そのコメントを書いていたら優に記事1回分のボリュームになってしまったことと、この話題はかなり一般性があると感じたので、記事として書かせていただくことにしました。
この問題についての私の立場は、「自閉症児が情動のコントロールに問題がある(それがパニックの原因の一端になっているように見受けられる)ことは、当然あると思われるけれども、だからといって自閉症という障害のモデルに『情動の異常(という脳神経モデル)』を追加するには及ばない(既存のロジックで説明できる)」というものです。
少し過激にいうならば、「自閉症児が情動コントロールに問題がある、と感じられるのは、『われわれのルール』を自閉症児に無理に当てはめることで生じる、ある種の幻想なのではないか」と考えているわけです。
以下、詳しく書きたいと思います。
この問題は、まず、「情動」というのは一体何なんだろうか、ということを考えるところから始めなければならないと感じます。これは、このブログでもたびたび書いている「こころ」って何なんだろうか、という疑問とも一種通じる議論です。
「情動」そのものの実在性を、私たちは見ることができません。
特に「他者の情動」に関しては、私たちはそれを、他者の行動を説明するための「皮膚の内側の概念」として仮定しているといえるのではないでしょうか。
ふと目にしたネコが「怒っている」と感じるのは、例えば体毛を逆立たせて、特殊な姿勢をとり、ある種の鳴き声をあげていたりする「行動」を見て、「怒りの情動を内にもっている」と判断するわけです。「怒り」という情動そのものを見ているわけではありません。これは人間相手でも同じことです。
また、身体状態の変化、例えばアドレナリンが分泌して、血圧や心拍数が上がったりといったことも、「物理的に測定できるもの」ですから、まあ行動と考えてもいいでしょう。
ともあれ、ここで重要なのは、「情動」をとらえる私たちの側に、ある種の「言語化」「一般化」が介在することです。
つまり、私たちはある種の行動パターンを「怒りの情動がある状態」という風にラベリングしているのです。そして、それを利用して、「いま相手は怒っていて、こういう行動をとりそうなので、自分はこう対応しよう」といった判断をするわけです。
たとえば、ここに「怒りっぽい」Aさんと「温厚な」Bさんという2人の上司がいるとします。
私たちは、普段はAさんとBさんに異なった接しかたをする場合が多いでしょう。でも、Bさんが「怒っている」ときには私たちの接し方は普段のAさんに対するものに近くなるでしょうし、逆にAさんが「機嫌がよく、怒りそうにない」ときは、Bさんに対するものに近い接しかたをすることもあるでしょう。
実際には、AさんとBさんは別個の人間ですが、こんな風に一般化した「情動」のラベリングを行なうことで、私たちは少ないバリエーションの「接しかた」を適切に使い分けて、コミュニケーションを省力化しつつ円滑にまわしているわけです。初対面の相手にも、この「情動ラベリングモデル」は役に立ちます。
逆に、もしここに突然宇宙人があらわれて、わけの分からない行動パターンをとり、じりじり近づいてきたら私たちはパニック状態になるでしょう。なぜパニックになるかといえば、その宇宙人の行動の背後に「既知のラベリングされた行動原理(例えば情動)」が想定できない=行動を言語化し予測できない=相手の行動に対して安定した世界観が構築できない、からです。
こう書いてくると、他人の情動はそれでいいとしても、「自分が」怒っている、「自分が」悲しいのは明らかに内に「実在」するじゃないか、だからその「情動の座」が脳にあって、それが自閉症では障害されているといった議論は成り立つのでは、という議論が出てくると思います。
でも、「私たちの情動」が「実在」しているというのも、実はけっこう疑問なのです。
例えば、私たちは指先の感覚が指先に実在していることを確信しています。でもこれは実は幻想ですね。指先には、どんなに調べても「刺激センサー」や「筋肉」しかありません。そのセンサーからの入力と筋肉への出力との関係、さらには視覚や聴覚(これらもセンサーです)との関係を中枢系が高度に統合して「指先が実在しその場に感覚があるような安定した世界観」を作り出しているのです。
「指先の感覚」がある種の幻想に過ぎないという事実は、たとえばペンをもって字を書き始めた瞬間、「ペンの先」に感覚が生じ、その感覚はペンをおさえている3本の指やその周辺に分散した刺激としてはとらえられないことでも簡単に示せます。
そういう意味で、私たちの「からだ」そのものも、実は認知系にとっては「学習されるべき『外部』環境」です。
そして、「私たちが実感する情動」というのも、先に書いたようなさまざまな身体の変化(アドレナリンが出て血圧や心拍数が上がるなどの生得的な身体反応)のパターンを認知系が学習して「ラベリングして言語化」することで、初めて立ち現れるものなのではないでしょうか。それによって、自分の身体のそのときどきの状態にラベリングができるようになり、「自分の身体」に対して安定した世界観が構築できるようになるわけです。
(このような、生理的変化が先で情動認知はその後にくるというのは「ジェームズ・ランゲ説」と呼ばれますが、それに対抗する「脳の古い皮質が情動を生み、それが生理的変化を生む」という「キャノン・バート説」をとったとしても、古い皮質の「情動励起」が生得的なものであれば、それをラベリングするためには、大脳新皮質側の学習能力が必要になります(つまり、古い皮質が大脳新皮質にとっての「学習すべき外部環境」になる)から、同じ議論になると思います。)
ともあれ、そういった「自己の状態へのラベリング」ができなければ、「自分の身体」さえ、常に混沌と変化しつづけ安定しないものになります。これは、自閉症児でよく言われる感覚異常とも、運動面での不器用さともつながってくると思いますが、もう1つ、我々からみて「情動の不安定、コントロール不能」と映る可能性もあるわけです。
なぜなら、先の例でいえば、自分の身体のなかに常に「宇宙人」が動き回っているようなものなわけですから、それが容易に「パニック状態」につながることも自然なことだと思われます。(さらに言えば「自分の情動」にもラベリングできないのに、「他人の情動」を理解するのは困難でしょう。)
私の自閉症についての障害仮説は、「自閉症とは、外部環境と相互作用して一般化学習するという認知系の障害である。」という一言に尽きます。
そして、「自分の内にある情動」というのは、「自分の身体状態」という「外部環境」を学習してラベリングし、安定した世界観を獲得することで立ち現れるものだ、と考えています。
そして、自閉症ではこの「自分の身体という外部環境」を学習することも阻害されるために、「自分の身体の変化、たとえば『情動』がうまくコントロールできていない」ように映る行動パターンをとる(ように見える)のだ、と考えられるわけです。
じゃあ、そういう子どものパニックにどう対応すればいいのか?という問題ですが、これには「魔法」はないでしょう。
ただ、上記の仮説に従うならば、ことばのある子どもについては外部から「情動のラベリングをサポートする」(つまり、外から見て「怖い」が一番近いように見えたときは「こわい、こわい」と言ってあげる(言わせる)など)ことが考えられるでしょうし、逆にことばのない子どもについては、絵カードコミュニケーションなどを通じて、少しでも「言語化された認知系(一言でいえば内言語)」の発達を促していくことが、遠回りに見えますが大切なことだろうと思います。
・・・今日の記事は、かなり大胆な推測と仮説にまで踏み込んだ、普段あまり書かない類の記事です。もしかすると「大間違い」かもしれません。
でも、もしこれが誰かに何らかの新しい視点をもたらせたらとても嬉しいことですし、私がこういった「難問」について、記事ではあまり書かなくてもどんな風に考えているのかが多少なりとも伝わればいいな、と思って書かせていただきました。
なるほど。とても良く分かりました。
情動というのは、ラベリングされて初めて情動になるし、自分でそうやって認知することでコントロールも可能になるんですね。自閉児にこの問題があるのは間違いないでしょうから、療育としての「情動のラベリング」も大事だと思います。丁寧なお答えありがとうございました。
情動(あるいはパニック)のお話は、自閉児の親には関心が高いと思います。しかし、このように丁寧に説明されないと簡単には分かりませんから、「一般化障害仮説」の説明の中に加えていただければ、と感じました。特に療育やパニックへの対応で、この視点を強調することは有意義に思えるのですが、いかがでしょうか?私も息子には、「つらいね」とか「がまんがまん」とか教えていましたが、どちらかというと「親の共感を分かりやすく示すのが良い」という意識でした。でも状態をラベルすることが、認知につながって、落ち着くようになっていたんですね。私の理解が足りなかったと言えばそれまでですが、この解釈の違いは、療育の姿勢としてはかなり大きな違いではないでしょうか。
最後にもう一つだけ質問させてください。感情をコントロールできない部分(抑えきれないほどの怒りなど)は場合によっては大人でもあるわけですが、このような爆発的なものが、辺縁系の障害をもつ自閉症で異常に強くなっていることはないでしょうか?つまり、認知障害の結果として情動がコントロールできないことはある(恐らく、これがほとんど)が、それを克服したとしてもなお、残る困難さはないのか?と言うことです。困難さが残るなら、それは十分に克服されていないからだ、という見方もできますが、コントロールに必要とされる努力が普通の人と比べて、とても大きいなら、その点は理解してあげたいと思うのですが。取り越し苦労でしょうか。
その間、親や保育園での対応もかわっているので、一概にはいえないと思いますが、認知と言葉の獲得とパニックは相関があると感じています。
ただ、遅滞のない(というかIQの高い)アスペの娘も、ちょっとしたことで感情が爆発するようなパニックは起こしますし、ネガティブな言い方や気配にむしろ敏感だと思います。私は子供の問題行動が気になるときは、まず「生活全体に無理がないか」を考えるようにしています。パニックそのものは、ともかく気をそらすなどで切替を促すよう、対応しています。(そんなに冷静にいかないことも多いですが...)
ニキさんの本にもありましたが、自閉症児の感覚過敏や自律神経の不調からくる身体的な困難さも大きいのではと思っています。感情があふれだしてしまうまでのキャパを器に例えると、定型の人よりは少し小さいのかもしれませんが、感覚過敏の刺激や、見通しの悪さで、無構造の場では器に「不快」がいっぱいなのかなーと感じています。それで、ちょっとした刺激ですぐあふれる...
