もしかして自閉症?
著:矢幡 洋
PHP新書
とても不思議な本です。
内容をものすごく大ざっぱにまとめると「ロヴァース法最高!家庭でも頑張れ!」という、ロヴァース法至上主義の本なのに、ロヴァース法が前提とするABA的な哲学的立場(徹底的行動主義)を採ることはなく、「内面的な発達プロセスを重視する発達的アプローチに最も共鳴している」とあるとおり、「内面をいろいろ考える(非行動主義的)立場」をとっているのです。
それより何より、この本には1つの致命的欠陥(だと私が考えること)があります。
それは、
「東田直樹さんの著述を自分の主張の論拠にしている」ということです。
(自閉症児のこだわりについて)一つの選択に固執する強さは、必ずしも論理的ではありません。第2部でとりあげた東田直樹君は、「こだわってしまう理由」について、「僕たちだって好きでやっているわけではないのですが、やらないといてもたってもいられないのです。自分がこだわっていることをやると、少しだけ落ち着きます」と述べています。
はたから見ると、選択肢の中の一つが、頭の中の鍵穴にカチッとおさまってしまうような感じです。いったんはまってしまうと、本人自身も、理性ではわかっていてもそれを変えることは難しくなってしまうようです。周囲が理屈で説得して変えさせようとすると、大騒ぎになることもあります。(初版155~156ページ)
東田さんの著作については、いろいろな批判があることは皆さんご存知のことだと思います。
その批判を端的にいってしまえば、彼の著述が「FC」によるものであり、それが「本当に」彼自身の創作物だといえるのかどうか定かではない、ということに尽きると思うのですが、私自身、その点については強い疑義をもっています。
(余談ではありますが、私は信頼できる方から、実際に彼と面談したときの彼の「実態」を伺っています。その話を聞いて、その疑義はますます強くなりました。率直にいって、テレビなどに登場したり語られたりする彼の姿は、相当に「演出」されたものであることは間違いないでしょう。)
もちろん、疑義はあくまでも疑義であって、白黒が完全にはっきりついている状態ではありません。
でも、少なくともそういう強い疑義があることを踏まえるならば、自分の主張(つまり、自閉症のこういう問題はこういう理由で起こるんですよ、といった主張)を補強するために、よりによって東田さんの「自閉症の僕が跳びはねる理由」を引用することはない、と思うのです。
まさかそんなことは起こらないだろう、と思っていたのですが、専門家が東田さんの著作を引用して自閉症を語ってしまうという「まさか」が実際に起こってしまったので、ご批判覚悟のうえではっきりと書かせていただきました。
(私の過去の東田さんに関する記述については、こちらやこちらのコメント欄もあわせてご覧ください。)
また、先に引用した文章の、後半のパラグラフを見ると、本来なら私たちには分からないはずの「自閉症児者の内面の世界」を、断定的かつ複雑な概念(理性と情動の葛藤のようなもの)を使って描写していることに気づきます。
これも、ABAのバックグラウンドである「徹底的行動主義」に誠実であるならば、本来は書けないような文章です。徹底的行動主義は、こんな風に「内面」を表現することを「徹底的」に排除しますし、仮に応用的にそういう概念をおくのであればそれを厳密に定義するはずで、「見えないもの」のままで断定的に記述するようなことはしないはずなのです。
そういった意味でも、この本はとても「不思議」です。
内容についていえば、まず第1章に自閉症の歴史が書かれていますが、これは妙に「単純化」しすぎです。
「心の理論障害」「中枢性統合障害」「実行機能障害」のような認知心理学的な自閉症モデルのことばかり書かれていますが、これって単にバロン=コーエン、フリス、ハッペという認知系一派の日本語訳された啓蒙書をまとめているだけ、ということはないですよね?
第2章は、「軽症自閉症」(? 私は聞いたことがない呼び方ですが、著者は高機能自閉症とアスペルガー症候群をあわせたものとして、こういう別の名前をつけています)のチェック方法ということなのですが、実はDSM-IVを紹介しているだけなのに、たくさんのエピソードを紹介して「こういったエピソードが多いと自閉症と判断する」という、奥歯にものがはさまったような「チェック法」になっています。しかも、「行動主義」であるはずのDSM-IVから来ている話が、なぜか先ほどの「東田さん」の解説なども交えながら、繰り返し「内面」の話になるという「不思議」さも際立ちます。
そして第3章は家庭での療育法ですが、既に書いたように最初に出てくるのがロヴァース法で、最後まで「もしロヴァース法が想定する時間と内容が実現できるなら、やっぱりロヴァース法がベスト」という立場を崩しません。自閉症という障害を「討伐すべき悪魔」と考えたり、後半のぎりぎりまでロヴァース法だけでなく抱っこ法にも大量のページが割かれているなど問題の少なくない書籍「我が子よ、声を聞かせて」も、自閉症療育に革命をもたらした本として、「家庭療育のバイブル」的な位置づけで推奨されています。
そしてこの第3章、というかこの本全体には、もっとはっきりと「思想的・政治的」な特徴があります。
それは、TEACCHのことにまったく触れられていない(さらにはPECSも)、ということです。
この本を読むと、自閉症の療育としてはロヴァース法、PRT、DIRなどがある、ということだけが書かれています。(後の2つは、ロヴァース法に熱心な人ならみんな知っていて、そうでない人はほとんど知らない、「ロヴァース法に対するアンチテーゼ的に生まれてきたアメリカの療育法」です。)
逆にTEACCHは徹底的に無視されていて、この本ではじめて自閉症の療育を知る親御さんがもしいたなら、その親御さんには、TEACCHという療育法が存在することすら分からないはずです。
もしも単にTEACCHに共感的でないということであれば、TEACCHの名前を出しつつ、それを批判的に解説するということになるはずですが、それすらまったくなく「抹殺」しているということは、それよりもはるかに強硬な「反TEACCH」の思想的・政治的立場をとっている本だということだと理解できます。ちなみに、TEACCHもPECSも絵カードもまったく登場しない一方で、ロヴァース法やDIRの「フロアタイム」などが繰り返し登場しますから、日本の実際の療育現場から考えると、相当に「浮世離れした」療育が書かれているとも言えるでしょう。
「浮世離れ」ということでいうと、第3章は「家庭療育の実践方法」のはずなのですが、ロヴァース法の薦めや個別エピソードの紹介ばかりで一般的に役立つ具体的なアドバイスが少なく、これを読んで何か療育的なことが実際にできるのかどうか、かなり疑問に思います。
例えば、「かんしゃく」(パニック的な行動のうち、ABA的に理由が分かるものを著者はこう呼んでいるようです)への対処方法は、ひたすら「無視」。子どもの要求がかなわない状態のまま、かんしゃくが収まるまで頑張る、というやり方が紹介されていますが、代替行動を示さずに無視するのは、親にとっても子どもにとっても厳しい対処方法だというのが、これまで何度も書いている私の考え方です。
また「切り替え」への対処法については、こんな「不思議な」構成になっています。(初版175~180ページ)
・自閉症児は切り替えが難しい
・ここで、実例を紹介しましょう
・(あまり一般化できなさそうな、極めて個別的な実例が1例)
おしまい・・・って、え?切り替えへの具体的な対処法って、これじゃ示されていなくないですか? 実例の後に一般化された対処法が出てくると期待した読者は、完全に裏切られることになります。
はっきりと書いてしまいましょう。
この本は、自閉症について、控えめにいってもかなり「偏った」内容になっています。
もちろん、誰しも「偏って」いるのは間違いありませんし、その「偏った見識」のなかで、うまく完結した世界観を提示できているのなら読む価値があるのですが、本書については著者自身がその「世界観」を完全に消化できていないと感じられる節が多分に感じられます。本を読んだり人から聞いたことがそのまま書かれているのではと感じられる部分が多すぎるようにも感じます。
私は「重度」の自閉症児の親であって、本書が盛んに使っている「軽症」(何度読んでも違和感がありますが)自閉症児の親ではありません。
でも、その点を差し引いても、本書が「軽症」を含めた自閉症児の親御さんにとって有益なものであるとはちょっと考えにくいのです。
(悪い比較ですが、これだったらまだ、こっちの変な本のほうが、自閉症への向き合い方には多少共感できるくらいです(笑))
まったくおすすめできません。
(過去に紹介した、新書の自閉症関連書籍のおすすめとしては、こちらやこちらがあります。よろしければ参照ください。)
コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、自閉症児者への働きかけというのは、まさにその働きかけを受ける側にとってどうなのか、ということを忘れてはいけないと思いますね。
この本は、ただ「効果があるらしいから」という理由だけで、ロヴァース法を無批判にすすめています。読んでいると、どうも著者自身がロヴァース法の本質や他の療育法の中での位置づけなどがよく分かっていないようです。
TEACCHのことが全然書かれていないのも、もしかすると本当に知らないのかも、とさえ思えてきました。
ともかく、自閉症の療育は難しい。それは、本当におっしゃるとおりです。
それを、一応「専門家」と目されるような人が、啓蒙書や人から聞いたような話だけで安易に語るべきではないのではないか、と思います。
息子が自閉症です。
上記で引用されておりました「自閉症の僕が跳びはねる理由」について、教えていただけませんでしょうか?
私は、この本は、自閉症児が自らの意見を書いた貴重なものと考えております。
そらパパさんは、この本の最大の問題点は、「FCによって書かれたものである」と書かれておられますが、なぜでしょうか?
