2008年07月07日

療育と「万能感の錯覚」

療育に対する親としての意識、スタンスに関連して私が最近思うことに、「万能感の錯覚」というのがあります。
この話題は、実は「適応という視点」のシリーズ記事とも若干関連性があるのですが、話題としては独立していると感じたので、独立した記事として書いてみることにしました。

このことを考えるようになった直接のきっかけは、かなり前にレビューした「発達障害だって大丈夫―自閉症の子を育てる幸せ」を、たまたま書店で久しぶりに目にして、レビュー記事のコメントのやりとりで、「なぜこの本の著者の堀田あけみさんは心理学の専門家なのに、療育に対してすごく醒めているように見えるのだろうか」といった議論があったことを思い出したことだったりします。



かくいう我が家も、家族で取り組んでいる療育の「量」は決して多くないです。我が家の毎日の子どもへの接しかたを誰かが見たとすると、おそらくそれは「熱心に療育に取り組んでいる」姿には見えないんじゃないか、と思います。

私が堀田さんのエッセイに共感したのは、この辺りの「療育に対するちょっと醒めた距離感」が、自分とけっこう近いように感じたからだ、ということもあります。レビュー記事の表現で言えば、「親としての肩の力の抜きかた」が近い、という言い方もできるかもしれません。
少なくとも、堀田さんも私(我が家)も、「心理学を勉強している」のに、「ものすごく熱心な療育をやっているわけではない」という共通項がある(と私は感じている)わけですが、これは実は接続詞が間違っていると思います。つまり、

「心理学を勉強している」からこそ、「肩の力を抜いた療育をするようになった」

のではないか、と思うわけです。
そう考える理由を今から書いてみたいと思います。

ここでちょっと話題を変えて、ちょっと前まであった「あるある大事典」とか、それ以外のさまざまな「健康番組」について考えてみたいと思います。
こういった番組は、ものすごく乱暴にいえば、特定の食べ物を食べることが体にいいという内容になっています。「あるある」の頃は特に如実でしたが、テレビである食べ物が健康にいいと言われると、その翌日からはスーパーからその食べ物がなくなるくらい売れる、といったことがしばしば起こりました。

なぜこんなことが起こるか、といえば、「私たちは食べるものを変えることで自分の健康状態を変えることができる」と信じているからです。

当たり前だと思わないで下さいね。ちょっと視点を引いて、考えてみてください。
実際には、食事というのは、食べる「量」が適切でさえあって、命に関わるような極端な偏食がない状態であれば、けっこうどんなものを食べてもそれほど体の状態に大きな影響を与えるとは言えないのではないでしょうか。
私たちの体は、不足しがちな栄養素があればそれを一生懸命吸収し、余ったものは捨てるというバランスをとる働き(ホメオスタシス)によって、基本的には「自動的に」その条件の下で一番健康に生きられる状態を作り出します。「何か1品余計に食べること」は、その働きに対して間接的かつわずかな影響しか及ぼさないでしょう。

言ってみれば、私たちは「自動操縦の船」についた小さな手動の方向舵を操作しているに過ぎないのです。
にも関わらず、私たちはつい、「この船を操縦しているのは私だ」という感覚にとらわれます。これが冒頭で書いた「万能感」という「錯覚」です。

さて、ひるがえって自閉症児の療育についてです。

発達というのも、実際には基本的に「自動操縦の船」です。子どもは放っておいても勝手に成長していきます。それは、外部から何か働きかけて、「成長を止める」ことができないことからも明らかです。
もちろん、養育者の働きかけが無意味ということはありません。適切な働きかけ=子育てが、発達を促進したり、適切に方向づける効果があることは当然です。ただ、これは決して「自動操縦装置を止めて自分が操縦する」ということではなく、「自動操縦装置で船を走らせながら、小さな手動の方向舵を操作して船の走行を調整する」という働きかけです

そして、自閉症に限らず、「発達障害」というカテゴリでくくられる障害をもった子どもは、この例えでいう「自動操縦」の性能に問題があるということになろうかと思います。だから、健常の子どもに比べても、より手厚い支援=「手動の方向舵」を一生懸命操作することで、何とか船を向かうべき方向に進めていくことになります。この「手動の方向舵を(健常児以上に)一生懸命操作すること」が、まさに療育的働きかけということになります。

でも、ここで大切なことは、「それでも自動操縦で船は進んでいる」ということです。
療育的働きかけは、「自動操縦(自然発生的な発達の進展)」に補助的に働きかけてうまく船を前に進めることであって、操縦全体を自らのコントロール下において自由に船を運転することではないのです。そんなことは、そもそもできっこないのです。

ここで話を最初に戻すと、心理学を勉強することは、こういう「人に対して働きかけることの限界」、ここの例でいえば「療育に対する万能感は錯覚である」ということを自覚することにつながるものなのかもしれないなあ、と(心理学を学んだ身としては)感じています。

これは、「何をやっても無駄だ」といったものとはまったく違いますが、外から見れば一見、療育に対する「醒めた目」、諦念のように映る可能性はありますね。

個人的には、堀田あけみさんのエッセイから感じられる、ある種の醒めた感覚、「熱心な療育」から距離をおいているような感覚は、ここから来るのではないかと感じています。そしてそういった感覚は、私自身も共有しているものでもあるのです。

療育はとても重要であり、障害をもった子どもの親としての務めだと思います。
でも、その「療育」の役回りというのは、子どもの「自動操縦」としての発達をうまく支援して伸ばしていくことであって、「発達そのものを作り上げていく」といった大げさなものではないのです。そもそもそんなことはできるものではありません。
だから、「療育」も、「子どもの発達をうまく引き出せているな」と感じられることが最も重要なのであって、もしそういった実感が持てているのであれば、もっと、もっとと無理をして自分にプレッシャーをかける必要はないのだ、と思います。(逆に、すごく頑張っているのに、そういう「実感」が持てないのだとすると、一度その取組みをやはり「少し距離をおいて」見つめなおす必要がある、ということでもあると思います。)

だから、療育で「肩の力を抜く」ことは、単に親の時間を作るために手抜きを容認するという後ろ向きな意味ではなくて、自分は子どもの発達に対して万能ではないのだという限界を認識して、「子どもの発達」を冷静にみつめて「できること」の範囲内で「いい仕事」をするということなのだ、という、もっと前向きな意味を込めることができるのではないか、と思うのです。
posted by そらパパ at 21:45| Comment(50) | TrackBack(2) | 療育一般 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そら豆パパさん、こんばんは。
七夕の夜に、素的なお話ありがとうございます。
何だか、私がいつも心の奥にあったモヤモヤが、すっきり晴れた気がしました。例えも含めて、とても解りやすく、すーっと頭に入って納得出来ました。

そう、できることの範囲内でいい仕事、していきたいと思います。

この本は読みたいと思いつつ、まだ読めてませんでいたが、早く読みたくなりました。

またいい記事を楽しみにしております。
Posted by ちょめ at 2008年07月07日 23:05
ちょめさん、こんばんは。

コメントありがとうございます。

意識していませんでしたが、今日は七夕でしたね。
せっかくなので七夕のうちにコメントをお返ししておこうと思い、急ぎ書いています。(^^)

このブログが、「療育を応援するブログ」になれればいいな、といつも思っています。
その、「応援する」ということが、単に知識を詰め込んでハッパをかけるということではなくて、肩の力を抜いた、自分らしい生き方をしながら、それでいて「効果的な療育」が成り立つようにサポートする、というものになれるといいなあ、といつも思っています。

これからもよろしくお願いします。
Posted by そらパパ at 2008年07月07日 23:49
はじめまして、サトコと申します。
いつも何か壁にぶつかったり、落ち込んだりすると立ち寄らせていただいていました。
我が家は主人もときどきおじゃましています。ときには「そらパパさんの読んだ?」なんて会話もあります。

今夜も悩んでおりました。
我が家の次男くんはそらまめちゃんと同じ年です。そらまめちゃんと好みも似ています。
進路選択の時期で、なんとも肩に力が入りっぱなしです。心の中では答えが出ているのになんだかもがいています。時間が必要だと感じています。

堀田さんのことは以前テレビで見たことがありました。堀田さんの笑顔がその当時の私には苦しかったことを覚えています。

眠れぬ夜に立ち寄りましたが、ちょっと心の風通しが良くなった気がします。ちなみに七夕の短冊への願い事、息子の名前のものは「愛される人になりますように」で私のは「優しい気持ちでいられますように」でした。
Posted by サトコ at 2008年07月08日 02:22
そらパパさま

 「万能感の錯覚」という考え方は重要なポイントとなる考え方だと私も思います。
私は、発達障害の可能性があると言われたお子さんをお持ちの親御さんの
ご相談にのることが多いのですが、そこで感じられるのは
この「万能感の錯覚」と、その裏腹のような
「絶望感・無力感の錯覚」の両極になってしまう場合が多いように見受けられることです。
 万能的な期待でしゃにむにある特定の
療育アプローチなどに入れ込むのでもなく、
かといってあきらめて何もしないのでなく
すこしずつお子さんが「自然な発達」の道筋を進むのを支援される視点をもたれると、
親御さんにもお子さんにとってもいいのだけれどと内心思いながら親御さんたちと
お会いしています。
 また、これから、発達障害のお子さんやその親御さんにかかわることになる、
臨床心理家を目指す後輩の人たちにも
特定のアプローチを過大視して「発達そのものを作り出す」錯覚を
助長しないようなってほしいと思いますし、
また、「子どものありのままを受容する」という名目の元に、何も方向付けをうながさずに受容するだけにもなってほしくないと思っています。
 「心理学を勉強することは、こういう『人に対して働きかけることの限界』、ここの例でいえば『療育に対する万能感は錯覚である』ということを自覚することにつながるもの」という言葉は私もそのとおりだと思います。 
 
 いつもすばらしい情報発信をありがとうございます。この業界のなかでは、私のような考え方をする者は少数派のように感じられ、なにかと孤立感をかんじながら仕事をしていますが、このホームページで支えられています。
              こうちゃん
Posted by こうちゃん at 2008年07月08日 11:51
あるあるの例え話、わかりやすくて、面白かったです。
眉唾かもしれないと、思いつつ、自分で確かめてみないと、なかなかその錯覚に気づけないものですよね。
確かに療育にも、そういった錯覚はありそうに思えます。
ある程度引いた視線で物事を捉えるためには、それだけの知識や経験みたいなものが必要だと感じます。

常に暴走する船のような子供を持っていると、手動の舵とりに、一生懸命にならざるを得ない現実があります。
しかしながら、いくら働きかけても、これは本人の成長に任せて、見守るしかないと思える部分もあります。
そして、それは、皆、それぞれ大きく違います。
肩の力を抜きたくとも、抜けないような現実にある時に、「一所懸命すぎる」とか、「肩に力が入りすぎ」と言われると、辛い時がありました。
「自動操縦」としての発達をうまく支援して伸ばしていくことが可能な状態にないと、親も肩の力を抜けません。


