
そだちの科学 2008.10 11号
特集:自閉症とこころのそだち
編集人:滝川一廣・小林隆児・杉山登志郎・青木省三
日本評論社
特集によせて
I 治療・研究のフロンティア
自閉症のこころの問題にせまる 小林隆児
自閉症への多面的アプローチ─発達というダイナミックな視点から 神尾陽子
自閉症スペクトラムの原因論─人間の多様性のひとつとして捉える 鷲見 聡
広汎性発達障害とトラウマ 杉山登志郎
高機能自閉症という「くくり」について 岡田 俊
特別支援教育のなかの自閉症 田中康雄
II 自閉症のこころにせまる
昨今の児童精神科臨床と発達障害─日常臨床のなかで考えたこと 安藤 公
家族へのアプローチ 西本佳世子
精神分析の立場から 平井正三
発達臨床の立場から 山上雅子
心理臨床の立場から 酒木 保
III そだちの現場から
発達障害者支援施策の現在 大塚 晃
自閉症児への自立支援 高畑庄蔵
地域に生きる自閉症児たち 小林秀次・辻井正次
自閉症児とのコミュニケーション─保育の現場から 七木田方美
クリニックの役割について 鈴木啓嗣
家族の立場から(1)─41歳になった博 深見 憲
家庭の立場から(2)─高機能発達障害の息子 植原淳子
Ⅳ ライフステージと自閉症
自閉症の兆候がある乳児のケア 黒川新二・米島広明
幼児期における療育の焦点 若子理恵
学童期のペアレント・トレーニング 飯田順三
思春期における広汎性発達障害─外来診療から 青木省三
アスペルガー少年の思春期─児童精神科病棟から 西田寿美
大学生における「アスペルガー症候群」の理解と対応 滝川一廣
成人期の自閉症者とむきあう 村田豊久
ブックガイド・児童精神医学のながれ
『自閉症とは何か』小澤 勲
『詳解 子どもと思春期の精神医学』中根 晃・牛島定信・村瀬嘉代子編
『闇の子供たち』梁 石日
「そだちの科学」が創刊号以来の自閉症特集を組んでいて、中身を読んでみると、確かに全面にわたって自閉症の話題が書かれていてボリューム感があったので、買ってみることにしました。
この「そだちの科学」というのは、「科学」とありますけど、内容を正確に反映するなら「そだちの『精神医学』」と呼んだほうがいいだろうと思います。
編集人に名を連ねているのは児童精神科医の先生ですし、内容的にみても、精神医学のなかでも「科学」から遠いと思われる「心理療法」「精神分析」に主軸を置く議論が展開されていますので、「科学」的な議論を期待すると肩透かしを食らいます。
本号においても、やはり同様に反「行動・認知主義」という立場を鮮明にしていて、それは冒頭の「特集によせて」をみれば明らかです。(非常に含むところが大きいと思うので、かなり長めに引用します。)
言語認知障碍仮説が世界を駆け巡って四〇年近くが経過したが、今日まで自閉症の原因は器質因を中心に論じられてきたように思う。その過程で自閉症という障碍をもつ人々のこころはほとんど顧みられることなく、時には彼らは他者のこころを理解するのは困難であるといった障碍仮説まで登場するに至っている。
本来、人間のこころの問題に対して我々が非力ながらも援助の手を差し伸べることができるとすれば、われわれ自身のこころを通してしかその術はないはずである。(中略)こころの動きを捨象することはできない。このようなこころの動きを考慮に入れた援助の在り方をも広義の精神=心理療法に含むとするならば、たとえ自閉症という障碍をもつ人々に対してであっても、精神=心理療法は不可欠ではないか。
過去の心因論に対する反動もあって、自閉症に対する精神=心理療法は久しく真正面から取り上げられることはなかった。今日、彼らの脳だけを見て(実際には脳も見ていない人々が大半であるが)こころを見ようとしない臨床現場があまりに多いことを考えると、ここに改めて「自閉症とこころのそだち」を特集として取り上げるのも、時代要請的ではないかと思う。
そして、いきなり「よくわかる自閉症」の小林氏の寄稿から始まるわけですが、相変わらずこれは読んでいてキツいですね。私には、まさにこれは「壮大なトートロジー(同語反復)」「解釈の後づけ」だとしか読めないのですが、小林氏はこれでかっちりと理論構築ができていると感じているのでしょう。
仮に、こういった考えかたを「療育のための仮説」と位置づけて意義づけようとしても、「こころ」を定義せずに「こころ」を解釈し、「こころ」に働きかける療育モデルには再現性がなく、終わったエピソードを解釈するばかりで、これからの療育に道筋を与えることができないという批判に答えるのは難しいんじゃないかと思います。
どのような子どもに精神分析的心理療法が役立つのか?
