自動車不況、障害者の雇用直撃 下請け受注大幅減
http://www.asahi.com/national/update/1117/TKY200811170001.html
2008年11月17日7時45分
(新聞社のニュースはすぐに消えるので、例によって全文引用します)
自動車の売り上げ不振が、部品の下請け作業をしてきた作業所や就労支援施設など障害者の働き場所を直撃している。相次ぐ受注カットに「これほどの影響は初めて」の声もあがる。
マツダ本社がある広島県。その山あいの安芸高田市で地元のNPOが運営する作業所「貴船ハウス」では、主に精神障害がある20~60代の約10人が働いている。約5年間、マツダの下請け業者から車のサスペンション周辺に使うゴム製部品の加工を受注してきたが、その数が10月28日以降、週に約5千個から約2千個にまで減った。
その2日後、マツダは減産方針を発表。「生産調整が始まった。うちも在庫は抱えられんから仕事を持って来れんのよ」。下請け業者の担当者からそう言われた。
マツダ関連の仕事が約4割を占める。施設長の新田義明さん(53)は「収入が減れば、ただでさえ低い工賃を減らさざるを得ず、運営にも深刻な影響がでてくる」。
不安は、作業所の利用者にも広がる。発達障害の症状に悩む30代の女性は、60代の母親と暮らしながら自閉症の男児(5)を育てている。
「働くだけではなく、ここは悩みから少し解放される場所。工賃がさらに減らされたり、最悪の場合、施設がなくなったりしないか不安です」
トヨタの高級車向けスピーカー部品の検品、箱詰め作業を請け負っている就労支援施設「なでしこの里」(神戸市)。夏までは週約4千個あった受注が9月に1千個と落ち込み、10月半ばにゼロになった。作業ミスがあったのかと思ってメーカーに確かめると、「車が売れないから」と説明された。
作業単価は1個4円。月6、7万円の売り上げがあった。平均工賃にして数人分が消えた。
自動車部品の内職は売り上げ全体の約1割だが、障害者自立支援法の施行で補助金も減るなかで、受注減は痛手だ。11月に入って1千個の注文が入ったが先行きは見えない。
施設を運営する社会福祉法人かがやき神戸の池山美代子副理事長は「経済情勢の変動がこれほど障害者雇用の現場を直撃するのを感じたのは初めて」と話している。(山内深紗子、清川卓史)
これは障害者自立支援法がもつ問題とも直結すると思いますが、障害をもっている人の就労・自立については、自由主義経済に任せきってしまうことがそぐわないということを、このニュースは如実にあらわしているといえるでしょう。
自由主義経済というのは、「機会の平等」を前提にしています。つまり、誰もが努力することで成功できるチャンスを平等に与えられている(だから、結果が不平等になってもその原因は個人の努力に帰属させられる=仕方ないことだと考える)ことが、自由主義経済における「正義・公平さ」の考えかたになるわけです。
ところが、このような「機会の平等」は、障害をもっている人には与えられません。
これは極めて本質的な議論になりますが、「機会の平等」が与えられていない状況にあるということそれ自体が、「障害をもっている」ということの社会的な意味での定義である、と言い切ってしまってもいいでしょう。つまり、障害者である、とある社会から認知されている人というのは、そのまま、その社会で「努力すれば成功できる」という意味での「機会の平等」を最初から失っている状態にある人のことなのだ、ということです。
そのような人に対しては、「機会の平等」ではなく、「結果の平等」(どのような状態にある人にも、一定の生活を保障すること)を提供しなければならない、と考えるのが近現代的な意味での「福祉国家(主義)」です。
このような福祉の考えかたは、障害をもった人だけでなく、生活保護や年金制度、国民健康保険制度などによって私たち自身にとっても身近なものですし、所得税などが低所得者は減免され、高所得者には高い税率が適用される「累進課税制度」による税の再配分も、同じく行き過ぎた「機会の平等」を抑え、国民の最低限の生活を守るための「結果の平等=福祉」を実現するために行なわれている(はずの)ものです。
戦後の日本は、高度経済成長によって得られていた成長余力によって、それなりに「福祉国家」だったのですが、長く続いた国内の不況、少子高齢化、グローバリズムの台頭によってその余力はすっかり失われ、年金も健康保険も崩壊寸前、労働市場は非正規雇用ばかりになり、どんなに消費税を上げても現状を維持することすら困難なくらい「福祉」国家としての姿は失われつつあります。(その背後には「新自由主義の台頭」があるわけですが、これは上記のような社会環境の変化によって必然的に出てきたと考えたほうが、むしろ自然でしょう)
