http://news.livedoor.com/article/detail/3696173/
差別に対して過剰に反応する人たちが差別を助長する
2008年06月23日
先日、BPOに視聴者からの意見としてこんな意見が掲載されていた。「3の倍数と3のつく数字だけアホになる」というネタで有名な「世界のナベアツ」の芸が、障害者(おそらく知的障害者)や顔面神経麻痺の人を傷つけているというのだ。
【お笑い番組に出ている芸人の「3の倍数になるとアホになる」という芸は許せない。というより、これを「芸」と言ってはいけないと思う。スタジオではゲストも客席も「アホ」になった顔を見て笑っているが、これで笑うということは倫理的におかしいと思う。障害者の方々、顔面神経麻痺の方々の気持ちを考えたら、このような程度の低い笑いをテレビで放送することが適切か不適切かはすぐに分かると思う。放送局は、テレビを見ている青少年への影響も真剣に考えるべきだ。】
私はこの意見に興味をそそられた。それほどまでに苦情が出る顔、一体どんな顔をしているのだろうか? 私はこの「世界のナベアツ」という芸人の芸をこれまで見たことがなかった。くだらないバラエティ番組を見る暇があるなら、その時間を自分の趣味に費やしたいからだ。
しかし、このことを語るために見ないわけにもいかない。そこで、「世界のナベアツ」による芸の動画をいくつか鑑賞した。例の「3の倍数」の芸や、その他の芸も見たが、それなりに面白いと言えるものばかりだった。だが、これのどこに障害者との関係があるのだろうか?
「アホの顔」は、「変な顔をしている」とは思ったものの、「障害者の顔だ」とは思わない。そもそもこの芸は、キリッとした真面目な顔から、急に崩れた変な顔になるというそのギャップが面白いのではないのだろうか? アホの顔をそのまま出して笑いが取れるわけでもない。何かと組み合わせることによって「おかしさ」というのが出るのだ。この芸は、それがカウントだったというわけだ。
最近、こういった障害者を差別しているから云々という意見をよく耳にする。「しょうがいしゃ」という言葉も、「障害者」から「障がい者」に変わろうとしている。「害」という字に悪いイメージがあるため、本人や家族に不快感に与えてしまう恐れがあると言うのがその理由だ。私は思う、そこに何の意味があるのだろうか? と。
誰も障害者にはなりたくないし、本人たちも喜んでなったわけではない。文字をやわらげたところで、障害者そのものが持つイメージは変わらないし、このようなことが報道される度に、「特別扱い」されているというイメージがまとわりつく。この「特別扱い」が問題だ。
障害者差別を声高に叫ぶ人ほど、障害者を「特別扱い」する傾向がある。私は知人の女性から、駅で知的障害者の男性に抱きつかれたという話を聞いたことがある。驚いた女性は、その抱きついた人を力を込めて押しのけた。至極、当たり前の行動だろう。しかし、その男性の付き添いの方には怒鳴られたそうだ。「この子は障害者なのよ!」と。つまり、障害者だから許せというのだ。
差別をせず、平等に扱うということは、許すということではない。悪いことをしたときはそのことを叱り、正させる。良いことをしたときは、褒める。ただそれだけのことなのだが、これが許されない。悪いことをしたときは、障害者だから許せと言い、当たり前のことをしただけなのに、その当たり前を褒めるのだ。これが差別ではなくて何なのか。
これが悪いことだというわけではない。しかし、これこそが差別を助長させている原因だと私は考えている。目の前で「特別扱い」されている人を見せ付けられれば、『この人は自分たちとは違う人間なんだ』という意識が目覚めてしまう。差別をなくそうと、障害によるデメリットを見えなくさせようとすればするほど、それは特別扱いとなり、世間の人の認識は自分とは違うという差別へと向かっていく。
どのようなことをすれば良い方向に進むのか、それは私にも分からない。しかし、このようなことを続けていけば、心の中にある見えない差別はより強くなってしまうだろう。人の心から差別を取り去ることはできないが、それを弱めるような取り組みをして欲しい。今のような「特別扱い」は差別を助長するのだから。
この手の記事は時間がたつと消えてしまうことが多いので、あえて全文引用してみました。
実際のサイトのほうでは、コメント欄で活発な議論が交わされていて、そちらも興味深いです。