この問いに答えることは難しいように思う。(中略)心理療法への子どもの反応性は、不可思議なところもあり一概には言えないように思われる。
逆に言えば、精神分析的心理療法は、どのお子さんにも大変有効とは限らないアプローチであり、(以下略)52~53ページ「精神分析の立場から」より
たとえばこの記事の引用部分は、「精神分析的心理療法」には再現性も検証可能性もないと事実上告白しています。「精神医学はそういうもの」という立場もあるかもしれませんが、だとすれば少なくともそれは「そだちの『科学』」とは呼べないでしょう。
そういったエピソード主義の寄稿が集まるなか、なぜかぽつんと入っている、高畑先生のABAによる働きかけの寄稿の具体性が輝いて見えます。
たくさんの人が寄稿していて、統一感のない特集になっていますが、逆に、自閉症にかかわるさまざまな「専門家」の方々がどのようなスタンス・思想をもっているのかを幅広く知ることができて、そういう意味で「読む価値・入手する価値」があると思います。
プレイセラピー(遊戯療法)や描画療法に真剣に取り組んでいる専門家の寄稿も複数あり、ABAやTEACCHには批判的な編集スタンスの特集だと言えますので、ふだんこれらの療育技法を中心に本を読まれているような方(私もそうですが)にとっては、1冊で「それ以外の世界」をまとめて知ることができる「便利な本」になっているともいえるかもしれません。
とはいえ、先に指摘したとおり、こういった心理療法的アプローチの最大の問題点は、効果の検証が不十分で再現性にも乏しく、働きかけがうまくいっているかどうか誰にも答えられない、という点にあります。何の実験的統制もかけていないのに、一部の子どもが「発達」「変化」を見せたら、それを「働きかけのおかげ」だと考えてエピソードとして取り上げるのは、まさに「統制感の幻想」に他ならないのではないでしょうか。
そういう意味では本号は、親として療育の参考になるというよりは、自閉症についての知識を既にもっている親御さんが、「読み物」として読んで、「いろいろなこと」に思いを馳せる、そんな本です。
本号は、引用した「特集によせて」にあるように、自閉症の認知障害仮説が行き詰まり、いよいよ自閉症への心理療法が復権しつつあると高らかに述べています。
実際、私もそういった話をけっこう耳にします。
確かに、「心の理論障害仮説」を筆頭とするモジュールモデル的な自閉症の認知障害モデルには問題が多く、そこから満足できる療育モデルが導き出されていないのも事実でしょう。でもそれは仮説のスジが悪かったに過ぎず、より優れた「認知障害のモデル」を模索すべきものです(それに対する私なりの精一杯の試みが、1冊めの本『自閉症-「からだ」と「せかい」をつなぐ新しい理解と療育』です)し、それら仮説とは直接関係がなく、再現性のある実績をもつABAやTEACCHが「失権」することにもならないはずです。
心理療法的アプローチが、もう少し「こころ」を厳密に定義してくれて、再現性のある「こころへの働きかけ」を描き出してくれるようになったなら、確かに目の前の問題を解決することにとらわれがちな昨今の療育に、豊かな幅をもたらしてくれる可能性はあると思います。そういう意味で私はこの方向性のアプローチを全否定するものではありません。
でも、そういったことなしに単に時計の針が逆に戻るようなことが起こって、再びプレイセラピーや描画療法で「こころ」を育てる療育が「業界標準」となる事態がおこったとしたら、当事者としては悪夢でしかないと感じます。
そういうある種の懸念を実感する本としても、本号は意味があるのではないでしょうか。
※その他のブックレビューはこちら。
最近、スクールカウンセラーの間で、問題行動の背後に発達障害の存在を仮定すると、よく理解でき、なおかつ対応が可能であるという見解が普及しています。しかし、これは、専ら「心因」を原因とする臨床心理士の立場から、離れてしまう恐れがあるので、タスティンの精神分析理論を再度、見直そうという機運が高まっています。
関係の障害はあくまで、二次的障害のはずですが、分析系の強い業界では通用しません。児童精神科医も、最近の傾向を奇異に感じています。このブログにおいて、「自閉症は生物学的基盤から発する症状である」ことを取り上げる必要を痛切に感じています。
コメントありがとうございます。
ウルトラマンの父さんが指摘されているように、自閉症に精神療法を適用しようという「機運」が高まっているのは、学校という場に「スクールカウンセラー」が置かれるようになって、そのスクールカウンセラーは臨床心理士という資格をもった人たちで、その臨床心理士という資格は精神分析の流れをくむユングの専門家であった河合隼雄氏の「政治力」によって創設された、という背景と強い関係があると思います。
要は、まさに子どもの教育の現場である学校に、精神療法の先生がずらっと配置されている、ということです。
記事にも書きましたが、時計の針が逆に戻るようなことが起きないことを願っています。
ある種のアセスメント(最初の診断)として子どもを遊ばせて観察してみるというのはアリだと思いますが、問題は「その後、どう働きかけていくのか」にあります。その部分に、再現性と検証可能性のある方法論をぜひ出していただきたいと思うわけです。
