イデオロギーの鎧で自分が知的なつもりになって、しかも権力を持ってしまった裸の王様がどれだけ多くの人を不幸にしてしまうかの典型的な例。我が家もまったく他人事ではないだけに、読んでいて本当に悲しく、怒りを禁じ得ません。
http://neta.ywcafe.net/000964.html
都議会議員の田代ひろしと古賀俊昭と土屋たかゆきは、○○まみれの手で顔をヌルってされる現場で半年ほどバイトしてみるべきだろう(Webのネタ帳)
東京都立七生養護学校(当時、現在は同特別支援学校)で行なわれていた、知的障害をもった子どもたちへの「視覚化された分かりやすい」性教育を、反ジェンダーフリー的なイデオロギーを振りかざして潰してしまった東京都の議員や教委に対して、不当な介入であったとして賠償を命ずる判決が下された、という話題。
いや本当に、自閉症児に「やってはいけないこと(それが食欲・睡眠欲・性欲といったものを満たす(一次強化子となる)ものならなおさら)」「ふだん目にしないこと」を教えることがどんなに大変か(=うまく教えるにはどれだけ創意工夫と苦労をしなければならないか)っていうのは当事者である私たちにでさえ、ある意味「想像を絶する」ものなので、少なくともこういうイデオロギーの塊みたいな人たち(現実を見ずにイデオロギーの論理で物事を断定してしまうような人たち)には永遠に理解されることはないんだろうな、と思う。
というよりも、さらに腹立たしいのは、どうやらこの人たちは現実そのものに関心がなく、「イデオロギーのとおりに世界が変わっていくこと」自体にのみ興味がある(それによってもたらされる副作用、関係者の不幸にも興味がない)ように思われるという事実です。
この判決においても、この創意工夫と情熱にあふれた教育が、リソース(教材も教員も)ごと消滅させられてしまっているという現実を巻き戻すことはできなかったわけで、本当に悲しく、怒りが込み上げてきます。
私自身、この場には露骨なイデオロギーを書きたくないので、これ以上多くはコメントしないことにします。詳しくは、リンク先に分かりやすくまとめられていますので、どうぞ。
最後に、全然関係のない、ちょっと救われた気分になるベタ記事を貼っておきます。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090325_thai_spiderman/
タイのスパイダーマンが3階の窓から離れなくなった自閉症の子どもを救出
「七生養護学校事件」については、2年くらい前でしょうか、障害児教育について書かれた本の中に記載があり、その時に知りました。その本の中では、単に「七生養護学校事件のような」と記載があり、簡単な注釈があっただけだったので、自分でインターネット検索をしていろんな方々の意見を見ました。ただただ悲しかったことを良く覚えています。
似たようなことで、よく知的障害者や精神障害者の作業所建設に対する周辺住民の反対運動というのがニュースになることがあります(ちょっと古いですが、「けやきの郷建設事件は有名ですね)。「うちの子供が事件に巻き込まれたらどうしてくれるんだ」「絶対に事件がおきないということを、科学的に証明してくれないと、納得できない。」などの反対住民の声を聞くと、やはりただただ悲しくなります。
