繰り返しになりますが、私は理系な人ではないので、かなり文系的に創作しているところもあると思いますので、その辺りはご容赦のうえ読み進めてきていただければ幸いです。
さて、ひるがえっていよいよABAについてです。
ABAは、古典的な科学観と現代的な科学観、どちらに立脚した方法論かといえば、これは明確に「古典的な科学観」によって立つ方法論だといえます。そもそもABAは、「(古典的な意味での)厳密科学としての心理学」を打ち立てようとしたワトソン・スキナーの流れをくんでいるわけですから、当然といえば当然です。
だとすれば、古典的科学観がそうであったように、ABAの方法論にも「限界」がありそうだ、ということが分かってきます。
ここでは、以下の2点に着目して、ABAの「限界」だと私が考える点を整理しておこうと思います。
1.還元主義(ヒトの活動を、個々の行動に分割して働きかけ、あとでそれを集めれば「全体」に効果が出るという考えかた)
2.観察と行為の独立性(働きかけることと、その「働きかけの姿」を観察することは、相互に独立しているという考えかた、あるいは、「働きかけの姿」を外部から観察して何かを語ることができる、という考えかた)
まず1.について。
療育というのは、子どもの「発達」に対して働きかけることですが、この「発達」というのが「複雑系の極み」であることは、論を待たないでしょう。
まず、「脳」そのものが典型的な第一級の複雑系であり、「発達」が物理的な現象としては脳の神経ネットワークの形成・成長だということがあげられます。
さらに、現象的にみれば、発達というのは子ども・親・その他さまざまな環境といったものの「相互作用」そのものであり、さらにその「相互作用」が時系列に累積していく、つまり「相互作用の相互作用(の相互作用の相互作用の・・・)」という姿をしていることから考えても、その相互作用を切り捨てて行動を細分化し、個々の行動を強化して後でくっつければ「全体」として期待どおりの「発達」につながる、と考えるのは、これまでの「複雑系の科学」の歴史と照らし合わせて考えたとき、あまりに楽観的な考えかただと思われます。
もちろん、「問題行動を解消する」といったように、「古典科学的な方法論」に乗せやすい療育のテーマも存在しますし、そういったものについてはABAは絶大な成果をあげるでしょう。でも、だからといって、ABAが子どもの発達すべてをカバーして、あらゆる領域に対して同じくらい絶大な成果をあげられるとはいえないのです。
さらに、一見ABAが効果を上げているように見える「問題行動への対応」などについても、厳密にみると問題が内包されています。
例えば、「パニックする」という問題行動をみたとき、それをABAによる働きかけの対象とするためには、「自分の頭をたたいた回数」「自席から離れている時間」「大声を出した回数」といったように、客観的に観察でき、定量化できる指標としてその問題行動を「再定義」し、その定量化された指標を増やしたり減らしたりすることを目標に働きかけを行ないます。
でも、これらヒトの現象としての「活動」は、本当に定量化できる行動として「再定義」できるのでしょうか? あるいは、それが常にできるという保証がどこにあるのでしょうか? 働きかけの過程で、当初の「指標」の妥当性が失われるということはないのでしょうか?
