もともとこの記事は、療育についてのある一つの「意見が対立する問題」について、私が特定の一方の立場に立っていることを宣言する内容だと自覚していたので、コメントがあるとしても賛否両論になると思っていました。
ですから、結果として肯定的なコメントが多くいただけたことは嬉しかったですし、また、反対の意見をいただいたことも、議論としてはとても健全なことでよかったと思います。
先週の記事へのたくさんのコメントへを読ませていただき、またレスを書いている過程で、改めていろいろなことを考えたので、その辺りについて、先週の記事のまとめ・補足といった意味もこめて、改めて書いていきたいと思います。
繰り返しになりますが、今回の議論は、正しい・間違っているといった議論では、必ずしもないつもりです。
前回の記事で、私は「療育に対する万能感は、錯覚である」という主張をしていますが、これも、突きつめていけば「思想」です。
これに対して、たとえば、「我が子よ、声をきかせて」に典型的に見られるような一部のABAや、行動主義心理学の創始者であるワトソンの下記の発言などには、「我々は発達に対して原則的に万能である(万能でないのは、まだ見つけていない原則があるからに過ぎない)」という、発達に対する万能観、還元主義が見て取れます。
ワトソン、1930「行動主義の心理学」
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/gairon/Gairon2003.files/Gairon2003-body10.htm
私に、健康で、いいからだをした1ダースの赤ん坊と、彼らを育てるための私自身の特殊な世界を与えたまえ。そうすれば、私はでたらめにそのうちの一人をとり、その子を訓練して、私が選んだある専門家ー医者、法律家、芸術家、大実業家、そうだ、乞食、泥棒さえもーに、その子の祖先の才能、嗜好、傾向、能力、職業がどうだろうと、きっとしてみせよう。
そういう意味でいえば、ロヴァース式に代表されるような「原理主義的なABA」とか、キレーションに代表されるような「薬・サプリメント・手術などで自閉症を『治そう』とするアプローチは、「ヒトは、子どもの発達の大部分をコントロールできる」という「思想的立場」をとっていると考えられます。(なので、実はこの2つは思想的にはかなり近い立場であり、この両方を「合わせ技」で好んで取り組む親御さんが多いのもうなづけます。この辺りについては、以前、関連した記事を書いています)
一方、TEACCHは、それとは対照的に、療育的働きかけとは「間接的かつ限定されたコントロール」であり、発達の原動力は「子どもの内」にあると考えているように思われます。
ですから、働きかけは、その「原動力」を発揮しやすいような「環境の調整」=「構造化」が中心になります。
極論すれば、「能力が発揮しやすい環境を作って、その環境のなかで、子ども自らに存分に活動してもらうこと」が、TEACCH的な療育観だと理解しています。
ここには、「我々が子どもの発達自体をコントロールする(できる)」という考えは希薄だと感じます。
この考えかたの違いは、例えば、ロヴァース的なABAが基本的に「できないことを(プロンプトなどを駆使して)できるようにする」というアプローチをとるのに対して、TEACCHでは「芽ばえ反応」と呼ばれる、「すでにできそうになっていることを(うまく刺激して)できるようにする」というアプローチをとるところにも典型的に現れていると思います。
ここから、また私個人の「立場・思想」の色合いが濃くなります(とあらかじめ断っておこうと思います)。
少し意地悪な例えになりますが、「私たちは発達の大部分をコントロールできる」という立場というのは、例えば種をまいて花を育てるときに、種を自分でむいて双葉を引き出せば早く芽を育てることができる、と主張しているように感じられる部分が、私にはあります。
これに対して、私がとっている立場というのは、種をまいて花を育てるときには、あらかじめいい土を作って(環境調整)、適度に水をまいて雑草を取る(間接的な働きかけ)などしたら、あとは芽が出るのを待つしかない(コントロールできない部分にはあえて何もしない)、という考えかたになります。
