実はこれまでも、「哲学としての仏教」の本を紹介してみたいなあ、とずっと思っていたのですが、一般に仏教はやはり「宗教」としてとらえられている(まあ当たり前ですが)こともあり、このブログに「宗教色」をつけてしまうことは避けたいと思っていたので控えていました。が、先日ご紹介した心理学の本で、心理学を学ぶために役立つ知識の1つとして「哲学としての仏教」がとりあげられていましたので、その流れを借りて、「哲学としての仏教」に関連する本を簡単にご紹介しておこうと思います。
当然、「仏教は素晴らしいですよ、信仰しましょう、救われますよー」といった趣旨ではまったくなく、一つの哲学的立場として、批判的に読むことを前提としたご紹介です。「小説として聖書を読む」のと同じような意味で、「哲学書として仏教書を読む」ということです。
もちろん、こういったものを読むことで「心が豊かになった」と感じられたらそれは素晴らしいことですから、そちらの価値を否定するものでもありません。
えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経
著:笑い飯 哲夫
ワニブックス
なぜか吉本の芸人が般若心経本を出してます。
でも読んでみると、もちろんネタもいっぱい仕込まれてはいるんですが、ベースにあるのは驚くほど真面目な、般若心経の哲学的解読です。
般若心経の入門書は、どうしても「宗教書」っぽいものが多く、そこに書かれている「教え」によってどうやったら救われるか、みたいな話題が多くて哲学的に読むのが難しいことが多いのですが、そういう意味ではこの本は意外にも(失礼!)「般若心経を哲学的に読む」ための格好の入門書になっています。
えてこ(猿)に分かるかどうかはともかく、気軽に読めてよく分かるいい入門書です。
この本以外では、情報量は少ないですが、とても美しい仕上がりの「般若心経絵本
ブッダのことば―スッタニパータ
翻訳:中村 元
岩波文庫
仏教の始祖であるブッダが語った、まだ宗教の形をなす前の「生の声」の記録です。
ここで語られているのはまさに「哲学」ないし「倫理」で、仏とか堅苦しい教理とかは登場せず、ひたすらブッダの深い思索から導かれた「世界の理解のしかた」「世界とのかかわりかた」が語られます。
短い「詩句」が並んだ断片的なものになっていてどのページからでも読めますので、根をつめて最初から最後まで読破するというよりは、気が向いたときにパラパラめくって気になったところの詩句を読む、といった読み方のほうが向いているような気がします。
実は私はこの本を高校生の頃から持っていて、いまだにときどき手にとる「愛読書」です(高校のときに古本で買った本なのでもうボロボロです)。

↑私がもっているこの本。もうボロボロです。
十牛図入門―「新しい自分」への道
著:横山 紘一
幻冬舎新書
般若心経で語られる思想は「空」の思想と呼ばれますが、その「空」とはなんなんだ、どうやったら理解できるんだ、という庶民の疑問に答えるために、禅宗のお坊さんたちが考案したのが「十牛図」です。
ここでは、「空」を理解する=悟りを開くことを「牛を探し求める」ことになぞらえ、10枚の「紙芝居」のような絵によって、「空」を理解するまでの道のりが、ある意味ユーモラスに表現されています。(実際の図柄は、こちらで検索してください)
般若心経と十牛図、この2つを知ることで、「哲学としての仏教」の中心的な考えかたがよく分かるんじゃないか、と思います。
入門 哲学としての仏教
著:竹村 牧男
講談社現代新書 1988
このエントリの原稿を書いていたら、ちょうどズバリのタイトルの新書が出て驚きました。私も読んでいますが、けっこう難解です。上記の本を1~2冊読んで、興味をもった後に読む本だと思います。対象が仏教全般なので、守備範囲は上記3冊の本よりもかなり広いです。
今回は、かなり異色の記事になりましたが、とりあえず今回1回かぎりの記事ということでご容赦いただきたいと思います。
自閉症という障害は、私たちのさまざまな「常識」に挑戦してくる障害ですが、なかでも乗り越えるのが最も難しい「常識」は、私たちの「こころ」に対する素朴なとらえ方なんじゃないだろうか、と思います。
このブログで、基礎心理学や哲学(心の哲学・科学哲学・認知哲学)について繰り返し触れているのは、私たちのもつ「こころ」に対する素朴な常識に疑問をもち、相対化することが、自閉症児を見る眼、理解、療育へのアイデアの幅を広げることに間違いなく役立つと確信しているからです。
そういった「『心』観の相対化」のためのたくさんある中の1つのアプローチとして、哲学としての仏教を知ることを位置づけられたらいいな、と思って、今回の記事を書かせていただきました。
※その他のブックレビューはこちら。
本当にいつも、本のレビューを参考にさせて頂いています。
読み逃げしようと思ったのですが
大好きな中村元先生の「ブッダのことば―スッタニパータ」の本が
紹介されていましたので
思わず、書き込みいたしました。
私も短大の時に初めて読みました。・・・30年前?