つまり、「パニック」は「パニック」以外の何物でもないのではないか。それを「頭をたたく回数」と「大声を出す回数」に「再定義」して、そのうえで働きかけるとするなら、それは既に「パニックに対して働きかけている」ことにはならないのではないか(あるいは、途中までは有効であったとしても、療育による相互作用が積み重なっていくうちに、「パニック」の本質が変質して有効性が失われることはないのか。そうなっていないことをどうやって証明するのか)。そういうことです。
指標化することは、ある現象を「地」と「図」に分けることでもあり、これはABAで「客観的に観察」するためには避けて通れないプロセスなのですが、それによって「ありようの全体」を見たり、働きかけたりすることができなくなってしまっている可能性があるわけです。
これもまた、ABAが還元主義的方法論であり、一方で療育の対象となる「子どもの発達」や「問題行動」が本質的に複雑系であることによる「ABAの限界」です。
次に、2.の「観察と行為の独立性」ですが、これは、「療育的働きかけを行なう」ことと、「その療育的働きかけの効果を観察する」ことが、相互に独立しているという考えかたです。そうでなければ、働きかけの効果を「客観的に測定する」ことができないので、ABAの生命線の一つとなる考えかただと言っていいと思います。
何を当たり前な、と思うかもしれませんが、私はこれも、厳密には成り立たないと思っているのです。
療育的働きかけとは、例えば親と子の相互作用です。
相互作用なので、働きかける「前」と「後」で、もちろん子どもにもその働きかけの「影響」が出ていますが、実は親の側にも「影響」が出ているはずです。つまり、働きかける「前」と「後」とで、働きかける人間(親)も厳密には「同じ」ではありません。ですから、働きかけの「後」に、その効果を「観察」した場合、その「観察」の結果は、「働きかけが子どもに与えた影響」と、「働きかけが親に与えた影響」とが組み合わされたものになります。
もちろん、観察する対象を限定して、例えば「一定時間内に自分の頭をたたいた回数」のように極力客観的な指標のみを取り扱うことで、このような親の側の相互作用の影響を排除することも可能でしょう。実際、ABAでは「観察する指標は客観的なものだけにする」ことを重視します。
でも、療育的働きかけにとって、働きかけを行なう側の相互作用による変化、影響は、「扱いにくいから無視すればいい」というような些細なものだと言い切れるでしょうか? 私は、そうは思いません。むしろ、療育的働きかけを通じて、親の側がどんな風に変わっていくのかは、その後の療育と子どもの変化に決定的な影響を持つはずだ、と考えます。つまり、ここにも複雑系が存在し、ABAはそれが「複雑系」であるがゆえに、捨てざるを得ないという構図があるわけです。
これは、観察だけを担当する第三者を置けばいい、という話ではなくて、ABAが掬いきれない部分に本質的に重要なものが存在しているのではないか、という議論です。
・・・さて、話が発散気味なので一気にまとめてしまうと、古典的な還元主義の科学観をベースに「療育」という行為を客観的に定義するABAの考え方は、
・子どもの発達は複雑系であり、本質的に還元主義にはなじまない。
・療育自体が相互作用であり、療育者自身が療育によって変わっていくという要素を無視すべきでない。
という2点から、自ずと限界があると言わざるを得ない、というのが私の立場です。
もちろん、その「限界」の中では、ABAは絶大な効果をあげてくれます。これは、ニュートン物理学が、日常的な現象のほとんどを説明してくれるのと同じです。
でも、その「限界」を超えた領域があり、その領域ではABAといえども有効ではない(少なくとも効果的だとはいえない)ことも、忘れてはならないでしょう。
さらに言えば、その「限界」は、こと自閉症療育に関する限り、意外と近くにある(日常の療育程度でも、簡単に「限界」を超えてしまう)というのが、私の認識です。
ただ、その「超えた」部分について、既存のABA以外の療育法が「答え」を提供しているかといえば、残念ながら答えはノーです。そういう意味では、ABAの優位性は揺るぎません。でも私は、この「超えた」部分について何かソリューションを見つけたいと思っていて、これが今の私の最大の関心事になっています。
いま、そのヒントが得られるかもしれない、と思っているキーワードが「オートポイエーシス」なのですが、この辺りの議論は、私のなかでも、まだまだこれからです。
↑オートポイエーシスに関連する書籍
お久しぶりです。
ABAの限界ですか...確かに、これだけで突き進むのは難しいと思うときがあります。ABAと一言に言っても、これだけでかなり深い世界なわけですが、この深い世界の様々なテクニックを使っても、やっぱり療育の世界だけの話になりますが、子どもがそれぞれ違いますから、理論だけでは対応できないのですよね。