いつも楽しく拝見させていただいております。とても勉強になります。
今回、珍しく(初めて?)そらパパさんのコメントに反論がありますので、初めてコメントさせていただきます。
>要は、まさに子どもの教育の現場である学校に、精神療法の先生がずらっと配置されている、ということです
これはちょっと乱暴かなあ、と。
私は、自閉症児の父であり、臨床心理士でもありますが、臨床心理士がみな河合隼雄先生万歳、精神分析万歳ではないと思います。現に私は、河合隼雄先生を尊敬しておりますが、精神分析に足場はありません。
今や自閉症業界(?)に少なからぬ影響力をお持ちのそらパパさんのコメントなので、ちょっと気になりました。
コメントありがとうございます。
個々の臨床心理士の方を悪く言うつもりはまったくないですし、もちろん全員が精神分析重視だとも思いません(コメントでも「精神療法」と、多少ぼかして書きました)が、臨床心理学の大学院を出た人がずらっとスクールカウンセラーに並ぶ、というのは、やはり「全体の機運」としては、「スキナー、ショプラーよりもタスティン」という流れを強める方向に働くのは間違いないんじゃないか、と感じているわけです。
そもそも臨床心理士というのは排他的な資格だと思います。何しろ「指定大学院」を卒業しなければ試験も受けられないわけですから。また、私は書店で「傾向と対策」を立ち読みした程度ですが、試験の内容も、力動的精神療法にかなり重きが置かれているという印象を受けました。
まあ、そもそも、臨床心理士という資格は実は一民間資格にすぎないわけで、そういう意味では排他的であったり特定の療法にある程度の肩入れがあったりしてもそれ自体は問題がないと思いますが、現実問題として、スクールカウンセラーという公的ポジションを独占的に獲得しているという点で、ただの民間資格と呼べない状態になっていることが問題だと思います。
そういう意味では、心理学を学ぶ学生(ただし、特定の大学院に通う臨床心理学専攻の学生に限られてしまいますが)に就職の道を作ったという点に河合氏の政治的功績があることは間違いないと思います。
ちなみに、私も臨床心理士ならぬ「認定心理士」の資格はもっていますが、これはまったくメシの食えない資格です。(笑)
臨床心理士についてのそらパパさんの発言に「わ~い痛快!」と感じながら,よしたけさんの発言にも(初めまして)「それはそうかも…」と納得できるものを感じます。(すっきりしない立場だな~)障害児の発達支援という仕事の関係上、同僚や身近に臨床心理士資格を持った人が多くいます。(私は持っておりません・汗)その中には尊敬できる人も少なからずいます。
私はかねてから臨床心理士という方の中には3派ある,と感じて来ました。
その1は、年配の人でユングとか誰々とか、~派という旗印を鮮明にさせている方,これはもう,有効無効関係なく、そのブランドで生きていくという方なんだろうな、と思います。
その2、(1と重なるんですが)発達障害の世界に「治療」の概念を乱暴に持ち込み,自分と、この新しい理論は発達障害をなおせると断言して人を集めるタイプ。多くはありませんが発達障害の支援にとってかなり迷惑な存在と(私は)感じます。
そしてその3,発達障害児・者とのっぴきならない状態で関わり,日々の具体的な問題の「解決・改善」から目をそらせず,中心課題とせざるを得ない人。発達障害児の支援の仕事に誠実に立ち向かおうとすると,もともとの立場が例えば精神分析的なものであったとしてもその他のアプローチを折衷的に取り入れざるを得なくなる。(少なくともそういう努力をしようとする)こういう人たちが臨床心理士の中でも信頼できると感じられる人かなあ、と私は感じています。
親御さんでもあるよしたけさんも,まさにそれ以上に無い「のっぴきならなさ」で発達障害と向き合っていらっしゃる臨床心理士,なわけですよね。
数は多くありませんが,わたし、臨床心理士を目指して勉強している,又は「なったばかり」の若い方とお話したり、勉強したりする機会があるのですが,多くの場合、TEACCHやABAについては大学の中では教わる事も触れる事もほとんどないと聞き、考え込んでしまいます。それはおどろくほど。で,考え込んでいても仕方が無いので,そういう人たちに『子どもや発達』に関わる仕事をするなら,一度はTEACCHの勉強をしてみよう,ABAの考え方と向き合ってみよう、賛成するかどうかは別に…と語ることになります。こんなわかりやすい本があるよ,そらパパさんのHPは絶対勉強になるから、と。臨床心理士の資格を持っていてもいなくても,若い人にそんな事を少しでも伝えていきたいと思います。
(すみません。長くなりました。年のわかってしまう,感想でした。)
買うかどうか、悩みますが、大きな本屋で並んでいたらちょっとパラパラみてみようと思います。そもそも、ABAやTEACCHに批判的な勢力(?)がある、というのもびっくりです。まだ自閉症療育初心者の私は、「自閉症」関連の出版物は何でも鵜呑みにしてまうかもしれません。目を肥やす意味で必要かもしれません。
すみません、この場を借りて少しそらパパさんのご意見が聞ければ嬉しいです。
最近、2歳10ヶ月の息子の短期のグループ療育が始まったのですが、6人の子供に3人のスタッフという恵まれた環境だと思います。1回目は、「この場のルールを子供に理解させる」ことが主な目的だったそうです。個別の遊びの場と、課題や紙芝居を見る場所が壁で仕切られていて、簡単な構造化がされていました。