なぜならば、この本の3ページ目に、「今では、パソコンで原稿も書けるようになりました」と、東田直樹くんが書いてあるからです。
初歩的な質問で申し訳ありませんが、ご意見を伺えれば、幸いです。
そらパパさんからは返事があると思いますが、私も少し。
私も東田君への疑問がここへの初書き込みでしたので。
>息子が自閉症です。
私も子供がそうです。
>この本の3ページ目に、「今では、パソコンで原稿も書けるようになりました」と、東田直樹くんが書いてあるからです。
私もこの辺りに疑問がありましてね。
というのも、独りで、母親の傍を離れた学校で書いている映像を観ていないからです。
母親の横で文字盤を指しているところの映像は観たことがあります。
で、それを観て感じたのは、東田君が指す極僅かですが早くに母親が音読しているように見えたんですね。
つまり、音を追って指しているのではないか…と。
もちろん断言は出来ませんよ。
その疑問を解消するとするなら、独りで、しかも独創的な(憶えさせられたものではない)文章を打てるかどうか?ですよね。
最初に申し上げておきたいのは、この記事で書いていることは、直接に「東田さんの著述が彼自身の創作物だといえるか否か」ではありません。その点については「疑義がある」ということだけ書いています。
なぜ疑義があるのかといえば、それはシンプルに、検証ができるような形で実証されていないということに尽きます。
もし本当に彼が、言語が著しく障害されるほどの重度の自閉症でありながら、「なぜか」文字であればプロのような文章が書けるのだとすれば、それは極めて特異な事象であり、自閉症研究者にとって非常に意味のある人物だということになります。
ところが、実際には彼の母親とFCのシンパという「領域」を越えて、彼の「能力」が検証されたことは、少なくとも私の知る限りはありません。(こういうときにマスコミがまったく検証という面で役に立たないことは、「あるある」などでお分かりのとおりです)
これでは、彼の「普通だったら信じられないような能力」を「信じる」ことはできないですね。「疑義をもって距離をおいて受け止める」というのが、「科学的に」誠実なスタンスだと私は思っています。
私は、自閉症の専門家は、自閉症について「科学的に誠実であってほしい」と願っています。
それは、科学的に検証不能なことをあたかも真実であるかのように書かないで欲しい、ということでもあります。
自閉症の世界には、科学的に検証できない概念もたくさんあります。そういったものを使うなとは言わないのですが、もし使うのであれば、それが検証されていない(もしくな検証不能な)考え方であるということを読者に伝えたうえで使うのが、私は「あるべき姿」だと思っているわけです。
(本書はそうではないので、否定的にとりあげました。)
本記事につながる部分でのコメントはここまでですが、せっかくなので東田さんのことについてもう少し書きます。
記事のなかでも書きましたが、私は彼の「演出」されていない姿について話を聞くあるチャンスがありました。それを聞いて、私のなかでのこれらの「疑義」は明確に強まりました。
それが現れている一端は、まさに初代さんが書かれているように、どこまで行っても彼が人前で見せるコミュニケーションは、母親をファシリテーターとしたFCである、というところです。
先日、テレビで東田さんの映像が流れましたが、その中で、私が素直に不思議だなあ、と思ったことがあります(これは、だからおかしいとかそういうことではなく、素直に「不思議だなあ」と感じたことです)。
映像を見る限り、彼は文字盤を自分では携帯していないようです。
文字盤はいつも母親から渡されて、彼はごく短い間だけ母親の隣で文字盤をたたくと、すぐにその文字盤を放り投げてどこかに逃げてしまいます。
まるで、文字盤をたたくのは「お務め」で、少しでも早く解放されたいかのようでした。
彼が本当に情報発信を求めていて、そのための日常生活での「窓口」が文字盤しかないのなら、彼はなぜ文字盤を肌身離さず持っていないのでしょうか? 特別支援学校で文字盤を使う姿がまったく映されなかったところからみると、母親のいないところでは文字盤はまったく使われていないように見受けられましたが、それはなぜなのでしょうか?
自分の子どものことを考えても思い当たりますが、自閉症児は「自分にとって価値のあるもの」にはものすごくこだわることが多いはずなのにな、と感じて、率直に「不思議だなあ」と思ったわけです。
相当に「演出」されていると思われる映像を見ただけでも、こういった疑問が浮かびます。
ちからパパさんの触れられているパソコンについても、検証されていないので真偽はよく分からないとしか言えません。彼は、ワープロで漢字かな交じり文を手本のとおりに、あるいは覚えている文章を打つことはできるようです。それ以上のことができるかどうかは、私が知っている情報の範囲では「わからない」としか言えません。
>文字盤はいつも母親から渡されて、彼はごく短い間だけ母親の隣で文字盤をたたくと、すぐにその文字盤を放り投げてどこかに逃げてしまいます。まるで、文字盤をたたくのは「お務め」で、少しでも早く解放されたいかのようでした。
私が観たのは、NHKの福祉ネットワークでした。
で、その様子はそらパパさんの書かれたような感じ。
取材チームがその場面を撮るのを諦めようかというぐらい待った後で、ウロウロしていた東田君がパッと母親の横に来て唐突に始まります。
その文字盤はローマ字なんですね、平仮名でもカタカナでもなく。
で、先程も書きましたように、机から何度か離れる彼に文字盤を促す(強引な感じではない)母。彼の指差すアルファベットを追いながら、彼女が日本語を読み上げていくのですが…「みんな」と母が先に言ってから、彼が「M I N N N A」と追い指差したように一瞬見えた気がしたんですよね。
とにかくスピードが速い。そして、落ち着きなくその場を離れる。
しかし繋げられた文字からは、自閉症に対する理解を求める内容。
彼が語るのは「僕」ではなく「僕たち(自閉症児・者)」です。
それから、健常(非自閉症者)の世界の見え方・考え方が分かっている。
著書にある彼の創作したという物語は心身二元論的、即ち宗教的色彩を帯びていますよね。健常な魂が扱い難い肉体に宿っている…という。
私も「科学的に誠実であってほしい」というそらパパさんと同じ考え。
彼こそが真の自閉症理解の扉を開く取っ掛かりだとするなら、信頼できる多くの自閉症の専門家の前に立ってほしいものだと思います。
私の拙い質問にご丁寧に、お答え下さいましてありがとうございます。
私もNHKの福祉ネットワークを見ましたが、そこまで、詳細には、分析しておりませんでした。
お二人の卓越した観察力に、敬服いたします。
お二人のアドバイスに関しまして、私が感じたことを書かせていただきます。
1)先日の11/16に、東田直樹君の講演会に行ってまいりました。彼は、その時、文字盤ではなく、 パソコンを使って、一人でキーボードを打ち、一人でそれを読んで声を出していました。
カメラは、パソコン画面と手元を同時に写していました。母親は隣にいましたが、 彼の手や腕には一切手を触れていませんでしたし、彼のタイピング中に、声を出すこともありませんでした。
その中で、直樹君は、「筆談では、世間の人が自分の言葉として信じてくれないから、練習に練習を重ねて、ここまで、できるようになった」と言われていました。この姿を見て、私は、これは、直樹君の言葉であると確信した次第です。
2)文字盤を携帯していないこと
これは、別の直樹君の講演会で聞いた(見た)ことですが、直樹君にとって、人前で文字盤やパソコンを使うことは非常に、大変なことだそうです。したがって、日常会話は、指筆談(母親の手の平に指で書く。母親は声で答える。)で行っているとのことです。文字盤やパソコンでの会話は、客観的な評価が得られるように、練習したもので、普段の会話では使わないとのことです。
11/16の講演会の時、私は早めに着いたのですが、講演会の準備の時には、その指筆談で、セッティング等の打ち合わせを行っていました。
したがいまして、これは想像でしかないのですが、そらパパさんの信頼できる知り合いは、沢山のことを直樹君に聞かれたので、直樹君は、指筆談で答えたのでは、ないでしょうか?その人が、直樹君に何度会われたのか分かりませんが、多分、最初に、文字盤かパソコンでコミュニケーションができることを示した上で、指筆談で回答したような気がします。だれでも、楽な方がいいですものね。
11/16の様子からして、パソコンによる表現は、必死で、一文字づつを紡ぎだしており、とても大変そうに見えました。一方、指筆談は、はた目から見る限り、苦も無く、こなしているようでした。
もし、知り合いの方に、もう一度、お聞きになる機会がございましたら、その辺りを確認いただければ幸いです。
3)直樹君でないのなら、誰が書いたのか?
直樹君は、本を10冊以上、書いています。最初は、幼稚園や小学生のこと、そして中学生での気持ち、高校入学前の気持ち、詩、童話などです。直樹君が書いていないとすると誰が書いているのでしょうか?そらパパさん、初代さんの観点から判断すると、母親ということになるようです。しかし、自分とは違う性(男性)の幼稚園から高校入学前までの気持ちを反映した上で、自伝やQ&A、さらには、詩や童話を10冊以上も書けるものなのでしょうか?それなら、母親が天才ということになりますが、そう理解してよろしいでしょうか?
私には、自閉症に関する知識がないものですから、拙い疑問を羅列してしまいました。
また、長くなって申し訳ございません。
アドバイスをいただければ、光栄でございます。
コメントありがとうございます。
実はちからパパさんのコメントへの答えに相当する部分は、既に先のコメントに含まれているのですが、必ずしも読み取っていただけなかったようなので、改めて書かせていただきます。
東田さんは、手本となる文章を記憶して、それをPCで漢字かな混じり文で打つというスキルは獲得されているようです。
ですから、講演会のために周到に用意して、それを披露することは可能だと思います。
また、東田さんの「普段の会話」が、母親の手のひら上でゴニョゴニョと指を動かすことで「成り立っている」ということは知っています。ただ、これはあまりに露骨かつ典型的なFCですし、普段のテレビなどではほとんど出てこないので、あまり書いてはいけないことなのかなと思って、ここまで一応伏せて書いてきました。(普段の会話がFCである、という形で婉曲に書いていましたが)
ちなみに、ちからパパさんのおっしゃるような意味で、文字盤を指差すことが「母親の手でゴビニョゴニョ」よりもはるかに大変だ、というのは私からするととても不思議なことに見えます。なぜなら、あの「ゴニョゴニョ」は、「母親の手のひらを文字盤(フルキーボード)に見立てて指差している」という行為だそうだからです。
「文字盤を叩く、PCのフルキーボードを打つこと」が「非常に大変」で、母親の手のひらで同じことをするのが「ラク」というのは、なんか妙です。
「手のひらサイズのフルキーボード(しかも固定されていなくてユラユラ揺れている)」を指1本で打ったら、私なら誤字だらけでスピードもまったく出なくて「非常に大変」でしょう。(そもそも、人の手のひらの知覚にしても指差しの位置精度にしても、本来は手のひら程度のサイズにフルキーボードを「展開」できるほどの「解像力」はないと思います。)
もしも「手のひらキーボード」が非常に効率がいいとすれば、それはやはり、「手のひらに書かれたことを読み取る人」がものすごく大胆に「解釈」して「効率」を高めている可能性が高いと言わざるを得ないわけです。それはまさに「FC」そのものであり、「読み取って解釈する人」のほうがメッセージの主体である可能性を示唆するものです。
(念のために付け加えておくと、「手のひらでゴニョゴニョ」がキーを打つ行為でなく文字を書く行為であったとしても、上記で書いている疑問はやはり同様に残ります。)
そしてもう1点、講演会のような「周到に準備され『演出』された場」での姿を「真実」だと解釈して、普段の様子として見られた姿にいろいろ理由をつけて「特別な悪い状態」だと判断することは、少なくとも「科学的な態度」だとはいえません。
私も講演会ではカッコをつけますし、だからこそ妻には「講演会で偉そうなことばかり言ってるけど、普段は大したことないじゃない」と文句をいわれますが(笑)、それに対して「講演会での私が真の姿で、普段子育てに手抜きしがちな私は『たまたま調子が悪かったのだろう』」と解釈する人がいたら、それは私のことを美化しすぎですよね(笑)。
ちからパパさんが東田さんのことを「信じる」とおっしゃる信念に対してどうかしようとは思いません。
ただ、この記事を読んでくださっている皆さんに対しては、以下の2点を指摘したいと思います。
1.ちからパパさんが「信じる」根拠とされていることも含めて(というより、まさに根拠としてあげられたことそのものが)、東田さんの「スキル」とされていることの根幹に「FC」がどっしりと存在していることを示しています。この第三者を介する「FC」と、彼自身の「文字を打てる(創造的なものを打てるかどうかは別)」というスキルが巧みにブレンドされて生み出されたのが、いま私たちのもつ「東田さん」のイメージなんだと私は思っています。
2.その「FC」については、これまでの科学的検証の結果として、すでに以下のような結論が出ています。特に最後のところ(ファシリテイター自身も、自分がコミュニケーションの主体であることに対して自覚的でない)が、FCの怖いところでもあります。
専門家によって審査された上で発表された科学的評価によれば、FCは障害者のコミュニケーションレベルを高めることはまったくない。一見、コミュニケーションのように見えるものはファシリテイターから発せられている。ただし、ファシリテイターのほとんどは自らがその原因だという意識がない。
http://papersearcher.hp.infoseek.co.jp/mirror/8349/055.html
最後におまけ情報ですが、「FC」といえば、やはり最も社会的に問題を投げかけたのは「奇跡の詩人」問題でしょう。いくつかリンクを掲載しておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E8%A9%A9%E4%BA%BA
http://hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/topic/t019.htm
http://kisekinoshijin.web.infoseek.co.jp/
http://homepage3.nifty.com/nhkq/
最後のは文章はちょっと一方的な感じですが、動画が見れるのでリンク貼っておきました。
>直樹君は、「筆談では、世間の人が自分の言葉として信じてくれないから、練習に練習を重ねて、ここまで、できるようになった」と言われていました。…パソコンによる表現は、必死で、一文字づつを紡ぎだしており、とても大変そうに見えました。
前の投稿で、例えば母親の「みんな」という言葉と東田君の「M I N N N A」という文字盤指差しの話をしましたよね。
で、母親の音読の方が僅かに早いのかも…と。
でもね、必ずしも母親が早くなければならないわけでもない。つまり、同時でも。
「み」とくれば「みんな」という言葉、「みんな」とくれば「ぼく(たち)を理解し難い」というフレーズが続くパターンがあると母親と東田君が熟練していればいい。
そういう引き出しが幾つか共通にあれば、同時に見える程のスピードも成立します。
一方、単独でパソコンを打つような場合は、正に練習によって習得も出来るでしょうが、スピードは格段に落ちる。
やはりポイントは、アドリブの問答に耐え得るかどうか? ですね。
講演では、講演者(東田君本人)と観客との質疑応答の場面はあったのでしょうか?
