そんなわけで、ブログのなかが「変な本のレビューだらけ」になってしまっていますが、いましばらくご容赦ください。
動きが活発化してますね。
「自」らに「閉」じこもらない自閉症者たち―「話せない」7人の自閉症者が指で綴った物語
編:ダグラス・ビクレン
エスコアール
エスコアールといえば、もはや自閉症界(というか自閉症FC界)の有名人と言っていい、東田直樹さんの本をたくさん出している出版社として知られていますが、この会社は最近、出版活動を越えた、FC(ファシリテイテッド・コミュニケーション:独力でコミュニケーションできない障害者が、特殊な他人の補助によりコミュニケーションできるようになると主張する代替療法)全般の普及活動を活発化させています。
そのFC界の「権威」と呼べるのがダグラス・ビクレンという人で、この人が自閉症「療育」にFCを持ち込んだ「第一人者」ということになっています。
最近、下記のようにエスコアール社がこの人を呼んで何度も講演などをやっていて、「次に何が出てくるのだろう」と興味をもって見ていたのですが、とりあえず、出版サイドでの現時点での「集大成」が、この本ということになるのでしょうか。
http://escor.co.jp/gr/dn-forum/
http://katari.umin.jp/
↑なんと東京大学の大学院まで取り込まれています。どうした最高学府。
さて、本書の話題に移りますけど、なんだかずいぶん高価な本です。値段を見たとき、一瞬読み間違いかと思いました。
少なくとも、一般の人向けに売る気がない値段設定であることは間違いないようです。
で、実際中を見てみると、これはどうやら「専門書」のようなのです(!)。
かなり分厚い本ですが、最初の半分近くが、ビクレン氏自身による「自閉症論・FC論」になっています。
ものすごいボリュームなので立ち読みでは到底読みこなせませんが、基本的には、既存の自閉症論を「先入観をもった理論から演繹するという誤ったアプローチ」であると批判し(具体的には、コーエンとかハッペのような心理学的的アプローチが攻撃の対象のようです)、自閉症の研究は「質的」でなければならないとします。
そのうえで、その「質的」で適切なアプローチのもとでは、自閉症者は豊かな「表現世界」を内に持っていることを発見することができる(そのための手法がFCだ、と言っているわけです)のだから、「先入観にとらわれず」それを引き出すことが重要なんだ(そのための手法がFCだ)、といったことを主張しているようです。
また、当然のことながら、FCに対する批判に対する反論にも、かなりのページが割かれています。
で、その後は、実際にFCによって自らの考えを表現できるようになったとされる自閉症者たちが、1章に1人ずつ登場するのですが、ここも、自閉症者自身が書いているというのではなく、部分的にインタビューや本人の手記と称するものははさまれているものの、基本的にはビクレン氏をはじめとする研究者の側が「地の文」を書いている(つまり、語っている本人は自閉症者ではなく研究者)、という体裁になっています。
ちなみに、少し前にコメントで話題になった「僕は考える木」に登場する「ティト」という人も、この本に登場するので、やっぱりこの辺りのラインは全部つながっているんだな、と改めて納得しました。
イラストもまったくなく、ひたすら文字でびっしり埋まっていて、文章も難解で、初学者むけに噛み砕いて解説しよう、といった雰囲気はまったくありません。
やはりこの本は、確かに、研究者・専門家向けに書かれた「専門書」という位置づけのようです。
まあ、タイトルに、原題にはない「7人が綴った物語」なんていう副題をつけていたり、あとがきには例によって東田さんが登場して、彼が書いたというポエムが掲載されていたりと、エスコアール社としては、FCに興味のある一般の人や教員なども読んでもらいたいようにも受け取れますが、さすがにこの値段では、「一般書」として読む人はあまりいないんじゃないかなあ、と思います。
ともあれ、以前も触れた「プロジェクト・ヒガシダ」は着々と進行中のようです。(なんと映画も撮影中)
※ちなみに、FCや東田直樹さんの話題については、以下の過去エントリも参照ください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/9072951.html
「抱っこ法」を考える
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25397988.html
幼児期の療育を考える(11)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/110130045.html
もしかして自閉症?(ブックレビュー)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111078158.html
言えない気持ちを伝えたい(立ち読みレビュー)
※その他のブックレビューはこちら。
ALS―筋萎縮性側索硬化症での「マクトス」(EGG・脳波を読み取る意思伝達装置)といったものを想像したのですが、何のことない「コックリさん」じゃないですか。
マクトスについては→http://www.arsvi.com/2000/0801ky.htm
コックリさんやこのFCも、なんでも心的枠組みで解釈しようとする「察する」業を感じてしまいますね。
人間、我が子相手だから、赤ちゃんが泣き出すと「オムツが濡れたのか」「お腹が空いたのか?」と思い巡らしますけど、出発点、初源は同じだと、そう思えるのですが、赤ちゃんではなくて、20歳近いのだから「オムツが濡れた」「お腹が空いた」ではなく「豊かな心」を察したいのだろうけどね。
どんな表現でも、表現者の手を離れたら、表現された瞬間から、一人歩きする。受け手が自由に解釈することは妨げられない。だから研究者や特殊な他人などが「豊かな心」を察する、解釈するのは、勝手ですよ。
ASもよくやる。というより言語性優位のASだから、相手の気持ちとかは想像する、認知的共感性で感じるしかない。その感じた気持ちに、自分なりに対応すると、勝手に決め付けているとか非難される。また「洗濯機は要らない、乾燥機が欲しい」という言葉を、遠慮して言っていると思ってか、本当は乾燥機が欲しいと解釈して、乾燥機を買って帰ると、勝手に誤解していると非難される。
こういう形で、AS流の「察し」は定型者から正誤が検証される。コックリさんは、文句は言わない。FCで研究者や特殊な他人などが察した「豊かな心」が、本人のそれに合っているか、その定型者流「察し」の正誤は、どのようにして検証されるのだろう。FCされた本人たちの考え、思いとFCした特殊な他人がとりだした本人のものという考え、思いとの正誤検証はどうやっているのだろう??検証方法があるのだろうか???
定型者が間違っていると怒る様に、FCされた本人が怒るか?間違っていると怒るか?
私に怒りだすとは思えない。FCされている間は、FCする特殊な他人から構ってもらえるのだから、その貴重な少しは他人と繋がっていると感じられる時間を失うリスクを犯すとは思えない。
ASと診断された頃、読んだ本の一節を思い出す。あるAS青年が夜な夜なパブへ出かけて行き殴られて帰ってくる。家人が止めようとするが、出かけていく。「酒場へ行っても誰も話しかけないし目も合わせようともしないが、殴られる間は自分を見てくれる」。この一節には、深く深く肯いていしまう、半世紀も生きてきたが、この渇望はいやされない。
FCされて取り出された考え、気持ちが間違っていても、夜な夜な殴られにパブへ出かけた青年のように、本人はFCを拒まないだろう、FCされようとするだろう。
FCの定型者流「察し」の正誤は、どのようにして検証されるのだろう??
誤・・また「洗濯機は要らない、乾燥機が欲しい」という言葉を、遠慮して言っていると思ってか、本当は乾燥機が欲しいと解釈して、乾燥機を買って帰ると、勝手に誤解していると非難される。
正・・また「洗濯機は要らない、乾燥機が欲しい」という言葉を、遠慮して言っていると思ってか、本当は洗濯機が欲しいと解釈して、洗濯機を買って帰ると、勝手に誤解していると非難される。
コメントありがとうございます。
ヒゲ達磨さんがおっしゃるところの「AS」は、「アスペルガー症候群」のことだと思いますが(それとも「自閉症スペクトラム」のほうでしょうか?)、基本的にこういったFCで対象になっているのは、自発的には自らの意思を十分に言語化できないような、言語的に重度の障害をもっている人です。
(まあ、そうでなければ「ファシリテート」する必要性がありませんから、当然ではあります)
ですから、FCを「された自閉症者の側」からの検証を聞くことは、論理的に絶対に不可能にできていることになります。
なぜなら、FCにより紡ぎだされたメッセージを「検証する」という行為も、その検証結果を第三者に伝えるという行為も、当然に言語スキルを前提とします。
ところが、そもそもそれができないからFCをやって(やらされて)いるわけです。
ですから、FCというのは構造的に絶対に検証・論破されないという仕組みになっているわけですね。
非常に巧妙だと思います。
つまり、FCで問題になってくる「コミュニケーションのずれ」というのは、ヒゲ達磨さんが問題視しているようなレベルですらなく、「そもそもそこに自閉症者からのメッセージなり意思なりが、本当に実在していると言えるのだろうか?」という、もっと原初的で、もっと悲しいものです。
(もちろん、FCによるメッセージが「誰から発せられているのか?」という問題と、ヒゲ達磨さんが指摘されたような意味で、「FCをされている自閉症者は幸せか?」という問題は、別の議論として考えるべきものですが・・・)
久しぶりです。
またこの話題で出てきてしまいました。
私は、5月23日に行われた、東京大学大学院教育学研究科 臨床心理学コース主催の、『自閉症者の語る自閉症の世界』、というシンポジウムに行って来ました。
シンポジストは、東田直樹さんとアメリカ人2人で、重度の自閉症でFCの3人です。
通訳だけでも10人ほどいて、会場のスタッフも多く、とても充実したシンポジウムでした。
ちなみに参加費は500円でした。
3人とも介助者は隣に座っているだけで、手は持っていませんでした。
FCも、始めは手の甲を握っていますが、やがてひじを支えるようになり、肩にふれるようになり、隣にいるだけになり、最後は、ひとりでタイプを打てるようになるそうです。
そうやってやっとFCが認められて市民権を得るようになったのです。
彼らが打つパソコンの画面が正面に大写しになっていて、最後に、それを本人か介助者が読み上げるという形で、シンポジウムは進行しました。
コメンテーターの質問にも答えていましたが、会場からの質問にも答えていました。
彼ら本人が自分の考えをタイプしていることは明らかでした。
東田さんのタイプは、自閉症の特徴が出ていました。
かなりのストレスだったはずで、自分の考えをタイプするときも打ち間違えや変換の間違えなどで、何度も打ち直しをしていました。