これは、ロバースのDTTにも言えると思います。
ロバースだけだと、考える力とか、応用力、想像力はどうやって教えて行くのだろう、と私も毎日課題を書きながら悩むところです。
また、時間数も多ければ良いという訳ではなく、以前私のブログにも書きましたが、やり過ぎも良くない結果を招きます。
最後に、私が最も感じる限界は、子どもが逃避目的で自己刺激もしくは、問題行動を起こした際、無視する方法があります。例えば、癇癪を起こしたら無視しましょう、というのが良い例ですが、癇癪を無視すると、逃避を強化してしまう、だからといって、癇癪を起こしていない時間を強化しましょう、と強化しても、理論的にはあっているのですが、子どもは通常逃避したい気持ちの方が強いので中々うまくいかない、じゃあ逃避しないように、徹底的にコンプライアンスを効かせましょう、とすると、今度は本当に子どもとの取っ組み合いになったりして、逆効果。そういった時に完全に壁にぶち当たります。柔軟に、枠の外から出た考え方ができるといいなぁ、と思います。
長くなりました。またお邪魔します。
塩田さんには伝わっていると思いますが、この連載記事は、ABAを否定するものではなくて、むしろABAを肯定的にとらえたものです。
ABAのもつ限界に自覚的でありつつABAを使うことで、ABAの力を無理なく最大限に引き出すことができる、と考えています。
(その点が、同じようにABAの問題を指摘しながら、ABAそのものを否定してしまうような立場の人たちとは明確に違う部分だ、とご理解ください。)
ご指摘のとおり、問題は、「ABAの枠の外」にはまだまっとうな(ABAと肩を並べられるほどの)方法論がほとんど存在していない、ということにあるんですよね。
この部分についていいモデルが作れれば、それは本当に画期的な療育法になると思うんですが・・・。
とても勉強になる記事をありがとうございました。ABAのことも,複雑系のことも理解できない部分が多いのですが,これから勉強していこうと思います。
ところで,スキナーの著書『行動工学とはなにか(about behaviorism)』にこんな文がありました。
「行動の科学は還元主義である故に,人間性を奪うと言われてきた。ある種の事実をあたかもそれが異なる種類であるかのように取り扱うと言われている―たとえば生理心理学でやられているように。だが行動主義は一次元のシステムから他へと移るのではない。それは同じ事実の別の説明を準備するだけである。それは感情を身体の状態に還元するのではない。身体の状態は感じられたことであるし,またいつもそうであったと論ずるだけである。」
ここまでくると哲学の問題かもしれませんが,スキナー自身は,行動分析学,ABAを還元主義と捉えるのは行動分析学,ABAに対する誤解だと考えていたようです。
コメントありがとうございます。
でも私は、スキナーの行動主義は、やはり還元主義だ、と思います。
私の考える「還元主義」とは、「全体を部分に分解すれば理解が深められ、それを再合成すれば全体も理解できる」という考えかたのことで、「線形主義」と言い換えてもいいかもしれません。そのときの分解単位としての「部分」に何をおくのかはあまり本質的な問題ではありません。
そういう立場からは、スキナーの心理学は、あらゆる心的事象を「行動と随伴性」という単位に分解して理解しようとする点において、やはり還元主義的だと思います。それは、言語や発達のような複雑な事象ですら、むしろ熱心に研究の対象にして、「自らの言語で説明しようとした」点において、特に顕著だと思います。
もしもスキナー一派が、こういった複雑な事象については「行動主義では限界がある」として研究対象から外していたとすれば、BAは確かに還元主義的ではない、とも言えるかもしれませんが・・・
ご指摘の文章でスキナーが仮想敵としているのは、むしろ心身二元論であるように思われます。(つまり、そこで語られているのは、「心理学とは心身二元論が前提になっているものでもなく、そもそも行動分析学は最初から心身二元論に立っていない」という内容なのではないでしょうか? 全体を読んでいないので、はっきりとは分かりませんが。)
ちなみに、スキナーの「徹底的行動主義」は、哲学的には「方法論的行動主義」の一種、ともとらえられています。にもかかわらず、「観察不能な私的事象」にまで「行動」の概念を広げていることで、ある種のオカルトに片足を突っ込んでいるとも言えそうです。下記リンクのコメント欄がものすごく刺激的で面白いです。
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/10101010/p1