限界や、現実を認識した上で、なにが出来るか?を考えるというのは、賛成です。
引いて、全体像を見つつ、ピンポイントで上手く後押し出来たらと思います。
近視眼的に物事を見ると、失敗する事が多いですからね。

いつも興味深い記事をありがとうございます。
Posted by peach at 2008年07月08日 14:22
そらパパさん、こんばんは。
「できること」の範囲内で「いい仕事」を
していきたいものですね。
私は、いわゆる「2次障害」をできるだけ少なくしていくこと。そして、本人の自己肯定感や自尊感情を育てていくこと。
この二つを大切にしていきたいと思っています。
Posted by BOGEY  at 2008年07月08日 20:25
ご無沙汰です。そらぱぱさん。
今回のお話、よかったです。

うちの子供ももうすぐ5歳になってしまいますが、こちらにおじゃました頃は、3歳前のことで何もできない子でした。
あの頃は、こうちゃんさんが言うような、
「絶望感」にひたっていられない思いから、熱心に療育をしていました。
自然の発達とか考えもせずに。自閉症は特異だと決め付けて。

そして、やっぱりしんどかったです。
こういう環境にいるとそれしか見えなくなりますしね。
最近は子の持つ力を信じて一歩下がっている時期となりました。
私は、子供のことばかり考える生活から、
自分の時間を楽しむようになりました。

もはや、本人は他人から学ぶ力を身につけたように思います。私の役目も一段落というところでしょうか。というよりこれが本来持っていた本人の姿だったのかと思います。

うちの子も、二次障害で不登校になるタイプと医師から言われています。
難しいなと思いつつ、今できることは本人を肯定してあげる声かけぐらいです。




Posted by マリネ at 2008年07月09日 00:19
はじめまして
軽度の知的障害をともなう自閉症の娘(5歳)を持った父親です。
たまに機会を見てお邪魔しているのですが、今回のお話は実感を持って
感じています。

実際のところ、療育そのものは、注ぎ込んだ分だけリターンが確実にくる
というものでもありませんし(当然ですが)、
公的な療育の支援と家庭内である一定の方針があればそれでよいのかなと思っています。
我が家だと、「娘が生活しやすいように、でも、親が無理をしない程度で」
となりますが。今回のお話のエッセイ本は今度読んでみようかなあと思いました。

私の住んでいる市は、結構な大都市の割に療育のサポートが厚く、
娘は地域の療育センターと幼稚園の年長さんを合わせて通っています。
娘はどちらにも抵抗はなく通えているようです。
人と関わるという行為そのものに拒絶反応が少ないのは親としては助かっています。
娘の障害がわかった時には、絶望的なことを考えてばかりで娘の発達を喜んだり
できるようになるとは思っていませんでした。どうにか受け入れることができる
ようになったと思っています。

来年は小学校への進学ということで学校探しを妻と始めています。
近くの公立小学校(特別学級)を見学してみたりしてみましたが、
生徒の発達具合もバラバラで、悪い言葉になってしまいますが、
クラスにも先生にもアタリ・ハズレがあるようなので慎重に選択
しなければいけないと感じているところです。
Posted by にゃが at 2008年07月09日 01:59
そらパパさんこんにちは。
堀田さんの本は私も読みました。いい本ですよね。
私も肩の力を抜きつつ、娘の得意なところを伸ばしていきたいと思います。

来年はうちも就学です。
にゃがさんと同じく、支援級も当たり外れはあるというのが実感です。
しかも校区の小学校は支援級に15人も児童がいます。
・・・なんでこんなに多いんだーっ
Posted by tanx2 at 2008年07月09日 18:09
皆さん、コメントありがとうございます。

正直、この記事にこれだけの反響をいただいたことに少し驚いています。

しかも、どちらかというと、「それは親の言い訳、自己正当化なんじゃないか」という反論コメントが中心になるんじゃないかと予想していたので、肯定的なコメントを数多くいただいたことも、ちょっと予想外でした。

皆さんのコメントを読んで、少し補足したくなったことだけを書いておきたいと思います。

まず、今回の記事は、療育に取り組み始めのころに、必死になってもがくことを否定するものではまったくありません。むしろ、「限界をわきまえる」ためには、一度「限界」を経験する必要があるのだと思います。
サトコさんやマリネさんが書かれているような「苦しい時期」は、もちろん我が家も(私も)通っています。もがいて、苦しんだ先に、初めて「限界をわきまえつつ、いい仕事を楽しんでやる」ということがどういうことなのかが、少しずつ見えてくるんじゃないかと思います。

それと、こうちゃんさんもご指摘のとおり、「限界をわきまえること」は、何もせずただ「受容」の名のもとに放置することでもないですし、また、ある時期にできあがった「安定した療育環境」が常にベストだと決め付けるものでもありません。
ここは難しいところなのですが、私たちは一度「うまくいく安定した状態」を作ると、今度は逆にそれに依存して、「その先にあるかもしれない、さらに上の段階への挑戦」に及び腰になってしまうことがあります。これは、「(家庭内での)療育の保守化」と呼んでもいいかもしれません。私たちは、これも避けなければいけないのだと思っています。

最後の話題は、少し大きいものですので、機会があればまた1つの記事として書いてもいいな、と思っています。
Posted by そらパパ at 2008年07月09日 23:10
亀で申し訳ありません。

私も「わが子よ、声を聞かせて」のキャサリン・モーリスさんのように療育に入れ込むことはできないと思っています。
持続可能な発展という言葉が流行りましたが、療育もサステイナブルでなければならないと思っています。

また、療育の効果は、厳密には永遠に分からないものだろうな、とも思っています。なぜならば、全く同じ個体が複数あって、半分に療育を行い、半分に療育を行わずにいて、両者を比較するということができないからです。ほったらかしておいても成長する部分は、ご指摘のように少なくないと思いますので。

ただ、皆さんの意見を読んでいて、なぜ某漫画の主人公のように「これで良いのだ」と言い切れるのかは疑問があります。
私は、療育の目的は、子どもに社会生活で必要なスキルを身につけさせることである、と思っています。さらに理想を言えば、子どもが社会に出て働けるようになるところまで行ければ、という願いもあります。

そもそも、広汎性発達障害児というのは、一くくりにできるものではなく個体により千差万別ですから、一般化して議論することは難しいのも事実です。自閉度・知能の高低で作られる現状のマトリクスでの位置も違うし、これと密接に関連して最終的な就労において目指す目標も違うことになります。もちろん、①普通の就労、②福祉的就労、③就労せず、のどれかではあるのでしょうが。

それでも、いずれの場合も、親としてそれぞれの子どもの現在の状況を把握したうえで、どの程度まで子どものスキルを高めていけるかを考えて療育していく、という姿勢を持つことについては、共通することでしょう。そして、将来の就労という視点から見ても、今のやり方で「これで良いのだ」と言えるのであれば、問題ないと私も思います。
しかしながら、将来の就労のことは考えていないが、今は「これで良いのだ」と言われるのであれば、私は「何で?」と思ってしまいます。

もちろん、ガチガチな療育三昧生活を送れば、目指す目標通りに成長し、思っている就労が果たせると言うつもりはありません。
ただ、できないことができるようになる達成感と、できることが増えることによる相乗効果で、更にできることが増えていくという創発的なことは、療育への取り組み如何で生まれてくると思います。これは足し算ではなくべき乗になるでしょう。そうなれば、より高いレベルで就労できるようになる確率も高まることになります。

キレーションにおいて、やるやらないは親が決めるが、その責任は結果として子どもが負うことになる、と以前書かれていましたが、療育についても同様であり、「これで良いのだ」という自信を持てずにいます。

なお、堀田さんを攻撃するつもりはありませんが、単なる障害者の親である堀田さんと心理学者である堀田さんでは、同じ行動をしても同じ評価をつけることは、私にはできません。また、素人の私達が曲がりなりにもやっている療育について、この本の中で全くと言って良いほど療育にふれていないのも、かえって不自然だと思います。
Posted by はじめ at 2008年07月10日 23:45
はじめさん、

コメントありがとうございます。
私の意図としては、今回のはじめさんのコメントのような意見・立場に対する私の個人的な意見・立場を、堀田あけみさんのエッセイにもなぞらえて(対立軸的に)書いたのが今回の記事なので、今回のご意見に対する私なりの回答のかなりの部分は、すでに上記の記事と1回目のコメントで書いているつもりでいます。

繰り返しになりますが、今回の議論は、正しい・間違っているの議論ではないつもりです。
この記事では「療育に対する万能感は、錯覚である」という主張をしていますが、これも、突きつめていけば「思想」です。ですから「そんなことはない、我々は『万能』なのだ」という「思想」もあり、その典型の一つが、「我が子よ、声をきかせて」に見られるような一部のABAだと私は理解しています。

・・・実はこの続きもあるのですが、書いているうちにボリュームが相当なものになってしまってまだ書き終わらないので、今回の記事の「補足」的な位置づけで、次の月曜日の記事として立て直すことにしました。

思想的な対立軸の話題については、そちらの記事でもう少し補足させていただこうと思っていますが、それとは別の部分で、一点だけ。

私は、療育の究極の目標は、「社会生活のためのスキルを身に付けること」でも「就労」でもないと思っています。

私は、療育の究極の目標は「家族全員が幸せに一生を過ごすこと」だと信じています。言い換えると、「家族の一生分の幸せの総量を最大化すること」ですね。

そのための手段として子どもにスキルを身に付けたり就労を目指したりするわけですが、もしそれとは違う方向に「家族全員が幸せになれる道」があるのなら、そちらを選んでもいいと思っていますし、逆にいえば、スキルを身に付けたり就労を目指す「過程」において、家族が不幸になることがもしもあるとするなら、それは手段と目的が入れ替わってしまった状態なんじゃないか、とも思います。
療育をやっている、今まさにこの瞬間も、子どもにとっても、私たち家族にとっても「人生」の一部であるわけですから、その瞬間も大切にしたいと考えているわけです。
Posted by そらパパ at 2008年07月11日 20:44
そらパパさん

「家族の一生分の幸せの総量を最大化すること」という趣旨は理解できますが、そもそも幸せは定量的に把握できるものなのか、といった議論も必要となるでしょう。

今、こちら以外のブログ、それも(お子さんだけでなく)管理人自身も自閉傾向があると認識されている方のブログを何件か訪問しておりますが、その方々が子どもの頃は、自閉症についての知識も乏しく、親は「何でこんなこともできないのか」とばかりに強圧的に子育てをされたようです。親に対する不満、もっと言えば恨みつらみみたいなことを吐き出している方もおられますが、それでも、そのおかげでできるようになったことも多いようです。
当時は、本人達も辛かったと思いますが、そのおかげで結婚もできてブログも書けるようになった(ように私は受け止めます)。これも療育(との認識は当時なかったとしても、そ)の成果でしょう。