また、ときどき、エコラリアの奇声までタイプしては消していました。
シンポジウムが終わったとたん、演壇から飛び降りて走り去っていきました。
コメントありがとうございます。以前の議論ではお世話になりました。
FCというのは、常識で考えて極めて違和感のある現象なので、周到に準備された、シンパの人ばかりが集まる場所でいくら「披露」されても、それだけでは信じるに足りません。
それは、超能力の証明を、超能力協会主催のショーでは示したことにならないのと同じです。
白石さんが指摘されるような「証明」にしても、人為的に操作しようと思えばいくらでもできることしかやっていませんね。もちろん、基本的にはそれらを「善意」に解釈したいものだとは思いますが、それをもって「証明」とおっしゃるなら、逆に、「疑う」ベースで考えるべきだ、ということです。
また、「打ち間違え」については、逆に「もともと何らかの手本があるものを記憶して打っていること」を示唆しませんか? 少なくとも私には、そういう可能性を感じさせる現象だと思われます。
実際、別のソースからは、「素の」インタビューや日常会話の場面では、一人ではほとんど何も答えられないようだ、という話も伺ったこともあります。
従って、東田さんのFCについても、権威ある学術論文として掲載できるレベルで「検証」され、それによって証明される必要があると考えます。そこから先は、以前白石さんと議論した内容に戻ることになりますね。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25397988.html#comment
それにしても、いつも思うのですが、東田さんは文章では「伝えたいことがたくさんある」「ことばが使えて嬉しい」など書いているのに、実際に何かを「表出」しているときは、いつも辛そうで、一刻も早くその場から逃げ出したそうにしていて、実際、ことばの表出という「おつとめ」が終わるとすぐにその場から逃げていってしまうようです。これは、とても不思議なことだと感じます。
早々に丁寧なご意見を頂きありがとうございました。
>「打ち間違え」については、逆に「もともと何らかの手本があるものを記憶して打っていること」を示唆しませんか? 少なくとも私には、そういう可能性を感じさせる現象だと思われます。
確かに、コメンテーターからの質問に3人がタイプを打って答える場面では、隣に座っていた私の知り合いが、「あらかじめ質問事項が渡されているのではないか。」と言っていました。
私は、「それは無いとは思いますが、何とも言えません。」と答えました。
しかし、会場からの質疑応答時間が30分もありました。会場からの質問にも3人でタイプを打ち始め、どの方の答えも適確で、知性を感じさせる内容でした。
特に、アメリカの方の答えにはユーモアもあって、会場から笑いがあがっていました。彼らが用意されていた答えをタイプしているのではなく、自分で答えていたのはあきらかでした。
>実際、別のソースからは、「素の」インタビューや日常会話の場面では、一人ではほとんど何も答えられないようだ、という話も伺ったこともあります。
東田さんとは休憩時間にトイレで一緒になりましたが、知り合いらしき方が肩を叩いて、「頑張って!」と励ましても、まったく無視して反応しないで、キョロキョロしていました。パニック寸前のようで、言葉のない重度の自閉症の青年そのものでした。
その彼が、隣にお母さんが座っているだけで、タイプでは知性を感じさせるコメントをするということが、FCで注目されていることだと思います。
おや、何か問題がありましたか?
私には全然心当たりがないのですが・・・。
鈴蘭さんからは、最近では5/29に2件コメントをいただきました。
どちらも特に問題があるような内容だったとは思われないのですが・・・。
(逆に、ちょっと忙しかった時期でもあり、私のご返事は短かめでした。その点、気にされていたのだとしたらすみません。)
ともあれ、私が確認させていただいているコメントについていえば、ご心配されているようなことはまったくありませんので、ご安心ください。
白石さん、
>その彼が、隣にお母さんが座っているだけで、
>タイプでは知性を感じさせるコメントをする
>ということが、FCで注目されていることだ
>と思います。
注目されているかどうかは別にして、非常に不思議な現象であることは確かですね。
その「知性」は普段はどこに隠れていて、「母親がそばにいる」という非接触状態が、どのように彼の「知性」を操っているのか、興味深いところです。
(真面目に考えると、どうしても「念力」が登場してしまうので・・・笑)
ちなみに、私が聞いた「素の」インタビューというのは、「FCによる」やりとり(ただし「周到に準備」はされておらず、質問はアドリブ)です。
私が聞いた、そのようなインタビューでは、彼単独の表出能力はほとんどゼロであり、全介助的なFCでようやく「会話」が成り立った状態が作られるものの、彼は非常に嫌がって、すぐに逃げてどこかに行ってしまうような感じだったそうです。
>その「知性」は普段はどこに隠れていて、「母親がそばにいる」という非接触状態が、どのように彼の「知性」を操っているのか、興味深いところです。(真面目に考えると、どうしても「念力」が登場してしまうので・・・笑)
私は、自閉症の一番の問題は恐怖感だと考えています。
東田君がパニックになるのも恐怖感が原因だと考えています。
定型の子どもも、幼い子どもは夜になるとひとりではトイレに行けないですが、母親が手をつないでいたり、そばにいるだけで、トイレに行くことができます。
それと同じで、母親が手を握っていてくれたり、そばにいてくれるだけで、東田君に安心感が生まれて、コメントを表出できるようになるのだと考えています。
それが、念力だと言っているのです。
「母親がそばにいる」という状態が、「恐怖感」だとか「安心感」だとかいう「非物理的な効果」によって「タイプする」という行動につながっているのだという説は、要は「念力でタイプさせている」と言っているのと同じなんですよ。
以前、七田式の話題でも書きましたが、こういうのを「無邪気な心身二元論」といいます。
無邪気な心身二元論は、ほぼ確実に、トートロジー(同語反復)になるか、「念力理論」になります。
以前レビュー記事にてご紹介したことのある「心理学入門・一歩手前」ないし「心の哲学入門」(こちらもレビューがあります)あたりの本などをお読みになられたほうがいいと思います。
先ほどのコメントでも、「恐怖感」とか「安心感」といった言葉が出てきましたが、「恐怖感」を「安心感」という言葉を使わずに、「安心感」を「恐怖感」ということばを使わずに定義できますか? そうでなければ、「自閉症の原因は恐怖感なので、安心感を与えればよくなる」というのはトートロジーになります。
そういえば、以前のコメントの議論でも、「自閉症の原因は刷り込みの失敗だ」みたいな説を唱えられていましたが、やはりそのときも白石さんはトートロジーにならない定義ができなかったように思います。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25397988.html#comment
自閉症のような精神面での障害・病気に関連する「仮説」は、目に見えない世界にトートロジーを構築すればいくらでも理屈を作れますが、それは結局どんなにたくさん文章を書いても、同じところをぐるぐる回っているだけで、前にも外にも進んでいかない議論になってしまいます。
それと、FC側でもう1つ疑問ですが、東田さんはもう随分長い間(10年以上?)FCを続けられているはずですが、いまだに「母親がそばにいないと重度の自閉症児で、そばにいたときに初めて知性が現れる」ということになっているようです。(実際、テレビでの映像でもそんな感じですね。)
だとすると、子どもが「最も成長する時期」ですら実現できなかったことになる「母親からの自立」が、これから「大人」になるまでの数年で実現できるようにはちょっと考えられません。
そうすると、白石さんの言をすべて肯定したとしても、彼は大人になってもずっと母親に依存し続け、最終的に母親が動けなくなったり離れざるを得なくなったときに、それまでの何十年かの「成果」をすべて失って「重度の自閉症者」に戻る、という人生を歩まざるを得ないことになってしまいますが、そのことについてはどう思われるのでしょうか。
私が気がかりなのは、東田さんが、ちゃんと就労訓練をはじめとする、社会自立のための訓練を年相応に受けてこられたかどうか、ということです。
高校も、通信教育中心のオルタナティブ・スクール的なところを選ばれたようですし、先日放映されたその学校での合宿の様子を見ていても、彼がこれから、どんな形で社会に出て行って、「親離れ」していくのかがなかなか見えてこないなあ、と感じました。
まあ、実際、我が家なんかもそうなんですが、学校を卒業してからが人生の大勝負というか、そこから先にどんな人生を描けるかというのが、重度の自閉症者にとっての最大の試練だというのは間違いないところだと思います。
そのステージに向けて、東田さんがどういう準備をされているのか、気になるのと同時に、「影響力の大きい」方にになっているだけに、興味深くもあります。
(もしかすると「放送大学に進学」というウルトラCかもしれませんが(^^;))
>それが、念力だと言っているのです。
「母親がそばにいる」という状態が、「恐怖感」だとか「安心感」だとかいう「非物理的な効果」によって「タイプする」という行動につながっているのだという説は、要は「念力でタイプさせている」と言っているのと同じなんですよ。
このレベルの議論はしても無駄だと思うので、私は議論を止めます。
重度知的障害を持つ無発語5歳の自閉児がいます。
東田くん問題については賛否いろいろ興味深く見ています。
親からの自立という点は重大な問題ですが置いておくとして、
母親がそばにいないと云々というやり取りの中で、それが「念力」と位置づけられてしまう理屈がちょっと良く分からなかったです。
形を変えた場面緘黙なんだろうと考えていましたが間違いでしょうか。
それとも緘黙の子が家庭ではおしゃべりする状況も「念力」?のなせる技なのでしょうか。
バカみたいな疑問ですいません。
ちなみにFC肯定派ではないです。
お気持ちは察しますので、どうか落ち着いてください。
たしかに緘黙は関係ありませんから、この後も議論することはしません。
で、いただいたコメントの話に戻りますが・・・
まず、白石さんという方は「専門家」というわけではないようですよ。
我流で「抱っこ法」の施行希望者を募集されているようですが、一言でいえば私と同じ「アマチュア研究家」というところでしょう。
彼が自分のHPで紹介されている、学会への参加やポスター発表も、特別な審査や厳しい資格があるものではありません。
また、白石さんの書かれている「このレベルの議論は無駄」というのは、彼の仮説が同語反復で自らが使っている用語すら十分に定義できていない、という問題提起の部分への回答だと思います。「東田さんの今後と社会自立」についての話題を「無駄」と断言されているわけではないと思います。
