この「行動分析学的な考えかた」というのは、もちろん一般的な意味で、「いかがわしいものにだまされにくくなる」という効果があります。
ただ、前回の記事では、そこからさらに踏み込んで、なぜそれが特に自閉症の療育について重要なのか、という点についての説明が十分ではなかったように思いましたので、今回の記事で補足したいと思います。
なぜ、行動分析学的な考えかたが、何よりも「自閉症の療育」において重要なのか。
それは、
自閉症という障害がコミュニケーションの障害だからです。
ちょっと謎かけっぽく書いてみました。(謎の答えは、以下の文章にあります。)
そもそも「療育」というのは、どんな働きかけでしょうか?
改めて考えてみると、「療育」というのは、何かこちらから子どもに働きかけて、それを子どもが受け止めてリアクションを返してきて、それにまたこちらが反応して、という、「働きかけとリアクション」が繰り返される、そういう構造が大前提になっています。
仮に、こちらが何かしても反応がなければ、それは働きかけていないのと同じになってしまいます。
つまり、療育というのはある種の特別な「コミュニケーション」だと言えます。
コミュニケーションといっても、音声言語に限定されたものではなく、働きかけに反応を返す、そういうやりとり=相互作用のことを指しています。相互作用を繰り返していきながら、互いに変化し、社会や環境とのかかわりについて学んでいく、それが療育の本質です。
ところが、自閉症という障害は、まさにその「コミュニケーションがうまくできない」、その結果として「社会や環境とのかかわりがうまくできない」、そういうところに困難が生じる障害だといえます。
つまり、療育をする前提となっているスキル、まさにそのスキルそのものに障害をかかえているのが自閉症だということになります。
これは、自閉症療育を考えるうえで、非常に重要な出発点になります。
コミュニケーションに問題があるわけですから、当然の帰結として、療育そのものの難易度が上がります。
それは、こちらからの働きかけによって、子どもから反応を引き出すことが難しいということでもありますし、逆に、子どもが何か反応してきたとき、その反応がどういう「意味」をもっているのかを私たちが理解することも難しいということでもあります。
例えば、子どもが「おなかが痛い」とします。
健常のお子さんであれば、自分から親にむかって「おなかが痛い」と言うでしょうから、親はそれに対して「どうしたの?うんちは固い?薬飲んで静かにしていようね」と答えて、薬を飲ませれば終わりです。
ところが、これがことばの遅れている自閉症児だと、機嫌が悪かったり突然のパニックを起こしたり(まだこういった反応なら何か嫌なことがあると分かるだけマシかもしれません)、あるいは自傷や他傷、常同行動などが、「おなかが痛い」ことのサインになってきます。
こういった子どもの行動ないし反応から、その「意味」を理解することは、簡単なことではないでしょう。
その結果、親はそういった「問題行動」を解決しようとして、パニックを無理やりおさえ込んだり、好物を与えたりといった見当はずれな行動をとってしまう可能性が高くなります。
そして、そうこうしているうちに、もしかすると子どもの腹痛が自然に解消されて、腹痛が原因の問題行動は消えていくかもしれません。
そうすると、親としては、その直前にやっていた(腹痛を治すのとは無関係の)働きかけが「効いたんだ」と誤って理解してしまう、というわけです。
このように、親と自閉症児との間の「コミュニケーション」がうまく成立していないことによって、親は子どもの「本当の問題」が理解できず、また、親からの働きかけも機能していないといった状況が、しばしば起こります。
さらに重要なことは、自閉症の療育の場合、このような「子どもの問題に対する誤った理解、解釈」が後日修正されることも期待しにくい、ということです。
それは、「あのときは実はおなかが痛かったんだよ」と後で子どもが教えてくれる、そういったコミュニケーションも成り立たないからです。
このように、自閉症はコミュニケーションの障害であるがゆえに、「子どもはこういう困難を抱えている」とか「こう働きかければこういう効果がある」といった、障害に対する理解や働きかけが検証・修正されにくい(特に、子どもが重い自閉症である場合、事実上、検証・修正はまったくされないと言ってもいい)という顕著な特徴があるわけです。
そうすると、どうなるでしょうか。
簡単なことです。間違った解釈に基づいた間違った働きかけであっても、それが「間違っている」ということが証明されにくくなり、淘汰されにくくなるのです。
不幸なことですが、実際、自閉症についての「理解」や「解釈」、そして働きかけの「理論」「テクニック」のなかには、まさに「検証されない=ダメ出しされない」がゆえに、根拠や実効性がほとんどないにもかかわらず、淘汰されずに生き残っているものがたくさんあるように感じます。
特に、「愛着」とか「不安」、「トラウマ」のような、目に見えず観察・検証不能な概念のうえに成り立っているような「自閉症論」については、そもそも理論自体が検証不能である上に、さらに自閉症児のコミュニケーションの困難のために実践の場面においてもその有効性を検証していくことが難しいわけで、まさに「思いつきで何でも言える」ようなものになってしまいがちであると(多少厳しいですが)判断せざるを得ません。
ここでようやく、前回の記事とつながってきます。
なぜ「行動分析学的に考える」こと、つまり「目に見えない概念に振り回されないようにする」ことが、自閉症の療育において特に重要なのか。
それは、そもそも自閉症というのは、分かりにくく、療育が難しいがゆえに、「目に見えない概念に頼った、どんな風にでも解釈できるような理論・テクニック」に陥ってしまいやすいからなのです。
肝心の当事者である自閉症児はコミュニケーションに困難があるため、「そんなやり方、全然正しくないよ!」と指摘してもくれません。
これは、自閉症に特有の構造的な問題です。
だからこそ、まさにその自閉症にかかわる私たちは、その陥りやすい「ワナ」に引っかからないように、「療育リテラシー=療育のために必要なノウハウ」を高める必要があるわけです。
そして、その「療育リテラシー」の最初の一歩として欠かせないのが、行動分析学的に考えることだ、と言えるのではないでしょうか。
最後に改めて、前回もご紹介した2冊の「行動分析学入門書」をご紹介しておきます。
どちらも、すらすらと読めるほど易しくはありませんが、前提知識を必要とはせず、じっくり読みさえすれば理解できる内容だと思います。
「長く役に立つ知識」を得るために、興味をもたれた方はぜひ挑戦してみてください。
行動分析学入門―ヒトの行動の思いがけない理由(レビュー記事)
行動分析学マネジメント-人と組織を変える方法論(レビュー記事)
しかも厄介なのがそれに思い当たる節があるということ。 占い師に「今あなた悩み事があるでしょう」といわれるのと同じなのだと思います。
コメントありがとうございます。
まさにご指摘のとおりで、それらのことばは、簡単に「トートロジー的療育法」を組み立てることができる「マジックワード」です。
(まあ「フラッシュバック」については、言語化・行動化されて観察可能な場合もあるでしょうから、そうとも言い切れないかもしれませんが)
これは、勉強会などでお話させていただくときにいつも言っているのですが、療育というのは、観察不能なものを相手に想像力で働きかけるものではなくて、自閉症の人と環境との「目に見える接点」に対して「目に見える働きかけ」をすることなんだ、ということに尽きると思っています。
そういう具体的なことを語らない「療育法」は、「愛情」とか「不安」といったキーワードで私たちの感情面の動揺を誘いますが、そういうものに負けない強さをもつことも大切ですね。
いつも寄らせていただいてます。
感じのいいブログですね。
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順位下がりっぱなし^^です。