前回、早期集中介入の効率の悪さの原因の1つとして、コミュニケーションそのものよりもことばの発声を先にトレーニングするといった、音声言語へのこだわりを指摘しましたが、このような「本質よりも形式を重視する」傾向は、早期集中介入全体を色濃く覆っていると感じます。
そういった傾向がもっとも端的に表れているのが、早期集中介入がそもそもの目標にしている(あるいは「効果」として喧伝している)、「自閉症の症状がなくなる」あるいは「自閉症だと周囲から見られなくなる」といった状態です。
私は、この目標設定自体も、やはり「変だ」と思わずにはいられないのです。
自閉症は、単なる環境やしつけの問題ではなく、先天的な脳機能の障害であることはほぼ間違いがなく、その障害は一生涯続くものです。
本人の努力により社会に適応できるようになったとしても、それは根っこにあるさまざまな困難さが消えたわけではなく、そういった困難をうまく乗り越えて、たくましく社会を生きていけるように「成長」した、ということです。
(この辺り、自閉症の方が例えばどんな苦労をしているのかということは、過去にご紹介した「自閉っ子、こういう風にできてます!」や「俺ルール!―自閉は急に止まれない」、「この星のぬくもり 自閉症児のみつめる世界」に分かりやすく描かれています。)
ところで、困難を乗り越えて適応するということは、必ずしもその困難なことをそのまま苦労してやるということを意味しません。
例えば、足の不自由な方が車を運転するとき、普通の車を一生懸命訓練して運転するよりも、そういった方のために改造された車を運転するほうが、はるかに短い時間でマスターすることができ、しかもはるかに快適で安全です。
自閉症の場合も同様でしょう。何しろ、自閉症の方が苦労している様子を見る限り、自閉症者の認知面での困難さは、車を運転するのに足が不自由な場合に優るとも劣らないと思います。
ところが、早期集中介入では、自閉症の原因が脳の障害にあることを前提としているにも関わらず、最終的な目標を、「健常者と同じ行動をすること」においてしまっているように見えます。
前提と目標が合っておらず、とても「不思議」な論理になっています。先の例でいえば、足が不自由だと分かっているのに、足を使って普通の車を運転させるべきだと考えているのと同じなのではないでしょうか?
これでは、トレーニングに膨大な時間がかかるのは当たり前でしょう。
しかも、それだけの苦労をしてようやく達成された状態は、自閉症者の認知特性を考慮した、もっとコンパクトな療育と比べて、本当により高い発達レベルまで到達できたと言い切れるでしょうか? 私には、疑問に思えます。
ただひたすら、健常者の行動パターンを細分化してそれを行動レベルで教え込むというのは、サーカスや水族館で動物に「人間のような」芸を教えているのと、本質的にほとんど変わりがありません。こういった教え方では、トレーニング以外の場面でも成果を応用する「汎化」が起こりにくいことは容易に想像できます。
それに加え、健常者の行動パターンを全部マネするのが、本当に一番いい目標と言えるのかどうかも疑問です。きっとその中には、自閉症児にとってやりたくないこと、覚えても使う機会がないこと、他のやり方ならずっと楽にできることがたくさん含まれているはずです。
私たちが目指すべき、より「効率の高い」療育法とは、ただ行動のレパートリーをこま切れに教え込むのではなくて、社会で適応し生きていくために必要なスキルを厳選し、優先順位をつけ、そのスキルを自閉症児が抱える認知障害の中で最も効果的に習得させる方法に頭をしぼり、ストレスにならないように教えていく、そういったものでなければならないと思うのです。
※早期集中介入についてかなり批判めいたことを書きましたが、実際には、早期集中介入を開発したロヴァース自身のものも含め、最新の自閉症児のための行動療法プログラムはかつてよりもずっと効率的になってきているといった話も聞きます。
ただ、日本で一般に知られている、いわゆる「早期集中介入」は、まだまだそうはなっていないと思います。
そういった意味でも、私の関心は、少しずつ、海外の最新の療育ノウハウに向き始めています。
先日投稿させて頂いた「自閉症児(7歳)の父」です。
そら父氏のサイトを先月知り、徐々に読み進んでおります。
本記事を読んで昔の出来事を思い出しました。
息子が3歳ぐらいの頃、私の父に「過保護のせいなんじゃな
いのか?」と問われて、私は「左手が不自由な子供に茶碗は
左手で持てと言う人間をどう思う?」と問い返しました。
それは父に対する言葉というよりも、自身の療育の方向性に
係る戒めであったように思います。
私も「治る」という表現には哀しみを覚えますが、それでも
限りなく「治る」に近い状態、私の父のような人間から見れ
ば「治った」、いやむしろ「やっぱり初めから障碍なんかな
かったんだ、私の言った通りただの過保護だったんだよw」
としか理解しようのない状態というものは存在するのだと、
信じています。
初めから軽かったのか/軽くなったのか、そんなことは別に
どうでもいいし、軽くなったのが療育のせいなのか/それとも
単に環境の刺激がプラスに働いただけなのか、そんなことも
どうでもいい。
当事者ですらその密度に気付かないほど高度に快適化され、
娯楽や日常に溶け込んだ療育、そんなのがぽんぽん思い付
いて、ぽんぽこ実現できれば良いのですけれどもね、なかなか
能力が追い付きません。
コメントありがとうございます。
この記事はずいぶん前に書いたもので、今はこの記事を書いたときと比べると心情はかなり変化しています。
いま、大切だと思うことは、「子どもにとってどうなのか」ということをまず考える、ということです。
親から見て、「治っている」「治っていない」といったことは、実は極論すると「どうでもいい」ことです。
もっともっと大切なことは、子どもが自分の人生を「幸せだ」「自分の人生だ」と思って、一生をまっとうできるかどうか、そこにあるのではないでしょうか。
親は、そのためのサポートを提供するための存在です。
療育も、そのためのサポートを提供するための手段です。
そして、親自身にも、自分の人生を「幸せだ」「自分の人生だ」と思って、一生をまっとうする権利がある、と思っています。
でも、親は自立した大人ですから、その「権利」を勝ち取るために、自らが努力する義務はもっていると思います。
子どもの人生を幸せにするサポートをし、かつ自分自身(そして家族も)の人生を幸せにする努力をすること、その2つが、「家庭の療育」というものだ、と強く思っています。