障害者自立支援法ができたのも、このような社会の変化による「福祉」の変質の流れの一環としてとらえるべきものだと考えられます。
さて、ひるがえって今回のニュースです。
障害をもっている人が「働ける場」というのは、当然に極めて限られます。しかも、その限られた「場」とても、市場主義経済の目からみれば「儲からなくて割に合わない経営」になっていることが多く、その「場」を提供している人は使命感などをもって「割に合わない苦しい経営」を受けいれて頑張っているケースが大部分でしょう。
そのような「場」が、今回のニュースで分かるように、市場の不況の荒波を(何の防御もなく)そのまま被ってしまう構造になっているというのは、少なくとも私の感覚でいえば「福祉行政が完全に機能不全になっている」と映ります。
このような「場」が失われ、自立することが不可能になった人は、通常「次の職場」など存在せず、生活保護を受けるか、親やその他の養育者の保護下にまた入りなおしてしまうほかなくなるわけですが、これが「自立」とはまったく正反対であることは論を待たないでしょう。
このような「結果の平等」の問題は、制度によって保護される人と保護されない人との間に不毛な対立構造を招き、そのために、本来共闘すべき人を分断してしまう(その典型が生活保護といわゆるワーキングプアの問題でしょう)ことが多く、非常に難しいところがあるのですが、障害をもっているが故に不可欠なサポートを受けるためにも費用がかかる一方、逆に収入を得るための限られた手段が市場経済に任されて十分に保護されていないというのは、障害者個々人に対して、極めて不安定な収支構造を強要していることは間違いないところでしょう。
その問題が浮き彫りになったのが、今回のニュースだといえると思います。
単純に「元に戻せ」とは言いません。福祉にまわせる「余力」を日本が失いつつあることは間違いない事実です。その「失っていくもの」を、今から国民全体で分担していかなければ、逆に「後の世代」を不幸にしてしまいます。
でも、障害者自立支援法による費用負担を是とするのであれば、その「先立つもの」を得るための「場」に対して、行政はもう少し心を砕くべきだと思います。これは、当事者である親としての切実な気持ちですね。
思うに、社会主義が崩壊した以上、資本主義で生きざるをえないのでしょうが、ハードな資本主義よりはソフトな資本主義が望ましいと私は考えています。今後、福祉国家という観念が意味を持つのか、甚だ疑問ですが、シュンペーターの予言が外れた以上、我々は生きざるを得ません。経済的自立が、社会的自立ではないと信じつつ。
親は何をしてあげられるのでしょうか・・・
わずかな工賃で働く障害を持つ人たちに優しい社会を、税金の払える障害者なんて、夢のまた夢ですね。
テレビあるいは講演会などで特例子会社の社長さんの話を聞く機会があると思うのですが、
働きたいという気持ちを身に付けるとか、
朝起きて時間までに職場に行って8時間働く生活習慣とか体力とか、
職場にいない時間(余暇)をどう充実させるかとか、
経済の短期的な波とは関係なくやる事はあるので、実直にこれらの課題に取り組むしかないのかなぁと思います。ウルトラマンの父さんがおっしゃるように、社会的自立ですよねぇ(ため息)。
高等部の進路指導の先生も、もっと会社の実情とか考え方とか身に付けてもらう必要もあるし、
余談ですが、グローバリズムに巻き込まれないように、日本人が本来持っている分析力の高さ、技術力の高さ、そして勤勉さがますます大事だと確信しています。これがあるから、雇うならやっぱり日本人だよねと雇用者側に言わせるくらいのものを我々は持たなくてはと思っています。
多くの方が関心を持っているニュースなんだと改めて感じました。
ウルトラマンの父さん、
そうですね、結果の平等を強調しすぎると社会主義になってしまって、社会主義の理想を実現することは歴史的に極めて困難であった(「神の手」の代わりを人間がやろうとすると、それが必ず権力になってしまい、必ず腐敗してしまう)ということを考えると、我々が目指すべき社会の「ベース」が自由主義であることは間違いのないところだろうと思います。
あとはその中で、どこまで「福祉」を確保すべきか、という問題ですね。
ちなみに私は、「経済的自立」も「社会的自立」も、究極的には絶対の正義ではないと思っています。
もっとあいまいに、「意志の自立」というか、子どもが「(生かされているんじゃなくて)自ら生きることを選択して、それで生きている」という状態が作れれば、それが「自立」なのかなあ、みたいなことを漠然と考えています。
