のコメント申し訳ありません、失礼しました。
コメントありがとうございます。
いま、「ぼく、アスペルガーかもしれない。」のレビューのほうのやりとりでも、似たような話題が取り上げられていますね。
私は、「常識」ということばを、障害者支援で使うのは、はっきり言って「非常識」だと思います。
「スルー」ということばも話題になっていますが(^^;)、私たちがスルーすべきは、まさにこういう「非常識な」意見だと思いますよ。