「芽を出させる」ために私たちができることは、「芽を引っ張り出す」という直接的なことではなくて「水をやる」という間接的なことなわけです。
そして、水をやったからといってすぐに芽が出てくるわけではありません。芽が出るまで地道に「待っている」という時間も必要になります。
待っている間は、「何とかして早くを芽を出させたい」と焦る気持ちになるかもしれません。
その焦る気持ちが悪い方向に結びつくと、「土を掘り起こして芽が出ていないか確認してしまう」「種をむいて芽を無理やり引っ張り出してしまう」「水をやりすぎて種を腐らせてしまう」「怪しげな特効肥料にだまされる」といったことも起こり得ます。
あるいは逆に、「どうしていつまでたっても芽が出ないんだ」と絶望的な気持ちになってしまうこともあるかもしれません。
こういった状態は、花を育てることに対して「肩の力が入りすぎている」といえないでしょうか。
私たちは、花を育てるとき、いい土を作り、日があたるようにして、こまめに水やりをして雑草をとるといった「働きかけ」をすることができますし、それはとても大切でしょう。
でも、究極的にいえば、種が芽を出し花開くのは、その種自身が持っている「内なる力」によるものであって、そこに私たちは手を出すことができません。
その「内なる力」を信じて「待っている」という時間も必要ですし、その時間は、花のことばかりを考えてじっと地面を見つめているばかりではなく、人生をもっと豊かなものにするために別のことに有効に使ったっていいはずです。
療育も同じだ、というのが私の立場です。
大切なことは、お子さんにとって、どんな働きかけが「いい土づくり」につながるのか、あるいは「水やり」や「雑草とり」になるのかを発見することです。
その部分には徹底的にこだわるべきですし、それをおろそかにすることは、親としての責務として、あってはならないことでしょう。
しかも、私たちが育てているのは、健常のお子さんとは少し違う「花」の種なので、「土づくり」や「水やり」、「雑草とり」のやり方も、普通の花の種とは違って、特に注意深く、いろいろな工夫をすることが必要です。そういった「工夫」こそが、私たちが学んで実践していかなければならない「療育的働きかけ」なのだ、ということです。
ここで、自分自身が自閉症について学ぶことと、専門家などの的確なアドバイスを受けることの重要性が出てきます。
そしてその一方で、これらの働きかけは本質的に間接的かつ限定的なものであり、かつ、これらの「間接的な」働きかけを超えるような「奇跡」や「近道」はないということを自覚して、子どもの発達を「見守る」という視点をもつことも大切だと思います。
もどかしくて、じれったくて、焦ってしまいますが、そこで少し距離をおいて、療育とはそういうものなのだ、と「一歩引いて構える」ことが必要なんだと思います。
私たちができることは限られています。でも、子どもは、その「私たちができること」を足場に、それを超えて、大きく花を開く力をもっています。
その力を信じて、土をつくったり、水をやったり、雑草を抜いたり、そういう一見地味で間接的なことを継続して続けていくこと、それが療育なのだと思っています。そして、子ども自身がもっている「力」で、子どもが「花」を咲かせてくれたら、その都度、子どもと一緒にそれを喜びたいと思います。
もちろん、ときには害虫がついたのをその場で駆除するような、比較的直接的な働きかけが必要なこともあります(問題行動の解決など)。また、小さな変化を見逃さずに、「水やりのやりかた」や「与える肥料の種類」を適宜変えていくことも必要です。
ですから、「見守る」ことは「放置する」ことではありません。でも、「常に手を出しつづける」ことでもありません。
「療育はやればやっただけ成果があがるはずだから、可能な限りできることをすべてやるべきだ」という意見にも、一理あるとは思います。
上記のような、「療育の間接性」、言い換えれば「限界」をふまえたうえで、そのなかで「できるだけのことをやる」というのであれば、親御さんの力量と負担感とのバランスでベストを尽くすことを否定するものではまったくありません。
でもそれが、もしも「万能感」に基づく、「芽を出そうとしている種を思わず掘り起こしてしまう」ようなものであるとするなら、それは違うんじゃないか、と感じますし、「もっとできるはずだ、もっとできるはずだ」と自分や周囲を追い込んでしまうことは、徒に精神をすり減らして、かえって「効果的な療育を継続していくこと」を妨げてしまうんじゃないかとも思います。