>直樹君でないのなら、誰が書いたのか?…初代さんの観点から判断すると、母親ということになるようです。しかし、自分とは違う性(男性)の幼稚園から高校入学前までの気持ちを反映した上で、自伝やQ&A、さらには、詩や童話を10冊以上も書けるものなのでしょうか?それなら、母親が天才ということになりますが、そう理解してよろしいでしょうか?
童話の絵の方は確か母親が描いているという話。
とすれば、現に結構な才能の持ち主かと。
あと、異性とはいえ子供の気持ちを書くことは、そう難しいことだとは特に思わないかな。
Q&Aにはある種の自閉症に関する知識が散見されるわけですが、東田君から出ているとすれば、母親を天才とするよりそっちの方が遥かに驚くべきことなんですが…。
何故なら、繰り返しになりますが「僕」ではなく「僕たち」のことを、非自閉症者の世界を十分に認識しつつ語っているわけですから。
毎日、貴重なアドバイスありがとうございます。
申し訳ございません。下記の考えを述べてから、最初のコメントを書くべきでした。
私も、自閉症に関しては、特に、科学的根拠に基づく論議が必要と考えています。したがいまして、「奇跡の詩人」に関しましては、真実はどうあれ、少なくとも、証明されたとは思っておりません。また、FCに関しましても、大きな疑問をもっております。そらパパさんが紹介して下さったサイトのように、介助者が体にふれている限り、それは、本人の言葉であるとは、信じることはできません。
したがいまして、FCに大きな疑念を持ちながらも、直樹君の本には、真実があるような気がして、1~3の質問をさせていただいたのです。
その意味からは、まだ、お答えを頂けたとは、思えないのが現状です。申し訳ありませんが、今一度、アドバイスをいただければ幸いです。
1)パソコンでの講演会
そらパパさんや初代さんが、言われているとおり、きっと、暗記しているでしょう。普通の人だって、例えば、学生が学会で初めて講演する時、暗記するくらい練習するはずです。さらに、その原稿は、先生が殆ど書いたものだったりして。
問題は、親の介助が全くなかったことと、内容が素晴らしかったことです。親の介助が無かったということは、これは、FCではありません(そらパパさんの紹介してくれたサイトの定義の通りです)。この発表をFCと言う時点で、それは間違いです。後は、丸暗記した内容が直樹君の言葉であったか否かということですが、これは、現在のところ、聴衆(私も含めて)の主観に頼るしかありません。質疑応答はありましたが、それは、別の講演者との質疑でした。これも、恐らく、予め準備されていたと思います(聴衆との質疑はありませんでした。ただ、どうも、司会と責任者のやり取りから、予定はしていたが、時間が無くなったので中止したようです。途中のトイレ休憩もカットされましたから)。その時、私は、講演と質疑の内容に、直樹君の思いが入っていると感じました。著作権の関係で、詳しくは書けませんが、自閉症本人でなければ思いつかないような内容でした。
したがいまして、「自閉症の僕が跳びはねる理由」は、内容も含めて、本人が書いた可能性が高いと思い、最初のコメントを書かせていただいたのです。少なくとも、FCで書いたと断定はできないと感じたのです。また、FCで書いたとしても、それだけで、「無視できる内容か?」と思ったのです(これが、3の質問:だれが書いたの?に、繋がります)。
2)文字盤が嫌なこと
これは、私にとっては、大事なことではありません。そらパパさんが疑問を書かれたので、その感想を書いただけです。でも、また、疑問があるので、書かせていただきます。まず、なぜ、「母親の手のひらを文字盤(フルキーボード)に見立てて指差している」ことを前提に議論が始まるのでしょうか?彼の本を少しでも読めば、「手のひらでゴニョゴニョ」が文字を書く行為であることは、明白です。彼の本の内容に疑問があっても、まずは、「文字を書く行為」から議論すべきと考えます。パソコンと聞いて、フルキーボードで書くという先入観があったのではありませんか?
それから、そらパパさんが最初に抱いた疑問、「なぜ、大事な文字盤を嫌がる」については、「フルキーボード」か、「文字」であるかは、大きな違いがあります。そのFCを第三者が信じるか否かは別の問題です。本人が楽か否かの議論をしている時に、「パソコンのキーボードを打つ」のと「手をキーボードに見立てて指を指す」となら、「手をキーボードに見立てて指を指す」方が、嫌なのに決まっています。
それに、最初に申しましたように、私が議論していますのは、「自閉症児が自らの意見を書いたもの」か、どうかです。別に、普段はFCで会話しても良いのです。
3)直樹君でないのなら、誰が書いたのか?
(まずは、初代さんへ)童話の絵は、母親は描いていないと思います。全て、実在するイラストレータの名前が入っています。まさか、小学館や交通新聞社(JRの時刻表を出版している)が、勝手に名前を使わないでしょう。「童話の絵の方は確か母親が描いているという話。」は、どこからの情報でしょうか?
この件に関しましては、そらパパさんからは、アドバイスをいただけませんでしたが、初代さんから、貴重なコメントをいただきました。「Q&Aにはある種の自閉症に関する知識が散見されるわけですが、東田君から出ているとすれば、母親を天才とするよりそっちの方が遥かに驚くべきことなんですが…。」とのことです。そうなんです。単なる童話や詩なら、母親が代筆する可能性はあると思います。しかし、Q&Aの自閉症に関する内容に関して、はたして、健常者が想像で書けるものなのでしょうか?母親を天才にするのは、無理があると思います。
なんども、質問を重ねて申し訳ございません。
ご指導のほど、どうぞ、よろしく、お願い申し上げます。
>>童話の絵の方は確か母親が描いているという話。とすれば、現に結構な才能の持ち主かと。
>(まずは、初代さんへ)童話の絵は、母親は描いていないと思います。全て、実在するイラストレータの名前が入っています。まさか、小学館や交通新聞社(JRの時刻表を出版している)が、勝手に名前を使わないでしょう。「童話の絵の方は確か母親が描いているという話。」は、どこからの情報でしょうか?
取り急ぎ、この件だけ先に。
これは完全に私の勘違いのようでしたので、お詫びして訂正を入れたいと思います。
東田君本人の絵ではなく別の人の絵が使われている童話もあるということと、母親との共著がごっちゃになってしまっていました。
どうもすみませんでした。
あとの件については、時間を見つけて丁寧に書ければと思います。
私はASに診断されている者です。
そらパパさんのブログは、
ブックレビューのページをよく参考にさせていただいてました。
ところで、東田さんの詩なんですが、
お母さんが子供を抱っこして、
子供の手とお母さんの手を重ねて、
文字盤の上で言葉を高速でつづらせて、
お母さんがつづった言葉を読み上げる手法って
「奇跡の詩人」の「ルナ君」と同じだな、って思ってたんです。
ルナ君の療育や詩には批判や疑問の声がたくさんあがってるのに、
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%8A%EF%90%D5%82%CC%8E%8D%90l%81@%83%8B%83i%8CN&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=lang_ja
東田さんの療育や詩には、そういう声をあまり聞かないので
不信に思う、私がおかしいのかな?って
私に、感動する心が足りないのかな?って思ってました。
当事者でも、当事者家族でも、感動する声ばかり見かけていたんです。
なので、そらパパさんのブログを読んで、溜飲が下がりました。
ありがとうございます。
>親の介助が全くなかったこと
文章を憶えていてパソコンで文字入力する能力があれば、その時点での直接介助は必要ないかと。
アドリブの問答が介助を必要とせず成立すればいいんですけどね。
>自閉症本人でなければ思いつかないような内容でした。
これがどうしていえるのかが私には解りません。
健常者が自閉症者を観てあれこれ彼らの内面を想像することと、自閉症者が健常者を観て我々の内面を想像する(また、東田君は他の自閉症者の内面も想像しています)ことと、どちらが難しいのか?
どうちらが…というよりか、そもそも「自閉症」とは他者理解が難しい障害といわれているのですが…。
>(まずは、初代さんへ)童話の絵は、母親は描いていないと思います。全て、実在するイラストレータの名前が入っています。…「童話の絵の方は確か母親が描いているという話。」は、どこからの情報でしょうか?
