ゆらぐ脳 (ハードカバー)
著:池谷 裕二、木村 俊介
文藝春秋
第1章 脳を分かる(パーツをきわめても、脳は分かりません。他)
第2章 脳を伝える(サイエンスにプレゼン能力は必須?他)
第3章 脳はゆらぐ(脳の「ゆらぎ」は「ノイズ」だと思われていました。他)
池谷氏の本は、どれも「科学の最前線」が分かって面白いなあ、と感じていて、最近は多作すぎて脳「科学」とはほとんど無関係な観念的エッセイしか書かなくなった茂木健一郎氏よりもずっと注目しているのですが、なかでも今回の本は、ものすごく本質的で大切なことを、誰にでも読めるくらい易しく解きほぐした、極上の科学エッセイに仕上がっています。
池谷氏といえば、今までに大きく2系統の本を出しています。
その1つが、講談社のブルーバックスから出ている、脳科学の入門書のシリーズ。
記憶力を強くする
進化しすぎた脳
「記憶力を強くする」は、海馬と記憶についての話題を中心とした、手堅い(でも非常に面白い)脳科学の入門書。
「進化しすぎた脳」も同じく、脳科学の入門書なのですが、著者と中高生との対談形式ですすみ、「難しいことを易しく語る」という、著者の類まれなる能力が遺憾なく発揮された名著中の名著です。知的好奇心が刺激されまくります。(この本の帯のキャッチが「しびれるくらいに面白い!」となっていますが、このキャッチに偽りはありません)
もう1つの「シリーズ」と呼べるのが、糸井重里氏との対談から生まれた「海馬」など、より肩の力を抜いたエッセイ的シリーズです。
海馬-脳は疲れない
脳はなにかと言い訳する
こちらも面白いのですが、個人的にはブルーバックスの2冊ほどの知的興奮は感じませんでした。
「海馬」は、糸井氏ならではの「結論の方向づけ・対談のまとめかた」が、ちょっと強引で薄っぺらい感じがして、池谷氏の持ち味を殺しているような気がしましたし、「脳はなにかと-」のほうは、読みやすいのは読みやすいんですが、ちょっとテーマを卑近なものにもってきすぎたかなあ、と感じました。
さて、ここからは今回の本についてです。
本書は、「海馬」と同じチームで、糸井氏ではなく構成担当だった木村氏が、一歩下がって池谷氏の科学者としての「理念・哲学・立ち位置」といったことを引き出していく、というスタイルをとっています。
後者のグループの本ということで、正直あまり期待しないで読み始めたのですが、その予想はいい方向に裏切られました。面白いです!
本書は、第1章から第3章までの3部構成になっているのですが、いきなり第1章で、脳科学の現在の主流である「還元主義」的研究について、それでいいのかという大胆な意見が提示されます。そして、異端的立場ではあっても、あくまでも脳を「複雑系」として「分解」せずに研究していきたい、という著者のスタンスが明快に示されます。
私も(1冊めの本で書きましたが)、脳は複雑系として「システム」を見ていく方向でなければ分からないだろう、という立場ですので、著者のスタンスに共感し、また勇気づけられました。
第2章では、科学者というのは魅力的な論文を書いて(プレゼンテーションして)ナンボの存在であることと、論文を書くことを含めて「解釈し、言語化すること」、あるいは「わかる」と感じることとは一体どういうことなのかといったことについて、かなり哲学的な視点も含めて語られています。
この章は、科学者として出世していくために必要なかけひきなどの話題にも触れられていて、一見政治的でナマナマしいことが中心になっているように見えますが、その実、科学者の役割とは研究を言語化して共有できるようにすることで、ばらばらな個人の「知」を人類全体の「集合知」に昇華させ世界に貢献していくことなのだ、といった、著者の「科学観」「科学者観」を伝える内容になっている、と私は感じました。
第3章は、著者の最新の研究分野である「脳のゆらぎ」というものを話題にして、還元主義に陥らず、脳を「分解せずに」研究したときに見えてくる世界を通じて、脳の面白さ、さらには人間という存在の面白さについて語る内容になっています。
これを読んでいると、池谷氏は科学者として勇気のある研究をやっているなあ、と感じます。
この章で彼が主張していることは、「脳のふるまいには再現性がない」ということです。再現性がないということは、同じ実験を繰り返しても出てくる結果が毎回違うということであり、一般的な「科学の(実験の)方法論」がほとんど通用しないということにもつながります。
そんな研究に「専念する」ということは、極論すると、「その研究からはもしかすると何も生まれないかもしれない」という、非常にリスクの高い生き方を選択している、ということを意味するはずです。それは、現実の生活を背負っている研究者にとって、ものすごく勇気のいる選択だと思います。
著者ほどの能力をもってすれば、オーソドックスな方法論でいくらでも手堅い研究ができるはずなのに、あえてバクチのような研究に没頭している。私は、そこに、非常に強い魅力を感じるのです。
私にとってはとても魅力的な本でしたが、一点、注意していただきたいのは、本書は、「こんなことをすれば脳にいい」とか「脳の力を発揮させるにはこうすればいい」といったノウハウ本ではまったくありませんし(むしろこの本ではそういったものについて批判的な論を展開しています)、「きれいに整理された」科学の本ではない、ということです。むしろ、そういった「答え」がなかなか出ないようなテーマに、科学者がどんな風に悩みながらチャレンジしているのかについて書かれた本なのです。
そして、個人的には、そういう「答えがなかなか出ないテーマに、科学的に切り込んでいく」という著者のチャレンジは、自閉症とその療育に立ち向かうときの心境に通ずるものがあるように感じています。だから、深く共感したのです。
「気鋭の」脳科学者、池谷氏の生きざまを堪能したい方、あるいは科学哲学や科学論に関心のある方、もちろん、脳科学というジャンル自体に興味のある方にも、おすすめです。
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