子供の疲れやすさとか、保育園や幼稚園でのイベントの多さ、親の忙しさなどから子供にパニックやチックが現れやすくなることもあるのかな、と感じています。
かずみさん、
最後の質問の部分ですが、私はそれも含めて「ラベリングされた(一般化という処理を経た)認知」の問題だ、と思っていたりするのです。
例えば、私たちはお店の中にいたりしても、周囲が「うるさい」とは感じませんが、同じ場所で音を録音してみると音があふれていたりします。しかも、私たちは単純に音をシャットアウトしているわけではなく、その状態で知り合いに声をかけられたら気がつくことができます(カクテルパーティ効果)。
これは、私たちの脳神経系が、周囲の「うるさい音」を意識に上らないレベルで適切に処理していることを示唆しています。
逆にこれがうまくできなければ、同じように知覚された「音」も、認知レベルで「ものすごくうるさい雑音のシャワー」になります。
これは、自閉症児者の感覚異常を説明する1つのモデルです。(1冊めの本で書いていますね)
同じように、「情動」についても、ラベリングできない、一般化できないということがそれだけで、「そこから来る刺激のレベルが不必要に大きくなる」ということにもつながると思っているわけです。
鈴蘭さん、
こちらこそ今年1年、当ブログにおつきあいいただきありがとうございました。
ブログを始められるのなら、とてもシンプルなアドバイスがいくつかあります。
1.定期的に更新しましょう。
私は、毎週月曜日に絶対更新すると決めてブログを続けています。こういった、自分を律するルールを作らないとなかなか続かないし、読んでくださる方の期待に応えにくくなると思います。
2.ネガティブなコメントや記事は、公開する前に「寝かし」ましょう。
あまり言えた立場ではないのですが(^^;)、何かネガティブなコメントなどをいただいたときに、感情にまかせて記事やコメントを書いてしまうときがあります。
そのときはそれでいい文章を書いたように思っても、少したって冷静になると、文面をマイルドにしたり、そもそもそのコメントを公開しないほうがいいと気づいたりすることがとても多いです。
ですので、感情的でネガティブな記事やコメントを書いたときは、少なくとも一晩「寝かせ」てから公開するようにするといいと思います。
ピッカリママさん、
そうですね。
「ことば」っていうのは、単に字が書ける、音声言語が発話できるっていうことをはるかに超えて、その子どもの「認知の世界」、もっといえば「情報処理の仕組み全体」を激変させるだけのものだということに、ぜひ多くの方に気づいていただきたいなあ、と思います。
(そうすれば、ふだんは重度の自閉症だけど、「実は」内には高度な知性を秘めていて知的な文章がひねり出せる、なんていうことが、どこまでいっても「幻想」だということにはすぐに気づけるはずなのですが・・・)
キャパといったことがよくいわれますが、私は、キャパが大きいか小さいかというより、ザルの目が粗いか細かいかだと思っています。
定型の人は、自分にとって意味がないこと(一般化された世界観に対して「ノイズである」とわかること)はどんどんザルの網目から流してしまうので「水がたまりにくい」一方、自閉圏の人はそういった「一般化によってノイズだと判断する」ことができずに、水がたまってしまいやすい→キャパオーバーになりやすい、ということなのかなあ、と思ったりしています。
(まあ、どう表現しても構成概念ではあるのですが)
今年は生産的なコメントをたくさんいただきありがとうございました。
来年もまたよろしくお願いします。
本年もお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします。
私の質問が的外れでなく生産的であることを願っております。
昨年の暮れから質問に詳しくお答えいただきましてありがとうございました。これまでのお話で、そらパパさんのお考え、「認知の問題だけで、情動の困難は説明できる」は納得したのですが、「情動は幻想である(でしかない?)」はまだしっくりこないので、そして自閉症への対処を考えるとあいまいには出来ないように思えるので、しつこくて申し訳ありませんがお教えください。
自閉症でない場合の情動を考えます。例えば恐怖を感じさせるような感覚入力に対して、生理的な変化や行動を起こすための脳部位は分散しているにしろ「実在」しますよね。ヒト以外の動物だって、たとえ「恐怖の認知」はなくても逃避(反応)行動を示すわけで、この部分がヒトでは失われているとは思えないのですが…。恐怖以外のもっと複雑な感情が出来上がるにはラベリングが重要かもしれませんが、「敵だ、逃げよう」という時に働くシステムはもっと原始的で、ラベリングとは独立に、ヒトにおいても機能しているのではないでしょうか?(目玉が怖いとか、ある特定の音、動きが怖いなど)
定型発達の情動が完全に認知の産物だとすると、私の最後の質問に対するお答えはそらパパさんが書かれた通りだと思うのですが、上に書いたような点が的外れでなければ、「恐怖などの原始的な情動(反応)にはラベリングを必要としない部分もあり、自閉症ではここが認知機能とは独立に障害されている可能性もある」という話が出てくると思うのですが、いかがでしょうか?(私の質問の「大人の怒り」という例はたぶん原始的ではなく不適切だったかも知れません。)
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
かずみさんの「恐怖の情動」についての問題提起は、確かに私が上で書いた議論の「もれている部分」を指摘されていると思います。
たしかに、いろいろな情動があるなかで、恐怖というのがちょっと特別だ(ラベリングと関係ないかも)と感じられる側面があるのは事実です。それは恐らく、恐怖というのが端的にいって、「うまく認知できないときに起こる『情動』」だという性質があるからではないでしょうか。
つまり、ある外的環境の「事態」に対して、解決方法がわかっている、問題ないとわかっている、安定した世界観が既にできているときには「恐怖」は起こりません。もちろん、「怖いとわかっているもの」に対して「怖い」という情動は起こるかもしれませんが、これはラベリングの議論で解決できますから、横におくとします。
恐怖という情動は恐らく、種の生存に対して有利に働きますし、多くの動物も、「私たちが外から見て恐怖だと感じられるような情動」をもっていますから、恐怖という情動が生得的だという仮定は、おいてもいいと思われます。
問題は、その恐怖という情動がどういうときに立ち現れるかということで、それはヒトでいえば、「ある外的環境の事態に対して、解決方法もわからず、安定した世界観もできていないとき」だと考えられるのではないでしょうか。
つまり、外的環境の認知に対する弱さは、外的刺激全般に対して、恐怖という情動を起こしやすくなるという傾向を生むと考えられるわけです。
(そして、その状態について、「自分が恐怖を感じている」と分かれば、多少は「安定した世界観」にもつながりますが、それも不十分だとすれば、その恐怖の情動をコントロールすることは、さらに困難になることでしょう。)
※蛇足ですが、こういうときに「怖いものが恐怖を生む」と考えてしまうと、トートロジーになって突破口が見つかりませんね。例えば、自分がロボットをプログラミングすると考えて、「どういうときにロボットに『恐怖』という情動を感じさせて、それにふさわしい行動をとらせるとうまく環境に適応できるか」と考えると、「恐怖」という情動に対してちょっと違う視点を持つことができるように思います。
お答えありがとうございます。恐怖については生得的な部分もあると認めていただきました。そらパパさんの言われるように、生物にとって最も重要だからだと思います。ただ、ヒトでは社会によって安全を確保したので、生物としての恐怖の重要性は相対的にかなり小さくなって、認知によるコントロールと、認知によって恐怖から発展した複雑な感情(畏敬、服従など)が大半となっていると思います。ですから、今我々が持つ情動というものを考えれば、ほとんど生得的なものはないように見えます。
しかし、進化の歴史の上に我々は成り立っているので「神経システムとしての情動系」は認知システムと相互作用しながら依然として存在しており、原始的でむき出しの情動は認知によって押さえ込まれている(あるいは変質している)のではないでしょうか。この構図は恐怖に限らず、怒り(攻撃)や喜び(快感)でも同様だと思います。前の質問の「大人の怒り」も、認知や社会性があってこその怒りであることが大半でしょうが、そこで抑える側ではない、突き動かす側のシステム(実体)があるはずです。(このシステムが「原始的」怒りと全く同一だとか、認知系と全く独立だと主張するつもりはありません。)恐怖では「原始的な」恐怖が想定しやすい(例えば「耳のすぐ近くで突然バサバサッと音がして、何か(虫?)が首筋に触る」とか)ので、そういうシステムの存在が認知とは別にあることが分かりやすいのではないでしょうか。(先の質問で「恐怖を生むような感覚入力…」と書いたので、トートロジーと感じられたかもしれませんが、「恐怖」という言葉は単なるラベルなので、ここに例示したような感覚入力とそれに対する反応の関係に着目してもらえば、トートロジーでないことはお分かりいただけると思います。)
論点は以下の点に集約できそうです。そらパパさんは、「「怖いとわかっているもの」に対して「怖い」という情動は起こるかもしれませんが、これはラベリングの議論で解決できます」と書かれましたが、私は、怖いと「感じた」以上はラベリングだけの問題ではないと思うのです。
繰り返しますが、私はヒトの情動における認知の役割の重要性は理解しているつもりです。しかし、進化上の由来を持つ「情動システム」は、(恐らくヒトの精神の基盤システムとして)「実在」しているので、自閉症ではこの部分に「も」器質的な問題がある可能性を否定してはいけないのではないかと思うのです。
そらパパさんの理論は切れ味鋭く、情動に関するお考えも明解ですが、認知心理の見方に限定されていないでしょうか?ロボットに恐怖をプログラムするお話は非常に興味深いですが、結局、認知心理の理論をロボットに実装するだけの議論になりませんか?ヒトを含む生物というシステムは洗練されているようでいて、実は泥臭く、冗長である場合もあると思います。それは「生き抜く」ことを至上命題として環境変化に「後追い」で適応してきたからで、魚の脳に爬虫類の脳を乗っけて、その上に哺乳類の脳を乗っけて‥、なんてなんとか「間に合わせた」者が生き残ってきたわけです。生物システムが冗長な場合、それを理解する理論も冗長になるのは仕方がないのではないでしょうか。「オッカムの剃刀」は物理学の話だと思います。
自閉症の情動と「一般化障害仮説」の関係について、私が思ったことはだいたい発言させていただいたように思います。失礼な点がありましたらどうかお許しください。
結論が出ているような出ていないような感じですが、自分の中でも必ずしも整理できている問題でもないので、あえて深追いはしないことにします。
ちなみに、私が「生得的でありうる恐怖の情動」と書いたのは、例えば我々が「怖い感じ」をもつといった意味での「感じ」のことではなく、特定の刺激に対して「生得的に」特定の「からだの」観察可能な反応・行動が起こるという反応形式に限って考えています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%8B%95
私がここのコメントで書いているのは、認知主義ともいえますが、行動主義でもあります。「オッカムの剃刀」によく言及されているのは、必ずしも物理学方面の方だけではなく、杉山(尚子)先生や島宗先生をはじめとする行動分析学の先生方もそうだったりします。
そういうことでいうと、脳科学の世界って、けっこうホムンクルス問題やトートロジー問題に無頓着な、哲学的には稚拙な議論が多いな、と感じます。
たとえば、ここで使っている「情動を認知する」という表現も、実は問題をたくさんはらんでいて(誰が?なにを? ここにはトートロジーもホムンクルスも出てきそうです)、無頓着に使うことには非常に抵抗を感じます。ですので、ここでの私の議論も、定義を延々と繰り返すような感じになっているわけです。
「むきだしの原始的な情動」というのも、ことばとしては分かるような「感じ」がするのですが、それがどこにどのように存在して何をする「実体」なのかということを考えると、なかなか難しいように思います。
ロボットへの実装を考えるのは、別にロボットを動かしたいからではなく、そう考えると、「実体がありそうで実はないもの」があぶり出されるからです。今回の話題でいえば、「むきだしの情動をベースとしてもつが、より高度な認知モジュールが情動行動を通常はおさえこんで行動するロボット」というのが作れそうかどうか、ということを考えることには、思考実験として意味があると思うわけです。
「オッカムの剃刀」に関しては、言い過ぎました。余計な仮説を設けないと言う指針は、今のような議論でも有用だと思います。訂正いたします。
確かに私は古典的な科学の中に身をおいていて、還元主義、実証主義、反証主義ぐらいしか哲学的な立場をとりえません。脳というものすごい「物体」を目の前にすれば、それだけでも充分魅力的な立場だったので、他の立場を理解する努力ができませんでした。でも、自閉症の息子に出会い、そらパパさんのお考えを詳しく教えていただいて行動主義、認知主義の実際的な有用性を知りました。でも、本当の哲学的なことは分かっていません。ですから、この辺から先の議論もそらパパさんに一方的に教えを乞いたいのですが、ブログの主旨と外れるため自重した方が良さそうなので、なんとかまとめたいと思います。
そらパパさんのコメント:
「私が「生得的でありうる恐怖の情動」と書いたのは、例えば我々が「怖い感じ」をもつといった意味での「感じ」のことではなく、特定の刺激に対して「生得的に」特定の「からだの」観察可能な反応・行動が起こるという反応形式に限って考えています。」について
私は、この「怖い感じ」について、何らかのニューロンネットワークの発火パターンなりが対応するはずだと考え、それが、進化上の過去に獲得した観察可能な反応・行動を起こすニューロン集団、および認知機能を担うニューロンネットワークとの間で何らかの情報伝達をしながら、「感じ」を生む「実体」となっていると思っているのですが、やはりおかしいでしょうか?
