「自分だまし」の心理学
著:菊池 聡
祥伝社新書 121
1章 なぜ人は「だまされる」のか
2章 人は無意識のうちに、自分で自分をだましている
3章 誰もが、自分に都合のよい「思い込み」をする
4章 無意識のだましと付き合う心構え
5章 「自分のだまし方」を身につければ、物事はうまくいく
6章 おたくこそ、だましのリテラシーの達人だ
ちょっと誤解を招きそうなので、最初に整理しておきます(私も最初混乱してしまったので)。
オカルトとか超常現象に対して、批判的な立場から積極的に発言している「菊池」という姓の研究者は2人います。
一人はこのブログでも一度取り上げたことのある「菊池『誠』」氏、そしてもう一人が、この本の著者である「菊池『聡』」氏です。この人の本も、過去に一度取り上げたことがあります。
菊池「誠」氏が、理系の科学者としての立場から「ニセ科学」への批判的論戦を張っているのに対して、菊池「聡」氏は、心理学者としての立場から「だまされるというのはどういうことか」「だまされないためにはどうすればいいのか」という観点で、合理的思考(クリティカル・シンキング)とは何かについて研究・発言しています。
菊池「誠」氏のWebページ
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/
菊池「聡」氏のWebページ
http://fan.shinshu-u.ac.jp/kyouin/kikuchi/
さて、本書はその心理学者のほうの菊池「聡」氏が書いた、「自分だまし」という心理学的現象についての本です。
「自分だまし」というのは聞き慣れないことばですが、これは簡単にいうと、「私たちがもっている認知(情報処理)のシステムは、もともと、現実を自分に都合よく修正して(だまして)受け止めるような仕組みを内蔵している」という本書の主張を指しています。
一般に、詐欺などの「だまし」行為に対抗するための心がけとして、「何事にだまされないような心のありようを目指すべきだ」といった主張がなされるのが一般的ですが、本書はそれとは逆に、「心理学的にみると、私たちの心はもともと『だまされる』ようにできていて、それで社会に適応している。そのことに自覚的になり、適切に『だまされる』ようになることが大切だ」ということを主張しています。(このような「適切にだまされること」を、著者は「だましのリテラシー」と呼んでいます)
面白いですね。
しかもこの常識を裏切るようなユニークな意見は、単なる著者の思いつきで書かれているのではなく、ちゃんと心理学の手堅い実験結果に裏打ちされた議論になっていますので、相当に説得的です。これこそ、心理学の面白さだと思います。
本書がとりあげている「自分だまし」や、「だまされないためのリテラシー」といった議論は、私たちにとって、自分たちが行なっている療育の成果を冷静に評価することや、怪しげな代替療法にだまされないために、ピンポイントに重要な話題ですので、読んでいて非常にためになると思います。
認知心理学という学問は、私たちが外界からの「情報」をどのように「処理」して環境に「適応」しているのかという「システム」を研究することがテーマになっているわけですが、本書では、その「認知」を効率化するために、私たちの認知のシステムは意識下(意識にのぼる以前の段階)で、外界からの情報を以下の原則によって「取捨選択・修正」していると考えます。
①生存に有利になること
②リソース(資源)を節約すること
③快原則に基づく情報の選択、解釈、評価
このなかの③が本書の主たるテーマである「自分だまし」(意識下の情報処理が、意識にのぼってくる情報を変性させてしまっていること)と関係するのですが、ここで行なわれる情報の変性の一つが、以下のような「ポジティブ・イリュージョン」と呼ばれるものです。
(1) 自分自身を、現実以上に肯定的にとらえる。
(2) 周囲の状況を実際以上にコントロールする力があるととらえる。
(3) 将来に関して現実以上に楽観的にとらえる。
このような「自分だまし」によって、私たちは毎日を前向きに楽しく生きることができているようなのです。逆に、いわゆる「抑うつ」と呼ばれる人は、実はこのような「ポジティブ・イリュージョン」を持たない(つまり、現実を正確にとらえている)状態にあるという可能性が、第1章で指摘されています。
つまり、非常に重いケースはそうではないにしても、「抑うつ傾向」にあるような人は、むしろそうではない人よりも現実を正確に受け止めている可能性が高いというわけです。(抑うつ状態にない人の認識のほうがむしろ歪んでいるということ)