仮に「幸せは定量的に把握できる」としても、自分が死んだ後の子どもの幸せの量は、憶測でしかわかりません。
自分には、日本の福祉は、おそらく今以上に良くなることは期待できないとの危機意識があります。これも憶測ではありますが、国の財政状況から考えれば、そう考える方が自然です。
そもそも、高機能自閉症の子は今でも何ら福祉的な措置を受けられない状況にあり、自分が死んだ後、この子はどうなるんだろう、誰が面倒を見てくれるんだろう、という不安は、いずれ現実化する時が来ます。
率直に言えば、「橋の下でボロをまとって寝泊りし、ゴミ箱を漁って生活、最後は食うに困って生きるために軽微な犯罪を犯し、ご飯が食べられる刑務所の方が幸せだ」等という人生を送らせたくはないと強く思っていて、私は、そのための手段として療育があると思っています。

もちろん、それでも挫折することは少なからずあり得るとも思っていますが、それで駄目なら「しゃあない」と諦めもつきます。
もちろん落胆はするでしょうが、後悔はしないと思います。

自分の発想は、むしろMS的かなと認識していますが(マイクロソフトではなく、マネジメントシステムです)。
Posted by はじめ at 2008年07月11日 22:39
はじめさん、

今回のコメントについては、私は賛同できません。

「自閉症の知識も乏しく、強圧的な子育て」であっても、そのおかげでうまく成長できたのではないか、というはじめさんの主張は、「特別に配慮された教育・働きかけ」という意味での「療育」は必要ない、という主張だと映ります。

私は、「自閉症の特性、その子の特性に特別に配慮すること」は徹底的に重視します。その一方で、「療育は量が多ければいいわけではない」という立場もとります。(理由は既に記事等で書いているとおりです)

はじめさんのご意見は、「特別な配慮」はなくても何とかなるかもしれないが、とにかく「量」は多ければ多いほどいいはずだ、という意見である、と少なくともこの記事へのコメントでは読み取れますので、私とは正反対です。

就労・結婚できなければホームレスか犯罪者になってしまうかもしれない、といった議論も、あまりに極論ですし、表現として、不穏な差別的な匂いも感じます。

少なくとも私は、子どもをホームレスや犯罪者に「しないため」といったような後ろ向きな理由で、療育はやっていません。発達を上手に伸ばすクリエイティブな営みとして、楽しんで療育をやっているつもりです。

子どもの障害を「普通」からのマイナスで見る視点は、残酷だと思います。
それは、一部のABAの視点でもあるのですが、私はその視点を自分の子育て・療育には持ち込めないと思ったからこそ、そういった一部のABAとは距離をおいているというところがあります。
Posted by そらパパ at 2008年07月11日 23:43
そらパパさん

評価の部分と(現実の)存在の部分は分けるべきだと思います。

私は、「そのおかげで『うまく』成長できたのではないか」とは思っていません。少なくとも最適ではないでしょう。ただ、どんな療育であっても、能力を高めることはできる、という面だけに着目すれば、それも真です。「恨みつらみ」と書きましたが、親に対する強い不満の念や、二次障害と思われる状態に苦しんでおられる姿を(ブログの上からだけですが)拝見すると、強圧的な子育ては良くないな、と思っています。

ただ、例えば「7歳までに有意な言語発声ができないと、一生話せない可能性が極めて高い」というお医者さんの言葉を聞けば、「その子の特性に特別に配慮する」にしても、その子の状態にもよりますが、一切強圧性を排除した療育だけでいけるのか、それでいって良いのか、それで結果として話せなくても良いのか、は私は悩みます。

「療育の量が多ければいいわけではない」というのも、総論としては賛成します。しかし、本人が満足する程度の量を与えることを否定することもない、とも思います。量が多い=嫌がるのを無理やりではないので。
なお、質や量が最適なのかどうかも、神ならぬ身には永遠にわからないことだと思います。

「就労・結婚できなければホームレスか犯罪者になってしまうかもしれない」とはそもそも言っておりません。親として、残せるものは残すし、例えばグループホームでの生活ができるようにもしたいと思っています。一方で、最悪のシナリオではありますが、私が書いた懸念も0ではないでしょう。差別的と言われても、受刑者に占める発達障害者の割合は、一般社会よりも高くなっているのが現実で、それから目を背けてはならないと思います。もちろん、発達障害という障害そのものが犯罪の原因ではなく、適切な療育を受けてこなかったことやその他もろもろの結果として、そうなってしまっていることや、むしろ被害者になっている場合が多いことは認識していますし、社会に対しても伝えていかなければならないと思っていますが。

これから明日の夜まで出かけるためご返事できませんが、悪しからずご了承下さい。
Posted by はじめ at 2008年07月12日 07:36
はじめさん、

あえてこの表現を避け続けていたのですが、率直に申し上げたほうがいいと感じたので書かせていただきます。

以前の堀田あけみさんのエントリで書かれていたことを含めて、はじめさんが主張されている思想的な立場こそ、私がこの記事で「万能感」と呼んでいるものなのです。

はじめさんが療育によって「コントロールできる」と信じているであろう領域のうち、かなりの部分は実際には私たちのコントロールは及ばない(子どもの潜在能力、伸びる力という構成概念で説明してもいいでしょうし、それが嫌なら「運」と言ってしまってもいいでしょう)と、私は感じているわけです。
恐らく堀田さんも、同じなのではないかと推測しています。

子どもの発達は、究極的には「なるようにしかならない」ものだ、というのがこの記事の主張です。
もちろん、そう言い切るためには、私たちは自らのコントロールの及ぶ「急所」にうまく働きかける必要があるでしょう(それが、特別に配慮された療育ということになります)。
そして、「急所」以外に必要以上に手をかけることは、効果が極めて薄いでしょうし、逆効果になる恐れもあります。そこにかける労力は、むしろ家族全員の「幸せ」のために使うべきではないか、と考えます。これは、家族の人生の労力のリソースマネジメントでもあります。

はじめさんは、ご自身が現実主義で、私が理想主義だと考えておられるのかもしれませんが、私はまったく逆だと感じています。

もうこれは「信念」の領域に入っていると思うので、議論しても平行線かもしれません。
例えば一部のABAなどは、この記事の主張とはまったく逆に「私たちのコントロールが及ばない領域があるというのは、幻想である」と主張していますので、そちらの主張に「乗る」というのも「あり」なのかもしれません。

ただ、心理学を学んだり重度の娘の療育に向き合ったりしているなかで、私はこのABAの主張は誤りだと思っている(実験心理学の世界でも、スキナー派のこれに類する主張は基本的に支持されていないと理解しています)ので、この記事のような立場をとっているわけです。

ちょっと内容がかぶってしまいそうですが、今回の記事の「続き」を、改めて月曜(14日)の記事として原稿を用意していますので、この記事の議論を読んでいただいている方は、ぜひそちらも参照ください。
Posted by そらパパ at 2008年07月12日 09:27
14日の記事を待つべきなのでしょうが、ひと言だけ…

PDD児の母であり、アスペルガー当事者でもある私は、はじめさんのおっしゃるようなMS的な指向のある子育てはひたすらコワイです。子供をプロデュースできると思い込みがちな、自分自身に対するコワさでもあります。

姑は三人の子を育て上げた一介の専業主婦でしたが、長子が幼児の頃私に
「子育ては子供の後から、子供の歩みを見て、逸れそうになったり道から落ちそうになったりしたらチョンチョンと軌道修正すりゃいいの」
と教えてくれました。定型発達の子ならそれぐらいの心構えで十分かと思います。しかし定型の子もいますが、親が子供をコントロールしたいと思う欲求はおそらく本能的?なものなのか、つい口出ししては煩がられます。

療育ということを親が生涯を見通して選択しなければならない発達障害児の場合は、親が意識して万能感を排して、クールな目を保つ必要があると思います。そのために、複数の専門家の(クールな)目で定期的継続的に発達具合をチェックしてもらうことを心がけています。

月曜、楽しみにしております。
Posted by めえめえ at 2008年07月12日 13:56
めえめえさん、コメントありがとうございます。

月曜の記事では、今回の議論(特に、コメントの後半で展開された議論)を受けて、もう少し噛み砕いて、私の立場を書いていきたいと思っています。

(基本的には、まさにめえめえさんが指摘されているような方向性の議論ですので、めえめえさんにとっては「確認」的な内容にはなってしまうかもしれません。)

また、今回いただいたコメントを見て、確かに「専門家のアドバイス」というのは押さえておくべきポイントだな、と思いました。
Posted by そらパパ at 2008年07月13日 15:52
そらパパ様

ネーミングの問題かも知れませんが、私は「万能感」なるものとは程遠い感覚しか持ち合わせておりません。万能だと思っていれば、子どもの将来など心配する必要がないわけですよ。何でもできてしまうわけですから。ちょっと考えればお分かりになるはずで、何で仮想敵を作ろうとされるのか理解に苦しみます。

『自らのコントロールの及ぶ「急所」』とサラッと書かれていますが、これは

①「かなりの部分は実際には私たちのコントロールは及ばない」のであれば、そもそもコントロールが及ぶ範囲はかなり少ない。
②しかしながら、そのかなり少ない範囲にも急所がある

ということですよね。

月曜日の記事をお待ちしますが、①に関わり、私達のコントロールが及ぶ範囲とはどういうものがあり、及ばない範囲とはどういうものなのか、②に関わり、急所とは何か、なぜ急所と言えるのか急所に働きかけることで、何がどう変わるのか、その限界は何か、にも触れていただければ幸いです。
Posted by はじめ at 2008年07月13日 19:41
はじめさん、

仮想敵を作ろうとしているつもりはありませんが、意見が対立しているのは事実だと思います。

万能感の定義は、既にこの記事の本体で書いているとおりです。
療育に関していうならば、「私たちの働きかけによって、理論的には発達のかなりの部分をコントロールできるはずだ」という考え方を「万能感」と呼んでいます。

ですから、万能感を持っている人の意識としては「もっと頑張ればもっと子どもを変えていけるはずだ(なのに、今はそれができていないから、子どもを十分に変えることができていない、もっと頑張らないと)」といったものになります。

ですから、はじめさんが書かれているような「万能感とほど遠い感覚」こそ、まさに私がこの記事で「万能感」で定義している立場をとったときに特に強く感じるものだということになるわけです。
このあたりについては、既にこうちゃんさんが専門家として的確なコメントを出されています。

「急所」についても、既に記事で書いていますが、「『子どもの発達をうまく引き出せているな』と実感できるような働きかけ」のことを指しています。
それがどんなものであるかは、お子さんによって違うと思います。(一般論はあると思いますが)

