妻は気を使って伏せて書いたようですが、これは、私がやっていたのを娘が真似した可能性が高いです(笑)。
夕食を食べていて、おかずを食べきったのにごはんと味噌汁が余ってしまったときなどに、自宅の気軽さでねこまんまにして食べたりすることがあった(そしてそれを、欲しがる娘にあげることもあった)のですが、どうやらそれに味をしめて、自分でやるようになったようです。
まあ、確かに行儀のいいことではありませんし、私自身も最近は「悪い手本」にならないよう自粛しているのですが、見た目の印象が悪いということを横に置けば、これはなかなか素晴らしいことなんじゃないかな、と個人的には思ったりもしています。
まず、これは相当高度な「模倣」だということ。
当然、こちらからプロンプトをやってもいないですし、わざわざに注目させたりもしていないわけですから、自分で観察して、自分でゼロから模倣した、ということになります。
次に、やっていることが結構高度な「微細運動」だということ。
娘は、スプーンで茶碗のごはんをすくって、それを味噌汁に軽く通して、そのままスプーンで食べています。スプーンからごはんをこぼさずに、かつ、ちゃんと味噌汁につけて「ねこまんま」として食べるためには、強すぎず弱すぎずの繊細な「スプーンさばき」が必要です。もともとあまり微細運動が得意ではない娘にしては、ずいぶん器用なことをやっているなあ、と感じています。
さらに、食事という行為についての明確な「意図」を感じさせる行動だということ。
昔を思い出すと、娘はもともと食べることは好きでしたが、ごく最初のころには「与えられたものは何でもそのまま食べる」という受動的な時期があり、次に「好き嫌いや食べる順番へのこだわりが出てくる」という、やや自主性が見え始めた時期がありました。
最近は、ソースやマヨネーズなどへの「調味料」への興味(放っておくと親が食べた後の皿のソースをスプーンでかき出して食べたりしますから大変です)が出てきたりもしていたのですが、今回の「ねこまんま」というのは、さらに一歩進んで、「料理」とまでは言わないまでも、かなり「クリエイティブ(創造的)」に、自分の食べたい味や食感を作り出そうとする行為だ・・・ともとらえられます。
2歳くらいの頃を思い出すと、口のすぐそばに食べ物を持っていくと口を開けるだけ(それでも、ほとんどそれが唯一のこちらの働きかけへの「反応」でした)だった娘が、嬉々としてごはんを味噌汁につけて「ねこまんま」を作って食べているのを見ると、私個人は「行儀が悪い」ということより「すごい成長だなあ」という感動のほうが先にたってしまったりするわけです(^^;)。
>発達障害にとって「教えられる」ことは実は非常に困難< であることは療育の場面でも同じだろうから、>自分(発達障害者)なりにいろいろ試行錯誤、工夫していく結果に師(支援者)の助言を体験的に確認< しないと、我流でやらないと身に付かないことを、支援者や親がどれほどわかっているのでしょうかね??
と思っています。
そらまめパパさんのように、きちんと評価できる目を一人でも多くの方がもたれますように!
参照 我流
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20090807/1
子供の成長を実感し、喜べるって素敵ですよね。
ちょうど2歳の頃を比べて、こんな風にできるようになるとはと感動する気持ちは、普通の育児では味わえない感慨深さがありますよね。
自分で要求すれば、それも成長だし、生意気なことを言うのも成長、困らされても、それも成長だと思える、とても素敵なことだと思います。^^
困った行動(?)でも、そらパパさんのように分析すれば、成長の証と捉えられるんだなあと再認識しました。
障害を持つ子が親からみて可愛いのは、親と濃密に関わる期間が長いからなんだろうなあと思っています。
コメントありがとうございます。
これは以前も書いたことがあるのですが、子どもが今までと違う新しいことをした(している)ときというのは、どんな形であれ「成長」していることは間違いなくて、それに対していい悪いの評価をするのは私たちの価値観の側ですね。
また、価値観の問題に加えて、子どもの行動を勝手に親が「解釈」して意味を与えることも、それをやらないと子どもの行動が理解できないから仕方ないのですが、慎重にやらないといけないことだと思います。
今回の記事で書いていることも、端的には「私の価値観」に基づいた、「私の解釈」に過ぎないわけですが、子どもの潜在的な「伸びる・伸びている力」を支えていけるような「価値観」と「解釈」をもっていたいな、と思います。