基本的には、遊びの場所もその子専用スペースがあり、そこからたち歩くと戻されます。課題は2人づつですが、紙芝居などは6人全員が自分の席に着席して、先生を注視することに慣れさせるというものでした。
息子は2歳10ヶ月で最年少で発達年齢が2歳前後です。多動傾向があり、私が同じ場にいたこともあり、離籍することが多かったのですが、よく観察していると、次に何があるのかわかっていないときに立ち歩いてたようです。
紙芝居で、アンパンマンがでてきてら、次はまたバイキンマンがでてくるだろうな、というような想像(見通し)が立たないので、アンパンマンが消えたら席を立つというふうに見えました。
電車ごっこの順番は、次に自分が乗れるとわかったら着席できてました^^;
息子の認知レベルと想像力のレベルではついていけない構造化だなという印象でした。
質問は、集団療育とはそもそもルールを理解する、とか集団行動がとれる、というのが目標となるのでしょうか?(漠然としてますね、すみません)
アスペの娘の方は、心理士の先生との「お勉強」や体験レッスンの「ソーシャル・スキル・トレーニング」を「楽しかった!!」といって、成功体験を積んだように見えましたが、息子の方は、本人にとっては意味のわからない活動を強いられているような印象がぬぐえませんでした。
もう少し回を重ねてみないとなんともいえませんが,,,
今通っている保育園の先生方のスキルの高さを再認識する場でもありました(笑)。
お返事ありがとうございます。
そらパパさんの認識は分かりました。
「精神療法の先生がずらっと配置されている」という表現が、いつも言葉の使い方に配慮されているそらパパさんにしては、誇張された表現だなあ、と思ってコメントしたまでです。
コメント汚しお許しください。
これからも、いろいろ発信し続けてください。よろしくお願いします。
私自身はこのブログで、必ずしもあらゆる療育法や臨床的な立場に対して中立であろうというスタンスはとっていません。あえていうならば、あらゆる療育法や臨床的な立場に対して、科学的な意味での「批判的態度」を公平にとっていこうとしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E6%80%9D%E8%80%83
ですから、そもそも「批判的態度」をとることができない、つまり、反証可能性がない(検証できない)タイプの療法に対しては厳しめにならざるをえませんし、そういったものが「再現性のある治療的効果をあげている」と主張するのは、先の「統制感の幻想」にすぎないと考えているわけです。本号には、そういったタイプの「療法」が数多く並んでいるように感じます。
http://www.nextindex.net/physics/history/Popper.html
そういった立場からも、私は、現状のスクールカウンセラー「制度」には問題が多いと思っています。
教育の専門家(先生)とは別に「こころの専門家」が必要だ、という考えかたは、検証不可能な「こころ」が実在し、問題はその「こころ」で起こっている、という心身二元論、心理主義という思想的立場を内包しています。子どもの学校生活から、そういう「実在するかどうか分からないもの」だけを切り取って、その部分だけを扱う「専門家」をおく、という制度は、なんかちょっと違うのでは、と個人的には思うわけです。
この辺りの考え方は、以前レビューで触れた河野哲也氏の『〈心〉はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学』に近いものです。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/17953504.html
http://tetsuyakono.typepad.jp/blog/6-cyosaku2.html
学校という場において臨床心理学的なニーズがあるとすれば、それはやはり広い意味での「発達障害」に関する領域が大きいことは間違いないでしょうし、そのニーズが生まれる「現場」はあくまでも授業そのものでしょうから、もっとシンプルに、すべての教員養成課程に発達障害の課程を十分におき、教育実習にも必ず特別支援系の課程を含める、そのうえで教員免許の付加価値的な資格として臨床心理士的なものを認める、といったアプローチのほうが適切であるように思われます。そのような「教員の付加価値化」の結果として、学校によっては「心理の先生」が誕生する、という柔軟な制度であれば、それを否定する理由はないでしょう。
今回のエントリのコメントでは、現状のスクールカウンセラー「制度」への私の否定的な態度がちょっと強く出すぎてしまったかもしれません。スクールカウンセラーの方、臨床心理士の方を攻撃する意図はありませんので、その点不快感を与えてしまったとすればお詫び申し上げます。
また、この辺りの私の考えかた(「こころ」の実在性そのものに懐疑的)はかなり「過激」なものであることも自覚していますので、特に読んでいただいている方に賛同を求めているということもありません。ああ、そういう考えの人間が書いているブログなんだな、とご理解いただければ幸いです。