↑ちなみに私個人は、「消去主義」の立場に近いです。
http://lab.phsc.jp/philosophy%20of%20mind.pdf
↑こちらの9ページにも、スキナーは「方法論的行動主義」であると書かれています。
上記の2つのリンクに関しては,スキナーに対する間違った理解から,スキナーの徹底的行動主義を「方法論的行動主義」へと分類してしまったように感じます。
これも「行動工学とはなにか」からの引用です。
「感情,感覚,概念,その他の精神生活の諸側面の存在を行動主義者が否定しているという言い分には多くの立証が必要である。(中略)ラディカル行動主義は別の路線をとる。それは,自己観察や自己知識の可能性を否定しないし,それが有用であることを否定しないが,感じられたもの,観察されたもの,したがって知られたことの性質を問題にする。それは内観の権利復活をするが,哲学や内観心理学者が「見ている」と信じているものは復権しない。そしてそれは,自分の身体をどこまで自分で実際に観察できるかという問題を提起する。(中略)ラディカル行動主義はある種のバランスを取り戻している。これは同意による真理を主張しない。そこでの立場では,皮膚の中の私的な世界で起こっている出来事を考察することができる。これらの出来事を観察不可能だとは言わないし,それらは主観的だと片付けることはしない。ただ,観察された対象の性質や観察の信頼性を問題にするだけである。
スキナーは,上記の文からもわかるように,心的状態の存在を認めていて,否定的な立場も不可知論の立場もとっていません。むしろ,そうしたものを科学的に研究しなければならないと考えていたようです。
最初のコメントでは爪を隠しておられたようですが、実は熱い?スキナリアンでいらっしゃったのですね。
いただいたコメントですが、スキナーはこう言っています、というだけの趣旨であれば、それは理解しました。「スキナーは、自らの心理学を徹底的行動主義と呼んでいる」というのも、もちろん存じています。
ただ、それをふまえても、私には、この記事や、コメントでの最初のご返事や、リンク先のスキナー論が間違っているとは思えません。そういうわけで、以下は、スキナーについて、あるいはリンク先の記事についての「私の解釈」です。
スキナーは、自らの行動主義を特別な名前で呼び、他の行動主義心理学や、認知心理学が採用しているような「方法論的」行動主義との違いを強調していたようですが、測定できない内的過程の実在可能性を認めた瞬間に、やはりそれは哲学的には「方法論的行動主義」になるのではないでしょうか。それを否定すると、彼が「違う」と言っているはずの生理心理学との区別があいまいになります。そしてそれも否定すると、今度は「心身二元論」になってしまって、力動的な精神医学と似たような世界観になってしまいます。(つまり、内的過程を「認めている」からこそ、「方法論的」行動主義なのだ、ということです。)
この辺り、スキナーは「誤解されている」のではなく、「本人がブレている」のだ、というリンク先での主張にも相当な説得力があると私は感じます。
ちなみに、今回引用いただいた文章も、私には方法論的行動主義の主張であるように読めます。
また、リンク先で話されている議論は、「スキナーは徹底的行動主義ではない」ではなくて「スキナーが徹底的行動主義と称したものは、哲学的には方法論的行動主義の一種であった」というものです。議論中で引用されているサールの「MiND」にも、まさに「スキナーは徹底的行動主義だと自称したが、実際の活動は方法論的行動主義だった」といった趣旨のことが書かれています。
まあ、この辺は用語の定義の問題だとも言えますが、哲学的な整理としては妥当であるように思われます。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4255003254?ie=UTF8&tag=danchanseikou-22
引用文が誤解を与えやすかったかもしれませんが,スキナーは客観的に研究できない内的過程の実在可能性を認めていません。
整理の意味で,私が習った徹底的行動主義と方法論的行動主義の違いをあげておきます。
「徹底的」行動主義は,意識や認知を
・行動である
・行動の原因ではない
・観察可能な他の行動と同様の原理がこれに働いている
・客観的に研究できる
と捉えています。
一方「方法論的」行動主義は,意識や認知を
・行動ではない
・行動の原因である
・直接観察できないので,直接観察できる行動を通して心の働きを研究する
・行動を通して心を推測する
と捉えています。
リンク先では,スキナーの行動主義を「方法論的」と捉えていますが,スキナーは客観的に研究できない内的過程を認めず,内的過程が観察可能な他の行動と同様の原理がこれに働いていると言っているので,やはりリンク先はやはりスキナーの行動主義を誤解しているように私は感じます。