以下はコメントです。
「脳科学の世界って、けっこうホムンクルス問題やトートロジー問題に無頓着な、哲学的には稚拙な議論が多い‥」について。
(古典的な?)脳科学では物質の構造や振る舞いを重要視していて、機能についての考察は実はかなりおざなりです。論文にはDiscussionがあって、もっともらしい解釈をつけたりしますが、読む方も書く方もそれほど真剣ではないと私は思います。科学として大事なのは、Resultsだというのが業界の隠れた共通認識ではないでしょうか。ただ、それでは世間が納得しない(お金が来ない)し、業界内でもある程度は声が大きくないと生きていけないので適当なことを言わされる(言いたい人もいますが)羽目になるんだと私は思っています。で結果として、(私から見ても)適当なこと言ってるなあ、ということになるんじゃないでしょうか。
私もそういう科学者の一人で、ここに書いたことが哲学的に稚拙であろうことは自覚しながら書いています。でもこれは本来、脳の内部(ニューロン)が実際のところどのように振舞っているかをもっと詳しく明らかにせずには脳内過程は語れないと思っている人間が、むりやり認知心理学に近づこうとした結果と思ってください。
そういう意味では逆に、体系化され、トートロジーもホムンクルスもない認知心理学の側が、脳科学の唯物的な知見を予言し、解釈したらいいと思います。
「「むきだしの原始的な情動」というのも、ことばとしては分かるような「感じ」がするのですが、それがどこにどのように存在して何をする「実体」なのか‥」について。
「むきだしの原始的な情動」などヒトにはないかも知れません。それがあると言いたいのではなくて、進化上の過去において、生理的な情動反応・行動の集まりとして観察可能であったものを駆動・指令していたニューロンネットワークが、形を大きく変えてでもヒトの脳にも存在し、認知や行動に影響しているのではないか、ということです。
「むきだしの情動をベースとしてもつが、より高度な認知モジュールが情動行動を通常はおさえこんで行動するロボット」というのが作れそうかどうか‥」について。
私は認知モジュールと情動モジュールという風に分ける必要はないと思います。というか、その二つの関係は、単に抑え込むだけでなく、駆動するという関係も考えなくてはいけないので、どちらが高度かも分かりません。認知と情動がどのように絡み合っているかは、認知心理学だけでなく、実際の脳を徹底的に見ることで明らかになるだろうとしか言えません。ですので、認知心理学の理論でどんなロボットが作れるのか興味はありますが(「環境」は組み込まなくていいのでしょうか?)、私がやるとしたら脳の研究をします。要素還元では片付かないと思いますが、とりあえずできるところまで要素還元してみないと、理論の恣意性?のようなものを排除できないように感じます。
粘り強く冷静な議論を続けてくださっていることに感謝します。
かずみさんのお考えはだいたい理解できた、と感じています。
脳に対する要素還元主義については、そうですね、私は「試す前から無理だと諦めている」わけですから、ずるいといえばずるいのだと思います。
脳を研究することについて、私がもう1つ思っているのは、脳のなかに「機能」をみているのは、観察者の側であって脳そのものではない、ということですね。
これは脳にコンピュータのアナロジーが使える珍しいケースですが、コンピュータプログラムに「機能」を見ているのも観察者の側であって、コンピュータは「高度な宇宙シミュレーションを行っているとき」も「単に暴走しているとき」も、単にデータを決められた手順で処理しているに過ぎません。
つまり「情動がある」と考えている観察者が観察する限りにおいて、脳には「情動」が観察できる可能性がありますが、それは「情動が本当にある」ことを実は何も証明していない可能性もあるわけです。
これは「ラベリング」とも関係してきますし、「ヒトがことばを持つとはどういうことか」ということにまでつながっていって、結局哲学的な議論になってしまいます。
そして、その辺りの議論は、かなり高い確率で「自閉症の認知世界とはどんなものなんだろう(われわれとの相対比較においてどう違うんだろう)」ということを考えることにもつながっていくんじゃないかな、と考えているわけです。
補足:認知心理学は、ホムンクルスやトートロジーの巣窟です。なので、認知主義というのは極めて脆弱な立場だと私は思っているのです(でも、そこにいるんですけどね)。
そうですね。ここから先は議論がかみ合いそうで終わらせてしまうのがもったいなく感じます(笑)。
「DiscussionとResults」でも書きましたが、脳科学では情動とかなんとかは、かなり便宜的に使っているんだと思います。まさにラベルであって、それに対応する実体が「あるかも知れないし、ないかも知れない」と思いながら研究していると思います。ある科学者が実験事実を報告する時に情動という言葉を使ったとして、よほど強力な実験的根拠がない限り、別の科学者がその使い方や定義を突っ込んだりはしません。物質還元主義を(たてまえ上は)共有する者同士で情報交換を行うにはその方が効率的だからでしょう。ここには、ハードプロブレムの存在は分かっていながら、ソフトプロブレムにしか関わらないというずるさがあります。ホムンクルスが解消したという話は聞きませんので(茂木氏?)、どのような立場でも現れ方は違ってもこの種の困難が顔をのぞかせると思います。
私が脳の研究(えらそうですみません(汗)。)をしながらいつも思うのは、「自分は何を分かれば、脳を理解したことになるのだろう?そもそも「分かる」って何?」と言うことです。認知心理的には、「分節化」して「ラベリング」すればいいんですかね。よろしかったらご教示ください。
さて、議論のまとめをして、そらパパさんのご同意を得たいと思います。
私の出発点は、
1)自閉児の親として、情動の困難さについて言及のない「一般化障害仮説」はもの足りない。
2)情動システムの異常はないのか?
そらパパさんのお答えは、
A)情動は認知の産物。よって、
B)情動の困難は認知障害により説明可能。
C)2)については、情動システムそのものがない。
D)1)については、必ずしも整理していないので、今は言及しない。
そして私の結論は、
A)には基本的に(95%くらい)同意だが、脳科学の発展によっては、部分的に「実体」と呼べるものが見つかるかもしれない。従って、
B)には完全に賛成だが、
C)については情動システム(のようなもの)を現時点で切り捨てるのには慎重。
D)については、お互いに、それぞれの困難さがあって大変ですね(笑)。
私が本当にそらパパさんにお伝えしたかったのは、実は1)に関連して、「自閉・アスペルガーの子を持つ親はこの部分の話を強く求めているのではありませんか?」という点です。ピッカリママさんにコメント頂いた様に、私も息子の生活全体に無理はないか考えているつもりではいるのです。
私の結論のB)とC)は矛盾します。
情動システム(のようなもの)を捨てきれないということは、その異常に由来し、認知障害で説明できない情動の困難がある可能性も捨てきれないことになります。
あと、蛇足ですが、脳科学者が情動とかなんとかを便宜的に使っているのはDiscussionやIntroductionの話です。Resultsで定義もせずに使ったら怒られます。いや、笑われます。
同意という形でまとめる方向にもっていくのは抵抗があります。
かずみさんのまとめられているA)~D)についても、そこで書かれているような断定的な表現は到底できず、どちらかというと「ことばで表現すること自体が非常に難しい」問題だと感じているといったほうが正しいですね。
ことばで表現するのが難しいくらいの難問を考えるツールが、私の場合は哲学で、かずみさんの場合はそれでもやはり「科学」なんだろうと、私は思っています。
(ただ、かずみさんのコメントを読んでいると、脳「科学」者は情動についてそもそも語ることばを持っているのだろうか?という疑問も感じますが・・・)
自閉症児の療育と情動についてですが、私の立場を、わかりやすいことばで単純化して言い切ってしまうなら「自閉症児に情動そのものの障害を考える必要はありません」ということになるでしょう。ですから、あえてあまり触れていないということになるのだと思っています。
まとめていただいてありがとうございました。そらパパさんがまとめてくださった内容で結構だと思います。「ご同意を得たい」というのは、そらパパさんのお考えを変えてください、と言うことではなくて、立場は違ってもいいから議論の内容をまとめた方が良いのかなと思ったのですが余計でした。言葉足らずで、しかも断定的に書いてしまって失礼致しました。
「科学に情動を語る言葉がないのではないか」についてですが、まず情動の主観的な部分についてはその通りだと思います。また、観察可能な部分でも「情動反応」とか「情動行動」という言葉はありますが、定義がしっかりしていません(トートロジーを含むと思います)。
そういう意味では、自閉症に限らず脳の理解を進めるためには、脳科学だけでなくそらパパさんのような認知心理学や哲学の仕事も重要なのだと思います。コネクショニズムも必要ですね。ただこれらは、もちろん脳科学も含めてそれぞれの限界があるわけで、それをできるだけ補い合うようなコラボレーションこそ本当に重要ではないでしょうか。
情動のJames-Lange説的な説明は、脳科学でも充分認められていると思います。あとは、情動反応を起こす系と、それを認知する系の「混ざり合った部分」をどれだけ重視するかの問題だ(自閉症の場合を考える際にも。)、というのが「私の」整理です。(つっこみ所には目をつぶって下さい。)
そらパパさん、お忙しい中、本当につたない私の考えに長々と付き合っていただきまして、ありがとうございました。私にとっては大変勉強になりました。特に哲学的な誠実さをそらパパさんに見た気がします。そういう態度は、今後認知科学の知見を考える時などもとても参考になると思います。これからもそらパパさんがどんどんご活躍されることを心からお祈りしております。そしてその成果をたくさん利用させていただきたいと思います。本当にありがとうございました。
この件については、非常に原理的で重要なことを1点書き漏らしていることに気づきました。
それは、自閉症という障害がカバーするscopeの問題です。
このことを考えたとき、私は、自閉症という障害に「情動システムの障害」を想定する必要がないことが論理的に導かれるように思われるのです。
つまり、自閉症というのは、1つのラベルによって定義される1つの障害です。
仮にそれが症候群として定義されるとしても、それらはばらばらな症状の集まりではなく、発生について相関の高い最大公約数的な症状をもって「自閉症」という障害が定義されているわけです。
発生について相関のある症状群が存在する事実は、それらに共通する因子の存在を示唆します。
すくなくとも我々が障害の機制モデルを考えるとき、それらの症状群を「まったく無関係だが、偶然まとまって現れているもの」だと考えることはありえないでしょう(それでは、モデルや仮説を作ることがまったくできませんから)。
ここで、自閉症という「障害」と「情動システムの困難」という「症状」との関係を考えます。
もしも、自閉症という障害のscopeに情動システムの困難が含まれる場合、情動システムの困難と、その他の自閉症の症状のいずれもを引き起こす「共通因子」が存在することになり、自閉症の発生機制を考えるときは、情動システムの困難ではなく、当該「共通因子」に着目すべきだということになります。
逆に、自閉症という障害のscopeには情動システムの困難は含まれない(独立している)場合、情動システムの困難は「自閉症の症状」ではなく、単に2つの障害がたまたま(まったく無関係に)合併して生じているだけだということになります。
この2つのグループは「まったく相関がない場合」と「わずかでも相関がある場合」に完全に二分でき、中間を考える必要がないので、論理的には、「自閉症の障害の発生機制として情動システムの障害を想定する必要はない」という結論が導かれます。
今回の私の議論は、前者の「相関があるかもしれない」という前提を(議論のニーズとして)設定したうえで、上記でいう「共通因子」として「一般化障害仮説」の話をしてきたことになると思います。
かずみさんの議論は、その議論を後者のほうに近づけていく議論だったように感じるのですが、そうすると、それは自閉症と情動システム障害の合併症と考えたほうが見通しがすっきりするような感じもします。
ウィングなどが提唱する「自閉症スペクトラム」というのは、この「共通因子」のベクトルこそが自閉症の本質であって、それ以外のものは、「自閉症になるような脳のダメージが、知的能力やその他さまざまな『自閉症の本質』以外の脳機能にも(より広汎に)損傷を与えることで現れているもの」ととらえるべきだ、という考えかたであるように、私には思われます。
横からすみません。クリシンの勉強で確認させてください。
「情動システムの困難(障害?)」が自閉症の共通因子(root cause?)でないのは、自閉症の最大公約数の症状すべて(三つ組みなど)との因果関係を説明できるものではないから。でよろしいでしょうか?