最後に、ピッカリママさんのコメントの後半のご質問部分についてですが、実際に現場を見ていないのでなんとも言えませんが、その療育の「場」が、お子さんにとって「強化的な場」になっているかどうかを見極めることが重要だろうと思います。
つまり、「望ましくないこと」をやったら叱られたり行動を制限されるといった「罰」ばかりが与えられるのではなく、「望ましいこと」をやっているとほめられたり楽しいことが起こったりという「ごほうび」が十分に与えられている場になっているかどうか、ということです。
「おかあさん☆おとうさんのための行動科学」の石田淳氏は、「ごほうび:罰」の比率は4:1かそれより「ごほうび」が多くなければならない、と書いていますね。私はこの話の出自がどこか知らないのですが、実感としては納得できます。ピッカリママさんが既に気づいているように、同じ「場」であっても、お子さんによって受け取るごほうびと罰のバランスは変わりますから、実際に観察して確かめる必要があります。
もしも、お子さんにとって「罰が多い」バランスの場になっているとすれば、多少の「望ましくない行動」は認めるとか、逆に「望ましい行動」により多くのごほうびを与える(例えば、ただ自分のエリアで遊んでいるだけでも、一定時間ごとにほめてあげるなど)とか、罰を与えるのではなく代替行動分化強化を行なう、などによって「ごほうび:罰」のバランスを変え、「強化的な場」になるようにしていく必要があるでしょう。
そして、もしそういった配慮に対して施設側が協力的でなかった場合には、残念ながら、その「場」はお子さんにとってはあまり向いていない、という結論になるんじゃないかと思います。(もちろん、その「強化的な場」で子どもがどんな経験ができるのかということも重要ですが、それはその次にくることでしょう。)
>、「ごほうび:罰」の比率は4:1かそれより「ごほうび」が多くなければならない
これは、実は娘に対して、私が日々反省していることです。褒める:怒るの比率が見事に逆転していると思います,,, 日々反省です。自分の言葉かけを一日記録してみようと思っていました。
あらためて、子供達の保育園での日常を思い起こすと、ほんとにいろんな場面でみんな良く褒めて(認めて)もらってます。タイミングといい、頻度といい絶妙です。
そらパパさまの著作を買って初めてこのブログの存在を知った、高機能自閉症の男の子とADHDの娘をもつ母です。
よろしくお願いします。
そだちの科学、買おうかどうしようか迷って、結局買ってなかったのですが、今ここのコメントを読んで「買わなくて良かったかも」と思いました(笑)。
私は大学&大学院で心理学(基本実験系ちょびっと臨床の文学部系)を勉強をしましたが、大学院は中退したので、心理系の職には就かないままなのですが、そーいやTEACCHとかABAは自主研究会という形で個人で勉強されている方はいたかもしれませんが、授業科目の中では全くありませんでした。
学生時代、何年か自閉症を含む発達障害のお子さん達の治療をする臨床心理士の開くクリニックでグループプレイセラピーやテストをしていたことがありますが、TEACCHは部屋の構造化という点では使っていましたが、ABAの手法はほとんど使っていなかったように思います。
主目的が子どもが色々な子と遊びながら、人との関わりや言語の発達を促していくと言う物だったからかもしれませんが。
それでも、どちらかというと精神分析的な感じがするクリニックだったような気がします。
今、もし、うちの子をつれていきますかと問われると、「うーん、どっちでもいいかなあ?悪くはならないと思うけど」という感じなので、多分、つれていかないような気がします・・・(笑)
今は海外在住で療育の場が全くないので、困っています。自分で立ち上げていこうと思うのですが、私自身が膠原病持ちで体調が一定せず、なかなか進みません。
子どもも親もぼちぼち行くしかないよなあとため息つきつつ、子どもの療育や家事などには積極的でないダンナをどう促していくか考え中です。
長いコメントですみませんでした~
TEACCHやABAに批判的な勢力があるということで驚いている場合ではないですよ。
私は、ある大学院で教えていますが、関西では有名な某教授は「TEACCHとは一体何かね、教えると言う意味ならCが多いんじゃないか」とのたまわりました。ましてや、行動療法の話をしようとすれば、そのような人は、出て行ってくれと言われました。とにかく直観大好き、訓練という言葉は大嫌いという姿勢です。
さらに、今から5年前、関係していた養護学校の校長と話していた時、構造化は自閉症の子どもに有効なので、授業に取り入れてはと提案したところ、「うちでは、太田ステージでやっていますから」と断られました。
別に私はTEACCH教の伝道者ではありませんが、科学的に検証されている(あるいは、無効ではないとされている)方法は、取り入れようとする考えに変わりはありません。ところが、臨床心理学の世界で「エビデンス」と言うと、宇宙人扱いされるという状況は、多くの大学で共通するかと思います。グチになりましたが、そんな世界なんですよ。臨床心理学とは(-_-)
1つ前のコメントで、私の立場は明確にしていますので、その点についてはコメントを重ねるのは控えたいと思います。