これは、言い換えると、私たちが健やかな精神を保ち、決して楽しいことばかりでない毎日を生きていくためには、「自分だまし」は必要なものであり、だからこそ進化の過程でそういった認知傾向が獲得されたのだ、ということを意味しており、私たちは、「すべからくだまされやすいのだ」ということでもあるわけです。
そのことをふまえつつ、「だまし」を頭から悪と決め付けることなく、うまく付き合っていくこと、それこそが「だまされてはいけないことにだまされない」ために必要なことなのだ、というのが本書の主張になるわけです。
この本は、認知心理学の、さらに限定された特定の領域だけを取り上げていて、そういう意味では「心理学全体」からみるとニッチな研究ですが、「心理学の本来の面白さ」「心理学の『考えかた』の面白さ」を、身近な話題からうまく拾い上げていると思います。
そういう意味では、巷にあふれる「心理学もどき」の入門書などよりも、はるかに「心理学」しています。
私たちにぜひ必要な「だまされないためのノウハウ」を学ぶためにも、また「心理学」とはどんなものを知るためのきっかけとしても、おすすめです。第6章は、著者の個人的趣味が出すぎて脱線気味だなあ、とは思いますが・・・。
(ちなみに、行動分析学などの「徹底的行動主義心理学」と比べると、これらの認知心理学の科学的厳密性は、やや「ユルい」です。それは、認知心理学が「皮膚の内側の仮説の科学」であり、扱う領域もより幅広いからなのですが、その微妙な「ユルさ」を、以前ご紹介した「行動分析学入門」と比較して読むのも面白いと思います。)
※その他のブックレビューはこちら。
余談:上記の「ポジティブ・イリュージョン」の(2)の「周囲の状況を実際以上にコントロールする力があるととらえる」は、別名「イリュージョン・オブ・コントロール(統制感の幻想)」と呼ばれている(90ページ)とのことですが、ここで書かれていることは、「療育と『万能感の錯覚』」で書いたこととほぼ同じです。ですから、私が「万能感の錯覚」と呼んだ概念は「統制感の幻想」と置きなおしてもいいのかもしれません。
直接本と関係はないのですが、「療育と『万能感の錯覚』」(今更ながら読ませていただいて)+「自分たちが行なっている療育の成果を冷静に評価すること」という部分についてひとこと。
最近は昔に比べて、たくさんの情報がありますね。
そんな今「伝える、伝わる」ということに関して、私たちは大きな問題を抱えているように日々感じられます。
たとえば、こどもたちが皆机に向かって勉強らしきことをしていることばかりがよしとされている学校があります。トランポリンで、楽しそうに跳んでいる子どもを見て、「あの子は、今、何をしたらいいか分からない」と主張する人が増えています。
たとえば、悪い行動をおこさせないために、外にも行かず、歩くこともせず、遊ぶこともさせない。自分ひとりでは増やしていくことができない「楽しいこと」をさせてもらえずに、カードで意志を伝える練習ばかりする。
そういった療育を推進している人は、めざす療育をしていると「信じて」しまっています。
ことばでは何も伝えることができません。相手は「信じて」いるのですから。
頭のいい方なのに、なぜ信じてしまうのだろう。子どものことが見えないんだろう。
あるとき「うまくいっていない自分を見たくないから」なのかもしれない、そんなふうに思えました。「うまくいかないような」状態がどこかで許せないのかもしれない、と。
それは仕方のないことかもしれません。
子どもの成長の違いを比べることはできません。
何度も試してみることなど、できませんから。
初めてこどもを育てることになった保護者の方も、比べることはできませんね。
何かを信じていたいし、「今」落ち着いた毎日を過ごして欲しいはずです。
そんな中、伝えたくなったことは、
こどもたちが成長しようとしていることを、忘れないで欲しいということです。
私たちよりずっと速く。
ですから、人が育つために必要なことを(自分だけではできないかもしれないたくさんことを)提供してあげて、たくさんかわいがってあげることがまず一番だと思っています。
普通の子どもの成長に必要なことを忘れないで欲しいのです。
アタッチメントが、脳を育てるのですから。身体が脳を育てるのですから。伝えたいという気持ちが、コミュニケーションを作っていくのですから。
「助けてあげたい」「この人と一緒にいたい」とみんなが思えるような人に育つためには、幼少期がなにより大切だと思っています。大切な時間を「大切に」過ごして欲しいと思っています。