コメントありがとうございます。
ご指摘の点はそのとおりです。
「一般化障害仮説」と「情動システム障害という仮説」と、「自閉症の三つ組の障害(症状)」、この3つの関係をどう整理するのか、という問題です。
今回の議論は、「三つ組の障害」以外に「情動システムの障害(のように外から見える症状)」があるのではないか、というニュアンスの問題意識から始まっているように思われました。ですから、このエントリそのものも含めて、情動システムの障害というのを「症状」に位置づけて、それをより上位の障害概念である「一般化障害仮説」から説明していこうというのが私の当初のスタンスだったわけです。
ただ、途中からは、「情動システムの障害は『症状』ではなく、より上位の障害概念であり、一般化障害仮説ではカバーできない領域をカバーしているのではないか」といった議論が混ざってきて、議論が混乱してしまったところがあるように思います。
私の直前のコメントは、そのあたりをふまえてもう一度議論をクリアにしようと思って書いたものです。
「三つ組の障害」は一般化障害仮説ですべて説明できるので、一般に「自閉症スペクトラム」としてとらえられているものは一般化障害仮説のみでカバーできます。(つまり、この仮説は、自閉症についてのグランドセオリーたりえる可能性があるということになります)
もしここに、「一般化障害仮説でカバーされない『情動システムの障害』があり、それも自閉症の障害だ」という主張を入れようとすると、どこかに矛盾が生じてしまうということになります。なぜなら、
1.「三つ組の障害」以外に「情動の障害」があり、両者は相関して発生する(そうでなければ自閉症の症状とはいえない)
2.でも、「三つ組の障害」と「情動の障害」は発生メカニズムは別であり独立している(三つ組の障害は一般化障害仮説で説明できるが、先の前提で、情動の障害は一般化障害仮説で説明できないとされており、かつ、三つ組の障害は情動システムの障害モデルで説明できないため←ここがピッカリママさんの指摘ポイント)
3.そうなると、相関して発生する2つの障害が、独立した(相関のない)メカニズムで発生していることになる。これは矛盾した議論である。
もしも、情動システムの障害で三つ組の障害を説明できて、さらに「情動の障害」も説明できて、それは一般化障害仮説からは説明できないところまで含んでいるのだとすれば、それは端的に、情動システム障害仮説のほうが、一般化障害仮説よりも自閉症の障害モデルとして優れているということで、一般化障害モデルを棄却すれば矛盾が解消することになります。
すみません。また書かせていただきます。
私の書き方がよくないせいで誤解を生んだかと思いますが、私は当初から、「情動システム障害の可能性」が「一般化障害仮説」と排他的な関係にあるとは思っていませんでした。
私の考えのポイントは、「情動システムは認知システムとものすごく絡まっている」という点だと思います。ニューロンネットワークの絡み合いを徹底して調べてみたら、どこまでが情動システムでどこまでが認知システムかわからないということになるんだろうと思います。(ここのところは、脳科学的にはきわめて妥当な考えのはずですが、具体的な論拠(事実)をろくに準備しておりません。)しかしながら、情動システムあるいは認知システムとしての色合いの「濃い薄い」はあるだろうから、そのような色合いの異なる「部分」を「情動(あるいは認知)システム(ニューロンネットワーク)」と呼んできたつもりです。しかし、議論の初めの方ではそのような詳しい説明はしていませんでした。
ですから、情動システムとして表現したかったのは、あくまで、「共通因子としての認知システム障害」と「強力に相互作用」している「部分」であり、なおかつ場合によっては(そらパパさんの言われるわずかな相関の方ですね)情動行動に直接的な影響(異常)をもたらすことがあるのではないか、ここが、James-Lange説的な説明だけでは足りない場合もあるのではないか?という考えなのですが。(ピッカリママさんには汲んでいただけているような気がいたします(汗)。)
したがって、今の議論とは前提が異なると思います。
今回のお答えで、やはり私が2つ前にコメントした問題が大きいことを改めて感じました。
つまり、かずみさんは、一般に三つ組の障害と呼ばれている「自閉症の症状」以外に「情動行動の問題」があり、それは私が一般化障害仮説で考えているところの「認知システム」でカバーしていない(ところもある)、「情動システムの障害」という別の障害モデルを新たに考慮する必要がある、とおっしゃっているのだと思います。
その背後にあるのは、「認知システムの障害」と「情動システムの障害」、両方を導くような、より広汎で根源的な脳のダメージが存在する、という前提だと思います。
もちろん、「認知」とか「情動」とか言っているのは、私たちのラベリング行為であって、脳がそういう風に分かれているわけではありません。
逆にいえば、そういう渾然一体でわけの分からないものを、うまく切り取ってラベリングすることで、私たちは脳がなにをやっているかを理解している(つもりになっている)わけです。
そして、私の、ある意味ものすごくラジカルな立場というのは、「自閉症=『一般化』と私がラベリングした脳の機能の障害」という、完全な1対1対応です。つまり、一般化障害仮説で説明できるScopeの症状が「自閉症の症状」で、説明できないものは「自閉症と(たまたま)合併している別の障害」ということです。
自閉症というScopeから漏れることは、必ずしも発生状況が完全に独立したものになっていることを意味しません。単純に「自閉症」というラベリングを行なう範囲をどこまでにするかという、ことばとしての定義の問題です。
これは、自閉症とてんかんとの関係を考えれば分かると思います。てんかんは自閉症児にはよく起こりますが、てんかんは自閉症の症状だ、と呼ぶことはありません。また、自閉症の本質は知的遅れの多寡とは別に存在する(そして、その本質のほうのベクトルを自閉症スペクトラム障害と呼ぶべきだ)というのが、ウィングらの「自閉症スペクトラム」という考えかたです。
そして、「一般化障害仮説」というのは、こういった整理の中で浮かび上がってきた、自閉症スペクトラムの『自閉症ベクトル』にピンポイントで焦点をあてて、それを完全に1対1で説明できる(そして、自閉症ベクトルとの相関関係ではなく、因果関係を表している)ような認知心理学的モデルを作っていこうという試みです。
(相関の議論については多少私が書いてきたことに混乱がありますが、上記のように整理させてください)
こう考えていったとき、「情動システムの障害」というのは、少なくとも私の立場からは、「一般化障害仮説で説明できる、『自閉症ベクトル』の症状の1つ」であるか、もしそうでないならば、てんかんと同様の「自閉症児ベクトルではない、自閉症と合併して発祥する別の障害」のいずれかであると結論されることになります。
もちろん、私が考える一般化という認知機能の障害と、より広汎な知的遅れ、てんかん、さらには(もしあるなら)情動システムの障害をも引き起こすような、脳の「グランドダメージ」がどんなものであるかという議論であれば話は変わってきますが、それはもう(私の立場からは)自閉症の議論の枠をこえていますから、理論的な話をするとなるとちょっと私には手に余ります(^^;)。
この辺りは、「一般化障害仮説」を考えるときにさんざん頭をひねったところでもありますね。
で、結局、脳のダメージのレベルにフォーカスを当てないで、コネクショニズムがとるような、ニューロン群の情報処理レベル(これは、脳が実現している実際の機能からモジュールを想定するようなトップダウン型の認知心理学モデルではなくて、ニューロンが処理できる情報処理を束ねていってより高次の情報処理を考えていこうという、ボトムアップ型の認知心理学モデルであり、そこが新しいと自認しています)で自閉症を説明し、自閉症を定義しようと考えたわけです。
最後に雑談ですが、今回の議論ではとてもいろいろなことを考えさせられています。
特に、これだけ細かな点を突き合わせながらかっちり議論しているように見えて、実は前提として考えていることや追いかけている論点がかなり異なっていることに気づいたことは、私たちが当たり前に使っている「ことば」というものの「奥深さ」を改めて考えさせられました。
最新のコメントに100%納得しました。分かりやすい整理をしていただいて助かりました。私の立場から言えば、「自閉症ベクトル」を構成する症状の定義が将来的に少しだけ変わって、情動システムの異常が直接想定されるようなものも含まれるようになる可能性を留保したいところですが、私は実際の症状を根拠にしていたわけでもなく、かといって脳科学などの知見もよくは知らないので、これ以上は踏み込めません。お互いの立場と限界が明らかになり「この先は今は踏み込めない」という点で一致したように思います。