その実現方法の1つが「経済」「社会」的自立なだけなんじゃないか、と。
リリーさん、
これから社会は基本的に、障害をもっているような「福祉を必要とする人たち」に厳しいものに向かっていくことは避けられないでしょう。
問題は、ぎりぎりのところで「人間らしく生きていく」セーフティーネットが確保できるかどうか、そのくらい切実なところまで迫っているようにも思います。
少し前、ある縁でお話しした専門家の方は、「親として取り組むべきことは、子どもに多少訓練するかどうかなんかより、子どもが将来生活できる場を作っていくことだ」とおっしゃっていました。
ないものは作るしかない、それくらいの気持ちでやっていかなければいけないのかもしれませんね。
たった一人の親としては、無力感との戦いでもありますが。(^^;)
あやぱぱさん、
自立というベクトルで考えると、そのとおりだと思います。
ただ問題は、いまのワーキングプア問題などにも見られるように、努力しても結局乗り越えられないくらい高い壁ができてしまうことにあるのかな、とも思っています。
そうなってしまえば、多少の「就労力」なんて何の力にもなれないんじゃないか(要は健常の人と同じくらい働けなければ職場がない、という状態になる)という懸念も感じるわけです。(それでも、希望をもってやっていくほかありませんが・・・)
ちなみに、私は外資系で働いていますが、グローバリズムが「外国から来ている」とは私はあまり感じていません。
むしろ、日本が少子高齢化で成長余力を失って、海外の市場に売りに行かなければ経済が成り立たなくなったことで「自ら乗り込んでいった」といういることなんじゃないか、と感じています。
もちろん、日本人の長所といわれているような要素を伸ばして、日本の労働力が「競争力と付加価値」を維持していかなければいけない、というのはまったくそのとおりだと思います。
コメントありがとうございます。
上ではちょっと悲観的なコメントを書いてしまいましたが、基本的には私も、親として、子どもが社会のなかでうまく「(広い意味での)自立」を実現できるような体制作りに取り組んでいかなければいけないなあ、と感じています。
まだ今の時点ではそれがどんな「形」を持つべきなのか分かっていないのですが・・・。
ところで、この記事と直接は関係ありませんが、福祉の深刻な構造疲労の実態について考えさせられる、こんなスレッドがありました。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-1589.html
(もちろん、「釣り」である可能性はあるわけですが、細部の描写や、スレ主の「乖離」的な応答をみていると、とても一笑に付せないリアルさを感じます。)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081121-00000039-jij-pol
若者の非正規雇用が急増=10代後半は7割に-青少年白書(時事通信)
内閣府は21日、2008年版「青少年の現状と施策」(青少年白書)を発表した。若者の間で派遣や契約社員、フリーターなど非正規雇用の割合が増えており、10代後半では、ここ15年間で72%に倍増。内閣府は「中卒や高卒の若者が正規雇用職員になれず、非正規雇用に流れるケースが増えたのが要因」としている。
総務省の就業構造基本調査によると、雇用者全体に占める非正規雇用者の割合は、15-19歳が1992年の36%から07年には72%に、20-24歳は17%から43%にそれぞれ増えた。非正規雇用の比率は全年代で増えているが、25-29歳(12%から28%)、30-34歳(14%から26%)に比べると、24歳以下の増加幅が大きい。
大卒でなければ正社員になることが困難な時代です。
これから大人になる世代が、「自立して安定した生活を手に入れること」のハードルがどんどん高くなっていることを実感します。
健常の若者でさえそうなのですから、障害をもった若者にとってのこれからの社会がどれほど厳しいものになるのかは、想像に難くありませんね・・・
コメントありがとうございます。
今回の不況の最大のポイントは、それがアメリカ発であることだと思います。
従来の不況は、究極的にはアメリカがクッションになることで「全経済」への波及がそれなりに抑えられてきたところがありますが、今回はそれがないために、あっという間に全世界・全産業が不況になってしまいました。
経済が苦しいときには、弱いものが守られにくくなります。
確かに親も苦しいですが、こんなときこそ、しっかりと子どもを守ってやりたいな、と思います。
家庭という「有機体」を元気な状態に保つことは、父親の大切な仕事だと思っています。