その仮説をまとめた本「自閉症とマインド・ブラインドネス」については、ずいぶん昔にレビュー記事を書いていますが、この時点では私は彼の仮説に割と肯定的でした。
でもその後、「心の哲学」や「複雑系の科学」などを学んでいくうち、彼の仮説は実はほとんど何も語っていないのではないかという疑問を感じるようになり、現在では、彼の仮説が自閉症の本質に迫るものであるとは考えていません。
このあたりの私の立場については、実は1冊めの本『自閉症-「からだ」と「せかい」とをつなぐ新しい理解と療育』で既に明らかにしているのですが、ブログのなかでは必ずしも明確に書いたことがありませんでしたので、1冊めの本の該当箇所からの引用をベースに、簡単に整理しておきたいと思います。
バロン=コーエン仮説が間違っていると考えているわけではありません。
そうではなくて、バロン=コーエン仮説は既に私たちが知っていることをより複雑に説明しているだけで、私たちに新しい情報を提供しておらず、このアプローチをいくら進めても自閉症の本質にたどりつくことはないだろう(だから仮説としての価値があまり感じられない)、と考えているのです。
端的に考えてみます。
自閉症の原因は「心の理論」(あるいは何とかモジュール)に障害があることです、と説明したところで、それは「では、なぜ心の理論に障害があるのか」という説明にはなっていませんから、今度は「心の理論に障害があることの原因」を解明する必要が生じます。つまり、問題が脳の中に一歩踏み込んだだけであって、本質的な原因の究明にはなっていません。
この問題を解決するためには、脳の中に一歩踏み込んだ仮説を、さらにもう一歩、もう一歩とより単純で根源的なものに還元していくことを繰り返すしかありません。たとえて言うならば、目に見える物体から、分子、原子、クォークといった形でどんどん細分化していって、「物質とは何か?」という問いに答えようとする働きかけに似ています。
ところが、このような還元主義的な認知心理学のアプローチには、2つの困難が立ちはだかります。
第一に、このアプローチで研究を進めていくためには、直接見たりさわったりできない「脳の中の情報処理」に、どんどん深く潜っていかなければなりません。
自閉症の症状なら目に見えますが、「心の理論」になった瞬間に、もう直接「見る」ことはできなくなり、私たちができるのは、「心の理論」の発達度合いを診断できるだろうと予想されるテストを行なうことだけになります。そして、そこからさらに深く潜る、つまりより還元的な情報処理過程を研究しようとすればするほど、それを実験するためのテストを工夫することがどんどん困難になっていきます。つまり、このようなアプローチで自閉症の障害のモデルを作ろうとしても、実験やテストで「手が届く」範囲には限界があり、そこから先は、深めようとすればするほど、空想の世界、机上の空論に入っていかざるをえなくなるのです。(いうまでもありませんが、自分自身で「心のなか」を洞察する「内観」ではダメなことは、実験心理学の世界では常識です。)
実際、コーエン仮説では、「心の理論」の情報処理を実現するための認知モデルとして、以下の4つのサブモジュールから構成される「心の理論モデル」を示しています。
ID・・・・意図の検出器
EDD・・・視線の検出器
SAM・・・注意共有のしくみ
ToMM・・心の理論のしくみ
一見して分かるとおり、これらのサブモジュールはそれぞれ非常に高度な情報処理を担当しており、内部に複雑な処理機構をもっていることは明らかです。ですから、本当に自閉症の情報処理のエラーとはどんなものかを解明するためには、この4つのサブモジュールの段階にとどまらず、さらにこれらを細分化した「サブ・サブモジュール」、「サブ・サブ・サブモジュール」というように、どんどんこれらのモジュールを解体していかなければなりません。
ところがその一方で、この4つのサブモジュールの段階でさえ、それぞれのモジュールや情報の流れが本当に実在すると言えるのか、あるいはそれぞれのモジュールのどこがどの程度障害されているのかを具体的に実験で確認することは相当に困難になっています。仮に何らかの実験方法を考案して、仮説を支持するような結果が出たとしても、「深く潜れ」ば潜るほど、それらの実験結果はさまざまな別の解釈が可能なものとなり、モデルの実在性を証明することはきわめて難しくなっていくでしょう。