だからと言って、そらパパさんの「一般化障害仮説」が「もの足りない」というのは正当な評価ではありませんね。この点は撤回させていただきたいと思います。ここまで立場を明確にしていただいた上であれば、それが志向する方向性と理論的な成果を賞賛する以外はありません。
我々が何故この先に踏み込めないかと言えば、自閉症の解剖学的な知見に限ってもほとんど定見が得られていないということが挙げられると思います。対象とする自閉症の脳があまりにも多様(つまり症状が多様)なので、解剖研究をしようにも条件を完全に揃えられない(癲癇のあるなし等)ということが大きいと思います。同じようなことは自閉症を対象にする以上、あらゆるアプローチについてまわる困難ですね。私自身は自閉症の症候論(つまり現在の診断基準)についても「これが最善だ」とは考えない方が良いのだろうと思っています。この多様性の困難を困難で終わらせないためには、症状、療育、認知心理(科学)、ニューロン、遺伝子など異なるレベルの間でのすり合わせのようなものがどうしても必要な気がします。「抽出」と「一般化」が実際の脳の神経回路機能にまで落とし込めれば、これは革命的なものになりますね。
この一連の議論は、大変興味深く読ませていただいていました。
そもそも「情動」ってなんだろう、と思っていたことと、認知が上がってパニックが減った息子と、認知(IQ)が高いのに癇癪(パニック)が増えていく娘の差は何だろうと思っていたからです。
あえて「情動」の定義をブラックボックス化したまま進む議論はエキサイティングでした(笑
自分なりの理解で、仮説を立ててみたいと思います^^
今回の議論、最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
私自身も、頭の中を改めて整理するいいきっかけになりました。
ピッカリママさん、
「皮膚の中の概念」を安易に天下り的に使わずに議論をすることは、ABAなどでは口をすっぱくして言われることですが、実践しようとすると実際にはとても骨の折れることです。
ABAでいうところの「医学モデル」ではない議論「っぽい」ことが、多少はできたかな、と思っています。楽しんでいただけたのなら幸いです。
コメント汚しになりますが、少しだけ訂正させてください。私の頭の中には、そらパパさんが整理された「自閉症のscopeにない情動障害の可能性」というテーマだけではなく、もう一つ、「(自閉症で問題となる)認知機能に不可欠な要素としての情動システム」というテーマもありました。つまり、そらパパさんが「説明できない」と整理された「情動システム(ニューロンネットワーク)の異常」→「三つ組みの障害」という関係も、「認知機能の障害」を間にはさむことで説明可能と思っていたわけです。「情動システム障害が一般化障害仮説と排他的でない」と書いたのは、両者が別物だからではなく、ほぼ同じものだが説明のレベルが異なるからという意味でした。最初の質問の「自閉症の本質に近そう」というのも、そういう意味です。
「100%納得した」と書いたくせに何を今さらですが、私の考えを(私の考えとして)分かって頂きたくてコメントさせていただきました。しかし、いずれにせよ私にはもう「踏み込めない領域」ですし、「一般化障害仮説」の立場を教えていただいた今となっては議論させて欲しいということではありません。
うすうすお気づきでしょうが、私の考えの背景には「脳科学としては扁桃体仮説がちょっと良さそうに見える(が、実際はどうなんだろう?)」という気持ちがあります。まあ、それほどまとまった仮説ではありませんが。
自己満足のためのコメントで本当にすみませんでした。
こちらこそ本当にありがとうございました。
そのご意見に対するコメントは既に・・・と書こうと思ったら、どこにも書いていないことに気づきました。
一度下書きで書いて、結局採用せずに没にしたコメント部分に書いていたようです。
扁桃体が、情動そのものを司って何かをコントロールしていると考えると、これはホムンクルス論になってしまいますね。
あえていうならば、扁桃体というのは私たちが「情動」とラベリングするようなものに関連する情報を多く経由するような処理を担っている、ということになるでしょうか。
ともあれ、仮に情動についての「情報」が扁桃体を通じて大脳に入ってくるとしても、その「情報」は極めてノイズが多く、使いにくい情報だろうと思われます。これは、「正常なヒト」の場合であってもそうでしょう。別にそれは「情動情報」だけでなく、一番かっちりした感覚情報だといわれる視覚情報でさえ、視神経の解像度はたかだか100万画素程度しかありませんし、盲点もあればある瞬間には休んでいて信号を出していない視神経もあるでしょう。
脳の本当に不思議な力は、こういった極めてノイズが多く信頼性の低い情報を信じられないほど高度に統合して、いま私たちが体験しているような「水ももらさないような高い密度で安定した世界」を構築してしまうところにあると思います。
ラマチャンドランの本だったかに、目の見えない人に解像度の低いカメラをつけて、その信号を舌の一定領域にマッピングして入力するシステムをつけて生活してもらったら、舌の刺激を通じて「視覚」が生じて、自分の周囲に「空間」を感じられるようになったというような話が載っていました。こういう力こそが、脳の本当にすごい力だと思います。
そして、自閉症というのはこの「脳のすごい力」を構成する、一部ではあるけれども相当にクリティカルな要素にダメージを受けている障害だ、と私は考えているわけです。(それが「一般化障害仮説」になるわけです)
この「脳のすごい力」がうまく働かなければ、この世界は相当に「異様で不安定で恐ろしい」ものになることでしょう。それを想像すれば、いわゆる「情動」のようなものについて、自閉症の人が健常の人とはことなる振る舞いをするのは、特に新たな前提をおかなくても、自然に理解できることのように私には思われるのです。
自閉症というのは脳のダメージのある種の「表現形」ですから、そのダメージが扁桃体にも影響を及ぼしていることはあるでしょう。
でも、もしも「脳のすごい力」があれば、その「多少ダメージを受けた扁桃体から送られる情動情報」ですら、脳は適切に処理してダメージを補償してしまうのではないか、と私は思うのです。
それができないとすれば、その原因は、扁桃体のダメージではなく、「脳のすごい力のダメージ」のほうにある、と考えられます。
そのように考えたうえで「オッカムの剃刀」を振るうならば、やはり扁桃体仮説をふまえたとしても、自閉症の本質とは「脳のすごい力のある要素のダメージ=一般化能力の障害」に「のみ」ある、といえるのではないか、と私は思っているわけです。
丁寧なお答えをどうもありがとうございました。もう少し書かせてもらっても良いと受け取らせていただきます。
議論の最初に私が「情動(システム)」を安易に持ち込んだことで、「情動vs認知」みたいな流れになっていますが、初めから扁桃体なら扁桃体と、私の(脳科学的)立場に親和性のある言葉で書くべきでした。
(ただ、前提として確認させていただきますが、私は扁桃体仮説の論拠になっている実験そのものを信用しているわけではありません。そして扁桃体仮説を提唱する研究者は(私も)、扁桃体とその周囲「だけ」が重要だと思っているわけでもないと思います。)
私の考えでは、扁桃体仮説(に限らず脳科学的な仮説一般)はその出発点を脳の器質的な障害のレベルにおいて、そこから機能の障害を説明しようとしており、機能の障害としての「一般化障害」を物質あるいは回路網レベルの異常から説明することを目指すという立場も、ごく自然に「あり」だと思います。その場合、「一般化障害仮説」という認知心理レベルの立場を100%認めても、その下の説明レベルである脳科学的仮説を初めから排除する理由はないと思います。
問題は、例えば「扁桃体仮説」に「一般化障害」を説明する力があるかどうかですね。今すぐ扁桃体関連の神経回路障害から一般化障害を導けと言われても難しいのですが、少なくとも扁桃体に関わる神経の入出力関係だけを見ても相当幅広い領域の脳機能に関与していて、自閉症で障害される(とされる)各種機能に重要な部位と「相互に」連絡があることは確かです。(ここでは、神経回路内の情報について「情動」あるいは「情動に関連する情報」というふうに限定的にラベリングをすることには慎重になる必要があります。)ですから私が思うには、扁桃体は情動行動に関与する(そして出力が大脳に「送られ、処理される」)だけでなく、そらパパさんの書かれた「脳のすごい力」そのものを作り出す要素の一つになっている可能性もあります。もしそうだとすれば、扁桃体が絡むシステムレベルの異常に、障害の機能的本質として「一般化障害」がつながっていても良いのではないでしょうか?
