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2008年10月20日 [ Mon ]

ABAの限界について(補足)

今回のシリーズ記事は前回までの3回分で一応終わっているのですが、ちょうど連載中に「そだちの科学11号」のレビューを行なったこともあって、少し補足しておいたほうがいいかなと思う点があったので、書こうと思います。

今回の記事での結論を簡単にまとめると、「ABAには大きく2つの限界がある。1つは、「脳と活動の発達」のような典型的な複雑系の事象においては、還元主義的なABAのモデルは限界が見えやすいこと、そしてもう1つは、療育というのは子どもと養育者との相互作用そのものであり、ABAでは無視せざるを得ない『相互作用による養育者側の変化』が実際には極めて重要であることだ」ということでした。

これ、内容を表面的に追っていくと、「よくわかる自閉症」や「そだちの科学11号」などで小林隆児氏が展開している「関係発達臨床」説における問題意識とかなり近いように映るのではないでしょうか。
彼もまた、自閉症の臨床にあたっては「発達」と「母子関係(これはちょっと表現として狭すぎだとは思いますが)」にこそ注目しなければならず、ABAなどの方法論はこれらを無視しているため適切ではない、という立場を表明しています。

でも、この一見似ているように見える、私の立場と小林氏らの立場は、やはり根本的に異なっているのです。

今回のシリーズ記事で書いた私の立場というのは、次のようなものだからです。

・ABAは自閉症の療育の相当に大きな領域をカバーしており、極めて有効である。
・しかし、ABAではカバーしきれない領域があるのも事実である
・ABAの方法論は、その限界をふまえて応用する限りは適切なものである。
・「ABAがカバーできない領域」に対する有効な方法論は、残念ながら今の時点では存在しない。
・ABAが万能だと考えるのは危うい。ABAは限界をふまえて有効活用するとき最大の効果を発揮する。


これに対して、私が理解する、小林氏らの立場とはこのようなものでしょう。

・ABAは自閉症の療育における本質、中核的要素を無視している。
・したがって、ABAの方法論自体が自閉症療育にとって不適切である。
・自閉症の臨床は、すべからく「関係発達」の視点から出発すべきである。
・自らが提唱する「関係発達臨床モデル」に基づく働きかけが、自閉症療育の基礎を形成する。
・ABAのようなやり方に頼ること自体が危うい。ABA的方法論から「脱却」することが肝要である。


つまり、ABAの有効性を認めたうえで、さらにその先にある「ABAの限界を超えた療育」を志向するのが私の立場だとすると、ABAの適切性を認めず、かつ自らの「関係発達臨床モデル」が自閉症療育を基礎から構築できる(すべし)と考えるのが小林氏らの立場だ、と言えるのではないでしょうか。

私は、小林氏らのいう「関係発達臨床モデル」については、「壮大なトートロジー(同語反復)」「解釈のあとづけ」に過ぎず、再現性・検証(反証)可能性のない、実際の療育に対して有効性が期待できるような方法論だとはとても言えない、と否定的に評価しています。

小林氏らが指摘するような領域に、方法論としてのABAの限界があるのはそのとおりでしょう。ですからその点については、表面的には私の立場と小林氏らの立場との間に通ずる部分もないわけではないのだと思います。

でも、どんなにABAが「無視しているように見える」領域がたくさんあったとしても、現実(エビデンス)として、ABAが自閉症の療育に確実な一定の成果を上げていることも事実です。その事実を無視して、ABA的な方法論からまったく遊離した「自閉症のモデル」を実証なくABAを実証なく批判しても、それはフェアなやり方だとは言えないのではないでしょうか。
統制された実験によって、ある条件下(ないしある領域)では安定してABAよりも自分の提唱する方法論のほうが優れている、有効だというエビデンスを示せない限りは、そのモデルに「臨床的な意味での」存在価値があるとは言いにくい、と私は考えます(そう考えてみると、「臨床」心理学が、観念的に構築された理論とエピソードの収集に傾倒し、なぜか「臨床効果」をかっちりと検証して示そうという傾向が強くないことは、ある意味驚くべきことなのかもしれません)。

それこそ、現に待ったなしで子どもに対応しなければならない私たち当事者としては、そんなもので「営業」に来られても、「ABAで間に合ってます(役に立つという証拠が出たら、マニュアルを作って、それから来てください)」という反応にならざるを得ないわけです。