いい加減な議論をしていると感じられるかもしれませんが、それは、そもそも、療育の「効果」に対する意識が、私とはじめさんでまったく違うからではないかと思っています。

私は、療育的働きかけによって子どもの発達を「変える」ことができる「割合」は、恐らくせいぜい5%程度だと思っています。(心理的定量値としてご理解ください)
残り95%は、働きかけをしてもしなくても同じように「発達」してくものだという認識です。

同じ立場をとる著書として、杉山登志郎「発達障害の子どもたち」を引用しておきます。

 発達の過程は、子どもがもともと持っている力に対し、周囲が働きかけを行い、その両方が互いに働きかけあって子どものそだちを作ることが知られている。発達を支えるものは子どもが持つ遺伝子と環境である。発達障害臨床の言葉に言い換えれば、生物学的な素因と環境因ということになる。
 これまでの科学的な研究では圧倒的に生物学的な素因の持つ重みが環境因よりも大きいことが示されてきた。この点はいまだに誤解があるので最小限の解説を行っておきたい。たとえば非行のようなわが国では環境的な要因として考えられることが多い問題に関しても、生物学的な素因と環境因とを比較すると、実は前者のほうが圧倒的に高いということはすでに結論が出ているのである。
(初版33ページ)

ですから、「急所に働きかける療育」というのは、この5%に効く療育、ということになります。5%がどこにあるかは、自閉症の一般論(視覚優位など)をベースに、お子さん一人ひとりごとに試行錯誤して見つける必要があるでしょう。
最初はいろいろ試行錯誤をしてみて、「うまくはまったな、効いたな」という感覚が得られたものをうまく拡張していって、子どもの発達を「効果的に後押し」するのが、急所に働きかける療育、つまり「5%に効く療育」になるわけです。
Posted by そらパパ at 2008年07月13日 23:23
そらパパさん、こんばんは

子供の持つ潜在的な能力が様々なため、このような議論が絶え間なく存在するのだと思います。
具体的にいえば、70そこそこの知的能力の子にABA的働きかけを行うと効率は高い、成果があったと感じますが、そもそもが、その能力で自然にそのレベルになったのではないのかと思うのです。

それに生きる力ってその数値で決まるとも思えず、その後の学齢期の周りの環境等で大きく変化していくのではないかと思います。
本人にとってのよい環境づくりを意識しながら、見守っていく、必要に応じて専門家に相談する体制を確立しておくこと、支援とはそういうことかと思います。

「急所に働きかける療育」って、その子の発達レベルを確認しながら、必要なところだけをおさえてあげれば後はお子さんが自力でやっていくことだと思います。
だからこそ、「結局は潜在能力だ」とおっしゃってることも共感したのです。

しかし、そのような結論に至るには時間はかかりましたけどね。





Posted by マリネ at 2008年07月14日 00:32
そらパパさん

やはりネーミングが悪いと思います。実態に近い言葉を選ぶべきで、定義すれば良いというものではないでしょう。

本件についての議論はおそらく噛み合わないと思いますのでやめますが、方向性もやることもほぼ見えておられるそらパパさんが、なぜ今もなおたくさんの本を読んでおられるのかがわかりません。何かより良い情報があるのではないか、と探すことは「万能感」とは無関係なのでしょうか。
Posted by はじめ at 2008年07月14日 06:43
マリネさん、

コメントありがとうございます。
マリネさんのブログは、内容もさることながら、マリネさん自身のお子さんへの視点が少しずつ変わっていくのが感じられて、今も興味深く読ませていただいています。

最近は花の話題が多いですね。
今日アップしたこの記事の続編では、療育を「花」になぞらえてみました。私は実際には花を育てることはないのですが(最近育てたのは、庭に植えたシソの葉です(笑))・・・。


はじめさん、

うーん、ネーミングの議論をしているわけではないのですけどね・・・。
発達などの議論では、「万能感」ということばをこういう意味で使うことは割とあると思います。何もないところにでっちあげたことばではないはずなのですが。(精神分析などでは「全能感」ということばも使われます。)

まあ、それはいいとして、私が自閉症についてのいろいろな本を読んでいる理由は、「知識の引き出しを増やすため」だというのが一番妥当な答えになるんじゃないかと思います。例えば、この記事で書いたような「万能感の錯覚」への気づきというのは、やはりある程度心理学や療育について掘り下げていかないと見えてこないものだと思います。もちろん、「急所に効く療育アイデア」を発見したいという思いもあります。

ちなみに、ここにもちょっと誤解があるようなので補記しておきます。
自分が本を読むことは、自分で100%コントロールできることです。ですから、「たくさん本を読んで知識を増やそう」と考えて、実際にたくさん本を読むことは、「万能感の錯覚」とは無関係です。でも、本を読むことと「子どもに働きかけること」とで、同じような「コントロール感」つまり「自分でコントロールできるはずだ(それができないのは努力が足りないからだ)という感覚」を持った瞬間に、「万能感の錯覚」が生まれるわけです。

コントロールが限られているという前提をもつべき「療育的働きかけ」の議論をしているところで、100%コントロールできるという前提を置くことができる「本を読むこと」の話題が割って入ってくるということ自体が、やはりここで議論している「万能感(の錯覚)」とつながっているのではないか、と私には思えてしまうのです。
Posted by そらパパ at 2008年07月14日 21:32
そらパパさん

今回、視点の隔たりだけはすごく感じました。
当方は、本を読むことと「子どもに働きかけること」を並列に並べて考えることなど全く想定できませんでした。

当方の問いは、本を読む動機として「子どもに働きかけ」たいという気持ちがあるのではないか、子どもに働きかけるという意図が少しでもあるならば、なおそれが万能感の錯覚ではないという区別の基準は何でしょうか、というつもりで書いたのですが。

「知識の引き出しを増やすため」と言われても、知識の引き出しを増やすことそのものは目的ではないでしょう。言い換えると「知識が増えた、嬉しいな♪」で終わるわけではなく、療育に生かすことが最終の目的でしょう。
「急所に効く療育アイデア」を発見したいというのも、まさに療育に生かすことが目的であるのですが、はるかに優れて心理学や療育についての知識があるそらパパさんが、これ以上知識を得なければできないことって何だろう? と素で疑問に思ったんですよ。大多数の自閉症児の親は、絶対にその域には届かないのは自明ですし。
現状に飽き足らないという気持ちは、万能感の錯覚とは違うのでしょうけど、そんなに大差があるのか、わかりません。

めえめえさん

MSについては、相当な誤解があります。目標を定め、PDCAサイクルを回すにしても、目標設定時には従業員の意見を聞いて反映することが大切です。もちろん、子どもは何も意見など言わないではないか、と反論はあるでしょうけど、「パーティーで何人もの客と談笑する子どもの姿」を目標には絶対にしないように、これくらいならできそうなもの、それも容易に達成できるものを探してやらせ方を考え、実際にやらせてどうだったかを検証し、次にできそうなものを探す、というやり方をします。
これも批判されるのであれば、甘んじて受けます。
Posted by はじめ at 2008年07月14日 23:17
はじめさん、

確かに、議論はまったく噛み合っていませんね。

ですので、「雑談」のほうにだけ乗っかってみようと思います。

「学びたいこと」は、そう簡単になくなるものではないのではないでしょうか。もちろん、何かを学んでいくにつれ、「何が自分にとって分からないのか・どんなことを学びたいか」という問題意識は変わっていくでしょう。

ちなみに私が特にいま関心をもっていることは、少し前の「適応という視点」でも取り上げているような、療育という営みをめぐる、養育者と子どもとの間のダイナミズムのようなものです。
言い換えると、「私たちは、療育という働きかけで、そもそも何をやっているんだろう?」という問題意識ですね。

先日、このブログにコメントをいただいたことを契機に、山下和也先生のオートポイエーシス理論の著作を2冊ほど購入しました(「オートポイエーシスの世界」「オートポイエーシスの教育」)。いまはこれを、とても興味深く読んでいます。

こういったものには、もはや「具体的な療育技法」なんてものはまったく載っていません。でも、私にとっては、「自分の療育に対する今の問題意識に、かなりダイレクトに応えてくれる本」なのです。

一つ言えることは、私たちは、療育的働きかけを行ない、子どもと相互作用を行なうことによって、私たち自身もすべからく変容していくということです。そして、5%のコントロールを頼りに海に飛び込み、95%の「uncontrollableな発達」の波のなかに飲み込まれ、翻弄され続けていきます。いまの私の療育観は、そのようなものです。
Posted by そらパパ at 2008年07月15日 00:41
そらパパさんが批判しているのは、「療育万能主義」あるいは「療育至上主義」とも言うべき立場ですよね。それを「万能感」と表現すると、少し(かなり?)ズレてしまうような・・・
「万能感」ってもともと、幼児の未熟さや自己中心性からくる裏付けのない自信や、自己愛性人格障害の病的な誇大妄想のことでしょう?つまり、最初から「間違っている」のが前提の感覚。それを議論の場で使うとかなり「上から目線」の言葉に聞こえます。さらに「錯覚」とまで言い切られると、相手によっては感情的な反発を招きかねません。

たとえて言うなら「上座部仏教」を「小乗仏教」と呼ぶのに近い感じです。

そらパパさんにはそのような意図はないのでしょうし、はじめさんの療育のスタンスも、文章を読む限り、そらパパさんと共通する部分が多いと感じています。

お二人のやりとりを興味深く拝見してきた者としては、感情的な対立によって、せっかくの議論が暗礁に乗り上げてしまわないよう願っています。
Posted by ぐるぐる鳥 at 2008年07月15日 02:19
はじめさん

はじめさんは親として真摯にお子さんに向き合ってらっしゃる誠実さを感じます。
しかし私が抵抗したのは以下の前提です。

>できないことができるようになる達成感と、できることが増えることによる相乗効果で、更にできることが増えていくという創発的なことは、療育への取り組み如何で生まれてくる

あるいは以下の思想です。

>どんな療育であっても、能力を高めることはできる、という面だけに着目すれば、それも真です

私は、たとえできることを(定量的に)「増やす」ことが親や療育担当者にできたとしても、それが「達成感」につながるとは言い切れないと思うし、単純に足し算やべき乗で自己肯定感を「生じさせることができる」、あるいは「能力を高める(発達を促す)ことができる」という前提をおくことがカン違いではないか?と思っています。
あくまでも発達する主体は子供。
親はある意味、環境(の一部)でしかない立場に踏み止まることが求められるのではないでしょうか。
それは、定型発達の子供の子育てに関しても同じだと思います。
Posted by めえめえ at 2008年07月15日 18:36
ぐるぐる鳥さん、

お心遣いありがとうございます。
また、議論がやや殺伐としてアクセスされている皆さんにご心配をおかけしている点につきお詫びします。

意見の衝突を恐れずに、議論をたたかわせること自体は、大切なことだと思っています。
記事のトピックにもよりますが、特に今回の記事のような思想性の強いテーマについては、安易にサロン的な雰囲気を作らずに、いつでも新しい人が参加できて、率直な意見をしっかり交換できるような場にしていきたいという思いもありますので、バランスをとることが大切だと思っているのですが、なかなか難しいですね。