「脳のすごい力」も捕らえ方がいろいろありますが、舌に視覚が生じたという話は、共感覚とか幻肢とかと同じで、大脳皮質の感覚連合野の可塑性を反映しているだけで、今問題にしている扁桃体の担う機能に比べれば分かりやすい話だと思います(ハードプロブレムは別として)。扁桃体への入力としては、五感の高次処理後の出力に加えて、記憶や(感覚性)言語、痛覚、内臓感覚、注意など多くの機能を担う領域からの連絡があり、それらからの入力が扁桃体の内部構造で処理された上で、さらに広い皮質領域(前頭葉のほぼ全域)および自律神経系に投射されているわけですから、「難しいなあ」と同時に「何かありそう」と思わずには居られません。
繰り返しになりますが、別に、扁桃体だけが重要というわけではありません。そらパパさんの認知心理モデルでは実際の脳の構造・機能との対応は描かれていなかったので、何か実体を考えるとしたら「例えば」扁桃体仮説との対応はどうなるかな?と思ったわけです。最初からそう書けば良かったのですが、扁桃体仮説を特別信じているわけでもないし、むしろ第一のテーマ「情動の困難」の話と絡めて質問した方が面白いかなと思い、欲張って書いてしまったので、初めから議論を混乱させてしまったと思います。私は「情動システムの変質、認知システムとの混ざり合い、絡み合い」といった表現で扁桃体が担う機能のうちの「いわゆる」情動では「ない」部分を表現したつもりだったのですが、相当に分かりにくかったですね。申し訳ありませんでした。
しかし、この辺の脳科学の議論を真っ当に行うには、現状では本当に信頼できる知見が足りませんね(真実を含む「可能性」のあるものはたくさんありますが)。ですので、私としてはもう「踏み込めない領域」の一歩手前まで来てしまった感があります。
一般化障害仮説において、一般化という機能と脳とのつながりは、仮定してもいいししなくてもいいという位置づけになっています。つながりを仮定すると、大胆で「外すリスク」が高くなる、脳科学にも片足を突っ込んだ仮説になり、仮定しないと「割と穏当な認知心理学的仮説」になります。
ただ、私の「本音」としては「つながりを仮定するモデル」を考えているので、以下はその前提で書きます。
つながりを仮定する場合の議論は、1冊めの本でいえば第4章の8、当ブログの(ややプリミティブな)シリーズ記事でいえば12-b、12-cが該当します。
一般化障害仮説が考える「抽出・一般化」(ブログの記事では抽象化と一般化)というのは、多層ニューラルネットワークの、前段のほうと後段のほうがやっていることと、基本的にはイコールであるとお考えください。(そういう意味では両者はくっきり分かれているものではなく、連続的につながっているものでもあります。)
そして、大脳というのはこのような「多層ニューラルネット」の化け物のような存在で、もっぱら「抽出-一般化」という情報処理「だけ」をものすごく壮大なボリュームでやっている組織で、その結果として「大脳的な知性」が創発するのでは、と考えているわけです(本質的な意味での機能局在はまったく想定していません)。一般化、といっても、私ももちろんモジュールを考えているのではなく、また脳の機能を抽象化したうえで議論しているのでもなく、「ニューロンレベルまで見据えた、大脳の機能(というか存在意義)そのもの」に言及しているつもりです。このアイデアのベースにあるのが、ジェフ・ホーキンス氏の「考える脳 考えるコンピュータ」という著作です。
そして、自閉症というのは、この大脳の「抽出-一般化」の機能(機能と書いていますが、ニューラルネットの階層構造が可能にする情報処理とほぼ同じ意味ですから、ニューロンレベルからそんなに遠い議論をしているわけではないつもりです)のバランスが崩れ、「一般化」のほうが弱い、つまり大脳の階層構造が崩れている状態をさしているのではないかと推理しているわけです。
だから、大脳以外の組織も、「自閉症を引き起こすような広汎なダメージ」によってダメージを受けているかもしれませんが、それは自閉症を構成する必要条件ではなく、一方で、「大脳の階層構造が崩れ、一般化機能を実現するような高度な階層構造が実現できていない状態」こそが、自閉症を構成する必要十分条件である、と考えているのです。
大脳の機能イコール多層ニューラルネット的な「情報の抽出→一般化」であって、それだけをやっていたらなぜか知性が「創発」する、というのは、あまりに楽観的でちょっと古臭いコネクショニストのオプティミズムに見えるかもしれないですね。でも私はいまだに「大脳に与えられた『処理時間』を考慮すると、大脳というのはそんな複雑なものではなくて、単一のロジックによって構成された均質な情報処理システムであるはずだ」という、ホーキンス氏の説に強く魅せられているのです。
すでに著書で書かれていたのに、私のために詳しく説明していただきましてありがとうございました。
確かに言われてみれば、大脳皮質は均質な構造という見方も可能ではありますね。いろいろ考えてみたいことがあるので、ジェフ・ホーキンス氏の本を読んでみます。ただ自閉症では大脳皮質全体が一斉にダメージを受けているわけではないようなので(というか、扁桃体仮説の方々によれば大脳皮質の構造異常は随伴的で、観察されないことの方が多いということですが(←これはあくまで光学顕微鏡レベルの話です。))、自閉症関連遺伝子や機能局在レベルの話も発展して、脳科学と一般化障害仮説が将来的には、つながって「欲しい」と思います。本質をつかむことは重要だと思いますが、実際の療育では多様な自閉症児・者の状態・困難を個別に把握することも必要でしょうから、機能局在レベルの研究には、少なくともそういう重要性があると思います。
私が何も知らないことと、ちょっと考えたくらいではたいした考えも浮かばないこと(当たり前ですが)があらためて自覚できました。私の疑問に逐一丁寧なお答えをいただきまして本当にありがとうございました。
一般化障害仮説が妥当だとすれば、そこで起こっている「障害」は、恐らく現在の方法では観察できないんじゃないかと思っています。
この仮説でいう「自閉症になるような大脳のダメージ」というのは、「ニューロンのつながりの乱れ」という構造的なものであって、「ニューロンの損傷」とか「接続のある樹状突起数の減少」といった物理的なものではないからです。
(それとも、個々人ごとの大脳の(モジュール的に割り切って分析するのではない)構造、階層性の高さ・低さを測定できる方法が既にあるのでしょうか?)
自閉症児者、特に低機能自閉症児者の脳に特定のパターンの損傷傾向がみられたとしても、それは、「自閉症の十分条件を満たすことが多いようなタイプの脳損傷」を拾っているだけで、因果関係というよりは擬似相関である可能性が高いのではないか?と私は考えています。
遺伝子方面からの研究も同じですね。自閉症者にAという遺伝子損傷が多く見られて、Aという遺伝子を損傷した動物に自閉症的行動がみられるという安定した結果が出たとしても、それは「Aという遺伝子が自閉症を引き起こしている」のではなくて、「Aという遺伝子の損傷は、自閉症を引き起こす十分条件である」ということなんだと思います(必要条件ではない、という意味です)。
同じように自閉症を引き起こしやすい脳のダメージのパターンはいろいろありそうですし、それぞれが自閉症との相関を見せるでしょうが、結局、それらの結果として「大脳の特定の機能(つまりそれが、多層ニューラルネットによって実現されるような『一般化』の機能)」が損傷されれば自閉症、されなければ自閉症ではない(因果関係はそこにしかなく、それ以外はいずれも擬似相関である)というのが、一般化障害仮説によって立つ場合の私の立場です。もちろん、自分で立てた仮説だからといってそれを盲信しているわけではないですが、仮説から導かれる考え方を徹底すれば、そういうことになります。
つまり、そういう意味では、自閉症は本質的に「症状により定義された障害」であり、特定の生化学的疾患を指しているものではない、という視点が、私にはあります。コネクショニズムの立場にたつことで、トップダウン的な弱点をもつ認知心理学的アプローチの弱点を克服し、脳科学との密接なリンクは維持しつつも、ほんの少しだけ、足は宙に浮かせておきたいという気持ちです。
少し前に、「舌に視覚」というのは脳の可塑性の問題だというコメントがありました。
脳の「可塑性」というのは私たち「外部の観察者」から見た表現であって、脳そのものは単に普段から「動的に安定」しているだけですよね(そこに「機能局在」を勝手に見ている、と考えることもできます)。そして、その「動的な安定」が、外部からの擾乱の結果として別の「動的安定」に移行する、そのことを「可塑性」と呼んでいるだけなんだと思います。(このあたりは、「オートポイエーシス」的な視点です。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1063.html )
自閉症というのは、この大脳の「動的安定」の状態が、通常とは異なったものになってしまったケースだ、と考えることもできるように思います。先ほど、「ニューロンのつながりの乱れ」と書きましたが、「乱れ」だと評価しているのも私たちであって脳自体ではなく、「自閉症」の姿にあっても脳は自己完結して「動的安定」しているのです(そうでなければ脳は暴走して機能停止してしまうはずですから)。
いずれにしても、「実用的(臨床的)」には、情動の障害も認知的な理解に基づくアプローチで対処できそうだし、「理論的」には、あえて概念を追加するよりはオッカムも剃刀を振るいたくなる、というのが私の立場ですね。
詳しくお話くださってありがとうございます。
私は素朴な還元主義者(原理的ではありません)なので、亀のように地面を這うことしかできません。「宙に足を浮かせておきたい」という気持ちはとても分かるし、そういう立場に憧れもするのですが、自分自身が「分かった気になる」ためには、地面から離れられません。私にとっての地面は「物質の振る舞い」ですね。
一般化障害仮説で想定する大脳のダメージは「ニューロンのつながりの乱れ」(と我々が評価できるかも知れないもの)ということですが、この乱れが発生するメカニズムはコネクショニズムだけで説明できるから、私が言うようなニューロンレベル以下の物質に還元しなくても良い、ということでしょうか?この辺がどうも分からないのですが、そうだとすると自閉症の脳と定型発達の脳では、コネクショニズム的に見て何が異なるから階層性や並列性の度合いが異なってくることになるのでしょうか?
「乱れ」が「見えるか見えないか」は別の問題だと思います。脳の階層性については定義が分かりませんが、実際に測る方法もないでしょうね。とにかく光学顕微鏡レベルに話を限る必要はないと思います。遺伝子発現、タンパク輸送、細胞内伝達系、電荷の移動など、1個のニューロン内にも複雑系システムはいろんなレベルで存在しますから、簡単には目に見えないメカニズムの異常もありえます。(その基盤にあるのはやはり、数十種類が候補とされている自閉症関連遺伝子の発現制御システムでしょう。)ですから、大脳皮質の解剖所見に異常が見られないから一般化障害仮説がどうこうということではありません。ただ、扁桃体仮説の中心的な根拠は、「これまでで最も厳密にコントロールされた解剖研究において、自閉症例の「全て」(数は知りません)の脳で扁桃体を中心とした辺縁系にニューロンの発達不全が見られた」ということらしいので、「全て」というのをそのまま受け取れば「必要条件」にはなっているわけです。(「結果」であるかもしれませんが。)
擬似相関についてですが、十分とか必要とかは、因果関係とは別物だという話だと思うので、それはそうなのですが、そう言われてしまうとどうしようもありません。物質世界と認知世界の「因果関係」を示せということですから、これはもうハードプロブレムそのものです。しかし、そらパパさんはコネクショニズムのレベルまでは下がってきているわけですから、あえてそこで「断絶」を言われなくても良いように思えるのですが。
自閉症が症候群でしかないというのは現状ではそうですが、立場や概念の妥当性や有用性によって変わってくる結果の話なので、あえて触れません。症候群という見方は、実際上は有用な場合もあるのでしょうが、私にはどうにも恣意的な要素が入り込みやすい捉え方のように思えてなりません。
情動の障害については、もともと論拠が希薄でしたので引っ込めることにします。すみませんでした。
私がコネクショニズムには依拠して、「地に足」はつけないのは、ひとえに脳が複雑系だからです。
天気予報を還元主義でやろうという人は今はいないと思います。天気は複雑系だからです。
渋滞予測を還元主義でやる人もいないでしょう。渋滞もやはり、複雑系だからです。
