2008年08月18日

時速250kmのシャトルが見える(ブックレビュー)(2)

前回の記事の続きです。



時速250kmのシャトルが見える
著:佐々木正人
光文社新書

前回、トップアスリートたちは、己の肉体を鍛えることと同等かそれ以上に、自分の外側の世界=「環境」に徹底的に適応していること、自閉症児はその対極にあると考えられ、そのような「環境との相互作用・環境の変化への適応」に困難があることから、それをふまえた療育や子育てを検討していけばいいのではないか、といったことを書きました。

・・・このような、私たちの目線を客観的なところにおいて、「我が子と環境とのありかた」を考えるような議論は、割とよくなされると思うのですが、私は、議論をここで止めてはいけないと考えます。

なぜなら、環境と相互作用しているのは、自閉症児だけではないからです。
当然ですが、私たち自身も、環境と相互作用して、学習して、適応して生きています

そして、その「環境」(=自分自身以外の外の世界)のなかで、自閉症児の親にとって最も切実に関わっていかなければ成らないものが、「我が子」だと思います。

この本を読んで私が一番強く感じたのは、自閉症児の親というのは、自閉症という障害をもった我が子という、非常に難しい「環境」に対して果敢に挑んでいくアスリートのようなものなのではないか、ということです。

一般に「学問」と呼ばれていることと、「運動」と呼ばれていることの大きな違いの一つは、「言語化されている度合い」だと思います。
「学問」というのは、本質的な意味において言語とつながっています(学者の成果が「論文」で評価されるという事実が、そのことを如実に反映しています。)。言語化できないけど、何かすごいことができた、というのは、学者としては評価されないでしょう。もちろん、一流の学者というのは、言語化できない特別なやり方、特別なひらめきを持っているでしょうが、それでもやはり、学問の本質は「言語化されて、その範囲内で共有されること」にあると思うわけです。

それに対して、運動はまったく違います。
入門書やコーチの指導などはあっても、それを言語的に学んだだけでは、運動はマスターできません。
そして逆に、最終的に運動をマスターした自分の「ありかた」は、誰もが共有できる(つまり、それを読めば誰もが同じ「ありかた」になれる)ような水準で言語化することはまず不可能です。
つまり、運動とは、一人ひとりが、自ら試行錯誤し、環境との相互作用を濃密に繰り返した結果として初めて「学習(むしろ「体得」といったほうが適切でしょう)」することができる、言語化できない要素を大量に含んだ「わざ」なのだ、といえます。
さらに言えば、「運動」は、「運動している瞬間」を離れてしまうと、消えてしまいます。運動していないときに「運動について言語的に語る」ことは可能ですが、それは既に、「運動そのものではない何か」になっています。これも、言語と不可分一体である「学問」と異なるところです。


さて、そのように考えたとき、療育する人間(つまり私たち親など)にとって、自閉症の療育は、「学問」に近いのか、「運動」に近いのか、どちらなのでしょうか?

私は、「運動」に近いものだ、と考えます。
もちろん、自閉症療育にもマニュアルがあり、コーチ(専門家)もいます。そこから、有益な情報を得ることはとても重要なことですし、実際に有益です。
でも、どんな知識も情報も、「実際に我が子に働きかける」ことによって初めて動き出すものであって、「動き出した」後は、知識や情報を増やすことと同等かそれ以上に、「非言語的な我が子からのフィードバック」をしっかりと受け止め、その瞬間その瞬間に生じる、ありとあらゆる非言語的な環境の変化にリアルタイムに対応していくことが求められます。
そして恐らく、そうやって試行錯誤を重ね、自分なりの療育のありかたをマスターした人が、それを言語化してマニュアルを書いたとしても、それはどこまでいっても「入門書」のレベルどまりであって、そこから先の「マスター」になる道は、やはり言語化できないのではないかと思います。

このような「運動的な要素」は、コミュニケーションに困難のある自閉症児のための療育ではなおさら大きくなるでしょう。
ことばによる指示や、ことばによる反応が十分に役立つのであれば、療育のサイクルは基本的に「言語化」され、親・子・さらにはそれを支援する専門家といった人たちの間で言語的に共有されます。つまり、「療育の瞬間」を離れているときでも、言語的に共有された「療育」を語ることがそれなりに可能ですし、「療育をしている当人」以外の人が客観的に療育について語ることも比較的容易です。
ところが、ことばによる指示がとおりにくく、またことばによる反応も不十分な自閉症児の療育は、このような意味で「言語化」できる領域が極めて限られますので、仮に「言語化」されたものだけを取り出して客観的に語ろうとしても、それはすでに「療育の瞬間のリアリティ」とは相当にかけ離れたものになってしまっています。

ですから、療育、特に「自閉症の療育」は、究極的には、それをマスターした個人の中にしかなく、また、療育という営みを現に行なっている瞬間にしかないものだ、ということができるのではないでしょうか。
それはまさに、この本で書かれているような、トップアスリートたちにとっての「スポーツ」のありかたに非常に似ている、と思うわけです。

これはもちろん、科学的な(言語化された)療育技法が無意味だというものではありません。スポーツ「理論」が有効であるのと同じように、またスポーツも最初はコーチに指導を受けなければ「基本がなってない」状態になるのと同じように、療育技法を通じて、療育の「基本」を学ぶのはものすごく重要です。
でも、本当の、私の、あるいはこのブログを読者の皆さん自身の「療育」は、そこではなくてもっと先、絶え間ない試行錯誤と鍛錬の先にしかなく、それは決して言語化できないような「わざ」であるということも事実でしょう。

この本を読んで、そんなことを考えました。


最後に:アフォーダンスの心理学者である佐々木正人氏の、他の本をご紹介しておきます。


アフォーダンス-新しい認知の理論(岩波科学ライブラリー 12)

アフォーダンスとは何かを知るためのとてもよくできた入門書。初めて読むならまずはこれから。(関連記事


知性はどこに生まれるか―ダーウィンとアフォーダンス

どちらも同じ本です(左の文庫の方が新装版です)。上の本が真面目なアフォーダンス入門書だとすると、こちらは少し斜に構えたアフォーダンスエッセイ。どちらも面白いです。(レビュー記事


遊びを育てる―出会いと動きがひらく子どもの世界(野村 寿子)

アフォーダンス理論を肢体不自由児の療育に活かそうという本。巻末に佐々木正人氏との会談が掲載されています。(レビュー記事

posted by そらパパ at 22:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 理論・知見 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。私も当事者の親、アスリートの一人です。
アフォーダンス理論は、とても興味深いです!
某玩具会社の∞プチプチや∞エダマメもアフォーダンス理論をもとに作られているそうです。
「確率操作」にも通低する理論だと思います。記事と無関係で、申し訳ありません・・。
Posted by のんまま at 2008年08月19日 16:47
のんままさん、

コメントありがとうございます。
この新書は、いままさにオリンピックなどで関心の高まっているアスリートの世界から、「アフォーダンス」という新しい心理学の世界に触れることができる、とても興味深い本だと思います。

ABAの確立操作もそうでしょうし、同じような意味で、TEACCHの構造化も、アフォーダンス理論から説明できるところがあると思います。
Posted by そらパパ at 2008年08月19日 21:47
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