サールの「MiND」のご紹介ありがとうございます。一度読んでみます。
やっぱり定義の問題であるように思いますし、mebさんは巧妙に用語をすりかえていらっしゃいますね。
スキナーが意識や認知を「行動」と呼んでいるのは知っていますが、それは客観的に「観察・測定」(研究ではありません)できませんから、少なくとも哲学の領域では、一般に「行動」と呼べるものではないでしょう(神経生理学的なものに還元しないのであればなおさらです)。
客観的に観察・測定できないものを、客観的かつ科学的に研究できるというのは不思議なことです。
リンク先の議論は、まさにこの部分についての議論になっていますから、それはそのままmebさんの反論へのお答えにもなっていると思います。
それと、ここではスキナーについての感情的な好き嫌いについての議論や、スキナーの発言の一言一句を解釈するような神学的な議論は、できれば避けたいと考えています。
観察・測定の問題ですが,行動分析学では,人間行動の実験的分析として研究が進められ,人間特有の制御変数を見つける研究が進められています。この研究から「言語行動(自己教示,ルール支配行動)」や「刺激性制御(見本合わせ法,刺激等価性)」など,内的過程も科学的に扱えるようになってきています。まだまだ解明されていない部分があるにしろ,科学的な研究がなされています。
議論の続きですが,私が理解する方法論的行動主義と徹底的行動主義との違いを,そらパパ様が挙げられたパニックの例で説明したいと思います。
>「パニック」は「パニック」以外の何物でもないのではないか。それを「頭をたたく回数」と「大声を出す回数」に「再定義」して、そのうえで働きかけるとするなら、それは既に「パニックに対して働きかけている」ことにはならないのではないか(あるいは、途中までは有効であったとしても、療育による相互作用が積み重なっていくうちに、「パニック」の本質が変質して有効性が失われることはないのか。そうなっていないことをどうやって証明するのか)。
上記の説明はパニックに対する方法論的行動主義者の説明であると思います。「パニック」という心的な原因を想定して,パニックを治さない限り,表面的な行動を治しても,また別の新しい問題行動が出現するという,メンタリストの考え方(行動の置換)です。
私の理解する徹底的行動主義では,パニックという心的状態が原因で行動が現れていると考えず,個体と環境との関わりで「パニック」を説明します。
「パニック」は,強化スケジュールの変更(環境)が特殊な確率操作として作用して誘発される行動であったり,時には要求や回避,逃避,注目の機能をもつオペラント行動であったりするもので,そこから導き出される解決策は,強化スケジュールを変えたり,社会的に妥当な機能的に等価な行動を教えたりして,「環境」と「個体」との相互作用を変えることです。行動の原因を個人内部に還元したりはしません。また「客観的に観察でき、定量化できる指標としてその問題行動を「再定義」し、その定量化された指標を増やしたり減らしたりすることを目標に働きかけを行なう」というのは,ABAの一側面でしかなく,上記のように随伴性の流れ(相互作用)を考えながら療育することがより重要なのだと感じています。
くり返しますが、私は、スキナーが徹底的行動主義を自称していて、彼のいうところの「方法論的」行動主義とは別格なのだと主張したこと自体は最初から否定していません。
今回書いているのは、本人の自称ではないところからの、哲学的なスキナー論です。
スキナーの徹底的行動主義は、哲学的には、論理的行動主義に対置されるところの方法論的行動主義(心についての記述に実体性を認める)の一種であるという説明は、リンク先で、サールを含めると3名の方が同様に主張されています。それに対する反論が「スキナーの自称」に戻ってしまっては、無限ループになってしまいます。
心理学の世界で、スキナー自身が自らの行動主義とそれ以外を分けようとしたことは事実でしょう。でもその「違い」は、哲学的には大した違いではないと整理されているのも事実だとご理解ください。その部分の議論はリンク先で尽くされていますし、これまでのmebさんの反論は反論になっていないと思います。
もしそれでも「徹底的」は「方法論的」とは違う、と主張されたいのであれば、以下の問いにお答えいただけないでしょうか。
腕を骨折して、痛い痛いと言って泣いている子どもがいたとします。
もちろん、腕を骨折していることも、痛いと発話していることも、泣いていることも観察できます。でも「痛み」だけは見えません。
(1)この子どもが感じる「痛み」には実体があると考えますか?