「万能感(の錯覚)」ということばにかなり強い否定的なニュアンスが入っていることはご指摘のとおりです。
ただ、ぐるぐる鳥さんがおっしゃるような「療育万能主義・療育至上主義」と、ここでの議論の対象とでは、若干意味するところが違うと思っています。

「~主義」といった場合、それはいろいろある立場の中の一つだ、という客観視・相対化が既に終わっていて、そうでない立場も吟味したうえで、「自分はこの立場をとる」と決めた、というニュアンスが強いと感じます。

私は、そういう「立場」としての「療育至上『主義』」なら、それを否定するものではありません。
個人的には「合わない価値観」ではありますが、それが、「療育至上主義でない立場」についても理解している(つまり、単に「あれはだめだ、評価できない」と下に見るのではなく、異なった対等の思想的立場として理解しているという意味で)うえで、「それでも自分は療育至上主義をとる」というものであるならば、それはその人の価値観として尊重できると思っています。(子どもにとってそれが幸せなのか、というのはまた別の議論をしなければなりませんが。)

私が問題にしているのは、そういった「相対化」以前の段階で、「療育によって発達のかなりの部分はコントロールできる」という「認知のズレ」を価値観の基盤に置いて絶対化してしまうことです。その上にどんな議論を構築しても、前提がズレている以上、そこでの議論もズレます。

もちろんこの主張も、「『療育によって発達のかなりの部分はコントロールできる』という考えは、誤りである」という、1段上のメタなレベルでの価値観を前提にしています。ですから、この前提が正しいかどうかについては議論の余地があります(ぐるぐる鳥さんがおっしゃるような、「上から目線」との印象については、私の表現のまずさの問題ですが、もう一つ、私が実はこのトピックで「メタ療育論」を展開しようとしていることとも関係があるかもしれません)が、私はこの記事では「それは誤りだと考える」という立場をとることを宣言して議論しているわけです。

話を戻しますが、つまり、あくまでこの記事で問題にしているのは、「療育万能『主義』」ではなく、「療育『万能感』」なのであって、それは「錯覚である」と私は考えています。そして、心理学や療育について深く掘り下げていったり、あるいは実際に子育てや療育の実践を重ねていくことで、これが錯覚だ、ということに気づいたとき、それが「肩の力を抜いた療育」につながっていくのだろう、というのがこの記事の主張になっているわけです。(ですから、ぐるぐる鳥さんが指摘するような「幼児の心理」とのニュアンスの共通性も含んで、この用語を使っています。)

はじめさんからの反論は、この議論の「前提(万能感は錯覚である)」と「結論(肩の力を抜いてもいい)」の両方への渾然一体とした批判から始まったと理解しています。当初は結論のほうにだけコメントを返していましたが、それではどうしても議論を前に進められなくなり、「前提」まで含めた議論になっていきました。結果、議論がよりデリケートなものになっていったことは否めません。

最後に、療育の「スタイル」ということばが、行動レベルにおいてなのか価値観のレベルまで含むのか、さらに「世界の認識」のようなより高次な哲学的?立場まで含むのかによっても違ってくると思いますが、これまでの議論の印象では、私とはじめさんの療育の「スタイル」は、相当に異なっていると思っています。
それは、例えばTEACCHの「課題の時間」と、ロヴァース式ABAの「フォーマルトレーニング」とが、一見同じようなことをしているように見えて、本質的には相当異なった「営み」であるのと同じような意味で、異なっていると感じているということです。


めえめえさん、

コメントありがとうございます。
今回のコメントでのやりとりの随所随所で私が感じたことも、めえめえさんが指摘されていることと大体同じです。

子どもの「発達」と、親の「療育」の関係は、後者が前者のありかたを決定するのではなく、前者が後者のありかたを決定する(療育は、子どもの発達をみながら、「微調整する」ことしかできない)という関係だと思っています。
そうではないと考えると、ここで言っている「万能感」になってしまう、と私は考えているわけです。
Posted by そらパパ at 2008年07月15日 19:50
追記です。

いま、Amazonでこの堀田さんの本のレビューを見ていたら、非常に的確なレビューがあったので引用しておきたいと思います。

(前略)そして何より、すべての人々に、「人を愛する」とは何かについて考えさせてくれます。というのは、私は作者の言葉から、彼女が息子を心から愛しつつも、息子は自らにとっての「他者」であることをはっきりと自覚していることを感じたからです。自分の子供であっても、決して自分自身の延長ではなく、自分を肩代わりしたり補完してくれる存在でもなく、明確な他者である。そしてその他者を心から慈しみ愛する、これは親子のみならず、人を愛することの「ほんとう」ではないか、私はそのことが一番心に残りました。(後略)

もしかすると、私が昔から、堀田あけみさんの「乾いた」文体を好きなのは、この辺りからくるものなのかもしれないな、と思いました。
Posted by そらパパ at 2008年07月15日 23:14
そらパパさん

思想信条の応酬は、言いっ放しになってしまいます。

事実認識を確認したいのですが、ロヴァースさんやキャサリン・モーリスさんが発表あるいは執筆している内容は、虚偽だとお考えなのでしょうか。

虚偽だとお考えなのであれば、『療育的働きかけは、「自動操縦(自然発生的な発達の進展)」に補助的に働きかけてうまく船を前に進めることであって、操縦全体を自らのコントロール下において自由に船を運転することではないのです。そんなことは、そもそもできっこない』という主張は全く矛盾がありませんが、虚偽ではない、事実として存在することを認めるのであれば、どうでしょうか。
これは、Yes or Noで答えられる質問だと思います。

堀田さんの本について「非常に的確なレビュー」があったという表現からして、対立概念の存在を認めていない姿勢を感じます。私なら「自分の意見に近い」とか「的確だと思える」という表現をします。

なお、親が肩の力を抜くことは、子どもへの療育姿勢とは無関係でしょう。言い換えると、子どもへの働きかけには限界があり、その発達に適した環境を整えることが大切だと考えておられる方であっても、環境を整えることに寝食を忘れて心血を注ぎだしたら同じことが言えるわけですし。
Posted by はじめ at 2008年07月16日 06:27
はじめさん、

なんか微妙に悪意を感じる質問のされかたなので、答えるかどうか迷いましたが、お答えしようと思います。
これら2つの「有名な事例」についての私の立場は、以前から以下のとおりです。(どちらも、既に記事として書いているものですので、確認してください)

・ロヴァースの実験は、実験としては信用に足るものではない。

・モーリスさんの本は、典型的なエピソード主義であり、療育と効果との相関関係を素直に読み取れるものではない。

ロヴァースの実験に再現性がなく追試が満足に行なわれていないことについては、以前一度記事を書いたことがあります。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/18998039.html

ABAというのは、そもそも自閉症児にとって「療育の急所を攻略するツール」として極めて強力だと考えていますから、ABAをやったケースとやらないケースで差がつくのは当たり前でしょう。でも、ロヴァースが強調したかったはずの、「そこそこのABA」と「集中介入」との間に歴然とした差がある、という実験結果には疑問があると私は考えています。

モーリスさんの「我が子よ、声を聞かせて」についても、レビューで既に書いています。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/29849580.html
改めてコメント欄を含めて読んでみると、今回の記事で書いていることとほとんど同じことを書いていて、我ながら少し笑いました(笑)。
簡単に言ってしまえば、ロヴァースの実験と同じで、「集中介入したから良くなった」のか、単に「ABAが効いてうまく発達を伸ばせた(たくさんやった、その量的な部分については無意味)」のかはこれだけでは分からないということです。特にこの本は「たった1例」ですから、ますます分からないですね。

ちなみに、「我が子よ、声を聞かせて」をお読みになったかどうかは存じませんが、モーリスさんが抱っこ法にものすごく入れ込んで、途中まで抱っこ法の伝道者のようなことまでやっていることについてはどう思われますか?(ついでに言えば、この本の例はABAと抱っこ法を並行してやっている「1エピソード」なので、このエピソードからは、ABAが効いたと主張するのと同じ程度の確からしさで、「抱っこ法が効いた」と主張することが論理的には可能です。)

なお、先の記事では「エピソード主義」については書いていませんので、そちらについては、例えばこの記事を参照してください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/18655982.html
(エピソード主義については何度も書いているので、右タブにある検索ボックスで「エピソード主義」と入れるといくつも記事がみつかります。)

ちなみに、最近はほとんど覗かなくなってしまいましたが、ABAの早期集中介入といえば定番の「つみきの会」のオープン掲示板にも、この辺りの議論が若干あるようです。

http://www.tsumiki.org/ibbsn/ibbs.cgi?namber=1077&mode=res&page=15&RES=all&no=2
http://www.tsumiki.org/ibbsn/ibbs.cgi?namber=810&mode=res&page=20&RES=all&no=0

ご参考までに。


ちなみに、一応質問されたのでお答えはしましたが、今回の質問にくっついているはじめさんの論旨は的外れです。
ABAの療育が効いて子どもが伸びたら、それは「発達は自動操縦ではないことの証拠だ」と考えていらっしゃるのでしょうか?
先も書いたとおり、モーリスさんは集中介入の期間、同時に抱っこ法にも入れ込んでいますが、これを「抱っこ法が効いて伸びたんだ」と主張したとしたら、それは「発達は自動操縦であることの証拠」になりますか? 「自動操縦でないことの証拠」になりますか?
どちらにもならないですよね。ABAでも同じです。つまりはじめさんが立てている議論はそもそも論理的に成立していません。

私が最初から批判しているのは、はじめさんが、他の親御さんが「これでいいんだ」という感覚を持ってバランスのとれた療育をしているところに対して、「何で?」と否定のことばを投げ込んだことに対してです。さらに、堀田さんのスタイルについても繰り返し否定していらっしゃいますよね。
さらにそこに「強圧的な子育て」肯定発言(ただ、どんな療育であっても、能力を高めることはできる、という面だけに着目すれば、それも真です。)が加わり、「力と量の療育」という立場が明確になったところで、私が「その考えかたは『万能感の錯覚』に基づいていると判断せざるを得ませんよ」と答えた、という構図なのです。
Posted by そらパパ at 2008年07月16日 19:53
そらパパさん

やっぱりかみ合いません。
ロヴァースさんの実験やモーリスさんの育児法そのものだけを取り上げて聞いたわけではなく、その結果として現実に存在したであろう子ども達が大幅に改善したのかどうかも含めて、お伺いしたのですが。
要は、その子ども達は改善していないと考えていると受け止めてよろしいでしょうか。