そして第二に、バロン=コーエン仮説のような、脳の情報処理を「モジュールの組み合わせ」としてとらえ、そのモジュールの機能を分解していけば脳の情報処理の詳細にたどりつけるという、「還元主義的な脳の情報処理モデル」自体が、考え方として不適切である可能性があります。
自閉症のさまざまな症状を説明する一つのモデルとして「心の理論障害」という仮説を設定する。
これは、(真偽はおくとして)複雑な症状を一つの仮説にまとめるという「理論の単純化」の方向性をもちますが、実はそれと同時に、これまで存在しなかった「心の理論」という新たな概念を導入することによる「理論の複雑化」という方向性をあわせ持っています。
「節約の原理(オッカムのカミソリ)」という考え方があります。これは、ある理論(仮説)が優れているかどうかは、どれだけ少ない概念でより多くの現象を説明できるかという観点から判断できる、という考え方です。
この観点から「心の理論モデル」を見てみると、「心の理論障害」という一つの概念にまとまってそれなりに単純な理論で説明できたかに見えた自閉症の姿は、すぐさま4つのサブモジュールに分解されてしまいます。4つのサブモジュールそれぞれが新しい概念だと言えますから、そもそもの出発点である「心の理論」という概念と合わせると、これだけで5つの概念が新たに導入されていることになります。しかも、これらの数多くの概念は、結局「心の理論障害」という最初の概念を部分的に言い換えているに過ぎず、導入された概念の数は増えているのに説明できる現象はほとんど増えていないことに気づきます。
このモデルをさらに深く掘り下げるために、それぞれのサブモジュールをどんどん分解していったとしたらどうでしょう?
その結果は、サブモジュールの数、つまり心の理論という「脳の情報処理」を説明するために設定される概念の数が爆発的に増える一方、そこから説明できる現象は、やはり究極的には最初に設定された「心の理論障害」だけである、といった状態になるのではないでしょうか。
理論を深めようとすればするほど、節約の原理から見ればその理論の価値がどんどん落ちてしまう(最後にはおそらく、ほとんど無意味なトートロジー=同語反復になる)というジレンマから、おそらくこのバロン=コーエン仮説は逃れることができません。
自閉症への認知心理学的アプローチには、「心の理論」のバロン=コーエン仮説以外にも、フリスやハッペなどが提唱した中枢性統合(セントラル・コヒーレンス)障害仮説、あるいは実行機能障害仮説、ワーキングメモリ障害仮説などいろいろありますが、どれもほぼ同様に、モデルを精緻にしようとするほどそれが複雑かつ検証不能になり、トートロジー化していくというジレンマを抱えています。
ですから、バロン=コーエン仮説は、自閉症スペクトラムの「三つ組の障害」を、少し違う角度から(症状レベルよりほんの少し下のレベルで)概念的に解釈する程度の役には立っても、自閉症の本質や障害の原理を追求したり、療育的働きかけに応用したりといったより深いレベルへはたどり着けない、相当にトートロジー的な仮説に過ぎないのではないか、というのが現在の私の立場になるわけです。
このような認知心理学的アプローチの限界を乗り越えるためにどうすればいいかというのが、1冊めの本の主要テーマになっています。ご興味をお持ちいただけたら、ぜひご一読ください。こちらの記事のコメントのやりとりも、実はかなり深い関係があります。
自閉症―「からだ」と「せかい」をつなぐ新しい理解と療育
著:そらパパ、神谷栄治
新曜社
※補足:バロン=コーエン自身も、最近はこの「マインド・ブラインドネス」時点の仮説からは少し離れているようです。その辺りも含めた、自閉症についてもかなり詳しい新しい認知心理学の本を読んでいます。また読み終えたらレビューしたいと思っています。
以前にそらパパさんが、「こころの理論」も「中枢性統合の障害」もトートロジーに過ぎない、というのを書かれて、はっとしました。確かにそうですよね。3つ組みの症状の別の出方を説明しているに過ぎませんね。