大切なことは、いまここにある「はしご」では高さが足りなくて、屋根の上にまでは登れないと分かったときに、そのはしごを捨てて空中浮遊術をマスターしようとするのではなく、とりあえずはその(限界はあるけれども一定の高さまでは登ることのできる)はしごとしっかりと捨てずに使いながら、いつか屋根に登れるよう、少しずつはしごを改良したり高さのある足場を作っていくような、地道な努力を重ねていくことなのではないか、と思います。
(「そのはしごはまやかしだ」と主張する方向性もアリでしょうが、だとすればそれはそれで、まやかしであることを明確に実証して欲しいわけです。)

繰り返しになりますが、こういった分析系の人たちの「目のつけどころ」は、そんなに間違っていないと思うのです。人間機械論的なABAを盲信するのが危ういといった辺りの問題意識も、けっこう共有できるんじゃないか、とも思っています。
でも、それにしても、いま出されている「対案」は脆弱すぎて、本当の意味で役に立つ「臨床」心理学にはなっていないんじゃないか。そう感じているわけです。

ABAは叩かれて叩かれて、それでも生き残っていまの姿がありますABAを乗り越える「対案」があるとすれは、それは当然、ABA以上に「叩かれて」も、しぶとく生き残れるだけの「強さ」を持っていなければいけないはずです。ちょっと叩いたら潰れてしまうものや、そもそも「叩けない(反証できない)」ものは、ABAの「対案」になるにはあまりに力不足なのではないか、と思わずにはいられないのです。

posted by そらパパ at 21:52 はてなブックマーク | コメント(9) | トラックバック(0) | 理論・知見
この記事へのコメント
何度も済みません。

正にそうだなぁ、と思って読みました。
ABAのたたかれ強い理由のひとつは、証拠をしっかり残しているから、だと思います。全てがエビデンスベースであり、実際の場面に応用していなければいけませんから、実際に保護者面談で叩かれても、このようなデータが出ています、とデータを出せば、納得せずにはいられないという現実があると思います。

私は課題を書いていて,最近思うようになったことは、何年か前は忠実にABAにそった課題を書いていましたが、それだけでは対応できなくなってきた、ということです。仰る通り、今あるはしごだけでは、屋根まで登れないのです。そのあたりを、課題を子ども向けに改良して、少しだけはしごを伸ばす努力をしています。ABAに対抗するものが出てくるのかどうかには、私自身ちょっと懐疑心がありますが、ABAを土台にして、それをもっと改良して、人間対応っぽくなったものが出てくる事は時間の問題ではないかと思います。
Posted by 塩田玲子 at 2008年10月22日 03:59
塩田さん、

コメントありがとうございます。

ABAをベースに療育をやっている人が、心因的なものをほとんど取り上げずに療育を組み立てているのは、そうすることが科学的な意味での説得力を強めるからそうしているのであって、心因的なものを忘れていたり、頭から無意味だと決め付けているわけではないのだと思います。

分析系の人は、心因的なものに意識をめぐらせているのは自分たちだけだと信じているように感じられますが、決してそうではないですね。非分析系の人は、その領域は(少なくとも現状では)本質的に「科学的な方法論」を立てられないから、手を出せない(出すべきでない)と考えているだけだと思うのです。

でも、少なくとも、「目に見えないもの(無意識など)を専門家が『解釈(分析)』することだけがこころのとらえかたである」という考えかたから脱却できない限り、分析系の療育が「叩かれることに耐えうる強さ」を持つことはないんじゃないだろうか、と思います。