まあ、とはいえ、今回、白石さんはそちらの議論にはあまり興味がなさそうだ、というのはそのとおりかもしれません。でも、もしそこに興味をもたずに、「抱っこ法」をやって小遣いを稼ぐおつもりだとすれば、いろいろな意味でひどい話だと、自閉症の子どもを持つ当事者としては感じる部分もあります。
ちなみに、東田さんのFCの「最後の証明」のようになっている「パソコンで文章を打つ」ですが、これも、手本を見てそれをそのまま(あるいは記憶して)打てることは間違いないですが、まったくゼロからアドリブで文章が(小説やポエムが)紡げるかどうかについては、「そういう文章は誰もいない静かな環境でしか打てない」という「設定」になっているため、確認する術がない(少なくとも、インタビューにPCで答えるといったことはない)というのが実態のようです。
「うーん、今回も基本的には白石さんのほうから仕掛けてきた議論だと思うのですが、また前回と同じ展開ですね。」
としか返しようがないですね。
実際、それ以外の(鈴蘭さんが言及されているような)議論への生産的なご意見もいただけませんでしたし、今後も、自閉症の現場から遊離した、トートロジー的なご自身の仮説を、お一人で守っていかれるのだろう、と思います。
でも、その仮説でもって他の人に対して意見されるのは、正直、不毛だと思いますので、お止めになったほうがよろしいかと存じます。
なお、以下は特定の人を対象にした投げかけではないので、誰かに回答を求めているものではありません。
自閉症についての仮説を立てるときに、症状に対して後付けの解釈をつけるだけだったら、いわゆる通俗心理学の類でも何とかなると思いますが、原因・機制や予防まで含んだグランドセオリーを立てたいのであれば、基礎心理学の知識や心の哲学、トートロジーを回避するような論理学といった部分をある程度固めていかないと厳しいように思います。
どんなに「それっぽい」用語を駆使して仮説を構築したとしても、それらの用語が厳密に定義され、トートロジーを回避できる論理構成になっていない限り、「自閉症の原因は『波動の乱れ』にあるので、『波動を整える』ことで治せます。予防としては『波動を整える』子育てがいいでしょう。ちなみに波動というのは目に見えない何かで、自閉症をひきおこすこともあるものです」と言っているのと、論理的には何ら変わりません。
個人的には、東田さんのFCにまつわる件については「整理済み」の問題で、現在の私の関心は、鈴蘭さんも言及されている、「彼がどんな社会人になっていくか、なりうるか」という点に既に移っています。
発達障害に関連するすべての議論は、「子ども時代」だけでは本来完結しません。本当に重要なのは、いまの働きかけ・取り組みが、子どもの将来、大人になってからの人生にどう影響するか、ということだろうと思います。
そういう目で東田さんを見たとき、彼はいま、ある種のモラトリアムの中にいると言わざるを得ないでしょう。
もちろん、健常の高校生だってモラトリアムの中にいるわけですから、それ自体は別に構わないことなんですが、問題は、そこからどう抜け出していくか、という方策が見えるかどうか、というところにあります。
「親がそばにいることが決定的に重要」という「設定」のままでは、そのモラトリアムから永久に抜け出すことができません。
そして問題は、そういう「設定」になっているということのみならず、その「設定」を誰が作り守っているのか、というところにもあるのかもしれません。
もちろん、東田さんが念力でタイプしていると、「私自身が」主張する気はありません。
そうではなくて、白石さんが主張する「東田さんが母親の前でだけタイプできる理由」では、念力理論になってしまう、ということです。
先のコメントで既に書いていますが、白石さんの「説明」はこういう構造になっています。
「母親がそばにいることで」 : 物理的言及
「安心感が生まれて」 : 非物理的(精神的)言及
「コメントを表出できる」 : 物理的言及
このコメントを冷静に「最初」と「最後」だけ見ると、「母親がそばにいることで、東田さんがコメントを表出する」という形になり、「東田さんに触ってもいない母親の存在によって、東田さんの手が動いてコメントが表出される」ということになってしまうので、「念力」ということになってしまいます。
このコメントでは、間にはさまっている「安心感」という概念が、この「念力問題」を解決するための唯一の手がかりです。
でも、白石さんが提唱された、この「安心感」もまた、これまでの議論や彼のHPを見る限り、物理的な議論に還元できない、精神的な概念です。
この概念は、見ることもさわることもできません。極論すれば、「白石さんの頭の中」にしかありません。
もちろん、日常用語として「安心感」ということばは使いますが、だからと言って定義せずに使っていいわけではない、というのは、心理学(というか、科学一般)では常識です。
そして、この「安心感」という概念は、「母親がそばにいる」という物理的な状態と、本来直接影響を与えられないはずの「コメントを表出する」という物理的な状態とを媒介しなければいけませんから、それらをつなぐことができるように、「物理的な世界」の用語で定義され、そのうえで徹底的に議論されなければなりません。
そこまでやって初めて、「母親がそばにいることで、安心感が生まれて、コメントが表出できるようになる」という説明は、「念力理論ではないもの」になれる可能性が生まれてくるのです。
この部分こそが、心理学を構成する「キモ」であり、非常に難しい部分です。だからこそ、ここを逃げてしまうと「心理学モドキ」に留まってしまうのです。
でも残念ながら、白石さんは前回の議論に引き続き、今回も逃げてしまわれました。なので、やはり現時点では、東田さんについての白石さんの言は「念力理論」だ、としか申し上げられない、というわけです。
「念力」に関する話題としては、下記の記事もぜひ参照ください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/91355034.html
ちなみに私自身は、彼が「コメントを表出『できる』」という事実認定そのものから疑うべきだろう、という立場です。
>でも残念ながら、白石さんは前回の議論に引き続き、今回も逃げてしまわれました。なので、やはり現時点では、東田さんについての白石さんの言は「念力理論」だ、としか申し上げられない、というわけです。
別に逃げたわけではありません。
不毛な議論をしたくないのです。
議論を整理してください。
そらパパさんの主張は、FCは介助者が打っているものでまやかしだというものです。
私の主張は、FCは本人が打っているものでまやかしではないというものです。
そして、母親の手がそえられていないという現状は、本人が打っているということを示しています。
これを、まやかしでコックリさんで念力だという主張をするのは、そらパパさんこそ物理的な事実を無視しています。
私は、自立の問題は論じていません。
しかし、東田さんが、休息時間をはさんで3時間半も、大講堂でシンポジストを勤めたということは、すばらしいことだと考えています。
問題点を提示するたびに議論をすりかえる方とは、まともな議論はできません。
議論の論旨をまったく追えていらっしゃらないようなので、白石さん自身のコメントを丸ごと引用して、改めてお聞きします。(これはこの記事の8番目のコメントとまったく同じ質問です。)
>東田さんとは休憩時間にトイレで一緒になりましたが、
>知り合いらしき方が肩を叩いて、「頑張って!」と励ま
>しても、まったく無視して反応しないで、キョロキョロ
>していました。パニック寸前のようで、言葉のない重度
>の自閉症の青年そのものでした。
>
>その彼が、隣にお母さんが座っているだけで、タイプで
>は知性を感じさせるコメントをするということが、FC
>で注目されていることだと思います。
「言葉のない重度の自閉症の青年」には、「知性を感じさせるコメント」はできません。
それならなぜ、「母親がそばにいるだけで」、それができるのですか?
それが不思議だ、というのが、議論の出発点です。
立場が怪しくなった途端に、FCがまやかしかどうか、なんていう「全然違う議論」にすりかえるのはアンフェアです(そういう意味では、今回、私はわざわざ「白石さん側の土俵」に立って議論をしているのですから)。
コメントありがとうございます。
こういった議論は、感情的な部分と論理的な部分、どちらも重要だと、私は思っています。
感情的な部分については、鈴蘭さんにすでに代弁いただきました。
鈴蘭さん、ありがとうございます。
そして、論理的な部分についても、建設的な議論をやっていきたいと思っています。
論理的な部分については、あくまでも論理で戦うことが重要です。そこは、一見冷たい議論になっても、それはそれでいい、という部分もあります。
熱い心と冷静な頭(詩的な表現になってしまいますが)、どちらも自閉症についての議論では重要だと思っています。
丁寧に説明してくださってありがとうございます。
念力に関する話題の記事は目を通していなかったようで、そらパパさんのおっしゃる意味がようやく分かりました。
私は議論の言葉尻にだけ引っ掛かってしまっていたみたいで、鈴蘭さんのご指摘通りずれた事を質問してしまったみたいです。申し訳ありませんでした。
私は特別にこの議論の中身に参加したかったというわけではなくて、このコメントのやりとりを正確に理解したい思いがあって質問させていただいたということをご理解ください。
自分は「論理的に考える」というスキルが未熟なので(苦手ですぐに混乱してしまいます)、自分でも何に引っ掛かっていたのかよくわからないままモヤモヤしていたのです。
お二人の議論の妙なちぐはぐさの理由が分かってすっきりしました。
私が東田くんの存在を知ったのはテレビ番組でした。番組中で彼の高校受験~高校生活の様子を見ていて思ったことなのですが…。
彼は番組の中で、「高校に行って友達を作りたい」と訴えていました。
この【友達が欲しい】という望みがほんとうに彼の心の底からのものならば、今彼が使っているコミュニケーションの方法では、残念ながら本当の友達を作ることは出来ないだろうな、と思いました(【話をただ聞く相手を作る】なら可能かと思いますが)。
だって、友達ってお互いの気持ちや想いを伝え合って、共感したり笑ったり楽しんだり悲しんだり怒ったりするものなのに、その傍にはいつも東田くんの母親がいる…。私だったら自分の想いや考えをたとえコミュニケーションの手段とはいえ友達の母親に知られてしまうなんて事は嫌だな、と思てしまって…。
彼の周囲の人々は、【友達作り】についてどう思っているのか引っかかってしまいました。
このことひとつ取っても、彼の成長や将来に、とても関心があります(心配だ、というのも大いにありますね)。
私は、知的障害を持つ自閉症児を育てている親です。
東田さんの書いた物を実際読んだ事はなく、テレビで紹介されていたものしか知りません。
それで、よく分からないのですが、彼が筆談?によって表出している言葉は、いわゆる「美しい言葉」ばかりなのですか?
