続 自閉っ子、こういう風にできてます!―自立のための身体づくり
著:岩永 竜一郎、ニキ リンコ、藤家 寛子
花風社
とても面白くて考えさせられるところの多かった「自閉っ子、こういう風にできてます!」の続編が出たということで、中身も見ずに即座にレジに持っていったのですが、読んでみて、ちょっとがっかりさせられました。
一般的なモノサシで見たら、そんなに悪い本じゃないとも言えるかもしれません。
少なくとも、発達障害支援にとって有害なことは書いてないと思いますし、この本に書かれている「知識」を身に付けることによって、支援的働きかけが上手にできるようになる(あるいは、当事者の方なら、自分の問題についての解決法を見つけやすくなる)方も少なくないと思います。
それでもやはり、「科学の目をもった療育」という当ブログの視点からは、この本の問題を指摘しないわけにはいきません。
また、1冊めの本で一番面白かった部分がスポイルされて、とても退屈な本になってしまっています。
実は、「この本がもつ問題」と、「1冊めよりも退屈になってしまったこと」は、密接につながっています。
1冊めの「自閉っ子・・」が面白かったのは、当事者の生の声としての「自閉症者のからだの問題、からだを通じた世界とのかかわりの姿」が、不用意に「解釈」される前の状態で提示されていて、私たちの側でいろいろ考えることができるところにありました。
アスペルガー当事者であるニキリンコさんと藤家さん、2人の掛け合いに、「定型者代表」として花風社の浅見氏がからんでいく「鼎談」という構成は、
・当事者が2人いることによって、特定の人の症状に偏り過ぎずに、より一般性のある「自閉症のからだ論」がうまく展開されていた。
・当事者2人に「定型者」1人という、当事者のほうが多いバランスによって、話を動かす「中心軸」がしっかりと「当事者」の側にあった。
・「定型者」である浅見氏にも、極力自閉症者の認知世界を「解釈」せず、「定型の人はこうなんだよ」という「自分がわかっていること」だけを語ろうとする誠実な姿勢があった。
といった特性があって、それらがまさにこの1冊めの本を他の本にないユニークで魅力的なものにしていました。
それなのに。
・今回は、ニキさんと藤家さんが同時に登場せず、基本的に一人ずつ出てくる。だからほとんどの内容が「特定の人の症状の話題」になってしまっている。
・当事者は1人、そこにお医者さんや先生や両親や浅見氏といった「定型者」がうじゃうじゃといる状態での対話になっているため、話を動かす中心が明らかに「定型者(支援者)」の側になってしまっている。
・さらに、今回の「定型者」の中心にいる岩永氏は、まさに「自閉症者の認知世界」という本来は不可知であるはずのことを、断定的にどんどん「解釈」してしまっていて、結局のところ「岩永氏の自閉症論」になってしまっている。
ということで、本書は「当事者は登場するものの、結局は特定の研究者の視点から『解釈』された、平凡な自閉症本」になってしまっているのです。
さらに、この岩永氏がよって立ち、「解釈」の基盤としているのが「感覚統合『理論』」であるというところが、問題をさらにややこしくしています。
以前から指摘しているとおり、私は「療育技法としての感覚統合」にはかなり肯定的で、有効な場面も多いと考えています。実際、この本で岩永氏が語っている「結論」や「技法」については、80%くらいについて賛同できると感じています。
しかしその一方で、その背景となっている感覚統合「理論」は、「脳は感覚からの入力を統合し、運動として出力する情報処理装置である」という、非常に古い脳神経観をベースとした科学的な根拠に乏しい仮説で、正しくない可能性が高いと思っています(以下リンクも参照ください)。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25582009.html
http://simamune.cocolog-nifty.com/nature_human_and_science/2005/03/post_6.html
http://www.health.state.ny.us/community/infants_children/early_intervention/autism/ch4_pt4.htm
実際、本書で岩永氏がニキさんや藤家さんに行なっている「解釈」を見ると、同じことを言い換えただけの「同語反復(トートロジー)」が目立ちます。
(岩永)自分の身体図式がしっかりしていると、新しい空間に行っても自分の領域をすぐにつかめるんです。(中略)しかし、身体図式ができあがっていないと自分の領域も他人の領域もつかみにくくなるはずです。(初版128~129ページ)
これが「思い切って話し掛けられないのは内気な性格だからだ」という言説と同様の、「目に見える行動・症状」を、「それらの行動・症状によって特徴付けられる『内的概念』」によって言い換えただけの「同語反復(トートロジー)」だということが見抜けるでしょうか?