ともあれ、私がこのブログではっきりと示したいと思っているのは、「心理学は魔術ではない」ということです。
心理学は、「道を究めた」ごく一部の専門家だけが真理に到達できて、「素人」はその教えを聞くことしかできないような、「謎に包まれた」学問ではありません。
それどころか、私たちが関心をもつような「療育への応用」についていえば、多くの専門家が再現性のない思弁の世界に軸足をおいていることもあって、少なくとも「こう働きかければこういう効果がある」といった「再現性のある領域」に限定するなら、当ブログを読んでいただいている程度の知識でも、それらの多くの「専門家」をあっさり追い越してしまっているんじゃないか、と思うくらいです。
ですから、当ブログを読んでいただいたり、自分でABAやTEACCH、PECSについて勉強したりして、家庭の療育に取り組んでいる方は、自信をもっていただいていいと思います。
恐らくその療育の水準は、それだけで優に「平均以上のもの」になっているはずですから。
当ブログが、そういう意味で、「王様ははだかだ!」と叫ぶ少年の役回りも演じられたらいいな、と思っています。(もちろん、「王様」としてはそんな風に叫ばれたらたまったものではありませんから、そういった方面から評価いただけないのは、仕方のないことだとも思っています。(^^))
>「ところが、臨床心理学の世界で「エビデンス」と言うと、宇宙人扱いされるという状況は、多くの大学で共通するかと思います。」
これでは、「理論」ではなくて、「意見」ですよね,,,
xx分析について少し調べてみましたが、とても偏っているように見えるこの「意見」が、データによる裏づけもないまま、かくも長きにわたって、多くの知識人に支持され、なぜ社会的に勢力を保てているのか素朴に疑問を感じました。
ただ、娘がこれから入っていく「学校」というシステムの中で、反証不能な「意見」にどう対峙していくのか、作戦が必要だと思いました。
そらパパさん、
>「王様ははだかだ!」
これはとってもすっきりしました。ウルトラマンの父さんにいただいたコメントで、3日間考えてたことを、一言であらわしていただいたと思います。
ただ、ただ、「母原病」時代に戻らぬよう、クリティカル・シンキングを続けていきたいと思います。
「そだちの科学11」を私も読んだのですが、みなさんのおっしゃる問題点が今ひとつわからないので,教えてください。
わたしはこの雑誌を読んで、こういう考え方もアリだろうと思ったのです。
ここでは、決して自閉症を「母原病」とはとらえていません。虐待すると自閉症になる、というのでも、もちろんありません。ただ、どちらの場合も「養育者からの、発達に必要な好ましい関わりを子どもが受けられない不幸な状態」ということが共通するのだと私は理解しました。自閉症の場合は,親が好ましい関わりをしても、子どもの側にそれを受け取る力が弱いのですよね。(例えば被虐待児も自閉症児も感覚過敏の場合が見られることを考えても、やっぱりこの二者は類似している、と感じるのです。感覚過敏が生まれつきの障害なら、なぜ被虐待児にもあらわれるのでしょう。)
でも、発達に必要な好ましい関わりを受ける力が全くないわけではなくて、自閉症児でも少しずつ発達は進むとよく言われます。だから発達に必要な好ましい関わりを、その子どもにあったやり方で一生懸命するのは良いことだと、私は思ったのですが。
そしてその子どもにあったやり方が、一人一人違うのはしかたがないことで、再現とか実証とかいうことには不向きなのでしょう。(自閉症は症候群であって、病因がひとつではない、ともいわれるので、決まったやり方を決めるのは難しいのではないでしょうか)
実際に関わりを重視する方法で状況が良くなった場合もあると、雑誌のなかにあるので、この方法が向いているケースもあるのでは?と思ったのです。
こういう考え方は危険なのでしょうか。教えてください。
ピッカリママさんがあっという間に「体得」されたように、「療育にかかわる心理学」というのは、実際にはそれなりに明快で、しっかり学べば誰にでも身に付くようなものです。
それを必要以上に複雑怪奇にする必要は、本来は全くないはずなのですね。
でも、「現場」にはいろいろな方がいるのも事実です。うまく折り合いをつけながら、私たちが望む支援に少しでも近い「果実」をどうやって得ていくのか、私も考えていかなければいけないな、と思っています。
ときわさん、
これは改めて記事として書こうと思っていますが、この号の各著者が主張しているようなことは、「観念論」としてはもちろんアリなんですよ。
問題は、ときわさんがこの号を読んで、「じゃあ具体的に子どもにどう関わればいいのか」が分かったでしょうか?ということなのです。
終わったエピソードにいろいろ解釈をつけるのは、それこそ競馬で終わったレースに講釈を垂れるのと同じで、何とでもいえるのです。問題は、次のレースを当てること、つまり、将来に向けて確実に効果の上げられる方法論を提示できているか、そこに尽きると思うのです。
そういう方法論が明確に示されて、実際にその方法論にしたがった働きかけをABAと比較して、ある条件化、あるいはある領域についてはABAよりも効果があがった、そういう事実(これがつまりエビデンスです)が明確に示されれば、もちろんそれを支持することはまったくやぶさかではありません。