これには繰り返しお詫びと訂正をと思います。
東田君と母親の共著の書籍がありますよね。で、東田君作、他の人の絵の童話もありました。これが私の記憶の中でごっちゃになっておりました。
>単なる童話や詩なら、母親が代筆する可能性はあると思います。しかし、Q&Aの自閉症に関する内容に関して、はたして、健常者が想像で書けるものなのでしょうか?母親を天才にするのは、無理があると思います。
で、母親の文章はというと実にしっかりとした印象でしたので、天才という言い方はどうかと思いますが、普通に文才のある方だと思いますよ。あと、自閉症に関するある種の知識もお持ちかと。
ですので、ちからパパさんが母親には書けないだろうと言っていることが、私には逆に不思議です。
私も自閉症児の父親なので、自閉症に関する知識は持っており、子供について「不自由な肉体に閉じ込められた健常な魂」という設定で何か物語(や問答集)を書けといわれれば、書けないことはないと思います。
東田君は視覚的にスケジュールを提示されることを苦手だと書いています。
また、感覚過敏の話にはフラッシュバックという言葉を使って答えていますよね。
自閉症に関する知識があって書いていると私には思えます。
知的障害を伴う自閉症児が書くのと、自閉症児を持つ母親が書くのとでは、後者の方が難しくはないと考えます。
残念ながら、まだもう少しだけ議論が残っていると感じていますので、もしお気に入らなければこのエントリは読まないようにしていただければと思います。
私も自閉症スペクトラムの皆さんが不幸になることを望みません。でも、だからこそ、今回の件では発言すべきと感じていることを発言しているのです。
私は、FCはある種の障害者虐待であり、障害をもった当人を不幸にする恐れの強い行為だと考えているのです。だから、不幸な人を増やしたくないので、書いているのです。
ちからパパさん、
前のコメントで書いているとおり、「信じる」ことを止めようとは思っていません。
このブログは、特定の信念をもっている人を、別の信念にスイッチさせようというところまで意図したものではありません。せいぜい「判断の材料」を提供しているのみです。もちろん私にも信念はあり、それが記事やコメントに反映されているわけですが、それも一つの「材料」として判断していただいて、最終的には自分自身で「信じる」ところを決めていただければいいと思っています。
ただ、逆にその「信念」を質問という形でいくら投げかけられても、ちからパパさんが期待されるようなお答えにはなっていかないと思います。
ともあれ質問にお答えしますが、こういった信念ベースの質問がまだ続くのであれば、議論はそろそろ終わりにさせてください。くり返しになりますが、個々人の信念を操作する意図は当ブログにはありませんので、信念ベースの議論はどこかで打ち切らざるを得ません。あとはそこまでの議論を「材料」にして、個々人で判断いただければと思います。(そもそも、情報がオープンでなくコントロールされた対象を議論するのは想像に頼る部分が多く、議論として不毛なものになりがちです。)
1)パソコンでの講演会
あらかじめ用意されたものであれば、聴衆をうならせ感情移入させるような文章や対話の内容を準備することは簡単なのではないでしょうか? 「信じる」「感じる」というのは論理にはなりません。
2)文字盤が嫌なこと
私が聞いた話では、あれは手のひらを文字盤に見立てているようだ、ということでした。
文字を書いているのだとすれば、なぜ文章をみる限り相当の「自我」を獲得しているはずのいい年をした青年が、紙やボードに字を書くという、より自由度が高くて当たり前の方法をまったくとらずに、母親にくっついて手の中に字を書いて読んでもらうなんていう奇異な方法だけをとるのか不思議です。少なくとも、文字盤を使うのがそんなに大変なら、文字盤の変わりにメモとペンを携帯すればどこででもコミュニケーションできるはずなのに。(そして、それに対してもし「字を書くのはとても大変」という説明をするなら、前回のコメントとまったく同じストーリーになるわけです。だから「同様」と書きました。)
3)直樹君でないのなら、誰が書いたのか?
私も「跳びはねる理由」は読みましたが、ちからパパさんとはまったく逆の印象をもちました。
あそこには「重度の自閉症児を健常者が外から観察して解釈した解説」と読み取れる内容はたくさん(というかほとんど全て)ありますが、健常者には分からないような自閉症児の世界への新鮮な発見はまったくないように感じました。これは、「自閉っ子、こういう風にできてます!」や「我、自閉症に生まれて」を読んだときとはまったく異なる、非常に「違和感」の残る印象でした。
例えば、今回の記事で引用している部分を見ても、こだわっているときの心的状態について、「やらないといてもたってもいられないのです」とか「こだわっていることをやると、少しだけ落ち着きます」とありますが、これも「外から見て分かる程度の情報」以上のことは何も語られていないと感じます。この程度の「解説」なら、自閉症児の世話をずっとやっていて、多少自閉症の知識をもった親なら難しいことではないでしょう。少なくとも私や私の妻はできそうだと感じます。別に「天才」を持ち出すほどのことはありません。あと、本を作るときにはプロの「編集さん」がいることも忘れてはならないですね。
それと、ちからパパさんは初代さんのコメントを読み間違えていますよ。初代さんは、「東田さん(本人)が、自閉症という障害についての医学的・心理学的知見をもっていることが不思議だ(だから、あの文章を本人が書いたと考えるのはちょっと引っかかる)」と書かれているのです。母親がもっているのは不思議ではないけれども、東田さん本人がもっているのはとても不思議な「知識」や「視点」が当たり前のようにたくさん出てくるのが「彼」の著述だ、と私も感じています。
ともあれ、単純なFCだけであれば、東田さんはここまでの「存在感」をもつことはなかったと思われます(それだと、「奇跡の詩人」と似たようなものになってしまいますから)。そこに、自閉症者ならではの文字への関心、文字を打つ(創造的なものかどうかは別)というスキルが組み合わさってビジュアル的なインパクトをもったことで、彼のイメージが膨張したんだと思います。
「彼」を読み解くポイントは「実はスキルとして異質で『交わるところ』がない、FCとそれ以外(PC・文字盤)が戦略的?に混同されることで『演出』された姿を、私たちは見せられているのではないか」という視点だ、と考えています。
そう考えると、私たちが外部から知ることができる彼のコミュニケーション行動は、次の4つに整理できると考えられます。
1)あらかじめ準備した内容で、PCで文字を打つ
2)既に覚えている定型文を文字盤で指差す
3)母親の手のひらでのFC
4)我々の見えないところで「創作」される童話や詩、日記、自閉症論など
最初の2つは、カナー型の自閉症児であっても練習すればできる子はできるようになると思われますが、創造性からは遠いといえます。
3)については、過去のFCの科学的研究をふまえれば、ファシリテーターである母親がコミュニケーションの主体である可能性が高いと考えざるをえません。
そして4)についてですが、これも既に書いたとおり、「自閉症の人が近くにいて観察・解釈する機会のある健常の人」が書いたという印象のほうがむしろ強くて、少なくとも、健常の人では絶対に書けない、なんていう内容だとはまったく思われません。
もちろん、創造的な作品を書き上げるということとは離れて、彼がカナー型の自閉症者としての常識的な範囲でコミュニケーションを行なっていることを否定するものではありません。ただ、私がみた映像の中では、そのレベルで判断しても、彼のコミュニケーションはかなり乏しいな、とは感じました。FCのような不適切な手段に傾倒したことによって、彼のコミュニケーション能力はかなり阻害されてしまっているのかもしれません。
コメントありがとうございました。(順番的にレスが遅くなってしまってすみません)
コメントをいただいて、とても勇気づけられました。
障害がからむ「美談」を批判することがタブーっぽくなってしまうというのはよくあることですが、そういう「腫れ物に触るような」風潮は、かえって不健全ですよね。
この件についても、もっといろいろな場所で率直に議論されたほうが「健全」だろうな、と感じています。
これからもよろしくお願いします!
何度も、ご意見、ありがとうございます。
また、初代さん、母親が絵を書いていないことを、御自分で確認していただいた上に、二度も、御自身のコメントで返答下さり、ありがとうございます。できそうで、できなことです。
そらパパさんのおっしゃるとおり、これ以上は、不毛の議論になりそうですね。
「そらパパさんは、FCは、一切信用できない。」で、「私は、FCの中には非科学的なものも多いが、ある種のFCには、可能性があるのではないか?」ですから、お互いを理解することは、できないでしょう。
「講演会における私の観察結果」を「信念」と断定するのであれば、その話には、触れません。また、「誰が書いたか?」も、これ以上は、無駄な話ですね。ニキリンコさんやテンプルグランディンさんと、直樹君とは、その背景が大きく違いますので、その二人と直樹君の文章の雰囲気が違うのは当然のことでしょう(私は、3人とも素晴らしいと思いますが)。また、「ある程度の知識があれば、書けそうだ」も良くある話です。似たようなものは、書けるでしょう。でも、本物と似たような物は、違います。しかし、これも、議論にならないでしょう。
ただ、最後の結論には、異論があります。
そらパパさんの書かれた結論は、下記の通りです。
1)あらかじめ準備した内容で、PCで文字を打つ
2)既に覚えている定型文を文字盤で指差す
3)母親の手のひらでのFC
4)我々の見えないところで「創作」される童話や詩、日記、自閉症論など
しかし、これでは、誤解を招きます。
少なくとも、下記にすべきです。
1)多くの聴衆の前においても、援助を全く受けずに、下書きを見ずに、パソコンで長い文章(レポート用紙1枚以上)を打つことができる。それには、ローマ字入力による仮名漢字変換を用いる。
ただし、その内容が、予め準備されたものか、その時に自分で考えたものかは、今のところ、不明である。また、予め準備されたものであった場合、それが、本人が書いたものか、他の人が書いたものかは、現段階では、判断できない。
2)多くの聴衆の前においても、援助を全く受けずに、文字盤の文字を指差すことで、声に出して話(レポート用紙0.25枚程度の長い文章を複数)をすることができる。ただし、この文章が、既に覚えているものなのか、その時の本人の考えなのかは、現段階では、判断できない。
3)母親の手のひらでのFCを使うこともある。
4)童話、詩、日記、自閉症に関して十数冊の本を出版をしている。出版社は、小学館、朝日新聞社、交通新聞社、エスコアールである。本人は、最近の作品を、FCでは無く、援助を全く受けずにパソコンで書いたと述べている。ただし、それを懐疑的に見る人もいる。
4)から、「我々の見えないところで創作される」を削除したのは、出版とは、元々、そういうものだからです。弟子に書かせて、先生が「それでOK」なんて、話は、一杯ありますからね。
「懐疑的に見る人もいる」の表現は、そらパパさんの直前のコメントを参考にいたしました。
これで、終わりに、しませんか?