(2)-a.実体があるとするなら、どうやってそれを証明しますか?
(2)-b.実体がないとするなら、私たちも同じように骨折すれば「痛い」と主観的に感じますが、この「主観的に感じる痛み」とは何であり、なぜ私たちはそう「感じる」のですか?
「実体」の意味は、Wikipedia等で確認してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93
また、内的過程についての反論では、意図的なのかそうでないのか分からないのですが、相変わらず「観察」と「研究」ということばを混同して使われています。
私が疑問だとしているのは、なぜ「内的過程」を「客観的に観察(「研究」ではありません)」できるのか、ということです。「内的過程が行動に現われているから」という説明をした瞬間に「方法論的行動主義」になってしまうので、別の説明が必要です。
それと、後半の反論は完全にmebさんの誤読ですので、そちらの誤解も解いておきたいと思います。
私が上記の記事で「パニックはパニック以外のなにものでもない」と書いているのは、別にパニックという心的状態を想定しているのではありません。
ある子どもが目の前で「パニック」しているという「リアルな現象」は、数え切れないほどのたくさんの要素が入り混じって、それらが非線形に相互作用していて、さらにはそれを見て何らかのかかわりをもつ「私たち自身」もその非線形な相互作用のなかに取り込まれていて、私たち自身もパニックと関わることで変化します。厳密には、再現性など一切ありません。
そういう「全体としてのパニック」と、ABAが扱う、「頭をたたく回数」「大声を出す回数」のような「実践のために還元され、部分に変換された『パニック』」との間には大きな違いがあり、そこで漏れてしまったもののなかに、本来「療育の対象とすべきもの」が残されているのではないか、ということを書いているのです。そこには、心的過程の実体性などまったく前提としていません。
たとえば、リンゴが落ちるという「リアルな現象」と、それらを方程式に還元した物理学との間には大きな違いがあります。落ちたリンゴは食べられますが、物理学は食べられない、というのが一番大きな違いでしょうか(^^;)。そして「療育の当事者」としては、もしかすると「落ちたリンゴを食べる」ことが重要な場合もあるかもしれません。でも、物理学に還元されたあとのものだけを見ると「落ちたリンゴは食べられますよ」という要素は抜け落ちているので、そこだけを見ていると「落ちたリンゴは食べられるんだ」ということに気づけないことになります。
ここで言っているのはそういうことであって、それに対してmebさんの反論は「あなたはリンゴに『落ちようとする意思があった』などという妄想を持っているのだ」というピント外れなものになってしまっていると思います。
また、最後のmebさんのコメントには少々驚きました。
>「客観的に観察でき、定量化できる指標としてその問題行動を「再定義」し、
>その定量化された指標を増やしたり減らしたりすることを目標に働きかけを行
>なう」というのは,ABAの一側面でしかなく,上記のように随伴性の流れ(相互
>作用)を考えながら療育することがより重要なのだと感じています。
すみませんが、「随伴性の流れ(相互作用)を『考えながら』療育する」という言葉の意味を、具体的に(行動主義的に)定義していただけませんか? 特に「考え」るという概念がよく分からないので、詳しくお願いします。
また、私はずっと、ABAとは定量化された指標を制御することを目標にした働きかけだと思っていたので、もしそれが「一側面に過ぎない」というなら、他にどんな「多様な側面」があるのか(最終的に、数量化された指標を制御するための行動に還元できるものは当然除きます)、具体的に教示いただければ幸いです。
リンゴを絵に描く時に上手に(リアルに)描ける人と、全然へたっぴな人がいるように、パニックをABA的に制御する時にもそれを上手に定義できる人もいれば、下手っぴにしか定義できない人もいる。
頭をたたく回数ってのは、後者のアホな定義の人だなと思う。
私が思うABAの問題は、そのような現象をリアルに定義ができる人とできない人がいて、その違いについてABA的に何一つ示せない事です。