サリー・アン課題については、うちの娘は4歳からパスしてしまっていますが、高機能のお子さんにはそういう方もいるときいていますので、自閉症スペクトラムの本質に迫る仮説とはいえないのでは、と思っていました。ただ、それに答えるときに直感的でなく、すごく考え込んでいるとか、不安そうに答えるとか、ポツポツと単語で答えるなどの様子で、コニュニケーションの質的な困難があるなー、と感じますが...ただ、それはどんなテストでも見られることだと思います。
去年自閉症のセミナーで、英語のAutismの語源を聞きました。「自分主義」的な意味だそうですね。これってとても言い当てているなーと思います。「自閉症」ってどうして訳しちゃったのか、と思いました。
最近ピアジェの「新しい児童心理学」も少しずつ読み始めていて、「自分」というものを環境から切り離して認識し、「他者」を意識し、さらに「他者」の視点にたって「自分」を見るというのは、相当ハードルが高いのだなーと思いました。
娘を見てると、見た目の発達は年齢相応ですが、実は「鏡の療育」に取り組んだほうがよいのでは?と思いはじめています。
そらパパさんの新しい認知心理学の本のレビュー楽しみにしています。
ただ、3人の自閉症スペクトラムの息子たちを持つ父親として、また何の因果か、某大学の大学院の生命体工学研究科で客員教員をしているものとして、やはり「自閉症って、結局何なんだろう?」という思いは、常に頭の中にあります。それなりに勉強しているつもりでもいます。が、最近いろんな本や記事を読んできて、「結局は生命の多様性の一つ」だと思えばよい、ように感じています。多様性自体は何も障害ではありませんが(背が低い/高い、足が速い/遅い、など)、それが人間の、多数派が構成している社会に参加・適用しようとすると問題となるのだ、と解釈するようにしています。
つまり、私は自閉症を科学的にとらえることを「放棄」してしまっているのかもしれません。科学者なんですけどね(^^;
そらパパさんがどこかで書かれていたと思いますが、私たちが「共通だ」と思っていることが実はすごいことなんだ、と本当に実感しているところです。
とりとめのないコメントですみません。
認知心理学的なアプローチっていうのは難しいなあ、といつも思っています。
情報処理モデルを作るのは簡単ですし、そのモデルにあう挙動を脳の中に見ることも、意外と簡単だったりします。
でもそれは、そういうモデルがあると思って見るからそう見える(解釈する)のであって、それがモデルの実在性を証明しているということとは、またちょっと違うと思うのです。
個人的には、あまりに禁欲的過ぎる徹底的行動主義もつまらないと思いますが、安易に概念を増やしてしまう認知心理学的立場も、とても危ういと思っています。
残念ながら、バロン=コーエンさんは、まさにそういう「危うい」タイプの方のように、私には見えますね。
JKLpapaさん、
個人的にはJKLpapaさんも当ブログの強力な「論客」だと感じています(^^)。
先日のかずみさんとのコメントのやりとりの後半で私が書いたことは、まさにJKLpapaさんが言うような意味での「多様性」につながっています。
つまり、人にはそもそもいろいろな多様性があるんだけど、ある特定のベクトル(つまりそれが「環境とうまく相互作用できるかどうか」)についてだけは、それが機能不全になることがそうでない人からみると極めて異様に見えることから、「障害」とラベリングされてしまう、それがまさに「自閉症」なんだだ、と思うわけです。
つまり、ピッカリママさんの話と強引につなげると、「自閉症」という障害名そのものが、ある意味、トートロジーなのではないかとさえ私は考えているわけですね。
それは、JKLpapaさんが最後に触れられている、「私たちが共通のものをもっているという幻想」に支えられているものでもあります。
まあ、こういうことを大学に行って語るなら、理系の学部ではなくて文学部の哲学科に行かなければならないことは間違いないですけどね。(笑)