また、十分に検証されていない脳科学の知見をあっさり断定的に扱って、さらに診断にまで適用しているところも少なくありません。
(岩永)でも、身体図式ができあがっていないと、真似するための神経系が活動しにくいんですね。ミラーニューロンというのがあるんですが、そこが自閉症の人は働きにくいので、模倣が困難になり、逆さバイバイが生まれるんです。藤家さんは模倣が遅かったことから、ミラーニューロンなどが上手く機能していなかった可能性があります。(初版142ページ)
こういう「いかにも分かったような解釈」を安易に受け入れないことが、自閉症のように「認知の枠組みそのものが違うと考えられる、謎の多い障害」を考えていくときには重要だと私は考えています。ラクな道を通らないと歩くのはとても遅くなりますが、「ラクな道」は、実は歩いていくと元の場所に戻ってしまって時間を浪費してしまうかもしれないわけです。
今回、そういったトートロジー的な岩永氏の「解釈」に、浅見氏も「なるほどー!」とか言ってしまっているのがちょっと残念だな、と思ったり。
まあ、最後でまるまる1章使って「感覚統合を特別支援教育の柱にすべきだ」的な賛美的な主張を前面に出しているところを見ると、本書は「確信犯」なんでしょう。
でも、だとすれば、本の中身とタイトルが期待させるものが違っている、と思います。(売れるかどうかを無視して)内容に合致したタイトルをつけるなら、
「自閉っ子、感覚統合理論ではこういう風にできてると解釈します」
なわけです。
最大の違いは、「主語」が当事者ではなく「支援者側」に移っていることで、これは1冊めと決定的に異なる点です。
その結果、必然的に内容が「解釈」となり、さらにその「解釈」のベースが検証されていない仮説である「感覚統合『理論』」となっていることが、本書を1冊めとはまったく異なった性格の本にしています。浅見氏は繰り返し、「感覚統合理論は素晴らしいけど難しいから、易しく紹介する本が必要だ」と本書の意義を力説しているのですが、検証されていない仮説が「難しい」のは多くの場合、その仮説の「スジが悪い」ために、余計な概念を次々と設定しなければならないからです。
最初に書いたとおり、本書が示す「感覚統合理論に基づいた解釈」で自閉症者を理解し、支援したとしても、そんなに大きく道は外れない(つまり、科学的には疑問だが実用的には有効だ)と思いますし、「シンプルに自閉症を理解する方便」としては十分アリだとも思っています。
ですから、もし私が「この本はいい本か悪い本か、二択だったらどっちですか?」と聞かれたら「いい本でしょう」と答えます。でも「この本は『深い』本ですか、『浅い』本ですか」と聞かれたら「浅い本ですね」と答えると思います。
本書によると、この後まもなく「続々・自閉っ子、こういう風にできてます!」という本も出るそうですが、今回、期待を裏切られたので、「続々」については、しっかり「立ち読み」してから、買うかどうか判断しようと思います。
(その他のブックレビューはこちら。)
ニキさんを批判する当事者の人たちがいらっしゃることは存じ上げています。
私も、ニキさんの主張することが当事者一般にあてはまるわけではないだろうと考えていますし(彼女はむしろ、かなりエキセントリックな「症状」をもっているほうじゃないかと感じます)、彼女の著書は(他の当事者本と同じく)、あまり一般化せずに少し距離をおいて読むのが適切な読み方だろうと思います。(ただ、さすがに「彼女はアスペじゃない」とは思いません。それだけ「幅のある」障害なんだ、と受け止めています。)
一方で、私は当事者や支援者が「嫌儲」である必要はまったくないと思っていますし、反感を買うことがあっても、情報発信する行為を否定してはいけないと思っています。
頑張っている当事者や支援者が、そのことを自分なりに情報発信したり、お金を儲けたりする道すじがあることは、とても大切なことだと思いますから。
ただ現状では、相当の才能があって、かつ、いいパトロンに出会うといった「運」に恵まれた人だけにそのチャンスが訪れる、かなり「不健全」な状態にあります(その結果、偏った情報発信にもなりうる)から、「納得(共感)できない」といった批判が出てくるのも、また自然なことではあると思います。