今月初めに、北九州市で行われている「障害者地域生活支援研究会」というものに初めて参加してきました。月1回の開催ですでに129回を数えています。市の障害福祉課の方、特別支援学校の教諭、障害者を受け入れている作業所などの団体職員の方、などいろんな方が参加されています。そこでは、まだまだ地域支援の難しさが浮き彫りにされています。「青い芝の会」を先導した横塚晃一氏は「春風のように街にでよう」(だっとと思うのですが)と、CPを中心とした障害者たちに呼びかけていましたが、もっと、障害を持つ人たちのことを知っていただかなくてはならないのでしょう。
障害を持つ人の権利に関する条約には、「障害を持つ人の障害とは、機能的な障害が問題なのではなく、社会参加するときに障壁となるものの問題である。つまり、障害をもつ人にとっての障害とは、社会問題である」ということが記載されていたと思います。
まだまだ道は長いですが、親としては、闘っていくしかない、と考えています。
そうなんですよね。
障害とは、社会に適応(適切に参加)できないことを本質として含意している、というのは、拙著(幸せプロジェクト)でも書きましたが、
・障害があるので社会に参加できない
↓
・社会に参加しないので社会から「見えない」
↓
・社会から「見えない」ので社会から理解されない
↓
・理解されないので偏見をもたれ差別される
↓
・さらに社会に参加できなくなる
という悪循環があると思うのですね。
「けやきの郷」についても少し調べてみましたが、「そういう施設ができると地価が下がる」という苦情があったらしいですが、これが実はもっとも本質を突いていると思います。外国人に賃貸住宅を貸さない理由も同じで、「外国人を入れると家賃が下がる」なんですね。
土地の値段(もちろん家賃も)というのはまさに「社会」が決める「その場所の相対価値」ですから、ある集団が集まった場所の地価が上がるか下がるか、というのはそのまま、その集団が厚遇されているか差別されているかという、ベールのかからない「社会からのむきだしの評価」なわけです。
住んでいる場所がわかってしまいますが、我が家の比較的近く(といっても1km以上離れていますが)に、かなり大きな精神科の病院があります。この病院に、医療観察法に基づく病棟が新築されることについて、我が家に自治会から「反対署名」の依頼が回ってきました。
それを見ると、いろいろ反対の理由が書いてあるんですが、やっぱり大きな理由は「怖い」「地価が下がる」なんですよね。
医療観察法自体への疑問はあったんですが、その署名に参加することはその「差別的反対理由」に同意することを意味しますから、署名はお断りしました。
まあ、知らないものが怖い、というのは自然な感覚なので、やはり知ってもらうことが第一歩だとは思います。
ただ、その一方で環境が整わない状態での無理な「インクルージョン」は、特に自閉症の子どもにとっては苦痛以外の何者でもないでしょう。
そのあたりに最適解を出していくことが必要なんだろうな、と思います。
>「うちの子供が事件に巻き込まれたらどうしてくれるんだ」
>「絶対に事件がおきないということを、科学的に証明してくれないと、納得できない。」
などは障害の有無に限らず、可能性を考えるのならいつ・どこで・誰にでも起こりうることですよね。
ではそれを科学的に証明したり、保証されている世の中なのか?
そういうのは「ヒト」の力で創りあげなくてはならないものだと思います。
せめて自分だけでも、微力でも、その力になりたいと思います。
当選してしまいましたね・・・
タレント系の知事はみんなイデオロギーの塊のような人ばかりなので、とても不気味です。
http://www.chiba-moriken.jp/manifesto.pdf
◆ 教育日本一
強く美しく元気な心を育てます!