私はローナ・ウィング氏の書かれた原典にあたっていないので、どういった文脈で「自閉症スペクトラム」を提唱されたのか把握していませんが、「生命の多様性」を考えれば、「スペクトラム」なのは当たり前なのですね。ICDやDSMの診断基準も、所詮は人間の決めごとですものね。
昨年末にNHKで放送された吉本隆明氏の講演を見て、最近また学生時代に読んだ「言語にとって美とは何か」と「共同幻想論」を読み返しています。「言語」「名づけ」「ラベリング」、結構厄介ものかもしれませんね。
最近、下の記事を読んで、どういう理解なのか、大変疑問を感じています。
支援の仕組みとしては優れているものを持っていると紹介されるイギリスなのにと、思ってしまいます。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/48277591.html#48277591
コメントありがとうございます。
自閉症がデジタルな感じではなく、きわめてアナログ的な「スペクトラム」として現れること自体が、この障害が特定の脳機能の(デジタル的な)損傷ではないことを如実に物語っていると思います。
ピッカリママさんのコメントのなかで触れそこなっていたのですが、Autismの「Auto」の部分は「自己」を意味しますね。行動原理のなかに「外界・環境」が占める割合が非常に少ない姿を「Auto-ism」と呼んだのかな、と個人的には思っています。
ちなみに、私がいま興味を持っている哲学的な枠組みである「オートポイエーシス」も、やはり「Auto-」が含まれていますね。
金さん さん、
コメントありがとうございます。
認知心理学を専攻した人間としては、自閉症研究の世界に本格的に認知心理学を持ち込んだバロン=コーエン氏にはそれなりにシンパシーを感じているのですが、彼を純粋に「認知心理学屋」としてみると、ちょっと脇が甘いんじゃないかな、と正直感じます。
それでも、日本で自閉症をテーマに世界的な論文を書けている人が(理研の脳科学的な研究以外で)どれだけいるかと考えると、やはりバロン=コーエン氏の存在はそれなりに大きいとは感じます。
リンクをいただいた話題については、よくわからないですね。
そこでコーエン氏が主張しているのは、上の記事でも引用した「男脳・女脳」的な考えかたに基づくものなのかもしれません。だとすれば、個人的には「あの考えかたにまだこだわってるんだ!」と驚きを禁じえませんが。
コーヘンの心の理論仮説は確かに適切でないなあと感じますが、しかし認知心理学的な還元論的視点は僕は大切だと思います。還元論的視点といったときに、どこにどういう風に落としどころを見いだすかはそれぞれの研究者にゆだねられているので、自閉症研究についてはまだまだ成熟しておらず過渡期にあるので、認知心理学的、認知神経科学的アプローチが自閉症の病因論に迫るのに限界があるというのは早計であるように思いました。
例えば、統合失調症患者さん、PDDのある方、Dyslexiaのある方のそれぞれで、規則的に動く光点を見てもらって、その時の眼球運動を計ると、なめらかでなくて、ガタガタの視線の軌跡を示す人がいます(滑動性追跡眼球運動の障害)。そのこと自体は昔から報告されていますが、そういう人たちに、運動視の機能を計る検査と、人の動作を十数個の光点で表現した非言語的コミュニケーションの理解に関わる検査をすると不良な人が多いことが分かりました。つまり、対人認知のうち、通常発達の人にとって明確な社会的信号として感じられる人間の非言語的コミュニケーションの理解の困難さはおそらく、脳の頭頂葉が関係する運動視や社会的意図の検出に寄与する側頭葉の領域が低下があり、おそらく、その背景に眼球運動の異常があると考えられて、そのこと自体の障害は自閉症だけでなくて他の学習障害や精神疾患にも及ぶことが分かりました。
このこと自体はただちに心の理論の障害を全て説明するものではなくて、僕なりに、それこそ認知心理学的に心の理論・共感化能力を還元的に細分化して考えた時、特に動的な特徴をもつ社会的信号を持つ刺激を自動的、円滑に認知するプロセスがあり、それは運動視や眼球運動の発達によって規定されるものだろう、と思いました。これは社会認知全体のある一側面に関わった研究で、見方を変えると一般の方にとっては「とてもマニアック」でして、社会認知の全てをとても説明出来るものではないのですが、しかしこれだけをするのに数年かかるものなんですよね。。