そして、塩田さんが言及されていることや、私自身が問題意識としてもっているのはまさに、そういったトートロジー的で脆弱な世界を超えたところに、ABAがカバーしきれないエリアをカバーする療育を作れないだろうか、ということなんだろうと思います。
Posted by そらパパ at 2008年10月22日 22:03
JKLpapaです。大変ご無沙汰しています。
もし、議論から外れていたらごめんなさい。
そらパパさんもご存知だと思いますが、ポーテージプログラムという療育法があります。ベースは行動分析ですが、ポーテージでは、課題分析にものすごくパワーをかけます。理系の私から見ると、非線形の課題に対して、どうすれば線形近似でうまく表現できるか?をまずしっかり評価しているように思います。今回の記事の言葉で言えば、「はしごの長さ」とその「はしごをどこにかけようとするのか」の評価に、まず重点を置いている感じです。
 ABAやTEACCHの内容は、企業メーカでなされているTQC・TQMと基本的には同じだと思っていますが、今やはり企業でKAIZENブームが去ってしまっているように(というか標準化されてしまっています)、次のフェーズが検討されるべきなんでしょうね。それが、「要は、本人のやるきだ。」とかいう精神論ではないことだけは、確かだと思います。
以上
Posted by JKLpapa at 2008年10月23日 09:37
こんばんは。とても面白い議論なので、初心者ながら参加させてください。私もJKLpapaさんのように、ABAによる分析をTQC的にとらえていました。三つ組みの「質」の違いの度合いを、代用特性としての「行動の量」で測ると。「はしごをかける場所」は特に重要と思っていて、質やふるまいが大きく変化するポイント(パニックの前など)を捕らえて計測することなどです。そらパパさんのおっしゃる、観察者の問題は、療育者=観察者としたばあい、切り出された「場」によっては第三者の「評価者」の存在も重要と思っています。
この場合の評価基準は、「社会的に適応している/否」の○Xなものかもしれません。
「場」が療育者と当事者の2者で、適応の変化をみる場合、「転がって泣く回数が5回から1回になった」ことは、適用が良くなってきたと評価できます。でも、スーパーで1回でもやってしまったら、人によっては不適応とみなされてしまいますよね。
想定している「場」の評価者がどんな人か(受容度がどれぐらいか)によって、計測値が同じであっても評価は違いますね。
また、「靴をそろえる」というのは、比較的シェイピングしやすい行動で、親の行動が弁別刺激になるので、外で一回でもできれば「よい評価」をもらえる行動ですよね。こういう「場」をいくつか想定して強化していくことができればなぁと思います。でもできれば、受容度の高い「場」に少しでも長くいられることが幸せなんだろうと思います。それがTEACCHのめざすところかな、と思っています。
どのような「場」でも共通にできる行動をめざす(=汎化)よりは、重要な場(評価がぐっとよくなる/悪くなる)を選定するのがABAの効果的な使い方なのかな、というのが一連のみなさんの議論で感じたことです。
はしごの長さについては、まだ私のスキルではとてつもなく長く見えます(笑)。でもマスターしたいです。
Posted by ピッカリママ at 2008年10月23日 22:38
JKLpapaさん、ピッカリママさん、

コメントありがとうございます。

ポーテージについては私は詳しくないです。いっとき関心を持っていたこともありますが、今は積極的に評価はしない、というスタンスをとっています。
理由はシンプルで、ポーテージは内容やマニュアルの開示などについて消極的で秘密主義のように見えるからだ、ということです。

既に自閉症療育にはABA、TEACCHという完全にオープンで定評のあるものがあり、さらにはPECSやRDI、ソーシャルストーリーのように、技法ないしブランドとしてはパテントで守ろうとしつつも中身については努めてオープンにしているものもある中で、内容が必ずしも積極的に開示されないものについては評価の優先順位を下げざるを得ないですね。
ポーテージはうわさに聞いている限りにおいてはそんなにおかしなものではないとは思いますが、情報開示は不十分だと感じているので、そこが残念なところです。ですから、ポーテージに関してはコメントができません。ごめんなさい。

ピッカリママさんのご指摘についてですが、ABAの限界をふまえた節度のある働きかけという意味ではまったくそのとおりだと思います。
ABAが切り捨てていることや不得意なことがあることを前提としつつ、その限界のなかでどうすれば節度をもってうまくABAを最大限に活用することができるか、という問題意識をもって療育をすることはとても大切なことだと思います。
ちなみに、療育者=観察者の場合に第三者をおけばいいのでは、という点については、それはABA的には正しいんですが、ここでの力点は、療育者=観察者であるが故の相互作用による療育者側のダイナミックな変化(平たくいえば親の成長)も療育の本質だ、ということなんですね。ですから、療育者が変わっていくことを、無視するのでも第三者が観察するのでもなく、療育者が、あるいは子どもが、もっといえば「療育という営みそれ自体」が「自身の内部」としてとらえて、そのダイナミズムも含めて「療育」というものを再定義したい、と考えているわけです。もちろん、これはあまりに壮大な話で、少なくとも現時点では、私はこのことを「科学的に、もしくは論理的に」記述することはできませんが・・・
Posted by そらパパ at 2008年10月24日 22:30
そらパパさん、
ご講演前のお忙しいときにコメントありがとうございます。