だから、むしろそれら以上に「複雑系」である脳に対して還元主義で立ち向かう研究が主流であり続けている現状は、もしかすると脳科学がまだ「ローレンツの蝶」以前の状態にあるということなんじゃないんだろうか、とさえ感じたりもします。(批判めいてしまいすみません。)
ですので私が足を宙に浮かせたいのは、私はそのわずかなすきまに、埋めがたい甚大な「断絶がある」と本気で思っているからなのです。
(ただ、ハードプロブレムの議論まではしていません。自閉症の議論は、「原因」の話であれば、ハードプロブレムに行く寸前で語れると思っています。「自閉症児者の体験世界」については、まさにクオリアそのものですから間違いなくハードプロブレムでしょう)
さて、扁桃体の発達不全と自閉症との間に完全な対応関係がみられたとしても、それでも一般化障害仮説の立場にたつならば、それは自閉症の原因とはいえません。扁桃体の発達不全は、自閉症の「原因」ではなく「結果」(症状)と考えることもできるからです。
扁桃体というラベリングをしたとしても、それは「ある動的安定における役割のラベリング」です。扁桃体のニューロンが発達するためには、自分が発した情報に対して、安定したまともな「返事」が返ってくることが必要でしょう(あえて擬人化して書きました)。
ところが、大脳にそういう外部から受け取る情報に対してうまくプロトタイプ(一般化した反応パターン)を作れないという障害があって、扁桃体からの同じ情報に対して、あるときはAと返し、あるときはBと返し、またあるときは反応しないといった、まったく「ニューロンのけものみち」ができないような反応が続いたとします。そうすれば、扁桃体と大脳との間のニューロンは衰えていくでしょう。(それがその環境における「動的安定」だからです。)
そして、そんな「大脳の障害」こそが、私が想定している「一般化障害」です。
もう1つの考察は、これは完全に哲学的な考察になってしまいますが、こういうものです。
・大脳における一般化に障害があり、かつ、扁桃体の発達不全がある人がいたら
→ その人は「自閉症」だろう。
・大脳における一般化に障害があり、かつ、扁桃体の発達不全がない人がいたら
→ その人は「自閉症」だろう(一般化障害仮説に従えば三つ組みの障害は生じるはずなので)。
・大脳における一般化に障害がなく、かつ、扁桃体の発達不全がある人がいたら
→ その人は「自閉症」ではないだろう(三つ組みの障害が生じるとは考えにくいので)。
・大脳における一般化に障害がなく、かつ、扁桃体の発達不全がない人がいたら
→ その人は「自閉症」ではないだろう(当然です)。
こう考えると、やはり扁桃体と自閉症は、「論理的には」独立していることになります。
「ニューロンのつながりの乱れ」というのは、大脳を、ホーキンス氏が主張するように均質なコラムの集まりだと考えると、それによって多層ニューラルネットを組んだとき、そのネットワークは「階層の数(高さ)」と「各階層に割り当てられる容量」の2つの軸で評価できます。そして、言語や思考、「心の理論」のような高度な知性が創発するためには、一定レベル以上の「階層数」が必要になると考えられます。
ところが、もしカラム同士の「接続のありかた」に乱れがあって、あるべき階層数が確保できなかった場合、そういった知性に障害が発生すると考えられます。(その一方で「容量」が大きくなって記憶力が強まったりということもありえるかもしれません)
それが、「拡張された一般化障害仮説」で想定する、自閉症の姿です。
ですから、もし仮に脳科学的に「観察する」とすれば、カラム同士の接続を全部解きほぐして、上向系と並列系に分けたうえで「ちゃんときれいにつながっている上向系」の、大脳全体としての階層数の傾向を調べる必要があるはずです。カラム同士の接続の有無だけでなく、その「構造」と「質」にまで踏み込まなければならないことになります。
自閉症はどこまでいっても症候群だと私は思っています。
極論してしまえば、ミクロなレベルでつかまえようとしたら消えてなくなってしまうような、蜃気楼のような側面をもっていると思います。
自閉症がスペクトラムだと言われるようになったのは、まさにそれを象徴していると思います。
自閉症というのは、おそらく、脳の機能の損傷のあるベクトルを抽出してとらえているに過ぎないと私は思っています。
その機能ベクトルが、人の社会のなかで際立って重要な機能であり、それが損傷している姿が際立って「奇異」に見えるために注目され、あえて「自閉症」という特別なラベルがついているのだ、と思っているわけです。
とても長くなってしまっているここに書いてしまってすみません。
先日一冊目の御著書を読了しまして、この議論の中で気になってきたことがあります。
高機能自閉症は、「抽象化」と「一般化」の不均衡、インプットの過剰と刈り込みの不足による不均衡を持ちながら、健常者とは別の見え方の「動的安定」を保っているのでしょうか。まぁ、そうだから「高機能」なのでしょうが、この不均衡を内在したまま「高機能」を保ち続けるほど、十分な容量と処理能力が脳にはあるんでしょうか。ちょっと心配になってきました。(だからこそ、脳内には「仮想データ」をもたず、大脳の処理は結合係数をしきい値といした信号の入出力という単純処理を統計的に行なっているという理論に、ものすごく納得しました。これはまた別途書かせてください)
以前佐々木正美先生のミニ講座を受講したのですが、「自閉症の中核は、物事を忘れることができない困難です」とおっしゃっていました。文脈としては、「だから傷つけないでいろんなことができる保育、教育が必要だ」ということだったのですが、「忘れること」「情報を捨てること」が持つ重大性がやっとわかった気がします。
脳内の(情報の)代謝のバランスが不均衡であることが障害の本質だとしたら、「構造化」によるノイズの低減は物理法則から考えても重要な意味を持ちますね。
また、ご本のレビューに、感想を書かせていただきます。
お返事ありがとうございました。ぜひまたコメントさせていただきたいのですが、1つだけお願いします。
先ほどの私の質問は、そらパパさんの本にある「高さが低くて横に広がったピラミッド」はどうしてできるのかと言うことです。先ほどのお答えの「大脳にそういう外部から受け取る情報に対してうまくプロトタイプ(一般化した反応パターン)を作れないという障害」も、やはり「けもの道」的にできてくるのでしょうか?定型でそうならないのは何故でしょうか?
あ、厳しいところを突かれてるかも、という気持ちに若干なりましたが(笑)、ご指摘の点についての私の意見を。
かずみさんの質問は本来のベクトルは逆ですよね。ただ雑然とカラムが接続しあう状態に、並列性は生まれても階層性は生まれないということを考えると、「トータルの接続数」が同じなら、階層性が高い状態のほうが秩序が強く、階層性が低いほうが秩序が弱いことは自明ですので、いただいたご質問は「なぜ健常の人には秩序だった階層性の高い状態が生まれるのか」という形に変換できる(すべき)だと思います。
で、それについてのお答えは「分かりません」です。分からないですが、現に私たちの大脳は、階層性の高いニューラルネットを想定しないと実現できなさそうな知性を実現しているので、「分からないけど、現にある」わけです。で、自閉症というのは、その「高い階層性の自己組織化」につながる何らかの要素を阻害されることで、大脳の「定型発達」が阻害される障害だ、と考えています。
階層性が自己組織化されることは、高い知性を実現するための、プロセスであるというよりは前提条件だと(直感的に)思われますので、ここには先天性とか遺伝子の問題とかを想定したほうがいいと感じます。(けものみちで階層ができる、とは考えていません)
この辺の理論立てが弱いことに私も気づいたので、「厳しいところを突かれた」と感じたわけです(^^;)。 ここに「何らかの先天性」をおくことで前提が1個増えて、オッカムさんに怒られそうです。
いずれにしても、前のコメントの最後にも書いたように、自閉症は、脳がもっている複合的な能力のうち、特定のベクトルの障害が際立って私たちにとって奇異に見えるために(というより、現代という時代が、そのベクトルが定型であることを強く要請するために)、そのベクトルの障害・異常に特にラベリングがなされたものに過ぎないのではないか、と私は考えています。ですので、脳の中にその原因を見るときも、還元しすぎずに機能のレベルで見ることが必須なんじゃないか、と思っているのです。
例えばここに、非常に手先が器用でないと「生きにくい」社会があったとすると、「手先がとても不器用」な人は深刻な障害者になるでしょうから、これには名前がつくでしょう。ここではそれを「不器用症」と仮称します。(ここでは、このパラレルワールドが私たちの社会と違うのは「社会の要請」だけだと考えます)
そうすると、その「不器用症」は、「すごく不器用」から「ちょっと不器用」「個性の範囲」といった「不器用症スペクトラム」を形成するでしょう。
そして、脳のなかを調べれば、「不器用症の原因遺伝子」とか「不器用症の原因脳領域」も見つかるかもしれません。
でも、これってちょっと違うんじゃない?と思うわけです。この「不器用症」も、やはり脳と身体の複合的な能力のなかから、「社会の要請」というフィルターを通して1つの能力ベクトルを抽出して、それの優劣にラベリングしているだけじゃないか、と思うわけです。
自閉症って、これと似ているんじゃないかな?と思うわけです。ですから、脳が複雑系だということも合わせて「自閉症を還元主義の脳科学で探求する」ということには、厳しいものがあるんじゃないかな、と思っているのです。
で、ここから先はピッカリママさんのコメントへのお答えにもなりますが、かずみさんへのコメントの続きにもなっています。
「階層構造があまりうまくできない」という状態にある大脳であっても、その制約条件下で最適化されます。もしネットワークの「規模」そのものに大きな障害がなければ、その「容量の大きさ」を強みにするような最適化を果たし、「動的安定」へと移行していくことでしょう。それが結果として「忘れられない」とか「サヴァン症候群」とかになるのかもしれません。(最後はただの想像です)
「不均衡」というのも、私たちが観察してそう見えているだけですし、そういう意味では私たちの脳もすべて「全世界平均」から比べればみんな「不均衡」ですから、不均衡であることが不安定であることと直結するわけではありません。ただ、「不均衡」な状態で「動的安定」している脳からみえる「世界」は、私たちから見える「世界」とはかなり違うのかもしれません。そして、それを考えたときには、問題はハードプロプレムに移行してしまう、というわけです。
「忘れられないこと」は、「一般化ができないこと」との関連で説明できます。「一般化」というのは、「典型的で将来にも役立つ重要なこと(情報)」と「今回限りで忘れてもいいこと(ノイズ)」を選別することでもあります。ですから、その処理ができるのであれば、「ノイズを忘れる」ことができます。でも、それができないならば「全部忘れる」か「全部忘れない」という選択肢しかありません。全部忘れたら何も学習できないので、この制約条件下では、脳の容量が許す限り「全部忘れない」という形で、情報処理が最適化されることが予想されるわけです。
ありがとうございます。「忘れられないこと」と「一般化ができなこと」の関連はよくわかりました。
「忘れていいこと」や「覚えておきたいこと」の重みづけが多くの人と違うだけかもしれませんね。その違いも、容量や処理能力も人それぞれで、特別高い人もいると。
>私たちの脳もすべて「全世界平均」から比べればみんな「不均衡」ですから、不均衡であることが不安定であることと直結するわけではありません。
そうですね、安心しました(笑。
ありがとうございます。
そうですね。
本当に不思議なことは、「自閉症児が変わっているように見えること」ではなくて、「私たち」のあいだに「共通していること」があるように感じられること、つまり「普通」っていうものが存在できていることのほうにあると思います。
お答えありがとうございました。前のお答えとも合わせてコメントさせてください。
複雑系と還元主義についてですが、私のような方法論的還元主義者は、最終的にボトムアップを目指すからこそ、行ける所まで下を目指そうとしているわけで(本音を言えば能力が足りないからかも知れませんが(笑))、要素に分けられたからうれしいというわけではありません。ボトムアップする際には、たぶん複雑系の科学などで探求しつつある(のかどうか私は分かりませんが)ような理論や方法論が必要になるだろうとは思っています。そして、今の時点でそこに正面から取り組める頭脳には憧れを持っているわけです。