長くなりましたが、CohenやFrith、Happeらはちょっと欲張りすぎて(急ぎすぎて?)情報処理的認知、社会認知の困難さを障害と捉えて、それを包括的に説明するモデルを作ったつもりでしょうが、全然細分化していないなと思います。このような臨床の研究は、臨床家と、臨床をよく知らないプロの認知心理屋、精神物理屋とタイアップして、少しずつ進めていくのが近道なのではないかと思いました。
長文失礼しましたm(_ _)m
コメントありがとうございます。
専門の研究者の方にコメントいただけるのは大変ありがたいことです。
いろいろな方にこのブログをお読みくださっているので、うかつに生半可なことは書けないですね(笑)。
私自身、出自は認知心理学ですので(療育を始めてからは行動分析の方向に相当引っ張られましたが(^^;))、認知主義的な視点をもって自閉症をみることの重要性は認識しています。1冊めの拙著も、まさにそういう「認知心理学的に、ほどほどの還元性とほどほどの『複雑性の受容』とを織り交ぜた自閉症論」を展開しようとしたものです。
今回の記事は、認知心理学的アプローチ全般ではなく、コーエン氏の仮説や、類似の「自閉症は脳のなんとか情報処理機能の障害である」的な、グランドセオリー的アプローチについての批判です。
ぱそぐらふさんもご指摘のとおり、少なくとも「現状では」コーエン氏やその一派の研究者のような大雑把なアプローチで自閉症全体を説明し、かつ治療や早期発見にも応用できるグランドセオリーを還元主義的に構築していくことに直結させるのは無理があるんじゃないでしょうか。記事中の「第2のポイント」は、モジュール主義的、古典的計算主義的な脳の還元主義的情報処理モデルの限界についての議論だとご理解ください。
「心の理論」障害仮説にしても、「男脳・女脳」仮説にしても、そして今回、金さん さんがリンク先で触れられているような出生前診断へのピントのずれた反論にしても、コーエン氏の場合はそういった「悪いところ」がちょっと露骨に出てしまっていると危惧します。
ぱそぐらふさんが提供くださった運動視と発達障害との関係のようなFactは、とても興味深いですね。個人的には、それらのFactも、まだ自閉症の「原因」ではなくて「結果」ではないかと感じます(ただし、我々に見える三つ組みの自閉症の「症状」に対してで言えば、もちろん「原因」である可能性はありますね)が、少なくともそういった多様な仮説の議論につながるような認知心理学的知見の蓄積というのは、とても大切なことだと思います。
最後のポイントですが、臨床家は現時点ではなかなか認知心理学のほうを向いてくれないだろうな、という感じはします。
というのも、現時点では少なくとも「子どもの発達の分散>>認知心理学で説明できる説明力」という状態にあって、理論を学ぶくらいなら実践的な経験をつんだほうがスキルアップできるという状態にあると考えられるからです。
「心の理論」で少し風向きが変わるのかな、と一瞬感じたことがありましたが、既に議論されているとおり、この仮説は療育にまで降りていけるような緻密なものではない可能性が高く、「山は動き」ませんでしたね。
ぱそぐらふさんが取り組まれているような地道な基礎的な研究のなかから、自閉症という障害を説明するための「ハブ」になるような重要な知見が見つかり、それが自閉症への理解や療育への応用につながっていけば素晴らしいことだと思います。
今後ともよろしくお願いします。
特に、コメント欄の「モジュール主義的、古典的計算主義的な脳の還元主義的情報処理モデルの限界」という表現は、自分がバロンコーエン論について感じていた異和感を本当にすっきりと言語化してくださっており、視界がクリアに澄み渡る感覚です。
論者によって微妙に立場が異なるようなんですが、仰るように、「心の理論」仮説というのは、突き詰めるとやはり「モジュール主義」としか言いようがないんですよね。。ある単一のモジュールの欠落によって自閉症者に認知全体を説明しよう、その単一のモジュールを説明するためにサブモジュールを列挙しよう、という。。仰るとおり、「単一のモジュール」→「多数のサブモジュール」→「一」→「多」という説明の流れが延々と続く感じです。
