療育のことを忘れて、気軽に読める本です。
ところが、全部読んで内容をかみしめていると、あるところから、療育につながってくるのです。
時速250kmのシャトルが見える
著:佐々木正人
光文社新書
エリア―身体の延長しているところ、一瞬で知覚する広さ
潮田玲子・バドミントン―空間を20分割して、シャトルを打つ!
名波浩・サッカー―ゴールへの完璧なパスコースが光り輝く
松下浩二・卓球―騙しあいの格闘技…卓球競技の本質
地面―疾走を支える外部エンジン
朝原宣治・100m陸上―100mを10秒台で走るとはどういうことか
鈴木亜久里・F1―F1ドライバーが見ている時速300kmの世界
堀井学・スピードスケート―スケート選手は氷をどう捉えているのか
皆川賢太郎・アルペンスキー―ポールは“縦への落下”でクリアする
空気―情報の埋め込まれた周囲
鹿島丈博・体操―宙返り、離れ技、高難度…体操競技の本質
澤野大地・棒高跳び―コンディションのいい日はポールが柔らかい
船木和喜・スキー・ジャンプ―ジャンプは、飛ばずに「風」に乗る
水―硬軟、形、千変万化の環境
寺内健・飛び板飛び込み―踏み切った瞬間、「入水ルート」が見えてくる
武田大作・ボート競技―水と喧嘩せずにボートに従う
武田美保・シンクロナイズド・スイミング―水面の硬さは、演技によって障子紙にもシルクにもなる
力―「隙」、「道」…直感で把握するタイミング
吉田沙保里・レスリング―“隙間”ではなく隙“動き”。そこがタックルの「入り口」
野村忠宏・柔道―相手の股下に背負い投げへの「道」が見える
友綱親方・相撲―大相撲で闘うとはどういうことか
さまざまなスポーツで活躍する、日本を代表する超一流のアスリートたちに、「アフォーダンス理論」で著名な心理学者がインタビューするという一風変わった趣向の本。先月出たばかりの新刊です。
一見、自閉症療育とはまったく何も関係のない本です。
そして、中身を読んでも、恐らく95%以上の人には、療育とは完全に無関係のものと受け止められるかもしれません。
私にとっては、この本に書かれていることは、自閉症療育の(特に「自閉症の」療育にとって)究極の真髄に迫っているのではないかと感じられるものなのですが、その「直観」自体が間違っているかもしれませんし、ここではこの本を「療育に役立つから読んで下さい」とは書かないことにします。
その代わり、このレビューでは、私がこの本を読みながら、療育について考えたことを書くことにしたいと思います。
目次を見ていただければわかるとおり、この本のテーマは、実は「環境」です。
昨今、「環境」というと、地球温暖化とかエコロジーといったイメージがついてしまっていますが、本来、環境というのは読んで次のごとく、「自分のまわりを取り囲んでいる、自分とは区別された世界」のことを指している、価値観の色がついていない概念です。
(実は、どこまでが「自分」で、どこからが「環境」なのか、というのは意外と難しい議論になるのですが、そこには踏み込みません。興味のある方は、河野哲也氏の著作などを参照してください。その辺りが分かると、この本は一層興味深く読めます)
私たちは、この「環境」に働きかけ、「環境」からのフィードバックを受けることで、環境と相互作用します。
その相互作用によって私たちは「学習」し、「環境」との適切なかかわり方を学んでいきます。
ちなみに、脳の情報処理ネットワークのある機能の障害によって、この仕組みがうまく働かなくなることが、自閉症の本態だというのが、私の1冊めの本で書いた、「一般化障害仮説」です。
つまり、「環境との相互作用」が著しく困難なのが、自閉症という障害だと考えられるわけです。
それに対して、本書に登場するトップアスリートたちは、スポーツという領域で、「環境との相互作用」を極限まで磨きつづけている人たちだ、ということができます。
私はスポーツはからっきしだめな人ですが、それでもこの本を読めば、アスリートたちがどういう「領域」で己の技を磨いているのかはひしひしと伝わってきます。
それは、例えば「空気の重さや濃さを肌身に感じる」ことだったり、「スケート靴のエッジの0.数ミリの変化を感じる」ことだったり、「時速300kmがゆっくりに見える」ことだったり、「相手の『隙』が見える」ことだったりと、スポーツによってさまざまですが、どの競技においても、アスリートたちは自分の肉体を鍛えることと同等かそれ以上に、自分の外側、つまり「環境」に究極ともいえるレベルまで適応し、その変化に驚くべきスピードで対応・適応しているのだということが分かります。
この事実から、いくつかのことを考えさせられます。
まず、割と分かりやすい議論として、自閉症の療育のなかに、運動の要素をうまく組み入れることが効果的かもしれない、ということ。
なかでも、「環境との相互作用」が豊富で、かつ、恐怖感や不快感を感じさせないようなものが望ましいのではないか、ということが考えられそうです。
具体的に私がイメージしたのは、感覚統合療法などで採用されている、バランス運動、皮膚刺激運動、粗大運動などに始まり、プールでの活動(水遊びから水泳へ)、フィールドアスレチック、乗馬といったものですが、他にもきっといろいろあるでしょう。そういう視点からは、トラックを走るよりは山登りをさせたほうがいいのかもしれません。
それから、多くの自閉症児が運動に不器用さがあるのは、やはり「環境との相互作用」の弱さからくるのだろう、ということにも思い至ります。
自閉症児が、野球やサッカーのように、たくさんの人の中でリアルタイムにコミュニケーションをとるようなスポーツが苦手なのは自然に理解できると思いますが、1人で行なう競技であっても、やはりスポーツというのは非常に複雑な環境のなかで適応することが求められるので、その部分に弱さが出ることが多いのではないか、という推測です。
ただ、これは逆に、人との複雑なコミュニケーションが困難であるがゆえに、それよりもやや複雑さの低い「人以外の環境との相互作用」が大きく発達するようなケースも想定できますので(その端的な例が、特定のモノへのこだわりでしょう)、そういった傾向がいい方向に出ると、あるスポーツに対して才能を発揮する可能性もありますね。
・・・ここまでは、割とよくある議論だと思うのですが、議論をここで止めず、さらに先に行きたいと思います。
環境と相互作用しているのは、もちろん自閉症児だけではありません。
私たちも、環境と相互作用して、学習して、適応して生きています。
この本は、そういう視点で読んだとき、俄然「自閉症療育」にとって、重要な問いかけをしてくるように思われるのです。
次回は、その辺りを書いていきたいと思います。
(次回に続きます。)
20年前、私が学生の時に体育会系のクラブに入っていたのですが、その時に「インナーテニス」という本を読みました。当時手に入る数少ないスポーツ心理学の本でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
これが競技中に実践できると、自分の体はもちろん、時間すら自分の管理下にあったような錯覚を覚えるほどです。
そらパパさんの記事を見て、ふとそんなことを思い出しました。
コメントありがとうございます。
「インナーゲーム」というのは、私は効いたことがありませんでしたが、面白い構成概念だな、と思いました。
もうちょっと汎用的な心理学用語でいうなら、「手続き記憶」と「宣言的記憶」の関係のことになるでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E7%B6%9A%E3%81%8D%E8%A8%98%E6%86%B6
スポーツの高度な動作のためには、「手続き記憶」のレベルですべてが解決されなければならず、「宣言的記憶」に頼っているようではダメ、というのはよく分かります。
多少方向性は違いますが、この記事の後半では、療育の本質も同じように「ことばにならない」ようなところにあるんじゃないか、といったことを書く予定です。