「自閉症のための療育」は、+α(もちろんとても重要な)です。「思いこんでいるかもしれない自分」がいるかいないか、たまにふりかえって見ることをおすすめします。
本と離れてしまいましたね。
そらパパさんのブログをかりて、言いたいことを少し書かせていただきました。
そらパパさんは、明晰で偏らない。
思うところをことばにしてくださいます。
これからも、応援しています。
コメントありがとうございます。
ぷるさんの書かれていることは、非常に難しいテーマなのだ、と思います。
ぷるさんが批判されていることは、ABA的療育観と重なっているように思います。
ABAでは、「できるだけ失敗経験をさせない」ことが基本的な療育スタイルになります。なので、スモールステップで、養育者のプランに沿ったかたちで行動を形成していくことが療育の中心になります。
このようなやり方が、子どものダイナミックな発達を取りこぼしてしまうリスクや、まさにこのエントリで書いているような「イリュージョン・オブ・コントロール(統制感の幻想)」もしくは「万能感の錯覚」のようなものにつながりやすいのは事実だと思いますので、このようなやり方にのめりこみすぎて視野が狭くなるのは問題だと思います。
ただ、先日の「TEACCHと行動主義」という記事でも書いたように、「行動ではなく、『こころ』を療育するのだ」といった考えかたにとらわれすぎてしまうこともまた、療育の効果を検証不能なものにしてしまったり、子どもの行動の背後にある「こころ」を、親が「解釈」しすぎてしまうリスクがあるので、避けなければならないと私は考えています。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/104694111.html
つまりは、バランスだと思います。
親の考える「行動の枠組み」だけに子どもを押し込めるのも極端すぎますし、目に見える行動から離れてしまって「こころ」ばかりを直接どうにかしようと考えてしまうのも極端だと思います。
ぷるさんのコメントを読んで、この「バランスをとる」ということを実践すること、そして伝えていくことの難しさを、改めて考えました。
書かれていることは、もっともだと思います。本当に「バランスをとること」は難しい。
おそらく、「失敗させない」という自信がなければできないことなのでしょう。「できるだけ失敗経験をさせない」ことができて、細かい、細かい見る目を持ってプランを立て、工夫を積み重ねることができて、効果が現れてそこで「これで良かった」と思えるのでしょう。
本当に細かい目で見ているからこそ、ダイナミックな発達につながるのだと思います。超スモールステップがあるからです。
そこには、ABAもTEACCHも利用される。
うまく伝えることは、難しいですね。
有名な特別支援学校のこどもたちには、全く覇気が感じられませんでした。子どもなのに、皆ボーーっとしている。すべきことをするだけ。
それを見て、おそろしく、悲しくなりました。
「学校」なのに「子ども」なのに・・・と。
TEACCHを思い切り信じて推奨する方々のほうが、自閉症児の「こころ」を身勝手に「解釈」していることが多い、そういうふうに見えるのです。そして、自信を持って自閉症児を「閉じこめている」ように見えてしまった。細かく見ているようで、道は狭く限られ勝手にひかれている。
お願いだから決めつけないで。
もちろん、狭い私の知っている範囲の中だけの話です。自分にとって「ひどくやるせない気持ち」になってしまう数件の例の記憶がそう思わせているだけなのかもしれません。TEACCHの考え方には、賛同する部分がたくさんあるからです。なのに・・・・どうしてそうなっちゃうの?そんなこと誰も言ってないと思う!が多すぎる気がします。
昨年、ボンディ博士は「PECS」をするのが目的ではなくて、「ピラミッド」で考える、その1つの方法と言っていましたが(たぶん)
もしかしたら、本当に言いたいことがずれていってしまうことを感じていたのではないかな等と邪推してしまいました。
バランスです。
どちらを先にしたほうが、大きなズレがないのか、と悩まざるをえません。
そして、前の書き込みとなります。
どんなイメージの子ども像か。
もしかしたら、療育者としてのプランがお粗末な場合、どちらを土台にしたほうが害が少ないか、ということかもしれません。
私はどちらかというと自閉症療育には前向きなほうですが、寂しい記憶が厭世的な文を作ってしまいました。
すみません。
「伝える」「伝わる」について、ついつい考えてしまうこのごろです。