私個人としては、バロンコーエンが「心の理論モジュール」という表現を使うとき、議論の直接の背景にあった知的トレンドは、進化心理学由来の「心のモジュール進化モデル」ではないかなあと想像していました。「心の理論」は元々、チンパンジーに関する進化論めいた議論でしたし、進化心理学のマニフェストの書"Adaptive Mind "のパロディーで、"Maladaptive Mind" なんていう本もコーエンは編集していますしね。。積ん読なんですが^^;
ですが、この記事を拝読すると、バロンコーエン「心の理論モジュール」論(ややこしい・・・)の背後にはやはり、古典計算主義的な脳の情報処理モデルもあるようで、その認知心理学モデルの限界がそのまま自閉症理論としての限界につながっている感じですね。。計算主義的な認知心理学と進化心理学との合わせ技という感じなんでしょうか。
90年代に進化心理学と計算主義的な認知心理学を組み合わせて一世を風靡した論者としては、言語学系のピンカーなんかが思い出されます。後知恵というか、この記事を読んだうえで今振り返ってみると、バロンコーエンはピンカーが『心の仕組み』で書いていたようなことを、自閉症基礎研究の文脈でやりたかったのではないかな、と思います。80年代から90年代にかけて、ある種の時代の空気として、進化心理学と認知心理学の両輪から壮大な包括理論を構想する気運のようなものがあったのではないかなあ、と。。やはりピンカーと同じで、バロンコーエンの場合も、真面目一辺倒の研究者というよりは、ちょっと作家的野心(?)がある感じですね。自閉症をひとつ面白く説明してやろう、というような。。当事者としてはちょっと異和感を持ってしまう部分であり、一読者としては楽しんでしまう部分でもあります。
ただ、今はもうバロンコーエンほどの包括理論を志向する論者は少ないようで、純粋な読者としては寂しい気もします。。バロンコーエンと同じくフリスの弟子筋にあたるハッペ女史なんかは、「自閉症の包括的な認知理論は諦めるときが来た」、「ウィングのいう『三つ組みの障害』ですらfractionbaleであって、一つ一つに分解して考えるべき」と言っているようですね。脳神経科学や分子遺伝子学的なハードサイエンスに押され気味で、認知心理学の抽象的なモデルも曲がり角に来ているということでしょうか。。
でも当事者の生活実感の部分をすくい取ってくれる基礎研究は、どれだけ生物学的であってハードサイエンスであっても、多かれ少なかれ認知心理学的な要素が入っているんですよね。。(脳神経や遺伝子の個々の異常をいくら指摘されても、なかなか一個人として実感できるようなものではないので、一抹の歯がゆさが残ります)フリスが第1世代だとしたら、コーエンやハッペは第2世代、今はさらに第3世代が台頭しているのでしょうか。。また新たに示唆的な理論がでてくることに期待です!
では長くなってしまいましたが、ますますの健筆を!
コメントありがとうございます。
レスが遅くなってしまってすみません。
率直に言って、こういう理論的なところをガリガリ追いかけていた頃からは、私もずいぶん離れてしまったなあ…と思います。
私の感覚では、最近は自閉症について包括的なグラウンドセオリー、障害モデルについて議論されることは、すごく少なくなったように思います。
どちらかというと、おっしゃるとおり、そのあたりは脳神経科学に任せて、心理学の側は実践のほうに傾注しているのかな、とも思います。
私自身も、これは自閉症の子どもが成長していくにつれ誰でもそうなんだと思いますが、理論から実践に移行して、さらにその実践も標準的なものを学ぶ形から「目の前の子どもにうまくいく独自のやり方」に移行して、アカデミックな方向性からはだんだん離れていきますね。
そういうわけで、最近ではすっかり「理論」のほうは疎くなってしまいましたが、ときどき、ツイッターやネットなどで自閉症関連のアカデミックなニュースなどが話題になると、興味深く読んでいる、という感じですね。
これからもよろしくお願いします!