2009年07月14日

「自閉化」しないウェブ

経済学者でアルファブロガー(影響力の強いブログを書いている方)でもある池田信夫氏が、最近エントリーしたとある経済書についての書評のなかで、「自閉的」「自閉化」「autism」といった用語を使っていらっしゃいます。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/bdb98e74565fb22155e55aa31e07fb3e
「自閉化」するウェブ - 池田信夫 blog

池田氏は経済の専門家ということで、自閉症についてはそれほど詳しくないのだと思いますが、このエントリは全体的に「自閉」というキーワードの扱いがちょっと雑(いわゆる古めかしい「社会的引きこもり」に引きずられた概念で使っているように感じられます)で、自閉症という障害について多少誤解を広めてしまう書き方になっているな、と感じました。
ただ、その点についてはコメント欄他で既に批判も出ていますので、議論はそちらに譲ります。

それより見逃せないのは、「ウェブの情報を効率的に『フレーミング』すること=『自閉的』テクノロジー=ウェブの『自閉化』」といった言説からみると、このエントリ全体が「自閉症」という障害について根本的に誤解していると思われることです。

なぜなら、

自閉症というのは端的に、「フレーミングができない」という障害だと考えられるからです(注)

http://soramame-shiki.seesaa.net/article/106590921.html
フレーム問題とTEACCHの構造化

自閉症の人は、あまたある情報のなかから意味のあるもの・関連のあるものを取捨選択して有機的に再構成したり、ノイズと信号を仕分けたり、ある概念についての根幹と枝葉末節を区別したりすることが非常に苦手です。(個人的には、それが自閉症という障害の本質でありすべてであるとさえ考えています。詳細は拙著こちらのシリーズ記事を参照ください。)

私は、経済学における「フレーミング」という用語を詳しくは知らないのですが、それがロボット工学・認知科学における「フレーム問題」と同じ、「認知の枠組み」「世界の切り取りかた」という意味なのであれば、「自閉症的な認知世界」というのは、「フレーミングがうまくいっていない認知世界」「適切なフレームがないために、まとまった世界観が構築できない認知世界」である可能性が高いのです。
そして、そのフレーミングの問題を解決するための方法論として、例えば「TEACCHの構造化」のように、支援者が環境を改変して、わざわざ人為的に「フレーミング」するといった自閉症児者専用の支援方法が存在し、実際に療育効果が高いと言われています

ですから、ウェブが「フレーミング」機能を高めて知的活動を促進する、あるいは「下らない情報を排除して必要な情報だけを見る」ことができるようになる、といった状況を表現したいのであれば、それを「自閉的テクノロジー」とか「『自閉化』するウェブ」と呼ぶのはまったく不適切(むしろ正反対)で、あえて言うなら「『非自閉』(定型?)的テクノロジー」「非自閉化するウェブ」と呼ぶべきだ、ということになるでしょう。


さらに言うならば、ウェブには基本的に「フラット化」という力が常に働いていて、静的な秩序によって自らの制御下におこう、というさまざまな勢力(善意のものもそうでないものも、個人レベルのものも国家レベルのものも)の野望をことごとく打ち破ってきました。国家が情報統制をしいているはずの事件の情報が、一介の市民によって次々と発信されるといった驚くべき事態が起こるのも、その現われでしょう(もちろん、そういう「秩序を拒否するウェブ」の姿を「残念」に感じたりする人も、中にはいるでしょうが)。

それは言い換えれば、「既存のフレームが壊れていく」「誰かにコントロールされたフレームなどない世界観が生まれる」ということであり、これこそウェブの真の革命的な力だと言えるのではないでしょうか。
ウェブテクノロジーとして「フレーミング」を推進するような方向性は、部分最適的には成り立つかもしれませんが、ウェブ全体がそういう方向に進むことは考えにくく、もしそれが実現したら、それはウェブにとってはむしろ「退化」だと私は考えます。