本を何度かの引越しで失くし
最近、新たに購入しました。
あっ、私は熱心な日本の仏教徒ではありません。
お勧めの笑い飯さんの本に今度、挑戦してみます。
十牛図入門
自閉症の子を育てていて
この本を読んではいませんが
十牛図に通じるものがあると
いつも思います。
回りまわって、振り回されて
結局は・・・
お忙しいとは思いますが
これからも
本の紹介を楽しみにしております。
コメントありがとうございます。
どういう反応をいただけるか分からないと思っていたこの記事に、さっそく好意的なコメントをいただけて、ちょっとほっとしています。
ブッダのことばは、私も率直に言って「理解できている」とは到底言えないのですが、何か不思議なことばの魅力があって、高校のころ偶然手にとって以来、度重なる引越しのなかでも捨てずにずっと大切にしてきました。
また、おっしゃるとおり、確かに、十牛図で牛を求める牧童の姿は、自閉症の子を育てる親の姿に通じるものがあるように感じます。
最初は「何かを探す、答えを見つける」ような気持ちではじめる療育、子育てが、やがて「実は最初からすぐそばにあって、でもこだわる必要もない、『ただあるがまま』のもの」になっていくわけですね。
まだまだ私はその境地には達していませんが、3つめの「見牛」くらいにはたどりついているんだったらいいなあ、と思います。(^^)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
今回の記事,興味深く読ませていただきました。
私も「こころ」という仮説構成体を捉えなおすために,仏教哲学を学ぶ重要性を感じています。自閉症児の教育に携わっていますと,西洋的な二元論には限界があると思えてきました。従来の「こころ」を想定すると,うまい手立てが見つかりません。そういう意味で仏教的な一元論の世界には魅力を感じます。
欧米の行動分析学の研究者が,仏教哲学と行動分析学の類似点を指摘する論文を発表したり,ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)に禅の考え方が取り入れられていたりして,仏教的な「こころ」の捉え方に関心が寄せられているようです。
欧米ではすでに従来の「こころ」というものを見直そうという運気が高まっているのかもしれませんね!
二十一世紀の自分探しプロジェクト http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32192292
そんな視点から「こころ」とは何かについて書かれた本です。基本的には徹底的行動分析の立場から書かれていますが,自閉症児の「心の理論」課題を克服させるユニークな方法なども載っていて,とてもおもしろかったです。機会がありましたらご一読ください。
コメントありがとうございます。
西洋哲学の「こころ」がだめで、仏教はいい、と考えてしまうと、それはそれである種の「二元論的価値観」の罠に落ちてしまいそうなので、あくまでも、仏教的「こころ」観で西洋的「こころ」観を相対化する、くらいの立ち位置がいいんじゃないかな、と個人的には思っています。
ご紹介の本は、読んだことがありませんが、機会があれば読んでみたいと思います。
ありがとうございました。
仏教的「こころ」観でも,最終的には「私」というものを認めていますから,全面的にいいとは言えないのですが,西洋的「こころ」観と比較すると,まだ自閉症療育を考えるうえでは役に立つ「こころ」観だと個人的にはそのように感じています。
私の感覚としては,仮説構成体はなるべく排除して,シンプルな原理で療育方法を考えるとより効果が上がるかな,といったところです。
失礼しました。
>仮説構成体はなるべく排除して,シンプルな原理で療育方法を考えるとより効果が上がる
これはまったくの同感です。
そういう意味では、私は仏教的な「こころ」観でさえtoo muchだと思っているところがあります。
個人的には、「こころ」に対する私の哲学的立場は「消去主義」に近いです。(完全にそうだというわけではありませんが)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6#.E6.B6.88.E5.8E.BB.E4.B8.BB.E7.BE.A9.E7.9A.84.E5.94.AF.E7.89.A9.E8.AB.96
http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200706160000/
療育に引き寄せて言うならば、私たちがイメージする「こころ」というのは、定型発達の人が定型発達の認知システムによって構成した(究極的には実体のない)概念であって、自閉症の人の「自閉性」の側面には、その概念はまったく通用しないのではないか、そう思っています。
で、そこに新たに「自閉症の人のこころ」という構成概念を(分かりもしないのに)作ろうとするのは効率が悪いので、そんなものは作らずに、基本的には行動主義で(でも行動主義で手が届かない・届きにくいところは、便宜的に認知主義で)自閉症の人を理解し、働きかけていくのが近道なんじゃないかと考えています。
>「自閉性」の側面には、その概念はまったく通用しない
そうですね。日常的な視点から自閉症児の「こころ」を見ようとすると,徒労に終わることが多かったです。分かったような気持ちになっても,実は全然分かっていなかったり。
>でも行動主義で手が届かない・届きにくいところは、便宜的に認知主義で)
刺激等価性の研究などを見ていますと,現時点での行動主義で届かない・届きにくいところも,徹底的行動主義を貫いていくと,私たちが「こころ」と呼んでいるものの正体が現れる予感がします。そして今の段階でもかなり近いところまできているのではないかという気もします。
タクトとかマンドとか古典的な言語行動の枠組みのABAの療育に,刺激等価性など新しい言語行動の枠組みがより積極的に取り入れられ,効果的な療育方法が生み出される日もそんなに遠くないように思います。
(実際に上記で紹介した本の療育方法は刺激等価性から派生した言語行動のモデルを使っています。)
駄文失礼しました。
コメントありがとうございます。
私個人としては、行動主義は還元主義であり、それを突き詰めていっても「こころ」は取りこぼしてしまう、と考えているのですが、その一方で現時点でいちばん「こころ」に近づいている心理学は、皮肉にも行動分析かもしれないな、とも思っています。
これからもよろしくお願いします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
私の考えでは,「私」や「自閉症児」をコントロールする確立操作や弁別刺激,情動に結び付けられた無条件刺激や条件刺激,強化子,弱化子,言語行動などをすべて特定できれば,「こころ」の取りこぼしはないのかなと感じています。自分自身を含めた「環境」を詳細に分析できれば「こころ」が行動分析だけで説明できるような気がします。洗練された数学物理学モデルのように。
そうすると、私とはかなり立場が違うということになりそうですね。
私は、行動分析は心をあえて「取りこぼしまくる」ことで科学たりえていると考えているので。
ありがとうございます。
ご指摘のとおり私の考えていることは現段階では科学ではないですよね。
情動なども行動分析学の枠組みでいつか実験的に解明される日がくるのではないか(くるといいな)と思っています。
方法論的行動主義と徹底的行動主義の違いなのかもしれませんが。
失礼しました。