いつもこちらで学ばせてもらっている、自閉症児の親です。色々と役立つ情報をありがとうございます。私も僭越ながら、そらパパさんの、事実、推論、仮説、信念などを区別した上での明確な立場表明、さらにタブーを恐れない姿勢に敬意を表させていただきます。
私も東田直樹さんの文章を読んだ時に、「これだけ健常者からの見方を認識(想像)できる能力があるのに、自分の内面は表面的にしか書かれていないなあ」と感じました。だから代筆だ、と思ったわけではありませんが、そらパパさんの意見やリンクされた情報を知って、FCというのが、自閉症児の虐待になり得ることを知り、もしそうなら絶対に許されることではないし、社会的な責任も小さくないなあと思いました。とはいえ、自閉症児本人の気持ちや考えは親でも分からない(だからこそ偽FCは許せない)わけで、私自身は子供の笑顔(と行動!)をとにかく大事にしたいと思っています。
徹底した議論と言う意味で、そらパパさんと違う立場の方々のご意見もたくさんお聞きしたいです。事実に関する情報がない場合の議論は無意味なのかもしれませんが、私にとっては議論だけでも勉強になります。
そらパパさん、これからもぜひ頑張ってください。
質問に細かくお答えした部分をほとんど飛ばして、相対主義で逃げつつ結論だけ変えようというのは乱暴だなあ、と思います。
後半の部分にずいぶん噛みついていらっしゃいますが、そこは「結論」であって、その前提として、前半でちからパパさんが質問されたことに個別に答えた部分にあるような、限られた情報のなかでのそれなりの事実と推論の積み重ね(要はクリティカル・シンキング)があります。
丁寧に積み上げた「前提」には反論せず、結論だけを変えてしまおうというのは政治や仕事の世界でもままあることですが、あまりいい作法とは言えません。
ちなみに、コメントに対する全体的なお答えとしては、既に「普段の姿よりもショーアップされた姿を真実だと思うのは科学的態度でない」ということも書いていますが、実は、「すべての表現手段のなかでFCが一番がラクだという『設定』になっている」という事実だけで、FC以外の全表現手法が本来の機能を持っていないという相当に強い可能性を帰結できます。
発達段階の極めて初期にいる重い自閉症児でも、ひとりでできることをクレーンで要求することはありません。「自分でできないからクレーンする」のです。自分でできるようになったら、その行動のクレーンはなくなります。
東田さんは、あれだけのクリエイティブな文章を書けるだけの「認知スキル」を獲得していて、かつ、文字盤、PC、字を書くといったさまざまな「表現手法(alternatives)」があるのに、なぜいつまでたってもFCが優位なんでしょうか。「大変だから」という設定(理由づけ)は、とても不可思議です。
音声言語と文字言語のように表出のモードが違う場合には、どちらかが大変でどちらかがラクといったことはありえます。でも、「ペンで字を書く(文字盤を指差す)」と「母親の手のひらに字を書く(手のひらを文字盤に見立てて指差す)」はモードとしては同じであり、だとすれば後は「どちらがいつでもどこでも誰にでも使えるか」という「使える度(コストベネフィット)」によって、どちらの行動がより強化されて定着するかが大半決まります。「携帯できる文字盤(ペンとメモ帳)」と「いつも側にいるわけではない特定の人物の手のひら」であれば、「使える度」は前者のほうがいい可能性が極めて高く、だとすればそちらが優位になるはずなのです。特に「分離」だった中学3年間、彼の生活の中で「コミュニケーションが必要な機会」は母親のいないところに圧倒的に多くあったはずですから。
ところが現実はそうはなっていない。
それは、彼が「文字盤・PC・ペン」でやっていることと「手のひら」でやっていることが実は本質的にまったく異質なものである可能性、そしてこの両者がいずれもコミュニケーションとしての機能を失している可能性を示唆します。
彼は、母親がいない場所ではかなり乏しいコミュニケーション行動しか示さないようですし、母親がいる場合も、促されずに「コミュニケーション」を開始することは少なく、かつその「コミュニケーション」の大部分はFCのようです。
率直にいって、創造的な文章を書けるのかどうかのレベルではなく、自発的・能動的なコミュニケーションが十分にあるのかというレベルでさえ、相当に議論の余地がありそうです。(だからこそ、東田さんは自らを「外から見える重い自閉症者としての姿と、内に秘めたクリエイティブな天才」という「二重人格」に設定せざるをえないのでしょう。この設定に関していえば、やはり「奇跡の詩人」との共通性が透けて見えてしまいます。)
ちからパパさんは、東田さんの「講演」にいたく感動されたとのこと。それは既に皆さんに十分伝わっていると思います。でも、その感動と科学的な検証とは別のものです。(FCの有効性はファシリテーターが知らない情報を伝達させるという簡単な実験で検証できます。そして実際に検証され、ファシリテーターが知らないと読み取れないという身もフタもない結果が出ています。)
ちなみに件の講演は、「跳びはねる理由」のエスコアール社が事実上の主催(なぜか別に主催団体を作って、さらに協賛順位まで下げて表示しているところが妙ですが、広告ページや連絡先はすべてエスコアールのもの)で、「FCのアメリカの権威」を主賓に行なわれたものです。この講演会が、「FCと、その成功例としての東田さんは素晴らしい(だから本もよろしく)」という内容になることは自然なことです。http://escor.co.jp/gr/dn-forum/
滝本弁護士(オウムや「奇跡の詩人」問題で活躍)がこの講演についてエントリを書いています。
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/709.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E
主賓のダグラス・ビクレン氏は、FCを米国に、さらに自閉症児に広げた人物で、「奇跡の詩人」問題でもしばしば取り上げられた「FCの権威」。
http://www.geocities.com/validationluna/html/frenchreport.html
http://asdnews.seesaa.net/article/5684145.html
http://papersearcher.hp.infoseek.co.jp/mirror/9230/kiseki2chlog35.html
2ちゃんの過去ログは#760~765、#771あたり。
調べているとあちこちで「奇跡の詩人」とつながってきます。
議論の「終わり」の話が出ていましたが、私は、信念の言いっ放しの議論は終わりにします、と書いています。本来の議論としては、まだ十分に始まってもいないのが残念ですが・・・。
ともあれ、ちからパパさんのコメントは、一方的な信念を投げられるばかりで、私や他の方の重要なコメントをあらかた放置されている状態なので、これまでに登場して放りっぱなしになっているたくさんのポイント(今回のポイントも含む)について、網羅的に、精一杯の回答をいただくような内容でない限り、今後はコメントされても掲載いたしかねますので、ご了承願います。
最後に誤解がないようくり返しますが、このコメント群は東田さん本人を攻撃しようというものではまったくありません。批判の対象は、FCに群がる大人たちです。FCという科学的に実証されていない療育とそのショーアップに大切な人生を費消しているように見える彼は、私には不幸に映ります。こちらのリンクにあるように、FCは障害者本人の権利を侵害している可能性もあります。http://papersearcher.hp.infoseek.co.jp/mirror/8349/055.html
コメントありがとうございます。
どんな問題であれ、いろいろな意見がフランクに出てくることこそが、健全な議論をする大前提だと思います。そういうことができにくくなるようなタブーが生まれることを、私たちは避けていかなければならないと思います。
おっしゃるとおり、特定の人だけでなく、いろいろな方から意見がいただければいいな、と思います。
これからもよろしくお願いします。
自閉症児の一部に文字の読み書きを早くに習得する人もいることは知られていますよね。
自閉症の特性として記憶に優れているところもあるので、内容を理解しているかどうかは別にして、文字や単語だけでなく文章を書くことを健常以上にできることもある。
これは、文章を読解したり自ら紡ぎ出す能力とはまた別で、こちらはといえば自閉症者の苦手とするところとされています。
さて東田君の話に戻りまして、書字能力の獲得→筆談(紙の上か母親の手のひらの上で平仮名で書いていたであろう)→平仮名の文字盤?→ローマ字の文字盤→パソコンでローマ字入力、と進んできた。
パソコンが自力で一番時間がかかるとのこと。まあ、後ろの方で習得したものなので自然な話。
私が最初に不思議に思ったのは、文字盤を使うにしても何故平仮名ではないのか?ということ。
通常ローマ字入力の利点はキーの少なさにあり、熟練によりタイピングの速度が上がるからですよね。
それ以外に…というか、東田君のような場合に平仮名よりもローマ字を使う良い点が何か考えられますでしょうか?
私は職場で、知的障害を伴う四肢麻痺で構音障害の人と文字盤で対話する機会があるのですが、もちろん平仮名のものを使用します。
平仮名を習得し、その上に更に新しいルールを被せるのがローマ字。
どうなんでしょうね、その辺り。何故、文字盤が平仮名でなくローマ字なのか?
今でも母親の手の平の上では平仮名を書いているということなのでしょうかね。
表向き東田君は「知的障害を伴う自閉症」ということです。
高機能自閉症という話ではありません。
東田君は自身をどう語っているかといえば、つまり知的障害者ではありませんよってことになる。
相当の知識と文章能力でもって、自身や他の自閉症者のことまで、そして健常の世界すら語る。
ただ、そのままでは上手く語れないだけであって、例えば文字盤やパソコンのキーボードを前にした時にだけそれを表出できるという話。
自閉症という扱い難い肉体に入っているが故、見た目訳の分からない行動を見せてしまうが、実は自己客観視も出来ており、他人からどの様に見られているかも全部分かっているのだ…と。
長々とすいません。
そらパパさん、平仮名とローマ字の件、何か思うところございましたら、お願いします。
コメントありがとうございます。
ひらがな入力とローマ字入力の件は、よく分かりません。ただ、ひらがな文字盤からローマ字文字盤に移行するというのはちょっと考えにくいと思います。ひらがな文字盤からPCのキーボードに進んで、PC入力がローマ字入力だったからその後で文字盤もローマ字に変わった、というのなら分かりますが・・・。
PCなら、普通のキーボードはひらがなも50音順には並んでいないですし、ローマ字入力のほうが覚えやすいということもありえるように思います。
一点、これは過去のコメントでも書いていますが、初代さんの説明で1つになっている、「文字を表出する」流れと「手のひらで筆談」の流れは、実は分けて考えるべき「別もの」なんじゃないかと私は考えています。前者は「手本や過去に記憶したものを再生する行為」であり、後者は典型的なFCであろう、と。そしてさらにそれらとは別に、「乏しいながらも苦しんで表出する、彼の本来のコミュニケーション」があるように感じています。
私がテレビ番組として見たのはNHKのではなくてテレ東の高校挑戦のときのものでしたが、「文字表出」も「FC」もやっていないときの周囲とのかかわり(それは見る限り、典型的な「重度自閉症児」のそれですが)のなかにこそ、彼の本来のコミュニケーション行動とその苦悩が現れているように感じたわけです。
私が感じている疑義がそのとおりなら、真に注目し伸ばさなければいけないのはここのはずなんだけどなあ、と思ったりするわけです。
あと、初代さんが書かれている「彼が書いていることが真実なら、彼は知的障害者ではない」というのは、まさに1つの本質を突いていると思います。
ここでもやはり「知的障害をもつ人格」と「持たない人格」の二重人格を想定しないと、矛盾が生じてしまう状態にあると思うのです。
>ひらがな文字盤からローマ字文字盤に移行するというのはちょっと考えにくいと思います。ひらがな文字盤からPCのキーボードに進んで、PC入力がローマ字入力だったからその後で文字盤もローマ字に変わった、というのなら分かりますが・・・。
そうですね、実際のところはそういう流れなんでしょうね。
PCでのローマ字入力→ローマ字文字盤、ですね。
>PCなら、普通のキーボードはひらがなも50音順には並んでいないですし、ローマ字入力のほうが覚えやすいということもありえるように思います。
PCへのローマ字入力については、現在習得している最終到達地点としてあるのは確かだし、パフォーマンスとしてそれを披露するのは理解できます。しかし、そこから日常に戻ったとして、もし東田君が言葉によるコミュニケーションを取ろうとするなら、ローマ字文字盤を選択するだろうか?というのが疑問でしたので書かせていただきました。
>初代さんの説明で1つになっている、「文字を表出する」流れと「手のひらで筆談」の流れは、実は分けて考えるべき「別もの」なんじゃないかと私は考えています。前者は「手本や過去に記憶したものを再生する行為」であり、後者は典型的なFCであろう、と。そしてさらにそれらとは別に、「乏しいながらも苦しんで表出する、彼の本来のコミュニケーション」があるように感じています。
そらパパさんの考え、分かりました。