当ブログでもときどき引用させていただいている「痛いニュース」さんでも、2ちゃんねるの反応も含めとりあげられていました。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1141422.html
さて、私自身の感想ですが、基本的にはこのニュース記事の主張に近いです。
個人的には「世界のナベアツ」という人の芸を面白いと思ったことはないのですが、だからといって別にこれが障害者差別だと思ったこともなかったですし、改めて見てもそうは感じないですね。(以前とりあげたこの人は明示的に差別していると思いますが)
そもそもお笑いというのはある種の「秩序からの逸脱」がその本質にあると思いますから、「バカなことをする」のはある意味当たり前だし、そのことそれ自体が差別とつながっているとは全然思わないですね。
むしろ、その「秩序」の側に「差別」が内包されているような場合には、そこからの「逸脱」というのはむしろ「差別の構造」に対するアンチテーゼなり突破口になることさえあるのではないか、と思います。
(まあもちろん、この人の芸がその域に達しているかといえば、率直なところあまりそうは思いませんが、「バカなことをするお笑い」が「知的障害者への差別」と直結するなんていう稚拙な議論はしたくない、ということです。)
ただ、ここで取り上げられているような「差別だという主張」の問題は、障害者差別以外でもけっこう耳にしますし、今回の件についても、恐らく、私自身も含む「障害者の家族・関係者」のなかでも、「声の大きな一部の人」の意見に過ぎないという気はします。
こういった、率直にいって度が過ぎると感じられる「障害者差別」についての主張が、当事者のなかのマジョリティ(多数)の意見だと受け取られることは、当事者、非当事者の双方にとって不幸なことだと思います。
皆さんはどう感じられたでしょうか。
私は「世界のナベアツ」は大好きですが、彼の芸を障害者差別だと感じたことはありません。私もそらまめパパの意見に近いです。ただ一点。「私自身も含む『障害者の家族・関係者』のなかでも、「声の大きな一部の人」の意見に過ぎないという気はします。」は確かにその通りなのですが、この「声の大きい人」が結構厄介です。
就学前の通所施設の父母の会では全く感じたことはなかったのですが、次男が特別支援学校の小学部に入学して、PTAの方々のご意見を伺うに従って(ウチの特別支援学校のPTAは、小学部から高等部まで一緒です)、この「声の大きな一部の人」が意外と多い、というか、PTAの役員、会長などの地位についていらっしゃったりしています。「ウチの子は特別なのだから、特別扱いしてもらうのが当然」という発言、行動が実に多い。同級生や新入生、転校生も、「特別な子」のはずなのですが、そういった親御さんに限って「ウチの子だけが特別なの!」といわんばかりに、学校にわがままをぶつけています。そのわがままが、また「障害児なのだから!」という論理で先生方を攻めているので、困ってしまいます。挙句の果てには、「親の私も特別なのよ!」という感じです。
こんな状態で一番困るのは、子供たちだと思うのです。それだけに、そらまめパパのおっしゃるように、当事者、非当事者双方にとって不幸な事態を、どう回避するか、その「声の大きな一部の人」に、どうわかっていただくか、が今の我が家の、また親しい保護者間での、結構大きなテーマです。
ウチの特別支援学校のPTAが、ぜひ「一部」でありますように。
コメントありがとうございます。
うーん、「興味深い話題だな」と思って記事にしたのですが、お二人のコメントを見ていて、これは思った以上に難しい問題だなあ、と改めて思いました。
「差別」はだめで「特別」はいい、というのも、改めて考えてみるとよく分からなくなってきますね。
そこから、そもそも差別って何で悪いことなんだっけ、悪いのは「差別」じゃなくて、単に「否定すること」そのものなんじゃないだろうか、「特別支援教育」って、差をつけて教育することだし、こういうときによく出る「機会平等」とか「結果平等」みたいな話も、「重い障害児への特別支援教育」みたいな世界になってくるとうまくフィットしないし・・・なんてことを考えてしまいます。
ロジカルに斬ってしまうなら、「ナンセンス」で終わりですが、それで終わらせられない対人関係の綾の中に「教育」や「社会」はあるので、やっぱり難しいです。
すみません、今回はとりとめのないコメントになってしまいました。
障害者差別については、ニュース記事と同じように、差別だと声高に抗議することと、「特別扱い」を期待することと、バランスが難しいなと感じていました。