ともあれ、今回の本は、ちょっと花風社(浅見氏)の「思い込み」とか「ビジネスへの色気」が強く出すぎているし、いろいろなことを不必要に断定的に書いていたりで読み終わった後味はよくなかったですから、もし「ニキさん&花風社」が今後もこの方向に進んでいくとすれば、少し距離をおいて見るようにしたほうがいいかな、とは感じています。
ニキ氏の本は『自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく』しか手元にありませんが、これは当事者の私が読んでも興味深かったです。
特に、自閉圏の特性を「心の闇」とか心理的解釈(=深読み)しないでいただけるとありがたい、という点はおおいに同感でした。
殿堂入りしてる『行動分析学入門』(杉山尚子)では、たとえば”コタツに片手を入れたまま食事をする”のが「行儀悪い」と解釈され叱られる例があり、実は行儀の問題ではなく寒かっただけという種あかしがあります。自閉圏のたとえば”目を見て話さない”が「行儀悪い」あるいは「ひとを信用していない」等と解釈されたら、行動に対する評価、行動の主体である人格に対する評価まで変わってしまいそうで、「どうか深読みはやめてください」と私も常々思っていました。
ところが、そらパパさんのレビューを拝見する限りでは、今回の本はまさにその”深読み”のひとつのアプローチなんじゃないの?と、ちょっと笑えました。
もちろん、うちのPDD児を含めからだのアンバランスにも苦しむ自閉圏のひともいるので、感覚統合の療育を否定する気はないです。
私は最近、当事者が書いた本を読むことがほとんどありません。(以前はよく読みましたが)
自分たちのことをわかってほしいという想い、今困ったり悩んでいる方々の力に少しでもなれれば、ということで出版なさっているのでしょう。
確かにこれらの本に助けられたり勉強させていただけたり、その特性をポジティブに楽しく捉えることができたりしました。
ただ、そろそろ(そらパパのお言葉をお借りして)「殿堂入りの当事者本」があってもいいかな…と。
楽しく読めるに越したことありませんが、娯楽性の強い本や自叙伝としての本とは違う、「おすすめの、当事者が書いた一冊」があるといいな、と思っておりました。
鈴蘭さん、こんにちは。
夏の帯広講演でお話を聞かせていただきました。
2年前にはニキさんの講演を聞く機会もありました。
(しかも宿泊場所から会場への運転手!)
お二人を比べることはできませんが、鈴蘭さんが人や社会と関わっていこうと頑張っていることは、十分に伝わってきました。
ここのコメントでも、その気持ちが伝わってくるような気がします。
「当事者の声」「保護者の声」は、一部からの発信だけで捉えてほしくないと思っています。
鈴蘭さん、
もしお気を悪くされたとしたらお詫びします。
私は誰が相手であれ、「枠にはめる」ということをしたくない、と思っています。
いろいろな考えかたや、いろいろな症状をもった当事者の方がいるなら、そのどれもが「そうあっていい」という状態に近づいていくのが理想だと思っています。
ですから、ニキさんを肯定することが鈴蘭さんを否定することにはならないですし、そうなってはならないですし、その逆もまた然りだと考えているわけです。
めえめえさん、
「心の闇」というのは二重にひどい概念だと私は思っています。
まず、他人の行動の原因を、安易に「心」という目に見えない概念にもっていってしまう「心理主義」が出発点にあります。
そしてさらに、「心」に原因をもっていこうとしてうまくいかない(うまく説明できない)ときに、「もともとわからない『心』のなかで、さらにまったくわからないもの」として「心の闇」という概念を作り出して、何とかつじつまを合わせているわけです。
私は、「心の専門家」とか言われている人が「心の闇」といった概念を安易に使う場面を見ると、呆れてものが言えないほどです。
さすがにこの本には「心の闇」は出てきませんが、目に見えないいろいろな概念はたくさん出てきます。
それらの概念が、真の意味でどれだけの「情報量」を持っているのかをじっくり考えることは、科学的思考力を鍛えるいいトレーニングになるかもしれませんね。(^^;)
のっちさん、
私も率直にいえば「当事者本」は少し食傷気味で、最近は読む量が減ってきています。
「一人」の当事者の話で、自閉症の世界を俯瞰するのはなかなか難しいでしょうから、「殿堂入り」的な価値のある本はなかなか出てこないだろうな、とは思います。
(ただ、このシリーズの1冊め「自閉っ子、こういう風にできてます!」は「準殿堂入り」クラスだとは思っていますが)