療育することは、子どもの発達の「種」をうまく育てて、花を咲かせようとするような営みなのではないか。
私は、そう考えています。
私も、そらまめパパさんと同じ立場です。そして、そらまめパパさんが書いていらっしゃることは、「療育」にかぎらず、「子育て」そのものを指していらっしゃると思います。
以上
いつも、そらぱぱさんの記事に励まされています。
私も、必死で療育しなければと躍起になっていた時期がありました。
今も色んな意味で必死ですが。
子どもに、何かさせることは、本当に大変です。私は、障害のない長女、次女にさえ、怒らずに何かさせることが出来ないんですから。
「療育」というと、どうしても特別なことをしなければと思って、自分を追い詰めてしまいます。
最近は、工夫や根気のいる「子育て」なんだと思うようにしてます。
花にも、たんぽぽの花みたいに、まったく何も手を加えなくても、アスファルトの隙間などほとんどどんな環境でもたくましく成長できる花もありますし、
蘭の花みたいに、すごく手がかかって、細心の注意をはらって、水分や気温や日光や肥料など気を配らないと、すぐに花を咲かせられなくなる花もありますよね。
そのときどきの子どもにとって、成長をじゃましない環境を適宜、調節して提供することをたゆまず地道に試行錯誤していきたいものだと私も思います。
障害の種別・程度にかかわらず、色んなお子さんに関われば関わるほどこの言葉は真実だなぁと思っています。
前回の記事とあわせて改めて考えてみて、ここで書いているメッセージは、確かに誤解されやすいものなのかもしれないな、ということは感じています。
ここで書いていることは、療育(子育て)はムダだとか、いくらでも手を抜いてOKとか、そういったこととは全く違います。
そうではなくて、療育(子育て)が、子どもの発達に作用する、その作用のしかたのとらえかたについての考えかたを書いているわけです。
でもそれが、なかなか文章ではうまく伝わらないなあ、とも感じています。
ともあれ、私自身も日々いろいろなことを考え、悩みながら娘の療育にとりくんでいますので、皆さんのコメントは励みになります。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
鈴蘭さんのコメントを読んで、改めて、「支援」というのは、支援される側のために、支援される側の立場に立ってなされなければならないものなんだ、と改めて身が引き締まる思いがしました。
私たち「支援する側」は、つい、「支援」の主体が自分たちの側にあるという錯覚を持ってしまいます。
でも、それはまったくの誤りですね。
そんなことを、改めて考えました。
良い表現ですね。
・一人ひとりの特性にあった教え方。
(花の種類で育て方が異なる)
・継続して行うことが大切。
(毎日忘れずに、花に水を与える)
・子供の成長は、親へのプレゼント。
(花が咲くと、心がうきうきする)
以上を一言であっさりと!
と表現の巧みさに思わずうなってしまいました。
改めて考えてみると、「花を育てる」のは、「生命を育てる、発達させる」ということですので、療育とつながりがあるのは自然だといえは自然なことですよね。
それは逆にいうと、「発達には、私たちにはコントロールできない領域がたくさんある」ということでもあるのですが、私たちは、その制約のなかで、どうすればどれだけのことができるかを考えていなければならないのだと思っています。
2歳の息子が3ヶ月前に自閉症との診断を受けたばかりの、自閉症については新米ママです。
そらパパさんのブログは、「もしかして自閉症かな?」と疑いを持った頃から参考にさせていただいています。
息子は先週からPECSを始めたばかりで、まだ療育に行き詰ったと言うには早いのですが、最近ではこの先どうなるのかという不安というか焦りのような気持ちが早くも出てきてしまいました。
でもこの記事を読ませていただいて、今後は息子の成長を焦らず手助けしていけるような気がします。「療育は、花を育てるように」、いい言葉ですね。ありがとうございます。
私も息子の様子などを綴ったブログを最近始めたのですが、そこでこの記事を紹介しても良いでしょうか?