作品としての表出しかないのですか?
日常の、例えば、「うざい」とか「やる気ない」とか、「あっち行け、触るな」とか。
質問に答えるのではなく、自主的な日常の意思の表出を、文字で示してくるのでしょうか?
あれだけの「言葉の知識」をもって文章を書く東田さんでしたら、通常級で同年代の子達と過ごしてきた彼に、こういった若者らしい語彙が無いとも思えないのですが。
それに、そこに居るのも辛い様子でありながら、「少し休憩したいです」という表出はないのですか?
東田さんの文章をみると、確かに「湧き溢れる言葉」を感じますが、
彼の中に「爆発する言葉」は無いのでしょうか?
もしそうなら、彼にとって、原始的な思いほど言語化されないということでしょうか?
その必要を感じないということでしょうか?
その手段(可能性)を知らないということでしょうか?
そのへんのところ…つまり、日常会話で、相手が言って欲しくないような言葉でも、文字による言語化で表出しているのか?という点を
もしご存知の方がいらしたら、お聞きしてみたいのですが。
コメントありがとうございます。
ちょっと失礼ですがマルチレスをさせていただきます。
というのも、実は皆さんのコメントはすべてつながっている部分がある、と感じていますので。
その「つながっているところ」というのは、「仮に、東田さんサイドが主張することを受け入れたとしても(東田さんの側の土俵で議論をしても)、次から次へと矛盾が出てきて、どうにもおかしな話になってしまう」ということです。
白石さんへのレスでも少し書きましたが、今回、私はあえて、「東田さんサイド」にある程度立った場所から、「それでも、やっぱりおかしなところがたくさんあるんじゃないか?」という疑問を書きました。
(まだ私自身の「主張」はしていません。残念ながら、主張以前の、問題点の整理の段階で、既に矛盾だらけで議論が止まってしまったというのが私の認識です。)
皆さんのおっしゃることは、どれももっともだと思います。
本質的なことを言うならば、ヒトにとって、ことばによるコミュニケーションというのは、「他人に全面的に依存することなしに、適切な他人からのサポートを受けて、人生を生き抜いていく」ために必要なスキルです。
ですから「特定の第三者に全面的に依存しなければ成立しないコミュニケーション」というのは、コミュニケーションの本来の機能の大部分が失われた状態だと言っても過言ではないと思います。
(誤解しないでいただきたいのは、私自身の本来の考えとしては、そもそも「東田さんがFCによって自らの意思でメッセージを発している」ということ自体に懐疑的です。上記の議論は「東田さんサイドが主張する議論をある程度受け入れたとしても」という、ある種の仮想実験的な議論です。)
特に、なにわさんの問題提起は興味深いですね。
たしかに、彼が本当に思っていることを素直に発しているのだとしたら、「うるさい」とか「ほっといてくれ」とかいうメッセージこそが、一番たくさん出てきてもおかしくないことばです(中高生くらいっていうのは一番の反抗期でもあるわけですから)。
あとは、年齢的に考えれば異性への関心を示すことばとか、その辺りですね。
私は寡聞にしてそういう「優等生でない発言」を東田さんがするという話を聞いたことがないのですが、その辺りはどうなんでしょうか。
東田さんの問題で以前書いたことの繰り返しですが…。
東田さんの著作から、その自閉症観はというと「心身二元論」なんですよね。
不自由な身体に健常な思考をするモノが宿っている…というような。
ここでも観察の報告がある自閉の特徴の幾つか…言葉かけに対する無視、キョロキョロと落ち着かない様子、課題終了後の走り去り…等々に関して、それが本意ではなくそうなってしまうんだと筆談を通して報告をしてくる内部観察者がいるという設定ですね。
そうしたくてそうなっちゃうのではないという話。
「今、ここにいたくない」「しゃべりたくない」と文字を表出しないのは、そう思っていないからということになりますね、あっち側の話に合わせるとですが。
もちろん、私はそれに懐疑的です。走り去るのは、そこにいたくないからそうするのだと考えますから。
行動と思考が離れていて(しかも正反対)、「よそいき」の実体が困っているというような自閉症観には相当に違和感があります。
コメントありがとうございます。
そうなんですよね。
パニックして人前から逃げてしまうという、東田さんの「観察可能な行動によって表現されている人となり」にも、当然「人格」は存在します。
そして、東田さんサイドの主張では、その人格とは別の「知性あふれる内面」に、もう1つの人格がある、とされます。しかも、こちらの「人格」は、もう一方の重度自閉症者の行動をとる「人格」を認識できる(でもコントロールは困難)ということになっています。
そして、その「知性あふれる内面」の人格は、母親がそばにいるなどの「一定の条件」を満たしたときにだけ表に現れるということのようです。
そうすると、同じ人間のなかに、2つの人格が同居していて、少なくともその一方の人格はもう一方の人格を知っていて、それをコントロールするのに苦労しているという、ひとりの人間のパーソナリティとしては極めて奇異なものになっているということになります。
例えば、こんな思考実験をしてみます。
重度自閉症児としての人格のほうに、パニックを避けられるような構造化や視覚化、絵カード等の非言語的コミュニケーション訓練といった取り組みを行なうことで、「落ち着いて自分の意思が表示すること」ができるように働きかけたとします。
それによって彼が、重度自閉症児としての人格のままで、一定レベルのコミュニケーションができるようになり、いろいろな意思表示ができるようになったとしたら、そこに現れる「意思」というのは、もう1つの「知性あふれる内面」の「意思」とどういう関係になるのでしょうか?
この問題について、「彼の」著書によると、トリッキーな理屈が展開されます。
つまり、構造化や視覚化などで形成される「自閉症児の安定した行動」や「意思の表示」は、「本来の内面の人格」の発露ではない「固定化されたパターン」でしかなく、「外から見える人格」がそのパターンに固執してしまうことで、「本来の内面の人格」の意思に沿わない行動をとってしまうことがある、というのです。
つまり、「知性あふれる内面」の人格にとって、「観察可能な行動に現れる人格」はどこまでいっても「偽り」であり、そこには「本来の人格」は認めることができない、といった論が展開されていることになります。
これは、ある意味非常に恐ろしく、またある意味非常に淋しい主張なんじゃないだろうかと思います。
なぜなら、「内面に別の人格がある」ことを前提に、「外面に現れている人格」を否定していることになるからです。
そして、もし「内面に別の人格がある」という、彼らが主張する前提が崩れるとすれば・・・
つまりそれは、「全人格の否定」ということになってしまうのではないでしょうか?
白石さんの言を引くなら、「トイレでパニック寸前で周りの声援にもビクビクしてしまう東田さん」というのは、周囲の人からは、「本来の姿でない東田さん」だということにされてしまっています。
でも、もし「そちらの東田さん」こそが「本当の東田さん」で、講演でじっとさせられてPCを打たされている東田さんが「演出されているだけの『偽りの姿』」なのだとしたら・・・。
東田さん本人にとって、これほど悲しく、残酷なことはないと思わないでしょうか?
そういうことも含めて、私は、「東田さん現象」から、目を離すことができないでいます。
もしかするとこれは、「奇跡の詩人」問題同様に、「人権問題」になってくるかもしれないので。
3時間半もシンポジストを勤めるのも、パニックを起こすのも、ともに東田さんです。
下は、あるアスペルガーの方のコメントです。参考までに引用します。
私がアスペルガーだと知っているにも関わらず、講演会のスタッフに後ろからいきなり声をかけられてパニックを起こしそうになったことが何度もあります。声をかける時はできれば前から、ご自分の名前や立場をお話いただいて、その上で用件を伝えてもらわないと辛い思いをすることになります。せめてあいさつをしてから名前を呼んでいただきたいです。急に名前を呼ばれることはとても怖いことです。
ちなみに、シンポジームでは母親が横にいないとタイプを打てませんが、家ではひとりでパソコンを打っているはずです。
またもや、こちらからのご質問・反論をすべて積み残したままで、新しい主張をされるのでしょうか。
明示的な反論に対して再反論しないことは、議論においてはこちらの主張をすべて認めることを意味しますが、そういう理解でよろしいでしょうか。
再反論がないため、今のところ、白石さんの主張は端的に「細かいことや矛盾があることは分からない、東田さんサイドがそう言っているし、ショーで見たから、正しいんだ」というだけの主張になっています。
それに対して、いま進んでいる議論は、「細かいことや矛盾があることについて、東田さんサイドが言っていることを鵜呑みにせずに深く考えてみよう」というものですから、当然にかみ合わないわけです。
とりあえず、せっかくご自身で主張されたことばに関するものですから、まずは下記の質問からお答えいただけないでしょうか。
>「恐怖感」を「安心感」という言葉を使わずに、「安心感」を
>「恐怖感」ということばを使わずに定義できますか?
この質問が積み残されているために、白石さんの書き込みを出発点に、「東田さん二重人格論」についてのディスカッションが始まりました。
逆にいえば、この質問をクリアせずに「東田さんのキャラクターは状況によってほとんど正反対になるけど、統一された自然な人格だ」という主張には説得力がありません。(正反対になる理由が「念力」のままなので)
※そういえば、FCのかつての有名人、「奇跡の詩人」日木流奈さんも、「家で2000冊超の哲学書や天文書などを読んだ」ことになっていましたね。東田さんの、「見た目は重度の障害があるが、FCで『知性の片鱗』を見せ、誰もいない家ではさらに、FCなしで(外で見せる以上の)極めて知的な活動ができる」という主張との間に、共通する印象を感じないでもありません。
白石さんは、日木流奈さんについては、本当に本人が「知性あふれる作家」として、自ら文章を紡いでいたとお考えなのでしょうか? (もしお答えいただけるのでしたら、上記の質問とあわせてお答えいただけると幸いです。)
>「恐怖感」を「安心感」という言葉を使わずに、「安心感」を
>「恐怖感」ということばを使わずに定義できますか?
