今回は、まずは先の「古典的な科学の方法論」が前提にしていた仮定が、どのように否定され、否定された後どうなっているのかについて見ていきたいと思います。
ただし、私は理系な人ではないので、あまり細かい厳密な議論は期待しないでください。科学哲学的な視点から、ざっくり整理するに留めます。
まず、「時間と空間との関係は、どんな観察者にとっても同じであり、ある物理現象はどの観察者からも同じものとして観察される」というニュートン物理学の前提を否定したのが、アインシュタインの相対性理論になります。
相対性理論によると、時間と空間は相互に状態依存する「時空」を形成しており、1つの物理現象も、観察者によって異なったように観察されます。
つまり、相対性理論の登場によって、「私たちの視点」は、絶対空間と絶対時間で構成される世界を外から眺める「神の視点」から、時空のなかに現に存在する一人ひとりの「観察者の目線」にまで下がってきた、と言えます。
次に、観察される対象と観察する主体との独立性、さらには原因と結果との決定論的関係を否定したのが、量子力学における「不確定性原理」だといえます(Wikipediaの関連記事1、2、3)。
上記の説明をみると、「不確定性原理」と「観察者効果」というのは厳密には別のもののようですし、不確定性原理にもいくつかの解釈があるようですが、文系的な楽観性でもって端的にいえば、「観察する行為それ自体が、その観察結果に影響を与えうる」というのが、現代科学の新しい常識だと認識しています。
こういった知見が明らかになってきたことによって、ある現象を、外部からその現象に影響を与えずに「観察する」ことができるというのは一種の幻想だということが分かってきたと言えると思います。つまり、私たちは常に対象に影響を(与えたくなくても)与えてしまう「行為者」なのであって、外部から神のように対象を眺める「観察者」ではないのだ、ということです。
つまり、ここへきて、科学の事象を見つめる「私たちの視点」は、「観察者」としての地位も失い、現象のなかに現に存在して行為を行なう「行為者」のレベルにまで下がってきたことになります。
さらに、残る「還元主義」も否定されることになります。
還元主義というのは、さまざまな複雑な現象は細分化して細かい「部分」に分割することができ、その分割された「部分」の現象を研究したうえで、またその「部分」を合成して「全体」に戻せば、「全体」を研究し尽くしたことになる、という考えかたです。
このような「還元主義」による研究では解明できないとされる事象が、最近注目されるようになってきました。そのような事象を「複雑系」と呼びます。
複雑系とは、個々の要素が相互作用して、その相互作用によってまさに「全体」が形作られているため、「部分」に分割して相互作用を見失うと、「全体」を語るための手がかり自体がなくなってしまうような事象(系)のことを指します。
複雑系は、還元主義にもとづいて「部分」に分割して研究することはできません。なぜなら、「部分」に分割する前の、相互作用にこそその本質があるからです。したがって、コンピュータシミュレーションなどによって、「複雑なものを複雑なまま」「全体を全体として」研究する必要があります。
脳や生命は、典型的な複雑系です。また、最近話題の地球温暖化などの「気象現象」もまた、典型的な複雑系だと言えるでしょう。(ですから、地球の将来の気候予測などは、実は科学が最も苦手とする種類の研究であり予測です。このことは、今後5~10年くらい意識していた方がいいのではないかと思っています。)
「複雑系の科学」の登場によって、「神の視点」も失い、「観察者の視点」も失った私たちは、研究対象によっては、さらに「ほとんどの分析手法」も失ってしまうことになったわけです。
複雑系は、複雑で理解するのが難しいからこそ研究の対象になるのに、研究の際にその複雑さを単純化することができず、「複雑なままで扱う」ことを強いられます。実際、複雑系の科学で行なえる研究は、ほぼ「コンピュータシミュレーション」だけに限定されます。
このように、古典科学から現代科学への移行というのは、非常に乱暴にいえば、「科学が『力強く安定した』神の視点を失い、現象の複雑さのなかに埋没して方法論を失っていく歴史」だと言ってもいいでしょう。
現代科学が難解で、ある意味時代への説得力を欠いてきているのは、科学自体が自らの限界に気づき、次のパラダイム・シフトまでの停滞期に入っているからだと言ってもいいのではないかと思います。
・・・現代科学の歴史についてまとめていたら、またこんな分量になってしまいました。
いよいよ、これらをふまえた上で、「方法論としてのABAの限界」について書いていこうと思うのですが、それは次回に回させてください。
(次回に続きます。)