それなしに、終わったエピソードをベースにいろいろ語ることは、それを読んでどんなに「納得」できたとしても、ふと冷静になって目の前の子どもをみたときに、どうすればいいかがまったく分からなくて愕然とするだけなのだ、と思っているわけです。
(ある働きかけで「良くなったケースがあった」というのは、もしかすると何もしなくても良くなったかもしれませんし、そもそも子どもは「発達」して変わっていくという視点が抜け落ちています。ですから、こういう「エピソード主義」というのは効果の証明にはなりません。)
私は、自閉症の器質因を論じることと、心因論と、両方を折衷できないだろうかと思っています。
今後の記事、楽しみにしています。
一点補足させていただくなら、「器質因論か心因論か」という論点と、「ABA的方法論か精神療法的方法論か」という論点は厳密には同じではないですね。
今回問題にしているのは、後者のほうです。
そして、これも隠れた、でもとても重要な論点ですが、「器質か心か」という問いを立ててしまった瞬間に、「心は脳とは別のなにかである」という「心身二元論」にとらわれていることになる、ということも忘れてはいけないと思います。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/91355034.html
そうすると、私がはじめのコメントに書いた疑問
「例えば被虐待児も自閉症児も感覚過敏の場合が見られる・・・感覚過敏が生まれつきの障害なら、なぜ被虐待児にもあらわれるのでしょう。」についてのそらパパさんの見解は、どのようなものになるのですか?
コメントありがとうございます。
このブログでは、当たり前のことを当たり前にやっているだけのつもりなのですが、意外にもこういうやり方で自閉症をとらえるサイトが少ないことは不思議だなあ、と思います。
ただ、いま、自分の子どもが自閉症だと知った親御さんの最初のアクションは、専門家の門の前に並ぶことではなくて、インターネットにアクセスして情報収集することでしょう。
ですから、ネットの世界からいろいろな声をあげていけば、それは十分に大きな力になるはずだと信じて、このブログをやっています。
これからもご支援のほどよろしくお願いします。
ときわさん、
「そうすると」というところが、何を受けているかは分からないのですが、感覚過敏がときわさんのおっしゃるような意味で「生まれつきの障害」だと考える人は(非分析系の人でも)いないと思います。
なぜなら、そもそも自閉症は「発達」障害であって、発達の過程で獲得すべきものが獲得できないために症状が発現する障害だと考えられるからです。
被虐待児が感覚過敏だということが一般論として本当にいえるのかは無学にして存じ上げません。ただ、逆に自閉症児の感覚過敏もあったりなかったりしますので、いずれにしてもこれをもって両者の共通性を探るのはやや乱暴なんじゃないかとは思います。
(例えば、生まれつき耳が不自由な人も、自閉症児も「視覚優位」になりますが、それだけで両者の共通点を探っていくのは乱暴だと思います。「感覚過敏」というのはかなり大ざっぱな概念だとも思っているので、これに近い議論になってしまうのではないかとも思うのです。)
もし、おっしゃっているのが「遺伝か環境か」という意味の議論なのだとすれば、100%遺伝とか100%環境という議論がありえないことはいうまでもありません。
どのような「発達のプロセス」でもって自閉症という障害が発現するのかという問題意識は、分析系であろうとそうでなかろうと、自由に持つことができるものだと思います。
ただ、「自閉症」という枠組みでくくれる「障害のかたち」があるとすれば、当然、その障害に対するある程度共通の(目に見える)「働きかけの枠組み」が存在しうる、と考えるのが自然なのではないでしょうか。
もしも本当に「自閉症への働きかけは千差万別で一般化できるものはない」のだとすれば、そもそも「自閉症」という障害を定義する意味そのものがないことになってしまいます。
だから私は、分析系の人が、「次のレースを当てられない」のは、やはり「当てる方法を本当は知らないからではないか?」と疑わざるを得ないのですね。
※ちなみに、私が、自閉症という障害がどのような機制で発現すると考えているのかについては、拙著「自閉症-からだとせかいをつなぐ新しい理解と療育」で本格的に掘り下げています。エッセンスだけであれば、当ブログの「一般化障害仮説」のシリーズ記事でお読みいただけます。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/106410360.html
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/24739116.html
私は、『そだちの科学11』のブックレビューを検索して、ここにたどりついたため、そらパパさんのお考えをあまり知りません。そらパパさんの御本を読んでみようと思います。いろいろ教えてくださりありがとうございました。
4歳の自閉症の娘を持つ父親です。
いろんな情報をお示しいただき、有難うございます。
難しい事を理解しやすいように説明されるのでとても勉強になります。
これからも拝見させていただきますので、よろしくお願いします。