別に、逃げているわけではありません。
定義がされていなければ、存在すら認めないという発想に違和感を感じただけです。
私のホームページの、新自閉症論の3章で恐怖感を分析しています。
ここで書くには長いので、そちらを読んでください。
>白石さんは、日木流奈さんについては、本当に本人が「知性あふれる作家」として、自ら文章を紡いでいたとお考えなのでしょうか? (もしお答えいただけるのでしたら、上記の質問とあわせてお答えいただけると幸いです。)
日木流奈さんについては、一度テレビで見たのと、本を一冊読んだだけなので、良く解らないとしか言えません。
コメントをするだけの知識は持っていません。
>どんな立場でいらっしゃいますか?
私のホームページに自己紹介のページがあります。
そちらをご覧下さい。
>パニックをさせるような用意できていない場所には自閉症者をあらわにはしませんよ。私達は見せ物ではないですからね。東田くんの場合…そこから問題ありですね。
東田君は、パニックになることを覚悟して講演に来ていると思います。
パニックになるのは生体反応で、彼の意志ではないのですから。
彼の意志は、自閉症を理解してもらうために講演をすること、だと推測しています。
>重度自閉症児としての人格のほうに、パニックを避けられるような構造化や視覚化、絵カード等の非言語的コミュニケーション訓練といった取り組みを行なうことで、「落ち着いて自分の意思が表示すること」ができるように働きかけたとします。
『跳びはねる理由』の中で東田さんは、視覚的にスケジュールを提示されるのを苦手だというようなことを書いていますよね。
かつて、その様な対自閉のスタンダードな試みをしていた時期もあったんだと想像されます。で、おそらく長続きしなかった。
視覚的構造化がより負担になる…追い立てられているように感じるというように書いていたような…というのは、どうなんでしょうねぇ。
私の理解する構造化というのは所謂ユニバーサルデザインみたいなもので、より親切な作りをしていて、それが過剰に負担になるということがあるのかどうか…。
もちろん、不必要になれば次に「抜いていく」作業を進めていくというのがTEACCHの考え方だと理解していますが、それは手助けとして機能してからの話でしょうし。
結果が出ない(落ち着かない)ので、非常に早い段階で止めちゃったんじゃないか…と。
>定義がされていなければ、存在すら認めないという
>発想に違和感を感じただけです。
面白いことをおっしゃいますね。
白石さん自身が、「自閉症の原因は恐怖感で、安心感を与えればよくなる」と「独自の主張」をされているのに、その主張自体を、循環論以外では語れない、とおっしゃっているわけです。
またもや「白石仮説」へ「逃げて」しまわれたので、前回コメントいただいた際に「逃げて」しまわれた経緯をもう一度ご確認ください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25397988.html#comment
このときも、「白石仮説」の中核をなしているような感じである「刷り込み」という用語を、白石さんは定義できないと明言されています。
定義できない用語を仮説の中核において平然としていて、それを指摘されても開き直るというのは、もう私の理解を超えています。
はっきりいえば、それはオカルトです。
少し前のコメントで、オカルト理論の「例」として、こんな文章を書きました。
「自閉症の原因は『波動の乱れ』にあるので、『波動を整える』ことで治せます。予防としては『波動を整える』子育てがいいでしょう。ちなみに波動というのは目に見えない何かで、自閉症をひきおこすこともあるものです」
これの「波動の乱れ」を「恐怖感」に、「整った波動」を「安心感」に変えたものが、「白石仮説」です。
もう1つ付け加えるならば、「奇跡の詩人」については、テレビも本も読んでいるのに「コメントするだけの知識がない」のに対して、東田さんについては、それに加えて「ショーで見た」(あとは少し多く本などを読んだ)だけで、これだけ強く主張されるというのは、クリシン的な立場からは、ちょっと不思議な感じがしますね。
最後にもう1つ。
「白石仮説」は、いろいろおっしゃってはいますが、結局「産んだときの親の選択、行動が悪かった」という主張ですよね。
その部分は非常にインパクトがありますので、ぜひ、自閉症についてよく勉強されている親御さん、現場で必死に闘っておられる専門家の方々、障害で苦労しながらも頑張っている当事者の皆さんの前で、その「親の産みかたが悪かったから自閉症になった」という主張を、はっきりと語っていただきたいものです。
一般論として、FCなどにのめりこんでいくバックグラウンドとしては、「オーソドックスな療育で挫折する」という経験があるケースは多いと思います。
これもあえて一般論で書きますが、FCによって表明されたメッセージが、ファシリテイターの意思が現れたものであるケース(そういったケースは、過去の実験などでしばしば指摘されていますね)において、もしも「○○という療育法はだめだ」というメッセージが出てきた場合、それは端的に「ファシリテイターにとって」、○○という療育法はだめだという意味である、と考えて間違いないだろうと思います。
ご無沙汰してますが、去年七夕の夜にコメントさせて頂いた者です。
(あ、ブログは欠かさず拝読致してますよ)
今年もせっかくだから、七夕にコメントを、と思ってたのですが、こちらのテーマのやりとりを見ていて、思わず出てきてしまいました。
東田君の本、あれだけ出回っていれば、やはり自閉症者の親なら、一度は目にする機会はあると思います。
私も息子がそうだと判って、いろいろ勉強してる中、三年前に初めて手にしましたが、読んですぐ違和感を感じ、半分も読まずでした。
もしこれが本当に重度の自閉症者が書いたのだとしたら、学会で発表されても良いくらいの自閉症の能力じゃないのかな?って。
でも実際は、信じる者の間でしか評価されなインチキ宗教と同じレベルなので、それ以上騒がれないんだな、と。
ただ、そらパパさんが書いてらっしゃった様に、NHKで放映したり、東大よ、お前もかで、影響力がありそうな立場で取り上げるのは、本当に慎重になってもらいたいです。
そして私も、鈴蘭さんと同じ気持ちです。
そう、白石さんは、何のために自閉症の研究書みたいなのを書いてるのか?
こちらのブログに登場するたびに首をかしげてましたが、当人のサイトを拝見してみて、笑いそうになりました。
そらパパさんは謙遜して「私と同じアマチュア研究家」なんて書いてらっしゃいますが、そらパパさんとガチで論議出来るレベルにもないというか。
だから論議で対応できないと、すりかえざるをえないのだな、と。
興味を持たれて発言されるのは自由だけど、それこそ自分が信じてる本や記事だけを引用して、公式で証明されてるような検証内容もなくて、今どき自閉症の原因を語るのに、すりこみが登場したり、中では化学的に研究が進んで信憑性の高い「遺伝要因」を否定したり。
「環境要因」を全く否定しませんが、ちょっと方向性が違います。
それに昔は自閉症の子はいなかった、とは、強引過ぎる意見です。
今でも分かりにくい障害なのだから、気づかれないでたまたま当時の療育施設に来なかっただけかも知れません。
そらパパさんとの大きな違いは、実際に重度のお子さんを育てながら、同じ様な境遇の人と、または療育者とともに考えていこうとする意識がしっかり見られ、何においても建設的で、皆さんご存じの通り、独自で編み出されたDVDやタイマーなど半端じゃない重みのあるHPです。
一方白石さんの方は、自分の興味で調べて、それっぽい内容を既に出回っている本などを引用しながら、自分の意見を主張してるだけに見えました。
それと一番大きく違う点は、そらパパさんは本来は一サラリーマンとして、それなりの立場でお仕事されており、こちらのブログや本の出版は片手間であっていいはずなのに、認定心理士の資格まで取られ、本業の時間をかなり割いて運営してる感があります。
白石さんは、何をやってらっしゃる方か分かりませんが、ブログもお小遣い稼ぎの匂いがします。
本当は当人のブログに直接コメントしようかと思いましたが、コメント欄も無いしメールを送れる欄を開いてもうまくつながらないので、失礼ですが、そらパパさんのブログをお借りしました。
最後に白石さんへ二つつ質問ですが、うちの息子は生後すぐから、母子同室で育ちまして、かなり丁寧に時間をともにして言葉かけをして育てて参りましたが自閉症です。
そして下の娘は、母子分離で、上の子の育児も大変だったので、あんまり丁寧にいろいろしてあげれませんでしたが、健常児でコミュニケーションもばっちり、言葉もアイコンタクトもそれは早かったです。
これはどういう事なのでしょうか?
もう一つは、赤ちゃんは、母親の言葉にしか反応しないとか書いてましたが、胎内で聞こえる母親の心音と同じ音を聞かせると、泣いてる赤ちゃんは泣きやむ事が多いのはご存じですか?