「天気予報を還元主義ではできない」というのは、還元主義を矮小化しすぎではないでしょうか。天気予報の基礎にあるのは還元主義によって得られた物質の振る舞いの法則です。実際の天気予報の仕方を詳しく知りませんが、使われているモデルは本当にカオスなどの理論を使っているのでしょうか?もし使われているとしても、古典物理学(気象学)的な拘束条件が山盛りなっているはずだと想像できますが。渋滞予測も同じです。
構成論的手法のようなものについては、既存の理論をコンピュータや実物に置きかえて反応させ、「予想外の結果」を楽しんでいるだけのように私には見えます。確かに実用面では色々と役に立ちますが、そこから本質的な理論は生まれているのでしょうか?そしてそれは還元主義を捨て去っていても検証可能なのでしょうか?(ここは本当に知らないで書いているので、よろしかったらご教示ください)
複雑系モデルの重要性は、あくまで「モデルとしての」重要性なので、上のレベルに対する説明可能性や下のレベルから見た妥当性などがその「価値」ですから、ニューラルネットワークモデルなどを下の階層(物質システムなど)との関係を考えないでいきなり生物に適用しても、その点では(つまり生物の記述としては)価値を評価できません。(「科学そのものもモデル」とおっしゃるかも知れませんが、上記のような基準で判断される全体の価値はものすごいものになります。)
脳の階層性のでき方についてですが、脳科学では発生過程の脳の神経回路がどうやってつながるかは依然として大きなテーマで、個別の誘引因子などは未同定なものも多いですが、おおよそのストーリーは分かりつつあるようです。ごくごく簡単にまとめれば、
1. 細胞分裂と細胞分化、細胞の移動(細胞外マトリックス、放射状グリア、パイオニア軸索に沿って移動する)が発生初期(脳が小さいのでパイオニア軸索を目標部位に到達させられる。)から脳の発生過程全般にわたってプログラムされている。
2. 濃度勾配を形成するような誘引物質と忌避物質及びその受容体の発現パターンがスモールステップで変わる様にプログラムされており、これで軸索の尖端(成長円錐)を誘導する。
3. 最終調整は、より特異性の高い誘引物質、シナプス形成反応、プログラムされた細胞死、神経活動依存性のシナプス再構築などにより行う。
などです。
「不器用症」のお話でおっしゃりたいことはとてもよく分かります。「自閉症は社会的な規範や価値観によって定義されるだけである」というのはそれで良いと思います。しかし、この状況は自閉症を物質システムレベルに落としていってもそのままなのだと思います。自閉症がどこまでも症候群であることと、自閉症が遺伝子を含む物質システムと結びつけられる可能性は矛盾しない、というのが私の考えです。遺伝子の変異というとデジタルなものと思われがちですが、複数の遺伝子が互いに制御しあっているような発現システムの場合、異常(少数派)と正常(多数派)の「境界」もあいまいなものになってきます。自閉症でも、どの遺伝子(複数)のどの変異が原因だと決めることが本質的に極めて難しいはずです。遺伝子発現の調節因子の一つの群として「転写因子」というものがありますが、これもタンパク質なので、これをコードする遺伝子があるわけです。その転写因子の遺伝子に中途半端な量しか発現(タンパク合成)しないという変異があったりすると、転写因子の制御下にある遺伝子群はさらに中途半端な状況に置かれることになります。遺伝子発現ではこういった制御が相互に絡み合ったりするので、ある酵素の遺伝子に変異があると言ってもそれが酵素本体をコードする部位なのか発現調節を受ける部位なのかで話は違いますし、タンパク質同士の相互作用ネットワークや細胞外からの情報も遺伝子発現に影響します。
ですから、私の考えでは遺伝子情報レベルだけで自閉症の症候群と対応させるのは無理な話で、タンパク質やニューロン・シナプスなど異なるスケールレベル(の複雑系ネットワーク)との対応関係をひっくるめて理解する必要があり、その視程の先に一般化障害仮説が入ってくる可能性もあるだろうと思います。
扁桃体については、実験事実が固まっていないので特に主張したいわけではないのですが、そらパパさんの4つの場合分けの議論(哲学的な考察)の意図がつかめなかったので、よろしかったらもう少し詳しくご説明くださるとうれしいです。
そらパパさんの立場を批判したりするつもりはないのですが、無知ゆえに言い過ぎた点などがありましたらどうかお許しください。
いただいた話題は、もう自閉症そのものから離れて、還元主義と反還元主義の宗教論争の様相を呈している感じですので、今回提示いただいた論点の大部分に深く突っ込むことはあえて控えたいと思います。
いくつか「脳については反還元主義」の立場からいえば、
まず、「下がって、上がる」ことができると考えること自体、極めて「還元主義的」だと思います。「還元主義を捨て去る」というよりは、「還元主義でやっていてはたどりつけないと思っている(だから捨てるかどうか以前の問題)」なわけです。
また、天候や交通渋滞などは、要素としての個々と要素としての相互作用はシンプルに記述できても、それらが実際に相互作用し合う「全体」は線形分離できず、還元主義的アプローチをとることができないという意味で「複雑系」だと言われていると理解しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB
複雑系の科学がやっていることが「お遊び」に見えるというのも、まあよく「宗教論争」の場でいわれる批判です。その批判は当たっているところとそうでないところの両方があると私は思っています。
それは、後半でおっしゃっているような、複雑系のモデルを生命や脳にあてはめることも「お遊び」なのではないかという批判に対する立場とも、直結していると思います。私は「意味がある」と思っているのであてはめているわけです。なぜなら、還元主義的アプローチではたどりつけない場所に、複雑系のアプローチならたどりつけるのではないか、と期待しているからです。特に脳については、そうです。
以前書いたブックレビューで引用している部分が、私のこの辺りの立場をうまくいい表しています。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/24550414.html
不器用症の話題で指摘しているポイントは、自閉症というのはあくまで機能レベルで定義される障害なので、その「機能障害」にいたるルートはきっと無数にあるだろう、ということです。仮に(上記の議論を無視して)それらの中の1つを解明したと仮定しても、それはあるゴールにたどりつくルートを1つだけ見つけたに過ぎず、結局「ゴール」を語る(つまり機能レベルで語る)以上のことを何も説明しないだろう、と思っているわけです。
だから私は、「ゴール」を語っているわけです。それが、コネクショニスト・モデルに依拠した、一般化障害モデルなわけです。
情動の4つの場合分けについては、以前の「重要なことを書き漏らして・・・」のコメント以降で何度か書いていることの繰り返しです。
お答えありがとうございました。私も宗教論争にもっていくつもりはありません。
私は複雑系アプローチ、コネクショニズム、一般化障害仮説のいずれも肯定しているつもりです。複雑系モデルを生物に当てはめることには意味がない(お遊びだ)ということではなくて、そらパパさんがおっしゃるように還元主義的アプローチでたどり着けないところにたどり着ける可能性は確かにあるが、要素の振る舞いを単純化するとモデルの「妥当性」を支えるものが著しく脆弱になるので、この点は気をつけるべきだということです。今回の「先天性(遺伝)要因の見落とし」もその例ではないでしょうか。
ただ、ここまで議論につきあっていただいたおかげで、「機能レベルでしか語らない」というそらパパさんの立場も、遅まきながら理解できた気がします。私にとっての問題は、その「語る内容の妥当性」をいかに保障するかですが、それが「実際の症状・療育効果への説明可能性とコネクショニズムで十分だ」ということかと思います。宙に浮いている分だけ、危ない面が含まれていると思いますが、物質系の複雑さをあれこれ考えていたら、「それでいいのかも」と思えてきました。おっしゃるように、自閉症(あるいは特定の自閉性症状)に至る「ルート」は一意に決められないでしょうから、私としては複雑系の科学の発展にも期待したいところです。
もともと、この「一般化障害仮説」というのは、コネクショニズムありきでそこから意図的にモデルを作って自閉症を考えていったわけではなくて、ごく一般的な多層パーセプトロン的なニューラルネットの中間層がやっていることと、自閉症で「障害されている」と言われていることとの間に、ある種の機能レベルでの類似性をたまたま「発見」したことから生まれてきた仮説です。
ですから、そういう意味では最初から「地に足をつけることを前提としていない」仮説だと言えます。ニューラルネットと脳細胞との類似性とか、ジェフ・ホーキンスモデルへの応用とか、そういった脳科学とのリンクにも興味はありますが、それによって問題かえって複雑で見えにくくなって「足をとられてしまう」ことは避けたいと思ってもいます。
つまり、最初に「発見」したときの徹底したシンプルさのままで、自閉症をモデル化して、自閉症を理解して、働きかけていこう、というアプローチなわけです。「機能レベル」にこだわるのは、そもそもこの仮説がそこから出発していて、ある意味では「そこから一歩も出ていない」からでもあります。そして、自閉症というのは本質的に機能レベルでしか記述できない障害ではないか、という問題意識もあわせてもっていますので、このレベルに留まっていることは「正しい」と思ってもいるわけです。
ですから、私の立場というのは、かずみさんのアプローチを「否定するもの」ではなくて、少なくとも現時点では(つまり、還元主義で「下がって、上がる」ことができない限りにおいては)「別のもの」なんでしょうね。そこに将来的に「つながり」を見出せるかどうかについては、個人的には否定的ですが(反還元主義的な立場として)、もしそれが見つかってくれば、そのとき初めて、両者を同じ土俵に乗せて議論できるんだろうと思います。(というか、「下がって、上がる」ことができたときには「複雑系」の存在意義は消えてなくなってしまうわけですが(笑))
ともあれ、とても面白い議論ができたと思っています。ありがとうございます。
それと、個人的には、一般化障害仮説は(弱いところもあちこちにありそうですが)自分が思っていた以上にけっこうタフで議論に耐えうる仮説だな、と感じることができたのは嬉しい経験でした。(この仮説については、最初にブログで書いてから3年近くたった今でも基本的に私自身の考えかたが変わっていませんし、過去に何度かプロの研究者の方から問い合わせを受けたりしたこともあったりして、それなりにスジのいい仮説になっているのかな、とは思っています。ちょっと残念なのは、1冊めの本は心理学の専門書的な位置づけになってしまっていることですね。どこかの出版社で新書あたりで改めて書かせてくれると嬉しいんですけど(^^;))
私の今の考えでは、自閉性障害と物質レベル(ニューロンなど)の現象に見られる相関を全て擬似相関として切って捨てる(つまり複雑系という見方との本質的な「断絶」があると考える)のにはまだ少し抵抗があります。しかし、例え「断絶」がなくても自閉症を物質レベルに還元することは簡単ではありません。ところが一方で、自閉症を物質レベルに還元する行為は自閉症の療育ではなく「治療」につながっていく、ということがあるので、こうした「治療」には反対するという意味で、自閉症を機能レベルでのみ語ることは「正しい」と思っています。
本質的に正しいとおっしゃっているそらパパさんとはニュアンスが異なりますが、私にとってこの議論の目的はそらパパさんのお考えをちゃんと理解することだったので、その目的はおかげ様である程度達成することができたように思います。こちらこそ長い間どうもありがとうございました。
本当に長くなってしまってご迷惑をかけたかと思うのですが、そらパパさんが丁寧に答えてくださるので「問題ないのかな」と勝手に思ってしまいました。ネットの作法に疎く、空気を読めないのでお聞きしたいのですが、こんな風な議論はメールでするべきでしたか?(私は他の方にもご意見や教えを乞えればいいなと考えていたのですが。)
コメントありがとうございます。
以前も書きましたが、このやりとりで私自身の、私自身の考え方への理解(変な表現ですが)も飛躍的に高まったので、とても意義のあるやり取りだったと感じています。
ほかのブログはわかりませんが、当ブログのコメント欄には、他愛のないやりとりだけでなく(もちろんそれも大歓迎です)、本格的な議論をする目的ももたせているつもりですし、その議論自体も、ブログの「付加情報」だと思っていますので、コメント欄で建設的な議論ができることは素晴らしいことだと思っています。