そう考えると、秩序化されることを拒否し、あらゆる情報をフラットに扱おうとする動きを止めないウェブのダイナミクスのことを「『自閉化』するウェブ」と表現するのであれば、相当無理があって意図が伝わりにくい表現ではありますが、ぎりぎり間違いとは言えない・・・かもしれません
もちろん、これだと引用したエントリとは正反対の定義になってしまっている気がしますが(^^;)。

最後にもう一度書きたいと思います。

「フレーミング機能が強い」のは「非自閉的」な人であって、自閉症の人は、この世界をフレーミングすることが困難なために苦しんでいる人たちなのです。
そういう困難をもった自閉症の人たちの大変さに、少しでも思いをはせてくれる人が増えたらいいな、と思います。

(注)この仮説については、個人的には妥当性は高いと考えていて、下記の拙著などでも詳しく書いていますが、必ずしも一般的に広く共有されたものではないことを申し添えておきます。


自閉症―「からだ」と「せかい」をつなぐ新しい理解と療育
posted by そらパパ at 20:00| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そらパパさん

また当たり前の事、書いてたらごめんなさい。
いつもうなづきながら読ませてもらってます。

読ませていただいて、やっぱり自閉症という名称が悪いんだなと感じました。

そらパパさんのおっしゃるように、「自閉」と「自閉症」は、実際の現象が正反対ともいえますよね。

自閉症は「情報を選り分けて入力出来ない」という「閉じる」とは逆の状態なのに、Autismも自閉症も「自ら閉じる」というような「自ら意識して」閉じこもっているような意味。

この「ウェブの自閉化」では「自閉」や「自閉的な」という言葉を、本来の意味に則して使っているのに、その同じ言葉が「自閉症」という言葉で使われている。

そこが問題なのかなと思いました。
Posted by マオママ at 2009年07月15日 16:20
マオママさん、

コメントありがとうございます。

私個人としては、実は呼び名には基本的にこだわりはなかったりします。
自閉症でも発達障害でもどちらでもいいですし、障害でも障碍でも、そんなことは本質ではないと思っています。

さらにいうと、Autismの原意である「Auto=自己」にしても、それの訳語である「自閉」にしても、深く考えると意外と的確な表現かもしれないな、と思ったりもするのです。

池田氏のエントリでは、「自閉的」ということを、「周囲の情報を適切なフレームで取り込んだ上で自己完結する」といったニュアンスで使っていて、これは(自閉症の特性ということでいえば)明らかに誤りなのですが、そうではなくて「周囲の情報を取り込まずに、(やむをえず)自己完結する」ということでいえば、確かに自閉症というのは「自閉」的なんじゃないか、と思うわけです。

まあ、とはいえ、「自閉」というのは誤解されやすい表現であることは間違いないですから、何かうまい言い換えができれば、それに越したことはないのかもしれませんね。
Posted by そらパパ at 2009年07月15日 22:15
はてなで何故か今になってTOPにエントリ紹介があったので、訪れてみました。

池田氏の理屈はともかく、「自閉」ということばは当たらないな、と思いました。

というのもあのエントリを読んで直ぐ思い当たったのが「適応と最適化」の類で、各人各様にツールを使いやすくしているだけなんじゃないか、と思ったわけです。

その過程はまさに「autism」だと思います。しかし、「自閉」か、と言われればどこか違う気がするのです。
Posted by あいうえ夫 at 2010年01月21日 16:43
あいうえ夫さん、

コメントありがとうございます。

そうですか、アクセス記録を見ていたら、池田氏のブログからいらした方が急に増えたので、なぜなんだろうと思っていたところでした。

autismの語源であるauto- という接頭辞は、確か「self」という意味だったと思います。

http://www.rondely.com/zakkaya/atama/arch3.htm

autismが「自閉」と訳されたのは、「自分自身で完結してしまって外界との関係がない」というニュアンスからなんだろう、と個人的には理解しています。
Posted by そらパパ at 2010年01月21日 23:35
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