自閉症児の親でなく、普通に子育てした母親の目からみても、白石さんのサイトは突っ込みどころ満載ですが。
コメントありがとうございます。
コメントいただいた内容は、まったくそのとおりだと思いますし、ありがたい言葉をいただいているとも感じましたが、このコメント欄で「白石仮説」に深入りしていくのは、できれば避けたいなあ、と思っています。
白石仮説への興味は、私自身、正直ありませんし、他の皆さんにとってもそうではないかと思います。加えて、このブログにとっても彼の仮説の詳細を議論することにメリットがあるとも思われません。
私が、白石さんの仮説に触れたのは、彼がいまここで展開している「東田さんに対する主張」への疑義の傍証とするためで、「白石仮説」自体への興味のためではない、ということを改めて申し添えておきます。
ただ、1つ申し上げたいことは、仮説というのは、批判されて強くなるものだ、ということです。
以前、白石さんを偶然2ちゃんねるの子育て板(アスペスレ23)で見かけたことがありましたが、あのときもちょっと突っ込まれた途端に逃げていらっしゃいましたね。
よく分かっていない人には自説をひけらかし、少し分かっている人に反論されると逃げてしまう(そして、また別の「よく分かっていない人」に、何ら修正しない自説をひけらかす)、ということでは、仮説は強くなるどころか、既に崩壊していると言ってしまっても過言ではありません。
本当に自分の仮説に価値があると考えるなら、過去ログを残しながら、同じ場所で、厳しい論客も交えながら、徹底的に議論をするべきであり、白石さん自身がそういう場を設けるべきでしょう。
3日ほど留守にしていたので、返信が遅れました。
>「白石仮説」は、いろいろおっしゃってはいますが、結局「産んだときの親の選択、行動が悪かった」という主張ですよね。
私の説は、「自閉症は刷り込みの障害が原因」、というものです。
親の選択、行動が悪かったとは考えていません。
だいたい、照明された部屋で、仰向けになって出産するというのは母親の本能に反しているはずです。
このような出産を強いる産婦人科の常識が、非常識なのです。
その産婦人科の非常識を、非常識だと抗議するだけの知識をほとんどの親は持っていません。
したがって、私は、親を責めてはいません。
非常識な科学と、人間への無知を糾弾しています。
>白石さん自身が、「自閉症の原因は恐怖感で、安心感を与えればよくなる」と「独自の主張」をされているのに、その主張自体を、循環論以外では語れない、とおっしゃっているわけです。
これは私の主張ではありません。
自閉症の原因は刷り込みの障害、これが私の主張です。
また、安心感を与えればよくなるではなく、恐怖症の治療が必要不可欠だと主張しています。
>このときも、「白石仮説」の中核をなしているような感じである「刷り込み」という用語を、白石さんは定義できないと明言されています。
刷り込みはまだ充分に研究されていないので、いまだ正確な定義はできない、といった内容の返信をしたはずです。
現状での定義を知りたければ、私に聞かなくとも、検索すれば出てきます。
自閉症という概念にしても、いまだ原因も解っていないので、正確な定義はできないはずです。
正確な定義を求めて、多くの学者が研究している段階でしょう。
>本当に自分の仮説に価値があると考えるなら、過去ログを残しながら、同じ場所で、厳しい論客も交えながら、徹底的に議論をするべきであり、白石さん自身がそういう場を設けるべきでしょう。
これは、私のホームページに掲示板を作れということでしょうか?
掲示板の作り方が解らないですが、検討してみます。
現在は、学会で発表して学会の場で議論をしていこうと考えています。
やっと、1年に2回発表する体制ができました。
私は、議論を無駄だと考えて止めたことはありますが、議論から逃げたことはありません。
理論としては完成していると考えているので、逃げも隠れもしません。
ホームページも本名だし、投稿も本名です。
了解です。
当ブログは、白石さんの仮説を議論する場ではありませんので、その「新しい議論の場」(学会でも掲示板でもいいですが)で、白石さんの仮説が徹底的に議論されることを期待しております。
>だいたい、照明された部屋で、仰向けになって出産するというのは母親の本能に反しているはずです。
>このような出産を強いる産婦人科の常識が、非常識なのです。
母親の本能とは、一体何ですか?また、非常識とは穏やかではありませんが、どういうことなのでしょうか?前時代のように、暗がりの中で畳の上に四つんばいになって生むのが本能に沿っている、ということなのでしょうか?
私は病院出産が、必ずしも全ての妊婦に合ったやり方で行われている、とは考えておりませんが、病院出産のやり方自体を非常識だとする考えには、少々納得出来ません。昔は、出産に伴う危険も大きく、子供や母親が死んでしまうことも、少なくありませんでした。それが、医療の発達により、極限まで抑えられ、低体重児や早産で生まれた子供など、昔ならほぼ生き延びることが出来なかった子供も、助けられるようになりました。
明るい部屋で医師がモニターするのも、仰向けの体勢の出産も、全て万が一の事故に備えた万全の体制で出産に臨めるようにしているからです。今は、フリースタイルの出産も流行ってきていますが、万が一の事故の時、発見が遅れてしまう、という危険が指摘されています。
母子共に無事であること、これが出産の際に第一に求められることだと思います。その為に医療が発達したのだと思いますし、安全を求め、死を回避することこそ人の本能だと思うのですが、それ以外に何か重要な本能でもあるのでしょうか?
またその病院出産と自閉症との関係も全く理解出来ません。病院出産によって自閉症児が多く生まれ、昔ながらの自宅出産だと生まれない、という客観的なデータや、保育器やNICUで保育された子供に自閉症児が多い、という統計などが実際にあるのでしょうか?白石さんのサイトも拝見させて頂きましたが、そのようなデータの提示は無かったように思います。
コメントありがとうございます。
何度か書いていますように、このコメント欄では白石さんの仮説はあまり議論したくないと思っているのですが、それは、率直に申し上げて「議論する価値がない」と感じているからです。
さくママさんもいくつかご指摘されていますが、それ以外にも、この仮説は突っ込むところが多すぎて、真面目に対応しようとすると議論が発散してしまうでしょう。
実際、この仮説において、あらゆる用語はただイメージによって「何となく」使われているだけで、明確な定義もなく、仮説の中核部分においてさえ、明らかにトートロジー(同語反復)を構成して無意味化しているところがたくさんあります。
ですから、この仮説については、個別のポイントに突っ込んでいても仕方がない、と思うのです。
この仮説の問題は「全体」にあるのであって、「部分」はその「全体」の問題を反映しているに過ぎません。ただ、恐らく、本当に真面目に「部分」をつぶしていくと、かなり早い段階(もしかするとたった第1段階)で、「全体」が消え去ってしまう仮説だと思います。(個人的には、2年前にコメント欄で議論した時点で、既にそういう状態になって「消え去った」仮説だと思っていたのですが・・・)
ですから、私としては、白石さんの仮説は、白石さんが自ら発表される「学会」なり、自ら用意される「掲示板」なりで、思う存分議論していただけばいいだろう、と思っています。
このブログでは、他に議論すべきより重要なテーマがたくさんありますので、白石さんの仮説についての議論にリソースをあまり使いたくない、ということですね。
よろしくご理解ください。
※追記ですが、私が前のコメントで白石さんに対してほのめかしたのは、今回のさくママさんのコメントや、少し前の鈴蘭さんのコメントからも分かるように、白石仮説というのは、自閉症児の親御さん、特に母親に対して、ずいぶん無責任でひどいことを言っている(しかも根拠もほとんどないのに)ことになっているんですよ、ということです。
それに対して、今度は病院を悪く言われたのには本当に驚きましたが、とにかく、根拠もなく「悪者」を簡単に作る仮説というのは、当事者に対して極めて失礼なものである、といわざるをえないですね。
(そうしたら、今度は殺人的な忙しさのなかで悪戦苦闘して頑張っておられる、産婦人科の先生方の前で、その説をはっきりと主張していただきたいものです。)
そらパパさんの、価値の無い議論にリソースを割り当てることは不要、というご意向や、おそらく白石さんからはまともなお返事は頂けないだろう、ということは重々承知しておりました。
皆さん真面目に議論や情報交換されているこのような場所に、全く相応しくない発言をたくさんされていて、とても不快に思っていたのですが、そらパパさんが冷静に鋭く論破しつつ対応されているので、安心して読んでいたのですが、今回のあまりに酷い発言内容に、怒り心頭で、ついコメントしてしまいました。
>「悪者」を簡単に作る仮説というのは、当事者に対して極めて失礼なものである、といわざるをえないですね。
本当にその通りだと思います。
白石さんのサイトの内容は、私にはトンデモにしか映りませんでしたが、事情を知らない人の中には、信じてしまう人もいるかもしれない、と、憂鬱な気分になりました。
私もこれ以上の言及は避けるようにします。申し訳ございませんでした。
このコメント欄で、さくママさんを不快な気分にさせてしまったことについては、管理者として申し訳なく思っています。
でも、こういう「一見不毛な」議論も、玉石混交な主張のなかから「玉」と「石」を見分けるためには、必要だということもありますね。
ですから、さくママさんの反論ももちろんですし、ある意味では白石さんの「主張」も含めて、このコメント欄で展開された議論には、(反面教師的な側面も含めれば)意味があった、と思っています。
勇気をもって、議論に参加いただいてありがとうございます。
初代です。
>ホームページも本名だし、投稿も本名です。
私はもちろんHNですが、介護福祉士を取った後、現在は自閉症スペクトラム支援士を目指して勉強中であること、こちらへの投稿で自己紹介しております。
何故この話をするかというと、自閉症スペクトラム支援士を認定する母体である日本自閉症スペクトラム学会の会報の新入会員の欄にあなたの名前を見つけたからです。
>現在は、学会で発表して学会の場で議論をしていこうと考えています。やっと、1年に2回発表する体制ができました。
ちょうど↑ということなので、同姓同名ではないんじゃないかと。
>理論としては完成していると考えているので、逃げも隠れもしません。
そちらで発表なりされるなら、私も同じ学会員として注目しておりますのでね。
興味深いご報告ありがとうございました。
そういうことであれば、せっかくなので白石さんの仮説を改めて読み返してみました。
この仮説の最大の弱点は、行動に対して極めて安易に内面の概念を当てはめてしまっている点にあると思います。
例えば、刷り込みで「後追い行動がある」→「安心している」とか、「触れられるのを拒絶する」→「恐怖感が生まれている」とか、「母親の声に反応する」→「愛が生まれている」とか、行動に対して実に無邪気に「内面への解釈」を当てはめておられます。
そして、それだけならいいんですが、今度はその根拠なく当てはめられた「内面の概念」を、一転「前提」にして、理論を演繹しはじめてしまうわけです。「安心が生まれない」→「安心できないと外界とかかわれない」→「自閉症になる」みたいな。
これだと、「安心」とか「恐怖」とか「愛」を、「波動(の乱れ)」とか「オーラ(の曇り)」とかにおきかえても、そのまま成立してしまうわけです。
その「根拠のなさ」から抜け出すには、まずは何より、「安心」とか「恐怖」とか「愛」といった概念をしっかり定義しなければなりません。
だからこそ、私は繰り返し、これらの用語の厳密な定義を求めてきたわけですが、かないませんでした。
でも、そうするとこの仮説は、論理的には最初から何も意味していないことになってしまいます。
「自閉症の原因は恐怖感だと思う。恐怖感が生まれた原因は刷り込みの失敗だと思う。なぜなら、刷り込みが失敗すると恐怖感が生まれそうだし、恐怖感が生まれるとことばやコミュニケーションに支障が出そうだから」
これで終わりになってしまいます。この「まとめ」が正しいとするなら、この仮説は循環論(トートロジー)になっているのが分かります。
そしてさらに不幸なことに、ここに登場する「刷り込み」も「恐怖感」も定義されていないので、さらにこの仮説は次のように変形されてしまいます。
「自閉症の原因は、ホニャララである。ホニャララの原因は、ハレホレである。なぜなら、ハレホレによってホニャララが生まれそうだし、ホニャララだと自閉症になりそうだから」
ホニャララもハレホレも定義されていませんが、それは、白石仮説における「恐怖感」とか「刷り込み」も同じなので、この2つは、論理的には「厳密にまったく同じ」です。
こんな仮説を相手にするのは、逆の意味で大変だと思いますが(^^;)、もし実際に初代さんのお目にとまるところで動きがありましたら、その経緯など情報をいただければ幸いです。
私もさくママさんと同様で、白石さんからのまともな回答など、本当は期待してませんでしたし(というか、無理だろうし)そらパパさんのご意向も理解していますし、白石仮設への深入りの意味のなさも、承知の上でした。
なので、コメントした際に、本人のブログに直接するべきなのを、出来ない状態なのでこの場をお借りすることをお断りしました。
一母親として(そう、自閉症児の母というだけでなくて)、やはり黙っていられなくて、思わず書いてしまったのです。
が、コメントした後に、このブログの内容の重みを下げ、そらパパさんの大事な時間も使ってしまうだろうって事に少し反省して、後悔の気持ちもありました^^;
私もこの件ではこれで最後にします。
申し訳ありませんでした。
ただ、白石さんの発言その他を、親がどれだけ不愉快に感じるか、父親でもある白石さんに、少しでも理解してもらい、トンデモなサイトは作らないで欲しいと、伝わればと願って。。。
いえいえ、私もついつい「深入り」してしまうので、自戒の意味も込めて書いていたりします。
(結局、初代さんへのコメントでまた掘り下げてしまったので、よくない癖だなあと思っています(笑))
ただ、白石さんの発言の一部が、当事者を傷つけるようなものになっていることは間違いがなく、その点は残念なことだと思っています。
>母子共に無事であること、これが出産の際に第一に求められることだと思います。その為に医療が発達したのだと思いますし、安全を求め、死を回避することこそ人の本能だと思うのですが、それ以外に何か重要な本能でもあるのでしょうか?