私の疑問は、気持ちを楽に表すのにローマ字文字盤が平仮名文字盤に勝ることって何かあるだろうか?ということ。それは福祉ネットワークでのひとコマ、3文字指せば済んでしまう「みんな」という言葉を「M I N N N A」と6文字かけて指した理由。
PCでのローマ字入力も両手の五指を使ってこそスピードを生み出せますが、人差し指だけで多く押さなければならないとすると逆に面倒なわけで。また、その前に頭の中では日本語をローマ字に変換する作業さえしている。
主旨は、こういうことでした。知的に障害を持ち、(ちからパパさんの報告にありましたように)PCでのローマ字入力は必死で一文字ずつ紡ぎだすとても大変そうなものなら、普段の文字を使ったコミュニケーションを想定すると、少なくとも平仮名になるはずなんじゃなかろうか?と。
福祉ネットワークで、わざわざローマ字文字盤を使ってみせたのもパフォーマンスだったのかもしれませんが…。
結論は、そらパパさんのそれと同じなんですけどね。
“文字”に関しては、東田君は(溢れる)気持ちを(大急ぎで、しかも一番楽に)表しているのではなく、(ある)文章を再生しているのではないかと。
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20081205/p1
ここでちょうど、東田さんの話題が触れられていますね。
で、そこにあったリンクをたどると、文字盤がやはり「ひらがなからローマ字へ」移行したということが語られています。初代さんも指摘されるとおり、かなり不自然な感じがします。
http://info.linkclub.or.jp/nl/2006_04/dowa.html
記事の内容の、東田さんとエスコアールの関係についての記載も興味深いですね。
この記事のとおりなら、エスコアールはある種のマッチポンプをやっていることになりますし、件の講演の「主催者」も、エスコアールの役員ばかりのようですね。
一部引用させていただきます。
-----ココカラ-----
(件の講演の)主催者である企画運営委員には、国立特殊教育総合研究所(現国立特別支援教育総合研究所)の研究員時代に日本にFCを初めて紹介したとされる広島大学の落合俊郎教授のほか、現役の国立特別支援教育総合研究所の研究員の名前もあります(この国立研究所大丈夫か?)。実は残りの企画運営委員3人のうち少なくとも2人は共催者にも名前があるエスコアール株式会社の関係者(代表取締役と取締役)です。連絡先もエスコアールの住所ですから、実質的にはエスコアール主催なのだと思われます。
エスコアールは東田直樹君の本を多数出版している会社です。そもそもはエスコアールが経営するはぐくみ塾に東田君が幼児期から通い、そこで筆談(と抱っこ法)に出会ったのが発端のようです。筆談を始めて数ヶ月たった4歳10ヶ月の時、堰を切ったように一気に物語を書き上げたと。
-----ココマデ-----
発達障害を持つ小2男子の父親です。
興味のある記事だったので、コメントの方も続けて読ませてもらっていました。
なるほどな~と思いながら、どうしても釈然としない部分があったので、皆さんはどう思うか(考えるか)を知りたくて、書かせてもらっています。
それは、ここで論じられてきたようなFCが、本当に全面的に否定されなければいけない性格のものなのかなということです。
FCによる弊害や被害を考えると、僕自身も全面的には信じる気持ちにはなりませんし、積極的に支持しようとは思ってはいません。
でも、FCには、東田君の例も含めて、ちょっとの真実も混じっているのではないかと思っています。
つまり、全面的なやらせ(圧力や強制)ではなく、それを(母親の意思なりを)受け入れて、自分でもそうしたい(そうすることが快である)というような気持ちが、あるから、そういった(コミュニケーション?)行動を取るのだとしたら、語られた本の内容の一部には、彼の気持ちも、ちゃんと含まれているということにはならないかなと思ったのです。
そして、本人が(仮に大部分が母親のコントロール下にあったとしても)本なり講演会の成功(賞賛)を、自分への社会的な報酬として、感じることができたなら(誉められて喜ぶことが出来たなら)自尊感情を高めるきっかけにはなったのではないかと思います。
だから、どういう手段でもいいとは、僕も思いませんが、そこにあるのが、(単に金稼ぎのためといったような)悪意ではなく、母親の切なる願いによるものであったのならば、FCいう表現手段も、次のコミュニケーション手段を獲得するための導入としては、価値があるのではないかなと思ったりしました。
ちなみに母親が、赤ん坊を育てる時に、表情や泣き声から、気持ちを読み取ったり、共感的な理解を示すという行為を、手や指の動きや解釈(翻訳)を補助する行為で代替してしながら、実際の文字や言葉(の概念)を育てているのではないか・・・とは、考えられないでしょうか?
実は、僕の地元には、東田君の出ていた講演会にビデオレターを寄せたKさんという方がいて、彼女もFC?(確証はないのですが)でブログを掲載しています。
ブログを読む限り、表現することが、きっと彼女の生きる自信に繋がっているのだろうなと感じています。
また、自閉症と構音障害のある大学生の当事者の方の講演会で、母親が翻訳するのを聞いたことがあるのですが、はっきり聞き取れない言葉を解説する様を、音声でのFCみたいだなぁと思いながら、でも本人は(母親も)自分達自身の中では、きちんと納得できているものがあるのだろうなぁという感想を持ちました。
全部を一色単に論じることは、できないのかもしれませんが、(そもそも観点からずれているのかもしれませんが)僕も「次」に繋がる答えが知りたいと思ったので、書かせてもらいました。
コメントありがとうございます。
タオタオパパさんは前半と後半で別のことを書いているように感じますので、別々にお答えしたいと思います。
まず、前半の、東田さんにとってFCがいいことか悪いことかについての議論については、いろいろな視点から語ることができそうですが、まずはシンプルないくつかの点についてだけ。
彼が、いま彼に対して母親や周囲が期待しているような意味での「文字の表出」を積極的にやりたくてやっているかどうかについては、疑問があります。
彼は文字に興味をもつタイプの自閉症のようですので、自分が興味をもった範囲において文字と戯れることが嫌いだとは思いません。
でも、講演でPCで「立派な長文」を打ったり、インタビューで文字盤を操作するときの彼は非常に苦しそうで、とても楽しんでいるようには見受けられません。また、文字盤にしてもFCにしても、促されて初めてやるのであって、自分から積極的にそれらでコミュニケーションをとる行動は乏しいようです。
彼は、(少なくとも現状では)自分ひとりでは社会に適応できません。なので、家族に依存せざるをえません。そのため、その家族から長年にわたって「これはやらなければならないものだ」と訓練されれば、その行動はある程度身に付くでしょう。でもそれは、私からは「圧力と強制」に見えます。
また、賞賛を報酬にという点についてですが、もし彼が、自ら創作したのではない文章を再生していたとして、それを周囲が「自ら創作しているもの」として賞賛していたとしたら、その賞賛は偽りの賞賛です。
偽りの賞賛は、それが善意に基づくものであればあるほど、その「偽りの仮面」がはがれて正体が現れたときには、罵倒と非難に変わるでしょう。そんな「偽りの賞賛」を肯定的にとらえて「だから東田さんにとって(現状の大部分が偽りであっても)いいことなんだ」とは、私にはとても言えません。
非常に簡単に申し上げます。
もし仮に、彼のいまの姿に「非常にたくさんの偽り」と、「ほんのわずかな真実」があったとすれば、それをそのまま正直に世間にさらすべきなのです。
「これとこれとこれとこれは、実はこういうトリックがあって、彼が実際にできることではありませんでした。でも、これだけは本当にできます」ということを、正直に見せればいいんです。
その「正直な彼の姿」が、世間から賞賛されるのなら、それは何も問題がありません。
現状が問題なのは、いま「これらすべてが東田さんの真実です」と称され並べられていることの大部分にかなり強い疑義があり、いま彼が受けている賞賛は、それらがすべて真実であることを前提に得られている、という、まさにそこにあるのです。
その「非常にたくさんの疑義」を問うことなく、一方的に「これらはすべて真実なんですよー」という宣伝のもとに金儲けが行なわれ、その一方で、もし疑義がそのとおりなら、当の東田さん本人はある種の虐待を受けていることにさえなりかねない状態を、私は到底肯定することはできないのです。
後半については、東田さんのことではないので、何ともいえません。
FCというのは、いつまでもファシリテーターの存在から抜けられないコミュニケーションのことをいいます。
当初は支援を受けていて、やがて自分ひとりで真のコミュニケーションができるようになるケースは、FCというよりはABAのプロンプトによるコミュニケーション支援と言えるでしょう。
また、発話などの特定のコミュニケーションモードがうまくできないために、別の道具を使うのは、代替コミュニケーションですからそれもFCとは別です。(東田さんの場合は、文字が使えるようになっているはずなのに、いまだに文字盤よりFCが優位なようなので、やはりFCだと考えられます。)
もしタオタオパパさんのあげられている別の方の例が、そういう意味でFCでないのであれば、今回の議論とは無関係ですし、訓練開始から数年以上たっていて今でもFCだというケースであれば、東田さんと同じ議論があてはまるのかもしれません。
いずれにせよまったく情報がありませんのでこれ以上は踏み込まないことにします。
読んでいて、僕自身が何を望んでいたのかに気付かされました。
後半部分で、ちゃんとした情報を提示できずに、書かせてもらった二人の方が、代替コミュニケーションなどを用いて、母親以外の方とも、一人でコミュニケーションが取れるようになれるといいなぁと思っていたんですね。
>当初は支援を受けていて、やがて自分ひとりで真のコミュニケーションができるようになるケースは、FCというよりはABAのプロンプトによるコミュニケーション支援と言えるでしょう。
なるほど~!
最初の表現手段が、どのように見えても、それが真のコミュニケーションに繋がるのであれば、支援のためのプロンプトだと考えられるわけなんですね。
前半部分の東田君の部分では、僕自身も彼の「創作」を疑ってかかっているのに、賞賛を正当化するということが、矛盾しているということに気付きました。
そして「正直な障害児・者の姿」が、本当に社会に受け入れられるようになれば、いいなぁと感じました。
これからも、時々お邪魔して、勉強させてもらいたいと思います。
ありがとうございました。
ところがFCは、ファシリテーターなくしてはなにもできないという依存傾向を強めるので、F「C」(コミュニケーション)といいながら、結果として、子どもから自立する力を奪い、社会への適応を阻害することになっているのではないでしょうか。
FCとは、本質的な意味において、コミュニケーションとは「正反対」のものである、と私は考えています。
コメントありがとうございます。
私が、結論を書いたのは、先に(12/2)、そらパパさんが、納得のできない4項目の結論を「箇条書き」で書かれたからです。
全文を読まない人が、誤解することを恐れましたので、修正(案)を書きました。
(箇条書きの結論しか、読まない人も多いので)
そらパパさんが、書かれている内容は、あくまでも、健常者が、勝手に、予測しているものです。ですから、詳細には、触れませんでした。
私のプロフィールは、下記の通りです。
私の基準から申し上げると、そらパパさんの、論旨には、合格点を挙げることができません。理由は、収集情報の不足、および論理展開の矛盾です。
もし、御意見があるようでしたら、お願いいたします。ただし、箇条書きの結論を、お書きになりませんように。
PS 遅れましたが、自己紹介します。
国立T大 大学院 修了(卒業の意味です:そらパパさんはご存知でしょうが、ご存知ない方もいらっしゃると思いまして。。)
現在、世界有数の研究所に勤めるChief Researcher(研究者の指導者)です。
自分で論文も書きますが、最近は、下記のような仕事も行っています。
1)投稿論文の査読
・載せて欲しいと送ってきた論文を評価し、掲載するに足るか否かの審査をする。
2)学会(複数)の出版事業委員
・世界の研究に寄与でき、かつ、博士課程の学生でも分かるような出版物になるように、
その構想を思案している最中です。
3)学会の運営
そう言えば、5年間ほど、ある学会誌に年間展望(過去1年間に出された論文、講演会発表を読んで、その評価とまとめを記述する)も、書いていましたね。
以上です。
‥大変ですね。
心中お察し申し上げます‥。
かずみ
以下、特に何が対象ということでもない雑談です。
2冊目の本でも書いたことですが、「私はこういう経験をした!だから(他に根拠はないけど、とにかく)私の言うことを信じなさい」という「エピソード主義」と、「私はこんなに偉いんです!だから(他に根拠はないけど、とにかく)私の言うことを信じなさい」という「権威主義」は、「科学の目」をもった自閉症理解・療育とは対極に位置するものだと思います。
追記
かずみさん、
ご心配いただき恐れ入ります。
詳細は以下の記事の私のコメントをご覧ください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111078158.html
そらパパさんへ。
建設的な意見があれば、矢幡氏に直接連絡を取ってみてはどうでしょうか?