療育について、「バランスのとれた療育をしているところに対して、「何で?」と否定のことばを投げ込んだ」と言われても、「将来の就労を全く考えない療育は、私はバランスがとれていると思わない以上、しゃあないと思います。
自閉症児の親も長生きするには限度があり、その後の展望についてどう考えられるのか、過去にまとめた記事があるならばご紹介下さい。

「堀田さんのスタイルについても繰り返し否定」はしていませんよ。彼女がどのような療育をしているかが分からない以上、否定のしようもありませんし。療育について書かないというスタイルについてであれば、否定というより遺憾に思うだけです。
また、繰り返しということについては、そらパパさんが繰り返して持ち出すからコメントしているだけで、ご本人からすれば、迷惑かも知れませんよ。

「万能感の錯覚」について、私はそもそも、首根っこを押さえつけて何かを強制的に長時間やらせたことなど一度もないのに、考え方を否定しないだけで文化大革命の労働改造所のように思想改造を迫られるのはおかしいと思っています。実際に私が児童虐待をしているというのであれば、納得もしますが。

また、量と強制力は必ずしも牽連するものではありません。親がもうやめようとしているのに、本人がやろうとすることもあります。
Posted by はじめ at 2008年07月17日 01:33
はじめさん、

まず、ひとつめのパラグラフについて。

「エピソード主義」の記事は読んでいただけたでしょうか?
これは、統計学と論理学につながる議論です。この2つは、療育の効果について科学的な議論・判断をするために必須の考えかたです。また、医療もどき行為、サプリメント等その他の怪しげな代替療法、怪しげな投資話などに騙されないためにも重要な素養だと思います。

私が書いたのは、こういうことです。

・ロヴァースの実験で「現実に」子どもが劇的に改善したとしても、必ずしもロヴァース式が効果があるとはいえない。
 再現性がないという情報から判断すると、むしろ、「統計的事実として」は、ロヴァース式は効果がないという結論になる可能性のほうが高い。

・モーリスさんの子どもが「現実に」劇的に改善していたとしても、必ずしも早期集中介入が効果があったとはいえない。
 そもそも、この一例をもって早期集中介入の効果の有無を語ることはできない。(だから判断の材料にはまったくならない)

・したがって、いずれの例をもってしても、これから新たに(自分の子どもなどに)ロヴァース式なりモーリス式なりの療育を行なった場合の効果を予測することはできない。

これが論理的に真であることが理解いただけないのなら、もうこの話題は終了したほうがいいと思います。
逆に理解いただけたら、これが議論の本筋に関係のない(何ら新奇な情報を付加しない)話題で、そもそも意味がないことがお分かりいただけると思います。
「改善した・改善しなかった」と「療育の効果があった・なかった」を混同すると、さっきも書きましたが怪しい療育法にだまされてしまいます。


それ以外の本筋の議論のほうですが、まだ続けますか?

今回のコメントで、当初の主張とまったく同じことをおっしゃっていますし、それに対するこちらの継続的な投げかけを「文化大革命の労働改造所のように思想改造を迫られる」などと論理的な議論のプロセスを無視して全否定されたのでは、こちらとしてはもう議論を続ける意義を感じません。

もし議論を打ち切るのであれば、その旨のみ書いたコメントをくださるか、無視してください。
打ち切りのコメントを書かれた場合であっても、それ以外のコメントがついている場合には、その部分に対してコメントを返さざるを得ない場合がありますので、議論が続いてしまう可能性がありますので。

続けるというのでも結構ですが、その場合は上記の思想改造云々のコメントについて訂正いただいたうえで、これまで私が書いてきた論点を(私が何度かやっているように)はじめさんなりに論理的に整理していただいて、その整理いただいた論点に対して論理的に主張を述べてください。そうでないと、まだ議論は入り口にすら到達していない状態です。

よろしくお願いします。
Posted by そらパパ at 2008年07月17日 21:00
私は、はじめさんが、おっしゃっていることをつぎのように受け止めました。
「親の自分が先立ったあと、残された子どもが不幸な境遇に陥らないように、子どもが社会的スキルを身につけそしてできれば社会的に自立できるようにしないといけない。そのためには、就労できるようになる可能性があるならば、効果があるとされる療育方法などを親がなるべく提供すべきであり、そうしたことを全力を尽くしやってみた上で、それでもなお就労や社会的自立が無理ならあきらめがつくが、全力をつくさないでいて結果として就労レベルに達しない場合、それでは、親としてやるべきことをしてこなかった報いと言えるのではないか」
ということのように受け止めました。
 親の自分が先立ったあと、子どもがどうなるんだろうという心配が、療育への動機や熱意につながっているのだと思います。
 そらパパさんは、今の子どもの姿の中に成長の力を見出しそこに喜びを感じていられるのではないかと思います。
 この違いは「自閉症の認知障害に対応するため、彼らを無理に環境に合わせようとせず、環境を彼らが理解しやすくするよう働きかける」姿勢をまずもつTEACCHの哲学と、「『親の望むように子どもを変えていこう』という、どちらかというと親や大人の立場から構築された」ロヴァース式ABAの哲学の違いに近いように感じます。(この段落の「」内は、そらパパさんのブログの言葉の引用です)。
 私にしていみると、この違いは、「今現在の子どもの脳の認知機能の不具合状態をまずとりあえず現状として受けとめそのうえで最適な環境との相互作用を見つけようとする」考え方と、「そうした機能の不具合は克服していくべきものでそうした特性ができるだけ少なくなり健常者に近づいた形ができれば望ましい」という考え方の違いのかなと思いました。
Posted by こうちゃん at 2008年07月19日 01:12
こうちゃんさん、

2つの思想的な立場の基本的な違いとしてはまったくそのとおりだと思います。

現状では新たな議論のネタを投入しないほうがいいかなと思っているのでたくさん書くのは控えたいと思いますが、今回のやりとりで着想した、ABAの方法論的な限界についての記事を、近々書いてみたいと思っています。
Posted by そらパパ at 2008年07月19日 09:17
そらパパさん

「思想改造」表現については、言い過ぎであったことを認め、撤回し率直にお詫びします。ごめんなさい。

ロヴァースさんやモーリスさんの例を出したのは、療育法そのものの当否を論じるためではありません(私自身、やりたいと思っていませんので)。単純に、そらパパさんのご主張の反例となるのではないか、と思っただけです。この場合、そらパパさんが論理的に反論されていることは認めますが、当方はABAか抱っこ法かといったことを区分・検証し議論する必要はないこととなります(反例が一個でもあれば、「自動操縦」説は真ではなくなるからです)。
この問いに対しては、
①この二人の書いていることは事実誤認が多く、自動操縦で予想される範囲を超えて劇的に改善してなどいない(要するに虚偽)。
あるいは、
②そもそも、自閉症ではなかった(例えば、癇が強いだけだったのを誤診した、とか)。
というような答え方になるのかな、と思っていたのですが、療育方法の正当性・実証性についての反論を頂いてしまい、当惑した次第です。

なお、
> ロヴァースの実験で「現実に」子どもが劇的に改善したとしても、必ずしもロヴァース式が効果があるとはいえない。
というご主張ですが、
「必ずしも」という表現は完全否定ではありませんよね。

これ以上続けることは、私も望みません。いずれ拙HPに療育スタンスについて書いてみたいと思います。

「ABAの方法論的な限界についての記事」を書かれるそうですが、
「心理学を勉強することは、こういう「人に対して働きかけることの限界」、ここの例でいえば「療育に対する万能感は錯覚である」ということを自覚することにつながる」という元記事の記述と、貴著のカバーに「認定心理士として学んだ心理学の知識とを活かし」とある言葉の止揚もお願いします(要は、心理学を学べば学ぶほどできることの限界を知る(⇒醒める方向に向かいやすい)こととなるが、知識は活かせる(⇒熱くなる方向に向かいやすい)ということに、疑問がありますので)。
Posted by はじめ at 2008年07月20日 08:32
打ち切るときはその旨だけを書いてください、そうなければこれまでの議論の論点整理が前提です、とお願いしていたのに対して、論点整理なくいろいろお書きになったので当惑していますが、特にこちらからあえて再回答しなければいけないような内容はないと判断しましたので、回答は控えます。
前半についても、相変わらず論理として理解いただけていないようですので、この部分についてももう書くことは控えます。
申し訳ありません。
Posted by そらパパ at 2008年07月20日 12:05
そらパパさん
私も一つの療育に「万能感」は持つべきではないと思います。

私には現在12歳の息子がいて、彼が10歳でアスペルガーと診断されるまで、アメリカでかなり試行錯誤しながら息子を育てました。どちらかというと、詰め込みではなく、のんびりな彼のペースにあわせた、ゆったりとした育児だったと思います。

その後息子が自閉症スペクトラムと分かり、自閉症の行動療法の仕事をしました。そこで小さいときの息子にそっくりな子達を担当しました。ある子は2歳で、一日8時半から3時半までの間、私と一対一でした。関わった子だけ入れると20人くらい見てきました。そこで感じた事は、行動療法は効果があるが、それはその子の発達をうまくとらえた時こそ効果的だということ。

あるクライアントがある一ヶ月に突然飛躍的に課題をマスターした時がありました。データーでは、彼らの成長は私たちのプログラムの効果という事になっています。このデーターを見たチームメンバーは、大喜びでした。自分たちが有能だと思ったのでしょう。関わったセラピストも出世していきました。みんな自分にクレジットを与えていました。

でも実際は違うと思うんです。私は12年療育抜きで自閉症スペクトラムの子供を育ててきたせいか、手放しにプログラムがなければこの成長がなかったなんて思えません。息子を見ていて、彼らが放っといてもある時期急激に成長する事がある事を知っていますし。私が半年近く全く同じ対応をしていたクライアントがいきなり伸びたのは、やっぱりその時期だったと思うのです。

では、放っとけば同程度に成長するのかと言えば違うと重います。息子のようのんびり放っといたら、もっと成長するのに時間がかかったと思うんです。私のクライアントがものすごく飛躍したのは、行動療法セラピストが何ヶ月も一日中目を見張らせていて、成長の瞬間を見逃さずに、その子がそれができる瞬間まで何度も何度も試行を続けたからなんだと思います。でなければ、彼が成長していた事に気づくのがもっと遅くなっていたでしょう。

つまり、治療育の内容が万能なのではなく、そのシステムが個々の成長の瞬間と相互に働いた時の効果はある、というのは本当だと思います。

最後に、息子には放任育児をしてしまいましたが、彼なりに凄く強い個性と、人に頼らないで自分の世界を確立しているという良い(?)部分もあるんです。
彼が将来どんな人になるかは、分かりません。
だから、どっちがいいかじゃないんじゃないかなと思います。

ちなみに、私は、知識を得る事は「自分がどれだけのことを知らないかを知る」行為だと思っています。何事も長所も短所もあると思います。これが一番正しい!と答えを出すのは幅広い視野を持つのの妨げになります。
そらぱぱさんのブログを読んでいるのもそんな理由からです。
また勉強しにきます。よろしくお願いします。
Posted by マオママ at 2009年07月03日 17:57
マオママさん、