>ここでの力点は、療育者=観察者であるが故の相互作用による療育者側のダイナミックな変化(平たくいえば親の成長)も療育の本質だ、ということなんですね。

よくわかりました。ありがとうございます。はずれたところで議論してしまって申し訳ないのですが、ひとつだけ。

>療育者=観察者の場合に第三者をおけばいいのでは、という点については

第三がいればよい、というよりは、療育者でない第三者が評価してしまうことが現実では多いのかなと感じていることです。なので、文脈からはまったくはずれた議論でした。すみません。

私自身ABAの本を読んだだけで、子供の行動を見る視点がガラっと変わって、子供はまったく同じ行動をしていても、働きかけが変わりました。そして、そのときの冷静さや気持ちの余裕も...
今は、つたないながら、保育園の担任の先生に、ABAのポイントをお伝えするというのをはじめています。

そらパパさんにお勧めいただいた、「うまくやるための強化の原理」は、私にはとてもわかりやすく、何度も読み返しています。ここでも、やはり「強化の原理は万能ではないが、かといって強化の価値が下がるわけではない」と書かれています。そして組織力の強い(高圧的な?)ところでうまくいかなかった例などもありました。今後自分にABAのスキルがついていったときに、「万能感」を持たないことを覚えておこうと思います。

ご講演のご成功をお祈りします。
Posted by ピッカリママ at 2008年10月25日 08:21
ピッカリママさん、

ピッカリママさんは、いまはABAを丹念に学んでいらっしゃる段階だと思います。

ここで私が問題提起していることは、実はあまり療育という観点からは生産的な話ではないと思いますので、ABAの限界が見えてきたり、ABAの限界について声高に叫ぶ勢力のことを考えたりするときに初めて考える必要があることなんだろうと思います。

最後に書いていらっしゃるように、「万能感をもたないこと」、これさえ節度をもって守っているならば、ABAに全力でまい進していくのが、いまは最良の道だと思います。応援しています。

(講演については、別エントリで書かせていただきました。何とか無事に終わらせることができました。)
Posted by そらパパ at 2008年10月27日 21:40
こんにちは。そらパパさん、暖かいコメントありがとうございます。今日、娘が就学予定の小学校を見学させていただきました。個別支援級と普通級の全学年をひととおり見ることができました。
そこで、1年生のクラスで、「強化」によってすばらしくコントロールされているクラスと、「罰」によってコントロールされているクラスを同時に見ることになりました。「罰」でコントロールされているクラスについては、ここで語ることを控えますが、「強化」でコントロールされているクラスの、集中力と自主性に驚きました。本当に鳥肌が立つほど感動しました。
地域の小学校は、チャイムが鳴らないんです。2時間続けて授業したあと、3時間目が始まる前に20分の中休みがあります。1年生も自主的に運動場から戻ってくることを要求されています。うわさに聞いていたのですが、それができるのかどうか、中休みの終わりまで観察していました。
すると、あるクラスはきっちり25分後に授業が始まったのです。先生はまったく声を荒げることなく、淡々とはじまったのに、子供達はすーっと戻ってきているんです。そのバッファーの5分は、「授業の準備のための時間ですよ。トイレ行きたい人はいってきてください」という声かけ1回のみです。そこで休み中にトイレにいきそびれた子供達がバタバタと数名走っていって、戻ってきておわり。少し遅れた子もいましたが、とがめられることもなく、授業に入っていったのです。授業の最初も、机の並べ替えという「自立課題」が切替になっていたなーという感じでした。
先生の声は終始落ち着いていて、具体的でわかりやすいことばで短い指示を出す、という感じで淡々と進められていました。
その先生がABAをご存知かどうかはわかりませんが、こういう先生にあたったら1年幸せだなーとつくづく思いました。
でも、それは今日みた限りでは1/3の確立なので厳しいなというのが、夫も含めた感想でした。今日の最大の収穫は、IQが境界・標準でも個別級の在籍を柔軟に対応いただける、ということを伺えたことでした。
来月の就学相談、がんばって個別級希望を出してみたいと思います。
Posted by ピッカリママ at 2008年10月30日 19:30
ピッカリママさん、

ピッカリママさんのところも就学準備でお忙しいんですね。
こういったときに大切なのは、親の目線からではなくて、子どもの目線から判断すること、それに尽きると思います。

学校にしても先生にしても、もちろん当たり外れはあるでしょうが、それはそれで、どんな状況になっても、その中でうまくやっていく方法はきっとあるもんだと、私自身も(娘のことについても)楽観的に考えています。

(療育って、楽観的でいることが、ある意味とても大切なことなんじゃないかな、と最近改めて感じています。)
Posted by そらパパ at 2008年10月30日 21:58


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