矢幡さんのところは個人経営ですので、すぐに本人に繋がると思いますが・・・。
連絡をとったとして、それで、私なり矢幡氏に何のメリットがあるのか、よく分かりません。
逆に言えば、私は特に矢幡氏に何かしてもらいたいことがあるわけでもないので、仮に連絡をとったとしても「話すこと」がそもそもないと思います。
あくまでも、ここでは出版され公にされた本の内容について批判的に読み解いているのであって、さらに掘り下げて著者個人と意見を戦わせたいかどうか、というのとはまた別です。(少なくともこの件については、私はそこまでの「熱意」は感じていないのです。)
自閉症 文字盤 メソッド
と検索して、ここにたどり着きました。
膨大なコメントの前に途中挫折した私が新たにコメントを残すことにためらいを感じつつ。
文字盤を使って他者とコミュニケーションをとる非言語性自閉症児が登場するノンフィクション
「ぼくは考える木」
自閉症の少年詩人と探る脳のふしぎな世界
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/116560.html
http://www.strangeson.com/
皆様の見解に一石を投じることができれば幸いです。
FCとか「奇跡」の本はたくさん出ていますね。
ただ、本が出ているというだけでは、そういうことを主張している人がいるということ以上のことは何も語ってはくれませんが・・・。
どうでもいいですが、この日本語版の本の写真、本に出てくる(であろう)自閉症の子どもと関係があるのかと思ったら、ただのプロカメラマンの息子の写真をイメージで使っているだけなんですね。(^^;)
私の愛息子は重度精神遅滞を伴う自閉症です。
真相はわかりませんが、実際に重度自閉症の子供と生活している私にしてみれば、東田さんの能力に疑問を持つのは自然な事だと思ってますよ(;^◇^;)
それよりも、こちらの記事のブックレビューで
>「東田直樹さんの著述を自分の主張の論拠にしている」
>専門家が東田さんの著作を引用して自閉症を語ってしまう
これは本当にマズイ事!!だと思いコメントを書いてしまいました。
(初版155~156ページ)の文を読むと頭が悪い私でさえも良本とはとても思えない内容なのがわかります(笑)
藁をもすがる思いで勉強している親御さんや関係者さん、障害児者さん本人の幸せの手助けをしてくれる良質本が増えますように・・・
最後に、そらパパさん。
マイナスの批評をするのはとても勇気とパワーがいる事だと思います。
ブログなどを通じて、ここまで自閉症の為に力を注いでいただいて、いつも感謝しております。
☆パパさんにしてみたらこのコメント欄の事をほじくり返したくないかもしれないのに、ついつい参加してしまいました(;´▽`A``
お返事も大変だと思うので私の書いたコメントは破棄してくださいね。
陰ながら応援しています(*'ー'*)
お気遣い恐れ入ります。
とはいえ、私にとってはどのエントリも意義深いもので、このエントリのコメントでの議論でも、いろいろな「問題」をあぶりだせたということで、皮肉な側面もありますがとても意味のあるものになっているなあと思っています。
ですから、コメントを書いていただくことはもちろん全く問題がありません。
東田さん問題については、本当にいろいろ考えさせられますねえ・・・。
実は、先日の東田さんの講演で配られたという彼の「手記」が、エスコアールのサイトで公開されていました。
http://escor.co.jp/gr/dn-forum/dl_files/naoki_supplemental_data_20081116.pdf
「不思議ですが、介助されなくなったとたん、まるで電気のスイッチが切れるように、言葉を忘れてしまいます。」
もう、ああそうですかとしか言いようがない感じです。
あちこちに生まれてくる矛盾に、一生懸命予防線を張り続けているようにしか、私には見えないです。
http://katari.umin.jp/
東大よお前もか、という感じですね。
東田さんを「高校生作家」と呼んだり、ダグラス・ビクレン氏がまたまた登場するあたり、前回の講演から直接つながっている感じですね。前回の講演に行った人にはDMも届いているようです。
今回主催になっている筆談援助の会は、やはりその代表がエスコアールの役員だったりしますから、ベタベタにつながっています。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111078158.html
しかも、最初から映画化する前提で東大に行くという計算されつくした展開です。
FCを映画化して市民権を得よう、という動きがはやっているんでしょうかね。
なんか気味の悪い展開です。
さて、「東田さん問題」には距離をおいていくつもりだったのですが、紹介されている公開シンポの登壇者の中に中川信子先生がいらっしゃるので、びっくり!して書き込んだ次第です。中川先生の著作は3,4冊ぐらい持っているのですが、おっしゃっていることはよく理解できる内容で、あくまでSTのお立場からしか著述されていなかったと思うのですが。
東田さんの著述も「僕が飛び跳ねる・・・」を読みましたが、それ以降は購入していません。
もっと書き込みたい気はするのですが、ここらでやめときます。東大がやっちゃうのね・・・。私も、もっと情報を集めて勉強しておかないと。
今、ピラっと検索してみたら、中川信子先生ブログにはっきりとFC支持の記載がありますね。
http://www.soratomo.jp/article/13337092.html
困ったなぁ・・・。
コメントありがとうございます。
中川先生については、私も著作など読ませていただきましたが、前回の講演の時点でFCを推奨されていることに気づいていましたし(JKLpapaさんが引用されているやつですね)、それ以外にも漢方薬で自閉症を治療することについて「日本のドクターの多くが、漢方薬を選択肢の中に入れて、一度は試して見る、という日が来ることを私は切に願っています。」といった記事を書かれているのを見るにつけ、最近は距離をおいてみています。
http://www.soratomo.jp/article/13402378.html
それ以外のメンバーでは、外国人の方二人はGoogle先生もよく知らないようですが、東大の教授は認知行動療法の先生のようです(というか、心理学の教授ってうつ病を「治したり」する領域にまで関わっているんですね。知らなかった)。
いずれにせよ、こうやってどんどん権威づけがされていくのは確かに困ったものです。
発達障害(中度寄りの重度)の娘をもつ母です。
上記一連のコメントを読ませていただきました。ひとつひとつに誠実に返答されていることに関心いたします。
私は勉強期間も知識も浅く、やっと支援らしきものを始めたばかりですが、娘の自己表現や成長を楽しみながら 自立に近づけるスキルを身につけていってほしいと思っています。
おのおのが自分の気持ちや大事な方のことを大切に思いながら 様々な糧を積み重ねてよい方へ展開していってほしいと思います。(他の方の考えは それとして尊重し、判断材料などの一部として活用させていただくのはいいと思いますが、必ずしも賛同や同意を求める必要はないと思います。自分で模索し悟っていくものと。僭越ながら。)
コメントありがとうございます。
後半部分、ちょっと発言の対象が分からなかったのですが、私自身は、コメントを寄せていただいている方に無理に「賛同や同意」を求めているつもりはなく、まさにPOYO-NGさんのおっしゃるとおり「判断の材料を提供している」に過ぎないと思っています。(それ以上だと自覚することは、すなわち、自分のことを権威だと考えていることにもつながりかねません。)
ただ、「東田さん問題」の悩ましい(と私が思っている)ところは、彼が重い自閉症者でありながら、「人前で難しい文章を表出する」という、ある意味サヴァン的な特異な才能をもっていることです。その才能が、「人前で難しい文章を『自ら』表出する」ということと巧妙に混同されることによって「演出」されているというのが実態なんだと推測していますが、その「演出」によって東大の教授クラスまでもを「味方」につけて、ここへきて急速に「権威づけ」が進んできていることを危惧しています。
自閉症にかかわる「論争のタネ」の多くは、「権威ある学会や研究者がそれについてどう評価しているか」という、ある意味「権威主義的な視点」でそれなりに「まともなもの」と「そうでないもの」を区別できていたのですが、東田さんについては、上記の「演出」が極めて巧妙であるため、その原則が通じなくなりつつある、それがとても危ういと思っているわけです。
ですので、賛同や同意を求めているわけではありませんが、東田さん問題に関しては、それなりに(リスクをかかえることを自覚しつつ)強めに「批判的立場」をとらせていただいているわけです。
ええっと、いろいろな意味でいただいたご意見は突っ込みどころ満載だと感じますが、まず、私は少なくとも「匿名」では書いていません。
実際に、藤原さんは私、そらパパをちゃんと名指しして意見をおっしゃることができて、私はご指名を受けた「そらパパ」として発言しています。
発言者の同一性が担保されている以上、「匿名」ではないわけです。
実際、実名ではなくハンドルネームで有力な情報発信をされているブロガーもたくさんいらっしゃいますし、実名ではなくペンネームを使って文筆活動をされている方もいらっしゃいますね。
それにしても、こと東田さんの話題になると、なぜか不思議なくらいさまざまな「ユニークなご意見」をいただけるのは、本当に興味深いことです。
>ハンディキャップをおって生きている人たちのことを語るのなら、なおさらです
だなんて、親ですら我が子のことをどれだけ解釈・代弁していいものか日々迷いながらも、人からの、誤解は少なく理解は多く、出来るよう努めているのに、共に生活した訳でもない、本をまとめた程度の関わりの人間がこのように語ることこそ東田問題の一番嫌なとこだと思います。
実は、私自身は、色々読んでいる内に、ペンペン文字?などと言うものの話を読んだりと、話し言葉による表出が無くとも文字でいける人もいるのかもという気持ち自体はある派なのですが…。東田くん周辺からは、あの「正確に読み取れたか分んないけど、そんなこと考えてたのか~!?」的な驚きや喜びが無い感じが薄ら寒いです。予定調和な発言ばかりさせられるなんて、自分だったらほんとに逃げ去りたいだろうな~。
>言葉をしゃべることができないというのと、物事を理解できないということは決してイコールではないと私は信じています
そんなの、あなたが信じるとわざわざ表明するようなことではない、単なる事実です。目で顔でしぐさで訴えているのに話し言葉がなかったらここまで言われてしまうとは、我が子を代弁するまでもなく、親としてたまらんです。
そらパパさま、何の反論にもならぬ噛み付きコメントで失礼致します。我が子の療育・支援歴も長くなり、親としても相当心無い言葉には慣れた筈なのですが、やはり時々「人の子をそんな木石のように言うなよ」と思います。幾つか重なると気が滅入ります。
親として、真正面からぶつかり過ぎないスキルが必要だな~と思います。難しいです、ほんとに。
火中の栗を拾いにきていただくようなコメント、ありがとうございます(^^;)。
福祉や障害の世界でお金を稼ぐこと、それ自体を否定するつもりはないのですが、そういう行為は、より厳しい批判にさらされることになり、お金を稼いだ人は、それを受け止める覚悟が必要だ、ということは言えると思います。