出産に関しては、母子の死を回避することが第一だと思います。
しかし、ヒトも刷り込みを行っています。
これも考慮する必要があります。
死を回避することと同じぐらい、刷り込みを重視しなければなりません。
脳の機能は、原始的な種ほど先天的に決まっていますが、高等な種ほど刷り込みによって生まれるからです。
哺乳類の出産は、出産の時から母子同床が自然です。
新生児室も、母子同室も、母子同床からは掛け離れています。
また、母子同室であっても、出産後かなり時間が経ってからというのが一般的で、出産直後からの母子同室というのはほんとんどありません。
新生児にとって、母親から1メートル離されていても、100メートル離されていても、50歩100歩かもしれません。
子猫は、母親から10cm離しただけで泣きます。
現在の病院で母子同床にしない理由は、母子同床だと母親が赤ちゃんを窒息死させる危険がある、というものだそうです。
しかし、出産直後の母親は、6時間ほどは覚醒の度合いが高くなっているそうです。
母親が自分の赤ちゃんを窒息死させるなんていうのは、ありえない話です。
また、母子ともに休ませるために離すという理論もあります。
でも、生んだ我が子と離されて、心が休まるでしょうか?
生んだ我が子を、見たい、抱きたい、そばにいたい、これが本能ではないでしょうか?
そばにいたほうが心が休まるのではないでしょうか?
現在、丹頂鶴のヒナを人が育てる場合は、丹頂鶴に似せた手袋をして育てます。
刷り込みの原則は、原始的な種ほど本能として脳の機能が決定されているが高等な種ほど刷り込みによって脳の機能が決定されます。
そして、人は最も高等な種です。
>またその病院出産と自閉症との関係も全く理解出来ません。病院出産によって自閉症児が多く生まれ、昔ながらの自宅出産だと生まれない、という客観的なデータや、保育器やNICUで保育された子供に自閉症児が多い、という統計などが実際にあるのでしょうか?
1950年ごろ自閉症児はほとんどいなかった、という資料を提示しています。
これを否定する資料がありますか?
もしあれば、提示してください。
私の理論を否定する資料があれば、私の理論が間違っていたということになります。
なお、1950年代には自閉症の子どもはほとんどいなかったという資料は山とあります。
ただし、自閉症協会の会長が書いているとか、障害児の専門家が書いているというような、信頼性が高い資料は少ないです。
というのも、当時の精神科医が書いていても、自閉症の知識がたいしてなかったと解釈されて、信頼されないからです。
昔の資料は、ほとんどすべて信頼できないということで無視されています。
無視できない資料を、私は提出しています。
また、保育器に入っていた子どもに自閉症の子どもが多いというデータはあります。
また、自閉症の子どもには出産に問題があった子どもが多いというデータもあります。
自閉症は先天的な障害だという理論に都合の悪いデータは無視されてきたのです。
下記の資料、白石さんのHPで発見できませんでした。お手数をかけますが、URLをお教えください。
>1950年ごろ自閉症児はほとんどいなかった、という資料を提示しています。
>また、保育器に入っていた子どもに自閉症の子どもが多いというデータはあります。
>また、自閉症の子どもには出産に問題があった子どもが多いというデータもあります。
白石さんのHPにある石井哲夫氏の体験談ですが、どのような方の体験談であれ、それが客観性のある根拠として扱うためには、そのかたの体験範囲が
「無作為抽出法で相当数のサンプルを選定し、作為が生じないように考慮して行うなど、統計的に客観性が十分に確保されている」ことが必要と考えます。
白石さんは、石井哲夫氏の体験談のその点を検討されましたか?
>このブログでは、他に議論すべきより重要なテーマがたくさんありますので、白石さんの仮説についての議論にリソースをあまり使いたくない、ということですね。
そらパパさんへ
↑上記に全面的に賛成です。
白石さんへ
そらパパさんが質問なさった、「刷り込み」という用語の定義、にお答えになってらっしゃらないにもかかわら書き込みを続けるのは、人のサイトを荒らす行為だと思いますよ。
どうぞ学会なりなんなりできちんと批判を受け付けられる形(ポスター発表などでない)で、発表なさってください。
>自閉症は先天的な障害だという理論に都合の悪いデータは無視されてきたのです。
現在発達障害治療の第一人者のかたがたの前で、こう発言してみてください。
こういう議論で、うっかり「相手の土俵にある用語」を使って反論すると、それについて知っていることをとうとうと述べられてしまう(自説なのだから、語れる言葉が多いのは当たり前)という展開になりがちで、まさにそうなってしまった感じですね。
でも、この仮説の問題は、そんな細部じゃなくて、根幹というか出発点にあります。そこが壊れているので、北斗の拳ではありませんが「この仮説は既に死んでいる」のです。全体が死んでいる仮説の細部で議論を蒸し返すのは、ゾンビと闘っているのと同じで、ある意味「倒しようがない」わけです。
自閉症の問題は恐怖感だ、とおっしゃっているのに、「恐怖感」が定義できない。もしくは、トートロジー(同語反復)で定義してしまう。
恐怖感は刷り込みの失敗によっておこる、とおっしゃているのに、「刷り込み」という行動レベルの現象が、どう「恐怖感」という認知・知覚レベルの現象に変換されるのか、そのメカニズムが語れない。もしくは、トートロジー(同語反復)で語ってしまう。
白石仮説は、要は、「刷り込みが失敗すると恐怖感が生まれ、恐怖感によって自閉症になる」という仮説のはずです。なのに、そこで使われているすべての用語が定義されておらず、それを指摘されると開き直るというのは、もはや理論を語る人の態度ではありません。
この仮説についての議論が完全に無意味であることがはっきりしましたし、白石さんに何度お尋ねしても「根幹」については無視されてしまうので、これでもう本当に終わりにしたいと思います。あとは他の場所でお願いします。「根幹」についてのまともな回答がない限り、白石さんのコメントももう掲載しません。
なお、以下は、議論とは独立した「雑談」です。
1.科学者が疑似科学を相手にしない(できない)理由が、今回、骨身にしみてよく分かりました。「相手の土俵に立って議論すること」が泥沼で不毛であるだけでなく、こちらから「正統に」振り下ろす一撃(例えば論理的にトートロジーを指摘するなど)が効かないというのは、辛いどころではないですね。
こういった論争の不毛さの本質は、この、「自らの理論に致命傷を受けても気づかず平然としている『ゾンビ性』」にあるのかも、と思い至った次第です。
2.もしかすると「トートロジー」の部分が分かりにくかった方がいらっしゃるかもしれませんので、例をあげます。
(1)安心感とは、安心できる状況にいるときに感じられる感情をいう。
(2)景気が悪いからモノが売れない。
(3)生命とは、生命活動を行ない、いつか死んでしまうものをいう。
これらはトートロジーです。何かを定義するときに、定義文のなかにそれ自体がもぐりこんでしまうと、「Aとは、Aである」というトートロジーになってしまうわけです。
トートロジーには、一見、意味がありそうで、実は何も情報が含まれません(だからこそ、攻撃されずいくらでも語ることができるという側面もあります)。心理や教育に関する言説にはトートロジーがしばしば現われるので、しっかり見極めて排除していかないと、出口のない迷路に迷い込んでしまいます。
最後に、もう少し複雑な例を。
(4)刷り込みが成功することで、赤ちゃんは安心感を得られる。(A→B)
(5)刷り込みが失敗すると、赤ちゃんは恐怖症になる。(not A→C)
(6)恐怖症とは、安心感が得られない状態のことをいう。(C=not B)
こちらは、3つが相互にトートロジーを構成しています。
(5)と(6)から「not A→not B」となり、対偶をとると「B→A」が導かれます。したがって(4)の文は循環して「A→A」としか言っていないことになります。同様に、(5)(6)も循環しています。ここから抜け出すためには、A、B、Cのいずれかを「A、B、Cの概念を使わず、かつ循環せず」定義しなければならないわけです。
3.結局最後まで付き合ってしまった・・・/(--;) ちょっと反省。
出産にまつわる、自然・不自然に関しては、kikulogというサイトでも、よく議論されていますので、一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。根拠の希薄な自然礼賛の如何わしさ等が語られています。
出産における自然と不自然
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151
そらパパさん
トートロジーのわかりやすい説明ありがとうございます。本当に難しいですね、これは。よくよく気をつけていても、見過ごしてしまいそうです。定義をしようとしても、もともと同語反復に陥りやすい概念が、あるのかなぁと思いました。死とか、自由とか、共感とか、同語反復や詩的な表現以外で説明せよ、と言われても、私にはパっと思い浮かびません・・・。哲学方面の方は、そのあたりを本当に良く訓練されているなぁ、と思うことがしばしばあります。
