1.そもそも絵カードってどんなもの?
例えば、こんなものです。

自閉症療育のための絵カードのイメージ
絵カードとは一般に、この写真のように、厚めの紙に「画像」と「文字」を印刷したものをいいます。
「画像」としては、その絵カードが意味するものを表す写真やイラスト、マークなどが使われます。
そして、その絵カードが示しているもの(こと)の名前を「文字」を添えて表現するわけです。
カードは、貼ったりはがしたり持ち運んだり手渡したりといった操作の繰り返しに耐えられるよう、ラミネートフィルムなどで表面を補強して使います。
また、大きさは、当事者であるお子さんが扱いやすいサイズにカスタマイズして作ることになります。ただし、今回のシリーズ記事では、一例として、1辺60mm弱の正方形になるような絵カードを作ります。具体的な作り方については、後で説明します。
2.なぜ絵カードを使うのか
具体的な絵カードの作り方や使い方の手順などに入る前に、そもそも、なぜ「絵カードによる療育」を行なうのか、について整理しておきたいと思います。
絵カードとは、端的にいえば私たちがふだん使っている「ことば(音声言語)」に代わる、もしくはことばを補完するための「特別なツール」だと考えられます。
特別な、というのは、自閉症児の特性や教える側の私たちの利便性に配慮し、「自閉症児の療育」という目的に特化してカスタマイズされたものになっている、という意味です。
平たくいえば、絵カードは自閉症児のために開発された、特別な「ことば」だということになります。
自閉症児は視覚優位であると言われています。
恐らく、視覚「優位」というのは相対的なものであって、実際にはどちらかというと「聴覚劣位」、つまり音声言語を聞き取って理解することが困難(その結果として音声言語を話すことも難しい)だというのがより真相に近いのではないかと私は考えていますが、いずれにせよ、そういった特性によって、自閉症児には、
・音声言語を習得することに困難がある
・仮に習得したとしても、それを実際に使うための労力が大きく、子どもの負担が大きい
といった問題が生じることになります。
音声言語を理解したり自分が使ったりするのが難しく、負担が大きいということは、単に私たちが教えるのが大変だということだけではなく(もちろんそれも、療育の効率に大きな影響を与えるのですが)、子ども本人にとって音声言語を使用する「コストが高くつく」ことを意味します。
つまり、私たちにとっては「便利でカンタン」なために、それを使うことでどんどんコミュニケーション能力が発達していく音声言語が、逆に自閉症児にとっては、「不便で使うのが大変」なために、それを使うことが負担になり、コミュニケーション能力の発達につながっていかない(それどころか、場合によってはむしろ使うことを避けてコミュニケーションから「離れていく」ようになる)可能性があるわけです。
音声言語のコストが高い、ということは、その他の表現方法、つまりクレーンやパニックの「コスト」が相対的に低くなるということでもあります。コストが低いというのは、要は「使いやすい」ということですから、クレーンやパニックで意思表示をしやすくなり、それが定着しやすくなるということにつながっていくわけです。
この「コストの高さ」の原因は、主に自閉症児の先天的な困難にあると考えられます。ですから、音声言語が遅れている自閉症児にあえて音声言語の使用を強いることは、合わない服に無理に体を合わせようとするような矛盾を孕んでいるとも言えるわけです。
このような考察をふまえることで、「自閉症児のコミュニケーションのための特別なツール」としての絵カードの本当の価値が見えてきます。
(次回に続きます。)
絵カードについての日本で初めての考察になることを期待します。
私は言語心理学やソシュールなどで使われる多彩な概念は無学にしてよく分からないのですが、言語能力というものが他の能力とは異なる特殊なものとは考えておらず、1冊めの本で書いたように、「からだ」が「せかい」との相互作用から一般化された(将来に役立つ)「せかい」のルールを学習することが障害されるのが自閉症の認知面での困難だと想像しています。その中に、「言語」というのも当然巻き込まれるので障害される、という考え方です。
絵カードを使うことは、一般には「視覚支援」という整理がされますが、別の視点からみると、コミュニケーションのための行動を極端に単純化することで、「学習した行動を(一般化せずに)そのまま再現すればコミュニケーションになる」というモデルを構築していることなんだろうと思っています。それによって、自閉症児が学習することが最も困難なこと(雑多なサンプルから「一般化されたルール」を発見すること)を最小化しているのではないかな、と思います。
私は聴覚に難しさのある自閉症のお子さんと「絵カード→手話・指文字」という学習に取り組んだ経験があります。そらパパさんの記事にありましたが、「聴覚劣位」「視覚優位」ということはもちろん理解できますが、「絵カード」も「手話」もある意味どちらも「視覚的」なことばでしたが、「絵カード」には、プラスアルファでなにか有用性というか有効性というか、そういうものがあるのかなぁとも感じていました。このシリーズを拝見し、自分なりにまた考えてみたいと思います。(分かりにくい文章ですみません・・・。)
コメントありがとうございます。
私は逆に、絵カードには「特別なもの」は特にない、と考えています。
でも、何もないからこそ、子どもにとっても、教える側にとっても、分かりやすくて取り組みやすいものになっているんじゃないかな、と思っています。
(あえて言うならば、「絵カードを『渡す』」という行為が、手話などよりも「相手にメッセージを伝える」というニュアンスがより具体的で分かりやすい、ということはあるかもしれませんね。)
『「特別なもの」がない』というのは、なんか腑に落ちました。自分の中でもなんか整理がつけられそうです。