なぜなら、そのような違いを生み出す人間の仕組みもそらパパさんの言われる「複雑系だから」だろうと思います。
私が思うABAのいいところは、アホな定義でアホな介入をしたところで、総合的に全く結果が出ないし、そうやって結果が出ない事がこれまた明白なのが素敵なところだとおもう。
コメントありがとうございます。
ABAの最初の「A」における大きな問題の1つというのは、まさにそこにあると思います。
何度も書いていますが、ABAに限界があると主張することと、それが有効でないと主張することは、まったく無関係です。
そして、最後にご指摘のとおり、ABAの最大の強みは、「限界がある」「うまくいかないことがある」ということがよく見える、わかることにこそあるのだと思います。
他の多くの技法が、うまくいってるのかいってないのかよく分からないことが多いのとは対照的です。
「ABAの理論で世界のすべてが説明できる」
「ABAは科学だ。真の人間理解だ」
「ABAさえすればどんどん良くなる。上手くいかないのはABAの分析が間違っているからだ(つまりよりABAであれば上手くいく≒限界なし)」
というのが、
「**教の教義で世界のすべてが説明できる」
「**教は科学だ。真の人間理解だ」
「**神に祈りさえすればどんどん良くなる。上手くいかないのは祈りやお布施が足りないからだ」
という、まるっきり新興宗教の文脈と同じで、生理的に受け付けないからです(笑)
ああ、なるほど・・・
自らが依拠する思想的立場に対してメタの立場をとれなくなると、宗教的になってしまうのかもしれませんね。
誤読の件,大変失礼いたしました。
徹底的行動分析と方法論的行動分析の混同は不当であるが,しかし哲学的には大した違いではないと整理されている,というご意見もよくわかりました。
>客観的に観察・測定できないものを,客観的かつ科学的に研究できるというのは不思議なことです。
ご存知のように,行動分析学では,行動(従属変数)を制御する変数(独立変数)を同定するとが研究目的で,その結果,行動のコントロール(予測と制御)が可能になります。これまでは観察・測定しやすかった顕在的行動を従属変数として取り上げた研究が多かったのは確かです。しかし科学技術の向上でfMRIなどを用いて従属変数としての潜在的行動も観察・測定され始めています。例えばこの論文です。
http://www.liv.ac.uk/psychology/staff/DDickins/fMRIequiv2.pdf
科学技術が向上すればもっと確実な観察・測定が可能になるかもしれません。
潜在的行動を観察・測定できなかった時代でも,独立変数を操作して,従属変数である潜在的行動を変容させるという成果をあげています。例えばエクスポージャーなどです。
そして「方法論」と「徹底的」ですが,哲学的には大した違いではないかもしれません。しかしこの違いは,徹底的行動主義者にとっては,看過できない違いです。誤解を招く言い方かもしれませんが,方法論的行動主義は古典的科学観に基づいた哲学であり,徹底的行動主義は非線形へ挑戦していく哲学であると思うからです。
これはABAの「多様な側面」の答えになると思いますが,徹底的行動主義を哲学的基盤に成り立つABAは,「量的研究」より「質的研究」に近いと考えられています。次の論文がわかりやすいのでご参照ください。
行動分析学と「質的分析」(現状の課題)
http://www.ritsumeihuman.com/publication/files/NINGEN_2/02_033-042.pdf
コメントありがとうございます。
過去のやりとりで、もう立場の違いが明確になったと思いますし、私の最後の質問にもお答えいただけていないように思いますので、私のほうからは具体的な議論には入らないでおこうかと思いますが、たとえfMRIやらなにやらで「脳の状態」が客観的に記述できたとしても、それがイコール、私たちの内的体験を記述していることにはなりません。
これは現代の心の哲学における心身問題の基本的論点の1つだといえます。
そういう意味ではやはり、私の最後のコメントの(1)~(3)の質問はそのまま残されているのです。