前半は「もう議論しない」と宣言した、どこかの仮説の話ですので、とりあえず何も書きません。
トートロジーについては、これが分からない方(つまり、「あの人が内向的な行動をとるのは、内向的な性格だからだ」という文章に意味があると思ってしまう人)とは、心理学の議論はできないと思っています。
おっしゃるとおり、トートロジーになりやすい分野というものがあって、その筆頭が「目に見えない世界」を議論したくなる「心理学」です。
ですから、心理学についてのいろいろな人の議論を見るとき、まず「この人は、トートロジーについてちゃんと考えて理論を構築しているだろうか」というところをまず見るべきですね。そこがいい加減な人の研究は、読む必要がないと思います。
2日目(8月30日)、口頭発表(6)の最初に「自閉症の原因」と題して白石勤さんが話されるとのこと。
参加予定なので、よく内容を聴いてきたいと思いますし、また学会側がそれに対してどういうスタンスなのかということも。
情報ありがとうございました。
タイトルが「自閉症の原因」ということですと、おそらく白石さんが日本発達心理学会第19回大会でポスター発表された内容に準じたものになるのでしょう。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ssiraisi/autism1.html
こういった学会の大会における「勝手発表」については、よほど公序良俗に反するようなものでない限り査読で弾かれることはないでしょうし、そもそも白石仮説は実験に基づくものではなく思弁的なものですので、こういった場で発表するということについて特段のハードルは存在しないものと思われます。(ですから、それをもって学会の姿勢を批判するといった必要もない、ということだとは思います。)
改めて白石仮説の主な問題点をなぞってみると、
・行動レベルの記述と心的レベルの記述が無邪気に混在しており、「なぜその行動をそういう心的状態と同一視するのか」「なぜその心的状態がその行動を引き起こすと結論できるのか」「そもそも観察不能な心的レベルの記述とは何を記述しているのか」といった問題が放置されています。これは、白石仮説が、心身因果の問題を無視した無邪気な「心身二元論」をとっているということでもあります。
・同語反復・循環論による定義が極めて多いです。「安心感」と「恐怖感」、あるいは「愛着」と「愛情」と「安心」、さらには「刷り込み」と「愛着」のように、仮説の根幹をなすような用語においても、定義があいまいであり、あえて定義しようとすると用語同士で循環してしまっています。
その結果、もっともらしい心理学用語が使われてはいるものの、理論としての情報量は極めて乏しく、ほとんど何も語っていないトートロジーになっています。
ただ、この指摘はある程度の論理力・哲学的素養がないと難解で、これまでの経緯では白石さんには理解していただけませんでした。
なので、もっとシンプルかつ致命的な問題について指摘しておきたいと思います。
彼の仮説は、ざっくりいえば、「『刷り込み』がないと『愛着』が生まれず、『安心感』が生まれない(=『恐怖症』)ので自閉症になる」といったものになりますが、『愛着』とか『安心感』は定義されておらず、恐怖症というのは『安心感』がないこと、というトートロジーなので、これら無意味な用語をすっ飛ばすと、「刷り込みがないと自閉症になる」というシンプルな主張になります。
そうなると、この仮説は、厳密には「刷り込みがあったのに自閉症になった子ども」が1人でもいれば論理的に棄却されます。刷り込みのありなしで自閉症の発生率を比較する必要すらありません。
加えて、「刷り込みがない、と彼が主張するような環境におかれた子ども」の多くが、実際には自閉症にならないことの説明も必要でしょう。なぜなら、そういう環境下でも、実際に90%以上のお子さんは自閉症にならないわけですから。
ここで、もしも「同じ状況でも、子どもの特性によって刷り込みに成功する子どもと失敗する子どもがいるんだ」とか「刷り込み以外にも複雑な要素が・・・」などと主張すると、驚くべきことが起こります。
なぜなら、刷り込みじゃなくて、「そっちの違い」こそが自閉症の真の原因じゃないの?と聞かれたときに、答えが返せなくなってしまうのです!!(笑)
仮に、ここで再度「刷り込み後の愛着や安心感の生まれるプロセスの違いで・・・」という説明をしたとしても、「では、『刷り込み不全』とされるような同様の環境下で、愛着や安心感が生まれて自閉症にならない子ども(90%以上)とそうならずに自閉症になる子ども(数%)の違いが生じるのはなぜか?」と問い直せば、まったく同じ問題に還元されます。これは、恐らく致命的な問題です。
よくよく考えてみると、「○○が自閉症の原因だ」という主張があったときに、「○○」という条件に合致しているのに自閉症にならない子どもが90%以上もいるという時点で、その主張は簡単に否定できるわけです(ちなみにこのケースでは「○○」に「刷り込み不全」が入ります)。
しかし、自閉症者を自らの種に属し損なった存在とする表現には文学的な価値があるようにも思いますね。
>こういった学会の大会における「勝手発表」については、よほど公序良俗に反するようなものでない限り査読で弾かれることはないでしょうし、そもそも白石仮説は実験に基づくものではなく思弁的なものですので、こういった場で発表するということについて特段のハードルは存在しないものと思われます。
はい、それはそうだと私も考えています。
>ですから、それをもって学会の姿勢を批判するといった必要もない、ということだとは思います。
興味があるのは、発表の後なんですよね。
聴衆の反応と、主催者側の改めてのリアクションといいましょうか…。
まあ、観ても来ますし、何でしたら主催者側に白井仮説について問うてくるかもしれません。
たろきちさん、
文学的なのはいいんですが、そこから「抱っこ法」のアルバイトで自閉症児の親御さんから稼ごうとしたり、使命感に燃えて頑張っている産科のお医者さん方を自閉症の発生源のように非難したり、さらには親御さん自身に対しても「産んだときの環境を間違ったから自閉症になった(大病院ではなく助産院にすればよかったのに)」といった主張をされているので、「無害な主張」とは言いにくいと思います。
※さっき改めて確認したら、つい最近まで「抱っこ法」だったはずの彼の「療育」が、「共感してほめる」という「恐怖症の治療」に変わっていました。ずいぶんあっさり「療育法」が変わるんだなあ、とか、「共感」とか「ほめる」程度の働きかけで何とかなるならもっと娘の子育ても楽だろうな、とか、精神疾患である「恐怖症」を「治療」すると称してお金を取るのは医師法違反じゃないのかな、とか、いろいろ考えました。
あと、老婆心ですが、「『お金をとって』他人の子どもに何かしている」ときに、万一の事故で怪我や死亡させた場合は、「業務上の賠償責任」になるため、個人向けの賠償責任保険(個人賠)では一般に保険金が出ません。彼が例示しているような「自傷したり暴れたりするお子さんの『恐怖症』を克服させる」みたいなことを有償で(=業として)やるなんてことは、私には怖くてできません。
初代さん、
専門家の先生方もリソースに余裕があるわけではないでしょうし、一方でこういった「泡沫」と呼ばざるを得ないような仮説・主張は膨大にあるわけですから、いちばん一般的で賢明な反応としては、「黙殺」で終わりなんじゃないでしょうか。
ちなみに、今回指摘した「刷り込み問題以外が自閉症の原因だとしか考えられない」という点については、既に誰かから指摘されたのかどうかわかりませんが、反論が用意されていました(笑)。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ssiraisi/7.html
そこを見ると、いろいろな仮説が並んでいる(牛乳アレルギーとか蛍光灯の「人工的な」灯りといった、首をかしげたくなるものが多いですが)のですが、全体としては、結局「はっきり解明できないが、とにかくさまざまな要因によって、刷り込みが成功したら自閉症にならず、刷り込みが失敗したら自閉症になるんだ」という結論になっているようですね。
つまり、「刷り込みの成否」を直接語るのではなくて、「さまざまな要素」が「刷り込みの成否の原因」になり、さらにその「刷り込みの成否」が「自閉症の原因」だという「多段ロケット」に変わっているわけです。
この「新説」について書き始めたらすごい量になってしまったので、結論だけ書くと(機会があれば詳細も書きます)、「自閉症の原因が『解明できない不特定多数の要素』に移ったことで因果関係の説明そのものが消えてしまったので、反証不能な、ポパー的に言えば『非科学』になってしまっている」と思います。(このように、仮説の矛盾を取り繕おうとして、ますます泥沼にはまってしまうのはよくある話です)
また、このページで彼は「遺伝的要素」をほぼ完全に否定されているので、彼の主張が「生むときとその後の環境により自閉症になる」という自閉症後天説だということが改めて確認できました。