コメントありがとうございます。
行動療法に携わっている方から、この記事に書いたような私の立場を肯定的に受け止めていただけるのは、とても嬉しいことです。

私は外部の人にお願いしてABA等をやってもらう、という経験はありませんでしたが、もしそういう機会があったなら(あるいは、もし今後そういう機会があるなら)、ちゃんと「万能感の錯覚」を意識できる方がいいな、と思っていました。

ちなみに、この記事の内容と議論は、下記の記事につながって続いています。
もしよろしければ、そちらもご覧ください。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/102792094.html
Posted by そらパパ at 2009年07月03日 22:49
この記事の内容ともつながる興味深いエントリがありましたので、リンクしておきます。

http://transact.seesaa.net/article/126560425.html
自然現象としてのカウンターナレッジ選好 - 忘却からの帰還

ここで書かれている「第2の要因:コントロールの回復」というのは「万能感の錯覚(統制感の幻想)」と相当部分重なりますし、その結果としての「カウンターナレッジ」への傾倒というのは、自閉症療育でいえばさまざまな代替療法等を選択することとつながっていると思います。
Posted by そらパパ at 2009年09月01日 22:24
軽度難聴のようなそれ自体は些細に思える障害であっても、発達過程で自尊心の低下や著しい人生経験の不足などの深刻な問題を招くことがあります。
逆に考えれば、療育による些細な変化が運命を大きく変えることも当然ありうるということですよね。

その意味で、我々は療育の力を信じていいと思います。

付け加えれば、一見して派手に見える成果も、長い目で見たら何の改善ももたらしてはいなかった、ということもありえます。
療育者が肝に銘じておくべきことではないでしょうか。
Posted by たろきち at 2009年09月03日 12:54
たろきちさん、

「万能感の錯覚(統制感の幻想)」というのは、「この世で起こっていること(自閉症の子どもの発達を含む)の大部分は、自分の存在や行動と無因果であるにもかかわらず、それらを自分がコントロールしている、できると感じてしまう錯覚(幻想)」のことです。
もちろん、コントロールできるものもあるわけですが、でもその「controllability(制御可能性)」は、私たちが素朴にイメージするよりもはるかに小さいのであって、私たちはそのことに自覚的になるべきだ、というのがこの記事の主張です。(この「幻想」が、教育とか療育の世界では特に強く存在していると感じます。)

その一方で、ご指摘のとおり、小さな変化(あるいは「何もしないこと」)が時間の経過によってレバレッジされて、とても大きな違いにつながっていくこともあると思います。
でもそれは、「たくさんコントロールできるから大きな変化がおきた」のではなく、「わずかにしかコントロールできないなかで、幸運にもそのわずかなコントロールの結果として大きな違いにつながった」のだと考えるべきでしょう。

ですから、このエントリも療育否定ではまったくなく(むしろ正反対)、人が人を過分にコントロールする・できるなんていう「思い上がり」を排し、ある種の諦めと開き直りをもちつつ、「肩の力を抜いて」前向きに療育を継続していきましょう、というメッセージを込めているつもりです。(そうでないと、かなり高い確率で、ある種の「挫折」に至ってしまうか、変な代替療法に手を出してしまうことになるんじゃないだろうか、という懸念も同時にもっています。)
Posted by そらパパ at 2009年09月03日 20:07
万能感の錯覚の問題をより正確に表現すれば、
「直接・間接のコントロールが可能と信じられている事柄には、実は根拠がないものがある」
ということになると思います。
ことばの獲得なんかその最たるもので、メカニズムすら分かってない生物学的現象に関することですから、我々は限界をわきまえる必要があります。
就労、結婚などそれに比べればはるかにコントロール可能性が高く、かつ人生全体の幸福に大きく影響する事柄ですが、一方で「まだ早い」なんて軽視されがちなのかもしれません。

子どもの発達をうまく引き出せていると感じる療育が重要とおっしゃいますが、私はやっぱり目的に対して効果的な療育こそが重要なんだと思います。
その点、療育の目的が人生全体の幸福にあるというのはその通りだと思います。(なお「最大化」には語幣があります。幸福への道は一つではありませんから。)
しかし実践において幸福そのものを直接目指すことができない以上、療育者はそれに代わる具体的目標を選ぶ必要があります。
その際、到底現実不可能なことを可能と信じて目標とし、しかも固執した場合のちに悲劇が待っていること想像に難くありません(ここまでの認識はそらパパさんと同じだと思います)。

よって目標決定に際しては事柄のコントロール可能性を適切に評価する姿勢と努力が重要であり、目標さえ適切なら固執も場合によっては有益です。
肩の力を抜いた療育が良いということには必ずしもつながらないと思います(一般論としては支持できますが)。


もう一つ、「時の経過によるレバレッジ」を単に幸運によるものとして切り捨ててしまうのはいかがなものでしょうか。
療育を花を育てることにたとえておられますが、人と植物の大きな違いは環境との相互作用量にあります。
それは取りも直さず、起きた事象に対するレバレッジのかかり方の違いを意味します。
療育が人を対象とする以上、可視的な変化に付随する不可視の変化としてのレバレッジを含めて評価する努力は貴重です。

蛇足ですが、機能性構音障害は直接コントロール可能な要素が大きく、しかもレバレッジ効果が多く望めるので、たとえ軽度でも介入する価値は大きいと思います。
Posted by たろきち at 2009年09月06日 01:35
たろきちさん、

私が直前にお返ししたコメントと、今回いただいたコメントとの間には、思想信条の違い的な部分以外では大きな違いはないように思います。

私は、技術的・実践面でのやむをえない必然性はさておき、理念的には「目的をおく」というのはおこがましいことなのかもしれない、と思っています。
また、統制感の幻想をもっている人間が、コントロール可能性を評価することには限界があるとも感じます。
「統制感の幻想」がない典型的な状態は、うつの状態です。
コントロール可能性を適切に評価するとすれば、うつの人に「この子はこの療育でよくなるかどうか評価してください」と聞くのと同じになり、その答えはほとんどすべての療育に対して「そんなことやっても意味がない」になるでしょう。
そして、その答えはおそらく(残念ながら)正しいことが少なくないのだと思います。

それでも、私たちは可能性を信じて、療育をやらなければならないし、やりたいと思って子育てをしています。
そこにはやはり「肩の力を抜く」こと、過剰な期待をもたないことが大切なんだろうと思っているわけです。

また、レバレッジについては、端的に「レバレッジを私たちはコントロールできない」ということに尽きます。ですから「幸運」と呼んでいるのです。レバレッジの大きい小さいとcontrollabilityは無関係です。
そしてまた、私は「レバレッジが大きい(小さい)から療育は無意味だ」と主張しているわけでもありません。

なお、特定の問題に対して特定の働きかけが効く、というのは、今回の話題とはあまり関係がないと思います。(統制感の幻想というのは「何もできない」と言ってるわけじゃないので)
Posted by そらパパ at 2009年09月06日 10:58
>コントロール可能性を適切に評価するとすれば、うつの人に「この子はこの療育でよくなるかどうか評価してください」と聞くのと同じ

この一文などは特にですが、全体としても極端に悲観的という印象を受けます。
ともあれ、そこがそらパパさんのたどり着いた「均衡点」なんだと思います。

しかしこれでは療育自体を継続できても適度な期待を持って行うことが難しくなりませんか?(これは療育の効果に影響する問題です)
また思想信条といっても極端は努めて排すべきでしょう。

条件を変えることで「均衡点」をシフトすることは可能だし、そのメリットはあるはずです。

以下あくまで一般論として、療育に対して楽観的になるための方法として思いついたものを書かせてください。

一つ考えられるのは、「どんな方法でも幸福を達成すればよく、そのためにあらゆる手段をとり得る」という一種開き直った思考を試してみる方法です。
たとえば高機能の男の子を想定し「社会性が向上しなくても、医師免許を取得することで幸せになれる」と考える。
あるいは重度の女の子を想定し「ことばを獲得できなくとも一生守ってくれる結婚相手とめぐり合うことで幸せになれる」と考える。

ことばや社会性に働きかける療育的方法とは、まったく異なる可能性の存在を認識することで、かえって希望をもって療育を継続できる(必死感が減じることで過剰な期待を排除できる)ということはないでしょうか?

例に挙げたものは、もしかしたら実践するには馬鹿げたアイディアかもしれませんが、思考として試してみる分に害はないでしょう。

再び蛇足ですが、男の子の例は高機能のお医者さんが多く存在し、しかも多少変わり者でも医師であるゆえ許されている現状を参考にしています。
Posted by たろきち at 2009年09月07日 01:40
たろきちさん、

根本的に誤解されているように感じるのは、「コントロールできない」と考えることは「良くならない」と考えることとイコールではない、ということです。
花の喩えを改めて引くなら、私たちは種が芽を出し花が咲くプロセスの大部分をコントロールできません(できることは「種をまく」ことや「発芽の必要条件(十分条件ではない)として水や養分や日照を用意してやる」ことくらい)が、だからといって「花が咲かない」ということにはなりません。
私が、子どもの発達の大部分をコントロールできないと考えることは、「子どもは発達しない」と「極端に悲観的」になることではなく、むしろ「放っておいても伸びてくれる」というくらいの楽観的な考え方に立っていることを意味してさえいます。

統制感の幻想に依存しない療育というのは、「子どもの自ら伸びる力を確信して、それを見守り支える療育」ということです。
そのための「必要条件を整える」ための働きかけ(=ABAや絵カードなどの各種療育)は有意義だと思いますが、もしかすると水をやっても芽が出ない種があるのと同様、その働きかけがパーフェクトだったとしても、結果はついてこないかもしれません。逆に、放っておいても突然ぐんぐん伸びてくるかもしれません。
そういう意味において、療育の決定論的なcontrollabilityは相当に低いと判断していますが、だからといって私が取っている立場が「極端に」悲観的だということにはならないのではないでしょうか。これは、記事でも引いている「発達障害だって大丈夫」における堀田あけみさんの子育てを「楽観的」ととらえるか、「悲観的」ととらえるかということと基本的には同じなんじゃないかな、と思います。

ですから、「均衡点」等々の議論は、ピントがずれているのではないかと感じます。
もちろん、「子どもが自ら伸びる」と「親のコントロールによって伸びる」の意識上でのバランス点を「均衡点」と呼ぶなら、私とたろきちさんとではかなり位置が違いそうですが、それは必ずしも悲観と楽観のバランスとは違いますよね。