おっしゃりたいことは伝わってきている、と感じています。
ただ、私はちょっと天邪鬼なので、「覇気がない」という、ぷるさんの「見えかた」にも、「解釈」を感じる、ということも、実はあるのです。
「分からなく」なってしまうのであれば、すっぱりと「分かる」ことだけに絞ってしまったほうがマシだ、という考えかたも当然アリで、それはABA的な行動主義の療育につながっていきます。
私は、ABAであっても、TEACCHであっても、それらの混合であっても、本来はどれも子どもの本来もっている「伸びる力」を尊重していると思っています。
もしそうでなくなっているとするなら、それは療育法に問題があるのではなくて、療育をやっている人のスキルややり方に問題があるのだと思います。それはABAだろうがTEACCHだろうがそれ以外であろうが、あまり関係ないのかもしれません。
(例えば、TEACCHでは本来は「自己選択」「自律活動」というのを非常に重視します。自分ひとりで、自分の判断で活動ができるようにするために「構造化」するわけです。
構造化とスケジュールで、子どもの活動を完全に選択のないワンパターンにして固定してしまうとすれば、それは多分「TEACCHではありません」。)
構造化にしても絵カードにしても、「子どものためのツール」であって、「大人がラクをするツール」ではないんですよね。
このあたりは、私の書いた2冊目の本の66~67ページで書いている「療育の体制の陳腐化」が起こっているんじゃないかな、と思ったりもします。
つまり、大人がラクをできる決まったパターンに安住してしまって、変革を嫌うような状態になってしまっているのでは、ということですね。
こういう状態に危機感を感じて「新しい風」を吹き込ませるようなリーダーの存在があれば、状況が変わるチャンスがあるのですが、そうでなければなかなか難しいかもしれません。
そうです。
そのとおりです。
「療育法に問題があるのではなくて、療育をやっている人のスキルややり方に問題がある」のです。
本当は先日書きこんでから、訂正した方が良いのかなと思っていました。まさに、受け止める側の問題なのですし、そんなことは、私が言うことではないのですから。
おそらく、自分は、どうしたら、どうなる。こうしたらこうなった、という現実の過去の変化に対する引き出しがたくさんあるために、先の姿をいくつかのパターンとしてイメージしてしまうのだと思います。それは、もちろん偏っているのでしょう。
より、幸せなイメージは私が持っているものですから、それを正しいと言うのは私だからです。
変わることで私たちに幸せを与えてくれているこどもたちのおかげでえられたものイメージです。でも、それを押し付けることはよくない、というか、全く何も効果がない、と意識しています。それでも押し付けようとしてしまうのだと思います。
言い訳としては、毎日自転車練習をして一年後に自転車で颯爽と走り回っている笑顔の子どもと、一年後に一年前と同じ絵カードを提示されて同じカードを選んで、一年前と同じ場所で同じ格好で同じ音楽を聴いて座っているだけの子どもを見て比較してしまうと、道理なんてどうでも良いからそういう子どもを少なくしたい、と思ってしまう。というものになります。
私の意見が少しブレたのは、きっと、その親は有名な療育のアドバイスを受けていて、担任は「そうして欲しいと言われているから」と言っていたことが、頭にあったからです。要求をかなえているのだ、という意識を持ってそれがなされていたわけです。
それで良いと思えない。仮説ですが、違う姿の一年後もありました。では、いったい、何がそうさせてしまうのだろう・・・。自分で何もできない立場にいると、しらずしらず哲学してしまうものです。
自分がイメージを「比較」してしまう、という問題でしょうか。
またまた、「そんなことを言われても・・・・」という内容になってしまいました・・・・・
うーん。私はどういう返事をして欲しいのでしょう。
たいへんですね、でもない。難しいですね、というのも少し違う。
私の思いが、そらパパさんの引き出しのどこかにちょっとだけでもひっかかって、そらパパさんがこの先に進むときの道に少し色がついてくれたら、きっと、少し私の思うこどもたちの幸せも、誰も気づかない程度に紛れるのではないかと思ったのかもしれません。
大胆にも密かな洗脳を試みなたのかもしれませんね。
直接お会いしたことがない方だとつい、間にことばを挟ませない分、甘えてしまって一方的になってしまいます。
それでも、読んでいただくからことばにできるのです。
書かせていただいてありがとうございました!