今後もそらパパさんのブログ、楽しみにしています。
診断を受けて間もないのに、療育としっかりと向き合えていることは素晴らしいことだと思います。
「行きづまること」「悩むこと」も、実は療育の一部です。療育というと、親が子どもに一方的に働きかける営みであるかのように錯覚してしまいますが、実際には親と子の相互作用です。
子どもが、伸びたり伸びなかったり、親が、気持ちよく働きかけられたり行きづまったり、そういうことの積み重ねで療育というものは進んでいくんだと思います。
ブログでのご紹介ですが、もちろんご自由にやっていただいて構いません。
よろしくお願いします。
私がABAの療育で好きなのは、凄く褒める事です。そして、褒めたりご褒美をいっぱいあげる事は、草花でいう栄養でもあると思います。芽を出し、伸びて花を咲かせるのは本人にしかできない事、でもいい土を与えて環境を整えるように、沢山の笑顔と褒めことばや包容などのその子に取っての喜びにつながる体験は、太陽の光のように子供に自信や力を与えると思います。
種をまいてフタバを引き出せば、芽は枯れてしまいます。これは、行き過ぎたABAの例をうまく例えていると思います。うまくいくABAも、最初は育ちかたの形を押し付けます。それは例えると、苗木を植える時、木がしっかり根付くまで変な方向に折れてしまったりしないように棒にくくりつけるようなことだと思います。身体プロンプトや融通の利かないやり方は、般化のレベルが高くなるとなくなります。それは植物に例えると、木がある程度育った時に自分の力でたてるとみなし棒を取り去るのに似ているかも知れないなと思います。
それでもTEACCHのアプローチはまた違ってますね。環境を整えて、自らの成長を見守り続けるのですね。TEACCHなどは、実践でやった事がないので触れる程の知識がないのですが、アイデアは大好きです。そして、できればTEACCHの用なアプローチが普通学級でも社会全体でも普及したらなと思います。
私はバックグラウンドは実は美術系で、教育も少し学んだだけなんです。大学では心理の勉強は全くしていませんでした。ですから少ない経験からのみの印象をかかせていただいています。
ですから私のコメントが的外れでしたらどうぞご指摘ください。
「ほめることは栄養だ」というのは、いい表現ですね。つまり、それは伸びるための原動力なのであって、伸びる力そのものは「ほめている側」ではなく「ほめられている側」にあるんだ、ということですよね。
TEACCHでの課題実施に関していうと、まずはいろいろな発達課題を試行して(PEP-Rというものが使われるようです)、「できない」「できる」、そして「芽ばえ反応」という、まさに花みたいな表現の段階の3段階に分けます。「芽ばえ反応」というのは、できるわけじゃないけど、それに関連するような「意味のある失敗」をする段階を指します。
そして、「芽ばえ反応」の段階にある発達課題を、「方法論的行動主義」によって行動療法的にスキル形成していく、というアプローチをとります。(まあ、私も聞きかじりではありますが)
心理学については、まあ私みたいなアマチュアがいう話ではないとは思いますが、履修していても、「問題の本質」にたどりついていない人は、けっこういるような気がしています。
私自身が考える、心理学の問題の本質というのは、心理学とは「そもそも何を研究しているのかが、研究すればするほど分からなくなる」、つまり、研究対象の実在性が、研究を深めるほど曖昧になっていくものだ、といったところにあるように感じています。
「こころ」の実在性を当たり前に前提してしまうと、それが見えなくなってしまいますね。(一般書として売られている心理学の本の99%は、そういう構成になってしまっていますが)
全く同感です。
それでも「分からない」という事が分かるのは、第一歩だと思います。
そもそも心理って何?精神って何?脳神経ってなに?
選択肢が悪魔払いや、精神病院(貧乏人の場合)か精神分析(お金持ちの場合)の選択肢しかなかった時代よりは、現在はよっぽどましなのかもしれませんが。
また話がそれたのでこの辺で失礼します。
コメントありがとうございました。
こういう話題は、一見脱線しているようで、実は療育とも強くつながっていると思います。