はじめまして、こちらこそよろしくお願いします。
その日常生活においての私のアプローチ・指導方のベースは行動療法です。効果は言うまでもありません。
残念ながら誤解されていた方、受け入れずにいた方も、次第に落ち着き適応力を上げていく子供たちを見て少しずつ軟化され、つかえる部分は、私に尋ねながら取り組んでくれている状況です。
行動療法を知ってからもう25年になります。なかなか浸透しないのは本当に残念です。
でも今回、私がお便りしたのは、そらパパさんにどうしても伝えたい事があったからです。
そらパパさん、25年前に私に行動療法を大絶賛され紹介してくださった方は、河合隼雄先生なんですよ。
先生は私が当時勤めていた東京の養護施設の主任とお知り合いで、年に1,2度学会等で東京にお見えの際、お忙しい合間をぬって私達の相談や指導をして下さいました。
問題行動を起こす・繰り返す子どもへの具体的な対応・指導方として紹介してくださいました。25年も前にです。
私の知っている河合先生は他の学者の様に自分の学説と違う意見は社会的地位をつかい排除するなどという小さい人間ではなく、良いものは良い!と受け入れ、相手の改善に役に立つものなら一つに捉われずに取り入れて行こう!という方だったと思います。
私も心理士の方々、作業療法士の方々に行動療法・ABAをボロクソに否定され悔しい思いも沢山してきました。
人に対する思いは立場や経験により違うので、皆さんの考えを否定するつもりは無いんですよ。ただ河合隼雄先生から25年も前に紹介されがんばっている人間もいる事も知っていてください。
ちなみに行動療法を学んでいる方ならもちろん武田建氏はご存知とは思いますが、河合先生から紹介いただき学ぶきっかけになったのは、「しつけ上手の心理学」という本です。
長くなりますが、あともう一つ・・・
そだちの科学のアスペルガー症候群特集号では、親御さんが海外赴任中、我が子が自閉症と早期発見され厳しいかったけれども行動療法のおかげで・・・という手記がしっかり載っています。
またADHD特集号でも小学生対象の短期プログラムの実践報告や親への教育プログラムが掲載されていています。
決して「そだちの科学」は行動療法に否定的では無いと思っています。むしろ私は周りの無理解な同業者に見せて、理解の助けに使って来ています。
編集に携わっている杉山登志郎氏もご自身の編著「子どもの心療科」のなかの発達障害児の示す問題行動の理解と対応の章では、おもいっきり行動療法での対応の仕方を載せています。私はコピーして職員会議に全員に配りましたよ。
実は私もグレーの子の親です。職業柄、生後まもなくからなんとなく不自然さと、極度の育てにくさを抱えながら生活して来ました。しかし行動療法をしっていたおかげで、他人からはわかりません。でも同級生とのコミュニケショントラブルは絶えないので小学校時代は担任と養護教諭には私から事情を話し見守って欲しい旨を頼んできました。担任が変わる度に「まさか~考え過ぎですよ!」
で始まり、時が経つにつれ「お話してる事、わかりました!もっと大変な子の為に勉強になりました。」といわれる現場の次元の低さです。
我が子も中学生になり、生活スキルの向上がかなりされ(手前味噌ですが・・・)楽しく通っています。
でも親としては油断できず、社会に出るこれからが本番と、教え忘れは無いかキョロキョロとしているところです。
機会があればNPO法人 つみきの会 という団体も検索してみてください。私が担当した重度自閉症の親さんが入会されているABAの団体です。
代表者の方は近い境遇・思いで、共感できる事も、また行動療法の為に協力し合える事もあるのでは・・・と、勝手ではありますが思います。
それでは失礼いたします。
書き忘れましたが、そらパパさんがご存知の「久野能弘の日記」の~河合隼雄の功罪~を見ていただければ・・・と思います。
私は久野先生が、河合先生のお誘いに乗り、この時もっと親しく密に活動されていたら、日本の臨床心理学の流れが少しは違っていたかも・・・と残念のです。
河合先生が文化庁長官の時も、親の会で行動療法を広めたいと言う事で、代表の方が政治家に会いに行くと言う話を聞いたので、何かの役に立てたらと思い、河合先生のお話を親さんから代表の方にしていただいたら、名前を聞くなり「あ~いいです。必要ないです。」と言われたそうです。
悲しかったです。行動療法を否定する人達となんら変わらない考え方なのでは・・・と思いましたよ。
どうせ心理学の人に言っても理解しない・しようとしないんだから・・・と敵対しあっている考え方も、広まらない原因の一つでは・・・と現場でこつこつと仕事をこなしている私は生意気にも思ってしまいます。
わ~いつの間にか批判になってしまいました。申し訳ありませんでした。
コメントありがとうございます。
河合氏が行動療法を支持していたというのは知りませんでした。
また、「そだちの科学」が常に行動療法を相手にしていないとはもちろん思いません。ただ、ここで紹介している号では、上記で書いたような印象を受けた、ということです。
つみきの会はもちろん存じ上げています(当ブログでも何度か取り上げています)。
また、2つめのコメントの件ですが、臨床の先生方の「政治」については詳しくありませんが、いろいろな考えをお持ちの方がいらっしゃるのだと思います。