○○が××のようで偏見を助長するから、たとえ本人・製作者の側に差別する意識がなくても差別的で、自粛・規制すべきだ、という論理は他の差別問題でも従来からよくあるパターンですよね。そして、○○を規制したところで、差別がなくなるわけではない、ということもよくあることです。あまりに差別差別と振り回すと、逆差別、と言われる問題もあります。
本当に差別的待遇を受けて抗議したとき、「またか」「被害者意識」ととられてしまうと困るので、当事者や家族の側も、モンスターなクレイマーととられないようなマナーが求められると思っています。
また、自分の関わる領域以外については、無知や無理解から自分だって意識せずに差別的発言や態度をとっていることもあるという自覚も必要ではないでしょうか。
めえめえさんのコメントは、とてもバランスのとれた、一つの良識的な立場をうまく表していると思います。
この話題に関連しては、どちらかというとやや批判的(ナベアツの芸は差別的かもしれない)な立場で、でもとても良識的な意見を見つけました。
http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/8de3067439cf04d7f9f6ce7ffcf890fd
このエントリを読むと、めえめえさんも指摘されているとおり、ナベアツの芸が差別的だ、と感じる視点というのは、主に「自閉症の親」とはまた少し違う母集団からのものなのかもしれない、と感じました。
そう考えていくと、今回の問題は「白黒をはっきりつけようとしすぎたときにおきる問題」なのかもしれないな、とも思います。
自分は転校が多く、いじめられた経験もありますが、さりながら自分が誰かを苛めたことはない、差別したことがないと確信を持って言うことはできません。
自我を持っているなら差別意識の無い人はいないでしょう。
世の中が差別意識の無い素晴らしい人間ばかりで構成されていない以上、そのことについて云々すること自体は悪くないものの、何か実効性がある対策が出てくるのかについては、悲観的に成らざるを得ません。
ナベアツ、私は好きですけどね。
この人の芸のどこが障害者差別につながるのか教えて欲しいぐらいです!!
私も、顔面神経麻痺になったことありますが、もし、その当時にナベアツ見てたとしても別に差別とは思わないでしょうね。
このニュースの記事を書いてるほうが差別意識強いのでは?と思ってしまいます。
はじめさん、
こういう風に書くと批判されてしまうかもしれませんが、私は、差別というのは「実害」さえ出なければ単なる「考えかたの違い」に過ぎないとも思っています。
「実害」が出るときだけ、それに「差別」という名前をつけて、何とかしなければならなくなるものだ、と思っています。
(つまり、「差別」ということばそのものも、天下り的に実存するものだと考えるのは危険だ、と思っているわけです。)
ただ、問題は「実害」があるかどうかを、誰がどういう「権限」で判定するかなのではあるのですが・・・。
奈良人さん、
先にご紹介した山崎元氏のブログなどを見ても思うことは、少なくとも世界のナベアツの芸は、自閉圏の人からは「差別」と受け止められてはいないようだな、ということです。
でも、だからといって「あらゆる人から差別と受け止められない」ということには必ずしもならないというところが、この問題の難しいところだと思います。
私はこの芸を見た時、何がおかしいのか?バカみたい!と思いました。
それ以外何も感じなかったのですが、子供たちには大うけで小学校など授業が出来ない状態と聞きます。
いつの時代もそうですが、ドリフの『8時だよ全員集合!』もやり玉にあがった事もあります。流行と言うものはやがては廃れるもの、何も目くじらを立てる事もないだろうと言うのが私の意見です。
差別を感じた事はありません。
でも、頻繁に出て来ると何故か笑ってしまう事もありますね。つられると言うか・・・
彼はそろばんが得意だったそうで、だから3の倍数がわかるのですね。かなりの数まで出来ると感心してしまうのは私だけでしょうか?
私も、この人の芸は、決して長く続くものでもないでしょうし、放っておけば終息して、その後には特に何も残らないだろう、という気はしています。
人の気は移ろいやすいですし、テレビはこういう「一発芸」はひたすら露出して消費しつくしてしまうものですから。
最後に書かれているところで思ったのですが、この芸はもしかすると、「アホ」の芸なのに、なぜか「3の倍数と・・・」とかいう、微妙に知的な要素が混じっているところに「おかしさ」があるのかもしれませんね。