最近は悲惨な事件があとを絶ちません。日本人の心、道徳心が、どこかおかしくなってきています。学級崩壊のみならず、家庭内殺人・無差別殺人など、これまでの常識では考えられないような事件が頻発しています。
それらの元をたどれば、家庭や学校において、人格形成の基礎をなす道徳教育や躾教育が十分ではなかったことが大きな要因です。
そこで千葉県では、教育再生諮問会議(仮称)を設置して県内外の有識者の総力を結集し、人間としての基本的な躾や常識を養うために、健全なる郷土愛の育成や道徳教育の強化に努めます。また、行き過ぎたジェンダーフリー(性差否定)教育や過激な性教育を見直し、男女の生まれ持った違いや良さを尊重し、家族や家庭を大切にする明るく元気で生き生きとした子供たちを育てます。
私たちを生み育ててくれた祖先や両親・先人・郷土や国に対する感謝報恩の心、道徳心や公共心を育むために、子どもたちの「心を育てる教育」に本気で取り組み、強く美しい日本の心を再生します。
<「心を育てる教育」に全力投球!>
<施策例> 高校での「道徳」を正式教科化(教科書作成、研修導入)、生活指導の強化、夢を語る進路指導改革、「親学」導入による家庭力の再生、行き過ぎたジェンダーフリー教育・過激な性教育の見直し、教育現場での国旗掲揚・国歌斉唱の徹底化、日本を嫌いになるような歴史教育の見直し、武道や伝統文化の奨励、国語教育の強化等
コメントありがとうございます。
まあ、JKLpapaさんが引き合いに出した要求というのは、要は絶対に達成できないことを条件にすることで、事実上の拒絶を表明しているということでしょう。
ビジネスの世界でも、受けたくない案件に引き合いがあったときに、とても買えないような高値で見積もる「拒否レート」というのがありますが、その類ですね。
ですから、そういう危険を下げていく(そのためにも、本来は今回の件で潰されてしまったような「性教育」もものすごく重要なわけです)ことをできる範囲でやっていきながら、そういう「拒否レートのような要求」をされないような社会の価値観を作っていかなければならないんだろうと思います。
最近マスメディアでよくなされる、「虐待を受けた子供の傷は癒えるのか」といった問いかけにも、「虐待を受けたような異質なものが社会に入ってくるのは怖いから、まともになってから出てきてほしい」という裏の要請があるように感じます。
その傷は抱えたまま社会で生きていく、というのではいけないのでしょうか。
子供のうちに施設の中でまともになり、社会には迷惑をかけないでほしい、ということなのでしょうか。
これだけ虐待、虐待と騒がれていながら、虐待を受けた人が精神障害や情緒障害を抱えたまま社会参加することには、まだまだ非常に高い障壁があることには矛盾があるように思います。
私の受け取り方がひねくれすぎて不快にさせてしまったらすみません。
コメントありがとうございます。
「普通」じゃない異質なものはそのまま受け入れがたい、何とか「普通」になってくれ、という「潜在的な要請」がもし社会にあるとしたら、それはもしかすると、まさに「非自閉」的な、なんでも一般化してプロトタイプ化しないと安心できない私たちの傾向そのものからくるものかもしれません。
おっしゃっている中で「社会」という概念をどうとらえるか、だと思います。
common senseのようなものを前提として「社会」がなりたっているのだとすれば、その前提を崩すものを「社会」が受け入れないのは、むしろ当然だと考えることもできます。
逆に、どんな人間も受け入れることができる「社会」というものが存在するのか、という問いも、難問であろうと思います。
「逸脱」に対して寛容な社会が望ましい、という議論と、「社会」というものが何らかの「矯正への圧力」を持っているかどうか(そしてそれは妥当なのか)という議論は、分けて考えたほうがいいかもしれませんね。
「性教育裁判」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4000094653/ref=olp_product_details/376-0385424-5103218?ie=UTF8&me=
北沢先生の講演に使われた実際の用具や資料が七生養護学校で使われたものかは確認しなかったのですが、近いものはあるのかな?と思いました。
フロアから発言もしました。具体的にはマスターベーションの補助具ってどんなものがあるのですか? 明確な返答はなかったのですが、オランダでは機械を使っているのを見たことがあるそうです。
またホワイトハンズ
http://www.whitehands.jp/menu.html
の活動については私も実態は詳しく知らないのですが、結構肯定的に捉えていたのですが、北沢先生は女性を性処理の介助をするのには反対の立場であるとのこと。
思春期の児童も支援し、家族の相談にも応じるのでこれらの問題は支援者として明確な立場とよりベターな回答ができるように勉強中です。
コメントありがとうございます。
障害のある(特に知的障害)当事者への性教育ということについては、性被害・性加害を防ぐというポイントのみに留まる指導者の方と、性欲の適切な処理というところにまで踏みこむ指導者の方、両方がいらっしゃるという印象です。
私は後者までポジティブにとらえ強力に指導できる方でないと、特に男性当事者の性の問題はカバーしきれないと感じていますが、やはり性欲の処理、というところまでいくとタブー視されてしまう方も多いように感じますね。