それと、最後に個人的な印象ですが、医師免許をとれるくらい(言い換えれば、人生の選択について自ら考えることができるくらいの)知的な能力が高いお子さんに、「医師免許をとらせる」ことで「幸せになれる」と親の独断で考えたり、ことばが獲得できない程度に(言い換えれば、人生の選択のような複雑なテーマについて自らの考えを恐らく提示できないであろう)重度の女の子に、「結婚相手をみつける」ことで「幸せになれる」と親の独断で考えたりすることは、仮に「想像するだけ」だとしても、さすがに越権的にすぎるように感じます。
どんなお子さんであれ、成長するにつれ人生の選択があり、選択肢は狭まっていく(それは私たち自身だって同じ)わけですが、あまりに早く、あるいは親の独断でその選択を行なってしまうのは端的にリスクが高いと思いますし、むしろその子の人生を、より「運任せ」にしてしまうことにつながりかねません。
「人生の選択」前の自閉症児に対してことばや社会性の療育に幅広く取り組むのは、それがどんな場面でも役に立つことが多く、将来くるであろう「人生の選択」においていろいろと「つぶしが効く」からに他ならないわけですから。
Posted by そらパパ at 2009年09月07日 20:43
私のブログでも、他の方のところでも、似たような平行線の議論がおこるのをみました。

そらパパさんの立場は、いろんな考え方のひとがいるけれども、『自分と、このブログの立場はこうです。』
と、あえて宣言されているだけで、反対の立場の方も、微妙に違う方のことも、一つも否定されてはいませんよね。

ただし、違う立場の方がこのブログの上で、話をするのであれば、まずそらパパさんの立場と考え方をそのまま理解した上で、理論的にご自分の意見を組み立てて主張してほしいと、お願いしているだけではないかと思いました。

そして、平行線の書き込みをされる方は、いつもこちらの主張そのものを理解せずに、そもそもの前提条件を無視して、その周囲をぐるぐると回りながら、とても攻撃的な表現をされるばかりで、そもそも内容の批判ではないので、こちらも歩み寄れない印象があります。

私は、そらパパさんのおっしゃることをおそらく、そのまま理解できていると思いたいです。
専門的な知識がないので、理論的に説明はできませんが、体験的に
自分の子どもの頃のこと。
結婚して主人と暮らしてからのこと。
今中3の長女のこと。
小1の長男のこと。
2才半の次女のこと。
と、照らし合わせると納得できるからです。

両親と、私との関係は、高圧的なしつけの中にありました。両親が私のためにしてくれた、とても親らしい愛情をともなった働きかけは、私にとって、心から喜ばしいと思えることはあまりありませんでした。
いろいろな体験をさせてくれたり、家族旅行などもありましたが、私は家に居場所をみつけられませんでした。
迷惑をかけ、否定され、常に努力を求められ、それも、自発的に喜んで努力することを求められていると、感じていました。
言われた通りにできると、ほめてもらえますが、とても頑張った満足感のある出来事をほめてもらった記憶がありません。
なんで、そんなやりかたするの?
とか、こうすれば早いのに。
とか、そんなの当たり前。
と、受け取られてしまいました。

長女の幼児期は、どのように関わったら良いのかわからず、結局最後は両親と同じやり方をしてしまって、激しく後悔する毎日でした。
その頃は障害と理解していませんでしたが、親業などを学び、子どものことを考える前に自分のことを考え、認め、許すことを意識して始めたばかりの頃は、こどもはすでに、顔色を伺い、自分の意見は言わずに我慢する子になっていました。
外でのびのびして、家では小さくなっていました。
この子との関係は、長男の誕生とともに、徐々に改善できました。生まれた頃からのことを追体験しながら、たくさんの話をして、私も悩んでいたことなどを、正直に伝えて、いっしょに成長してきたことを確認できたことと、長男の育児に積極的に関わってくれた長女に、心から感謝でき、頼もしく感じていることを、毎日伝えられたのが良かったと思います。
思春期前に、ギリギリ間に合った感じでした。
今でも、自分の気持ちを伝えたり、交渉することは苦手ですが、ここからは自分が育ちたいと思うことを、自分で選択していく時が来たと感じています。
私がすべきことは、へこんだときに話を聞いて支えることや、初めてのことにどんな取り組み方があるか、いっしょに考えることくらいだと思います。
こちらからは、あまり提示しない話の仕方をしたいと思っています。
どう思う?どうしたい?と、考えを整理する手伝いです。
この子は、不注意傾向があるので、診断待ちです。

長男は、次女の誕生と重なったため、幼児期の成長のタイミングをうまくつかめなかったような気がします。
この子はADHDと、自閉症スペクトラムの診断が出ていて、しかも早生まれなので、学年にみあった行動がまだとれません。
でも、うちの子供達は言葉が早く多いので、理解されにくいです。
幼稚園時代、三年間停滞していた発達が、入学を機にとても変わってきました。ひとつは、学校の特化した対応があっていて、吸収しやすいのでしょう。
今までも成長したいサインはずっと出ていたように思うのですが、どこをどう進めばいいのか、わからないように見えました。
大人から見れば、明らかにこの道…と、わかる道も、彼の視野には入らず、足元のぬかるみを見て、どちらにも行かれない!と、泣いていたようにみえました。
私も手を差し伸べたいのに、微妙に届かずもどかしい思いをしました。

一番したは、大切な時期に集中してあげられず、2才を過ぎてから、慌てて関わり始めたので、まだまだこれからです。必要なしつけを受け入れる力があるのか、どうか。
でも、私もそれなりにテクニックが増えて、引き出しが増えてきたので、療育的な対応を三ヶ月続けてきたところ、今週と、先週の間に明らかな変化を感じています。

一生懸命、必死だったのは、長男の出産まででした。
そこからは楽しむ育児にかわってきました。
普段は、趣味に没頭し、子どものことは、片目で…もしくは、チラ見で見守りました。
何かのサインが感じられたら、その時は誠心誠意向き合います。
でも、子どもがなにか気づきを得たと、感じたら、そこからは少しずつ手放します。どちらに進むか見守って、また情報を集めながら、自分の人生を楽しみ、次のサインに向けて英気を養う。
その繰り返し、です。

育児放棄や、放任と取られるのではないかと心配でしたが、長男の支援センターで、『そのままでいいです。』と、言ってもらえました。

なぜそのままでいいかは、こども達がみな、素直だからだと思います。
反抗的だったり、パニックを起こすことはほとんどありません。ごくたまにです。
対応が遅れたときや、間違えたときです。
次女は、まだまだ手が先に出ることもありますが、上のふたりはそういうこともありません。

私はしょっちゅう、大きな声で反抗してました。なんでわかってくれないのかと、ないて訴えても、最後には親のいう通りにすべきだと説得されて、押さえつけられて、その繰り返しでした。
必死に私のことを思ってくれている母が、私には重荷でしかありませんでした。

私とそっくりな部分を持つこども達が、そんな毎日を送っていないこと。
それが答えじゃないか?

そう思っています。

できない自分を認めてゆるし、明日の姿を想像し、達成できたかできないかの評価をする。
自分へは、それを繰り返してます。
でも、タイムリーに認めて褒めてくれる人はいないので、子供達よりも、成長は遅いです。
遅いですけど、10年前の鬱に片足突っ込んでいた私とは、もう別人であると、言えます。
もう、鬱に負けたりはしないと思います。

長くてすみません。
短かくまとめることが苦手です。

そらパパさんの仮説は、子供たちも同じかはわかりませんが、私の脳内の様子を覗いたのかと思うくらい、的確に表現されていると感じています。



Posted by 風の笛 at 2014年05月26日 04:16
風の笛さん、

コメントありがとうございます。

今このエントリとコメントを読むと、熱い議論をやっていたんだなあ、と感慨深いものがあります。

今はもう、ここまでの力の入ったコメントを返す気力も時間もないかもしれません(笑)。

とはいえ、この「万能感の錯覚」、最近は「統制感の幻想」という言い方をすることのほうが多いですが、これを持ってしまうことの問題については、いまも変わらず強い問題意識を持ち続けています。

いわゆる「トンデモ」と呼ばれるような療育は、ほぼ確実に、この「何か働きかけるとそれが効果を示す」「何か最適な働きかけの正解があって、それを追求しなければならない」みたいな信念に付け入ることで居場所を確保しているように感じるからです。

そうではなく、私たちができることなんてたかが知れている、だからこそ、私たちは「その中でできること」を合理的に、かつ肩の力を抜いて、地道に、諦めずに、根気強く、続けていかなければならないと思っています。

たしかTEACCHの佐々木先生だったかが、「学校やそとでおとなしく、家ではわがままな子というのは、家で抑圧されていないからいい状態なんだ」みたいなことをおっしゃっていました。
私はこの考えの根っこの部分に共感しますし、そういう「わがままが言える場所」としての家庭を作って、そのなかで、子どもが伸びていくのをそっと支えたいな、と思います。
Posted by そらパパ at 2014年05月26日 22:54
以前から拝見していましたが書くのは初めてです。2歳すぎの発語の無い子がいる母です。1歳半すぎから市の親子教室月二回、3か月前から療育センターにも週1で通ってますが自分からみて子は変化は特に見られずで。「もっともっと療育すべきなんじゃ??早期療育で伸びるということは今を逃したらこの子は成長しないということ?」と強迫観念的にABAの教室を探したりしている今この記事を読み、ハッとしました。1歳半で健診で発達遅れを指摘されてから子どもの発達以外の事が考えられず、自分が鬱気味になり、一時保育を使っている位なのに、これ以上の療育は自分も持たないかもしれないな、療育が万能ではないし、何より家族が仲良く幸せに暮らすのが一番なのだから、子どもの担当医ともよく相談して考えていきたいなと思いました。ありのままの子どもを受け入れつつ、子どもの成長を信じ援助しつづけていく、ってかなりしんどいですが、子育てしてる方なら皆さん頑張っておられることですよね。私もがんばらなくては。かなり前の記事にコメントすみません。気づきをありがとうございます。これからも記事を参考にさせていただきます。
Posted by fumi at 2015年11月25日 01:27
fumiさん、

コメントありがとうございます。

これは最近よく言われていることですが、家庭における「療育」というのは、実はかなりの部分が「親が学び、親が考え方や行動を変える」ことなのかもしれないな、と思っています。

周囲から言われる子育ての「常識」であったり、さまざまな「先入観」であったり、あるいは本に書かれている他の当事者のお子さんの発達から受ける「強迫観念」であったり、そういったものにとらわれず、目の前の子どもをしっかり観察して、受け入れて、そして着実に(無理をせず、焦らず)前に進んでいく、そういう風に親のほうがかわっていくことが、実は療育のなかで極めて重要なポイントになってくる、そういうことだと思っています。

どんなお子さんも、自分なりのペースで発達していきます。そのペースがどんなものであるのかをしっかり観察して、そのペースに合わせて、少しずつ背中を押したり手を貸したりして、その発達を支えられるようになれればいいな、と私も思っています。
Posted by そらパパ at 2015年11月29日 22:42
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