今回の件については、コメント欄で時間をかけてじっくりと議論されているあらゆる問題をすっとばして、「そらパパ」は匿名かどうかなんていう「くだらない」(あえてこう書きますが)点にしか意見をいただけなかったことは、ある意味とても残念なことだと思います。
そして、チヨ母さんもご指摘のように、東田さんに批判的な立場を、「言葉をしゃべることができないというのと、物事を理解できないということ」を同じだと考えている、などと単純化して誤解されていることも、あまりにも残念なことです。(この文章からそこはかとなく、自閉症の人を蔑視する考えが香ってくる、というのもご指摘のとおりです。)
率直にいってこの方は、自閉症の人と本当にコミュニケーションをとろうと必死で「闘った」ことがないのかな、と感じざるをえませんでした。
発話がない自閉症児が文字を表出できる場合もある、というのは、私もまったく否定しません。でもFCは(少なくとも現時点では)否定します。
それは、表現の手段ごとに得意不得意があるということに過ぎないものであって(そういう意味ではうちの娘も、音声言語の代わりに絵カードを使います)、普段はコミュニケーションらしい行動がほとんどないような重い知的障害を伴った自閉症の人が、FCをやると突然哲学的なことを語ったり詩や童話をひねり出す、というような二重人格的なものではないでしょう。
「高い知性を秘めていて」、でも「音声言語が苦手」な子どもが仮に存在したとしたら、その子はきっと、音声言語以外のあらゆる手段を使って自らを表現しようとするはずです。これは、ことばの通じない海外に放り出されたときの私たち自身の行動を想像すればすぐに実感できるはずです。
そして、そんななかでもしも便利な表現手段(文字盤とかパソコンなど)を手に入れることができたら、それをものすごく大切にして、片時も離さないでしょう(これも海外旅行のたとえで、運よく翻訳辞典を手に入れたようなケースを想像してみてください)。
対して東田さんは、携帯に便利なはずの文字盤を携帯しないどころか、渡されてもすぐに嫌そうに投げ捨ててしまうし、ノートパソコンを携帯するでもないわけで、この辺りもとても不思議なわけです。
ともあれ、もちろん気が滅入る側面もありますが、それよりも、こういった形で「問題」があぶり出されて、それを多くの人が見て自覚的になる、ということの意義はとても大きいと思っています。
肩の力を抜いて、でも誠実に、こういった問題ともつきあっていきたいし、いかなければならないだろうな、と思っています。
人の心を打つ、ことばです。
そのことばは、国境を越えて届くでしょう。
彼は、ギフテッドですよ。
ドナ・ウイリアムズのことばと同じくらいの価値が私にとってはあります。
これからも彼の生き方を私は静かに見つめて行きたいと思っています。
コメントありがとうございます。
私も、彼のこれからの生き方にはとても関心があり、注目していきたいと思っています。
発達障害の疑いのある(現在診断中)3歳の娘の母親です。
自分の子供に障害があるかも知れない、と知ってから、色々な情報を集める中で、そらパパさんのブログに辿り着きました。
今回の話題の発端になっているブックレビューされた本、私はまず始めに手にした本です。
ですから、FCについてや、東田くんの事も、こちらでこんなに議論されているという事も、初めてしりました。
何もわからない障害の事を知りたい一心で暗中模索している私ですが
混乱する玉石混合の情報の荒海の中で、いつもそらパパさんのブログは、娘のことで不安になる私にとって、私の錨の様な存在になっています。
まだまだきちんと読みきれていない内容もあるので、聞きたいことは山ほどあるのですが
そらパパさんの実体験に基づいたこちらを少しづつ読み進めていって参考にしながら
自分なりの娘の育て方や、障害に向き合う気持ちの持ち方を身に着けていきたいと思います。
「迷路の中を子供の手を取りながら一緒に歩いていく」という表現がありましたが
私はその言葉にとても共感して、涙が止まりませんでした。
お忙しい中で、こんな大変なブログを何年も続けていらっしゃるのは本当に頭が下がります。
これからも、お体に気をつけて、頑張ってください。
はじめまして。
コメントありがとうございます。
「玉石混交」、まさにそのとおりです。
親という立場でまず大切なのは、さまざまな「情報」や「主張」の中身をきっちり吟味して、明らかに間違った方向に向かわないことだと思います。
そして、長く続けられるようなやり方(短期間だけ猛烈に頑張って、燃え尽きてしまってはかえって逆効果です)を見つけて、子どもそして家族全員で少しずつ前に進んでいくことですね。
当ブログのモットーは、「家族全員の幸せを実現するような療育」です。
これからもよろしくお願いします。
4歳の発達障害の息子がいます。
いつも有意義な情報をどうもありがとうございます。
そらぱぱさんの存在が光となっていて、
前に進めていけています。
心から感謝しています。
もうご存知かもしれませんが、八幡洋さんの
娘さんも自閉症だったんですね。
↓を出版されているようてす。
療育についていろいろ考えさせられます。
http://www.amazon.co.jp/%E6%95%B0%E5%AD%97%E3%81%A8%E8%B8%8A%E3%82%8B%E3%82%A8%E3%83%AA-%E5%A8%98%E3%81%AE%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E3%82%92%E3%81%93%E3%81%88%E3%81%A6-%E7%9F%A2%E5%B9%A1-%E6%B4%8B/dp/4062169150/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1305970426&sr=8-1
これからもブログ、楽しみにしています。
コメントありがとうございます。
また、ブログをお読みくださって、ありがとうございます。
八幡氏の本も、他の場所でもちょっと話題になっていたので、そのうち読んでみようと思っています。
今後ともよろしくお願いします!
作業所に通う19歳重度知的障害の自閉症の息子の母であります。
今日はじめてそらパパさんのブログを拝見させて頂き・・・・違和感→混乱→徐々に納得→がっかり感→そういえば・・・
のような1時間の間に目まぐるしい感情の変化を起こしてしまい戸惑っています。
東田くんの絵本が息子は好きです。機関車の・・・。本も何冊か読みました。だぶん息子はこんな風に苦しんでいるだろう・・・私は考えていたことが、まさにそのまま書かれていたので、涙しながら読みました。
こちらへおじゃまする5分前に、彼のブログを見て涙していたのです。震災後とても調子を崩した息子は、ああ、やはりこんな風に苦しんでいたのかと・・・。
はじめ、東田くん批判・・・という見出しでこちらに導かれ
彼のことを事実でないと書かれていること、かなしく思いました。そして何年か前ですが、激しい突っ込み合いのようになっているのもさみしい感じがしたのです。
が・・・・
読み進んでいるうちに・・・・
彼の書いていることが、私の想像の範囲を超えていないこと。
こうであろうと想像していたことにすべて当てはまるので、涙が出てしまったのか・・・という。
ほぼ同い年の少年だからでしょうか、とび跳ねたり奇声を発する見た感じが息子に似ているからでしょうか、
感情移入してしまうところもあり
詩を読んでも物語を読んでもエッセイを読んでも・・・私は涙してしまうのです。
すべて私の心をうつのは
私と同じ想い、苦しみをすべてわかっているからなの???
なんだか、別の涙が・・・
事実は私にはわかりませんし、意見も言えません。
でもすばらしい文章で心に響くものである、という・・・・
めんどくさい、困ったことばかりする息子を、頭ごなしに叱らず、気持ちを理解しよう・・・という原点にその都度戻らせてくれる、彼の言葉たちでした。明日から彼のブログを見て私は・・・・
先程は動揺していて中途半端なコメですみませんでした。
そっかぁ・・・
という気持ちでもう一度彼のブログを読んでみると・・・
すべて私の言葉・・のように感じられました。
私が息子の事を綴った日記とまるで同じような文章もあり
だから共感して引きこまれていたのだな、とまるまる納得してしまいました。
自閉症の子にはこう接してあげて・・・というのも私が幼児期から何度も信頼する療育者から言われ続けた言葉であり、後輩お母さんに私がかけてきた言葉でありました。
桜の花を見ると胸がいっぱいになるのも、すらすらしゃべれるようになった夢をみるのも、親にさえ理解されず悲しい思いをする自閉症の子供が少しでも減ってほしいと願うのも、私とおんなじです。
彼の言葉はまさしく私の想い、でありました。
ずいぶん前の日記にコメントしてしまいすみませんでした。
千葉で公演されるようですね。
生で見れば、文字盤の疑念が判るかも。
身体の方ですが、文字盤を使ってコミュする状況の場合、(ALSや筋ジスで気管切開して呼吸器を付けた場合など)文字盤は50音配列の物が一般的ですが、罹患者がイキナリ言いたい事の文字を指すのは稀です、動きを見ていると純にスキャンしていくような動きをして、示したい文字の所で止まるというような動きが殆どです。
で、FCが発音して確認する。
決してFCが先には発話しない筈です。
コメントありがとうございます。
東田さんについては、単にFCがどうか、ということ以上にいろいろと思うところもありますが、私の中では既に強い関心の対象ではなくなっている、というのが正直なところです。
コメントありがとうございます。
そうですね、今はもう「自分と家族にとっての療育」という枠組みとはあまり関係のない方、だと感じているので、興味の対象ではなくなっていますね。
とはいえ、もちろんこれまでの議論等での立場を変えたというわけでもありません。
よろしければまたお越し下さい。
ヒキルナ氏(漢字を忘れた)は完全に黒と思っている人間ですが、東田氏は白と感じます。
議論の大半が2008年ですが、2014年のNHKドキュメンタリーからは疑問点が解決しているようにうかがえます。
東田君は不思議くん。しゃべる回路は壊れてもバイパス機能が働いて文章が作れるのかな?とばかり思って図書館でタダ読みしておりました。
その才能を利用して甘い蜜を吸いたい者はウジャウジャ出てくるさね、そのうち読者受けする東田君像を勝手に作りあげることもできないわけじゃない。自閉に口なしだと好き勝手する手合いに口では怒れない彼ですから、位に見ていました。
ずいぶんひねくれたババアの言いぐさですが、集落のおばあさん達がどうして兵役に行っていた兄さんたちをなくしたのか、女学生が動員先で爆弾落っことされた話をエンドレスで聞かされて思ったのです。疑問持たないと時として命に関わるんだね、不利益じゃすまないレベルの損害被ることもあると。いろんな角度から見える光景をきちんと受け取らんとわたしら、おばあさんたちの二の舞だよねえと思ったのです。
コメントありがとうございます。
八幡氏は最近またツイッターのアカウントも復活し、テレビで心理学「風」のコメントをいろいろ語るコメンテーターとして活躍されているようですね。
その「復活後」のツイートを見ていても、自閉症についての考え方が私とはかなり異なる方のようだと感じ、最近はツイートも見ていません。
東田さんについては、既にコメントで繰り返し触れているので、これ以上のコメントはありませんが、彼の周りにはいろんな思いをもったいろんな人がいるな、ということは確かに感じます。